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不断の​戦い

​ キリスト信者の​戦いは​絶え間なき戦いです。​内的生活に​あっては​いつまで​経っても​何度でも​始める​必要が​あるからです。​そして​不断の​戦いが​あれば、​高慢にも​自分は​もう​完全だと​考える​ことは​なくなってしまいます。​道を​進むに​あたって​数多くの​困難を​避ける​ことは​できません。​障害に​出くわさないと​いう​ことに​なれば、​それは​私たちが​生身の​人間ではないと​言うに​等しくなるでしょう。​人を​卑しい​ものの​方​へ​引っ張る​欲情は​いつまで​経っても​消える​ものでは​ありませんから、​程度の​差こそ​あれ、​そのような​激しい​欲情から​身を​守る​戦いを​いつも​続けなければならないのです。

​ 傲慢や​官能、​妬み、​怠惰、​また​他人を​征服したいと​いう​欲望の​棘が、​心と​身体に​刺さっている​ことが​わかっても、​大発見を​したことには​なりません。​それは​個人的な​体験に​よって​確認済みの、​昔から​ある​悪なのです。​この​棘こそは、​心の​中の​この​戦いを​通して、​御父の​家に​至るまでの​競走に​勝利を​得る​ための​出発点であり、​競走の​場なのです。​「わたしと​しては、​やみくもに​走ったりしないし、​空を​打つような​拳闘もしません。​むしろ、​自分の​体を​打ちたたいて​服従させます」8。

​ キリスト信者で​あれば、​戦いを​始める​ために、​外的な​しるしや、​乗り気に​なるのを​待つべきでは​ありません。​内的生活は​気分や​気持ちの​問題ではなく、​神の​恩恵および愛、​すなわち意志の​問題だからです。​弟子たちは​皆、​キリストに​付き従う​ことができましたが、​それは、​エルサレムでの​凱旋の​ときだけであって、​十字架の​死刑の​ときには、​ほとんど​皆が​キリストを​置き去りに​してしまったのです。

​ 本当に​愛するには、​信仰と​希望と​愛の​徳に​しっかり​根差した​心を​持ち、​逞しく、​忠誠でなければなりません。​中身の​ない​軽薄な​態度だけが、​軽々しく​愛の​対象を​変えてしまいます。​しかも​そのような​愛は​実は​愛とは​言えず、​自分の​ことしか​考えない​利己的な​埋め合わせに​すぎないのです。​愛の​ある​ところには、​依託・犠牲・努力・​自己放棄を​辞さない​堅固さも​あります。​そして​依託と​犠牲と​自己放棄の​生活を​していれば、​困難に​さいなまれても、​幸せと​喜びを​得る​ことができます。​しかも​その​喜びが​取り去られる​ことは​決してないのです。

​ 痛悔の​心を​持ち、​生活を​改める​良い​決心を​立て、​ゆる​しの​秘跡を​通して​神の​許に​馳せよれば、​この​愛ゆえの​戦いの​間に、​過失、​それも​重大な​過失を​犯しても​悲しみを​覚える​ことは​ないでしょう。​キリスト信者は​汚点の​ない​偏執的な​収集家ではないのです。​わが​主イエス・キリストは​ヨハネの​純潔と​忠実に​いたく​心を​動かされましたが、​失敗の​あとの​ペトロの​痛悔にも​心を​打たれたのです。​イエスは​私たちの​弱さを​ご存じですから、​私たちが​毎日​少しずつ執拗に​坂道を​上るよう​お望みに​なりますが、​ゆる​やかな​坂道を​越えて​少しずつ​ご自分の​方​へ​向かう​よう​引き寄せてくださいます。​エマオの​二人の​弟子を​ご自分から​捜しに​出ていかれたように、​また、​トマスを​捜し、​御手と​御脇腹の​傷を​お示しに​なり、​手を​入れるように​とおっしゃったように、​私たちを​捜しておいでになります。​我々人間の​弱さを​ご存じだから​こそ、​イエス・キリストは​私たちが主の​許に​戻るのを​待ってくださるのです。

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