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犠牲の​塩

 世間を​捨てた修道者とは​違って、​信徒は​社会の​直中に​キリストとの​出会いの​場を​持っています。​ですから、​聖化の​ためには、​外的な​習慣も​目に​つくしるしも​必要としません。​信者と​しての​しるしとは、​絶え​ざる​神の​現存と​犠牲の​精神と​いう​内的な​ものです。​犠牲とは​身体で​捧げる​祈り以外の​何ものでもないので、​実際には、​両者は​ひとつと​いう​ことになります。

​ キリスト信者と​しての​召命は​犠牲への​召命であり、​償いの​召命であります。​まず​自分​自身の​罪を​償わなければなりません。​なんとしばしば、​神を​見ないように​顔を​そむけた​ことでしょう。​さらに、​人々の​罪も​すべて​償わなければなりません。​キリストのみ​跡を​近くから​従うべきです。​「わたしたちは、​いつも​イエスの​死を​体に​まとっています、​イエスの​命が​この​体に​現れる​ために」44。​私たちの​道は​己れを​捧げ尽く​すことに​あり、​この​自己放棄に​おいて​「喜びと​平和」​45を​見出すでしょう。

​ 悲しそうな​顔で​世間を​見る​ことは​できません。​産声を​あげた​ときから​何か​特異な​出来事が​あったかのように​書かれた​神の​僕たちの​伝記は、​意図的に​そうなされたのではないと​しても、​教理指導の​ためには​あまり役に​立ちません。​その中の​ある​者は、​乳児の​ときでも​泣かなかった​とか、​金曜日には​乳を​吸わなかったなどと​書いてあります。​しかし​私たちは​生まれてから​好き勝手に​泣き、​四旬節も​待降節も​お構いなしに、​母の​乳を​力一杯​吸った​ものです。

​ 今は​主の​助けに​よって、​外見上いつも​同じように​見える​日々の​中に​真の​償いの​ときを​見出す​ことを​学び、​その​時々に​生活を​改める​決心を​立てましょう。​これこそ、​恩恵と​聖霊の​勧めに​対して​霊魂を​準備する​ための​道なのです。​くり返し申しますが、​この​恩恵に​よって、​喜びと​平和、​選んだ道に​堅忍する​力が​与えられるのです。

​ 犠牲は​生活の​塩のような​ものです。​そして​最も​優れた​犠牲とは、​一日中、​小さな​ことに​おいて、​肉の​欲・目の​欲・生活の​おごりに​対して​戦う​ことなのです。​それは​他人に​迷惑を​かけない​犠牲であり、​私たちを​もっと​親切でもっと​理解と​抱擁力の​ある​人に​する​犠牲の​ことです。​もしあなたが​猜疑心の​強い​人ならば、​そして​自分の​ことしか​考えないならば、​あるいは​人を​自分に​従わせるのであれば、​また​物事が​自分の​予想通りに​運ばない​ときに​失望すると​すれば、​犠牲の​人とは​言えないでしょう。​しかし、​「すべての​人に​対して​すべての​ものになる」46ことができるなら、​犠牲の​人であると​いう​ことができるのです。

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