76

心戦

 ​「キリスト・イエスの​立派な​兵士と​して、​わたしと​共に​苦しみを​忍びなさい」9と​聖パウロは​勧めています。​キリスト信者の​生活は、​戦い・戦争、​つまり​美しい​平和の​戦いであって、​人間の​引き起こす戦争の​ことでは​ありません。​人間の​戦争は​分裂に​始まり、​憎悪に​鼓舞された​ものですが、​神の​子の​戦いは​自己愛との​戦いであって、​一致と​愛を​基とします。​「わたしたちは​肉に​おいて​歩んでいますが、​肉に​従って​戦うのでは​ありません。​わたしたちの​戦いの​武器は​肉の​ものではなく、​神に​由来する力であって​要塞も​破壊するに​足ります。​わたしたちは​理屈を​打ち破り、​神の​知識に​逆らう​あらゆる​高慢を​打ち倒し、​あらゆる​思惑を​とりこに​して​キリストに​従わせ」​10る 。​ここで​いう​戦いとは、​う​ぬぼれ、​悪へ​向かわせる​勢力、​思い​上った​理性に​抗する​休みなき前哨戦の​ことなのです。

​ 私たちの​主が​人間の​救いに​とって​重要な​季節を​お始めに​なる​枝の​主日には、​上辺だけの​浅はかな​考えを​捨てて、​中心に​なる​もの、​本当に​大切な​ものに​向かいましょう。​私たちの​狙いは​天国に​入る​ことなのです。​万一、​天国に​入れないと​すれば​何を​しても​無駄に​過ぎなくなります。​天国に​入る​ためには​キリストの​教えに​忠実でなければなりません。​そして、​忠実である​ためには、​永遠の​幸せの​邪魔を​する​障害に​対抗して、​絶え間なき戦いに​没頭しなければならないのです。

​ 戦いに​ついて​話すと、​すぐに​私たちの​弱さを​頭に​浮かべて、​戦う​前から​失敗や​過ちの​ことを​考えてしまいます。​しかし、​神は​それも​よく​ご存じなのです。​また​道を​歩む限り、​どうしても​ほこりを​巻き上げてしまいます。​私たちは​創られた​もの、​欠点だらけの​存在であって、​いつまで​経っても​欠点を​取り除く​ことは​できないと​申し上げたいのです。​しかし、​それらは​魂のかげりであって、​その​おかげで、​それとは​対照的に、​神の​恩恵と​神の​恵みに​応えようとする​私たちの​努力が​光と​輝きを​帯びてきます。​しかも光と​陰、​つまり​私たちの​努力と​過ちの​おかげで、​私たちは​親切と​謙遜・理解力と​寛大さを​備えた​人に​なることができるのです。

​ 自分を​欺かないようにしましょう。​人生には​さっそうとした​ところや​勝利が​あるのと​同じく、​落ちぶれた​ところや​敗北も​あります。​キリスト信者の​一生、​列聖された​聖人の​人生行路も​常に​このような​ものでした。​ペトロや​アウグスチヌスや​フランシスコの​ことを​覚えているでしょう。​母の​胎内に​いる​ときから​恩恵に​固められていたかのように​聖人の​偉業を​語る​伝記類は​読むに​たえません。​それは​素朴な​心から​出た​ものですが、​同時に、​教理の​知識が​不足していた​結果​生まれた​ものです。​キリストの​英雄たちの​本当の​伝記は​私たちと​同じなのです。​彼ら​とて​戦っては​勝利を​得、​また​戦っては​敗北を​喫した​ものです。​そして​敗れた​ときは、​痛悔の​心を​もって​再び戦いに​赴いたのです。

​ 敗北の​憂き目に​遭えばいつも​心に​痛みを​感じる​ことでしょう。​しかし​大抵の​場合、と​いう​より、​いつもは​あまり​大切でない​敗北に​違い​ありませんから、​驚く​必要は​ないのです。​神の​愛が​あり、​謙遜と​堅忍の​心が​あり、​執拗に​戦いを​続ける​限り、​このような​敗北も​たいして​重大な​意味を​持つことは​ありません。​戦い​続ける​限り、​いずれ勝利が​訪れるからです。​しかも​その​勝利は​神の​目に​とっては​栄光であります。​神のみ​旨を​果た​そうと​望みつつ、​無力な​自分に​頼らず神の​恩恵に​頼って、​しかも​正しい​意向を​持って振る​舞う​ならば、​失敗など​あり得ないのです。

この点を別の言語で