高慢

  自己愛を​根元から​抜き取り、​その​代わりに、​イエス・キリストへの​愛を​植え込みなさい。​これこそ、​効果的な​働きを​し、​幸せに​なる​ための​秘訣である。

  あなたは​キリストに​付き従っていると​言うが、​いつも​何らかのかたちで、​〈あなたが​〉、​〈あなたの​〉計画に​沿って、​〈あなたの​〉力だけで​事を​なそうとする。​ところで、​主は​仰せに​なった、​「わたしが​いないと​あなたたちは​何一つ​できない」と。

  あなたの​いわゆる​〈権利〉は​無視された。​私に​言わせれば、​それは​あなたの​〈高慢に​なる​権利〉と​言い​換えるべきものだ。​かわい​そうに。​自分を​弁護できなかったから、​骨身に​堪えた。​攻撃を​しかけてきた​人は​強力だったのだ。​百回も​平手打ちを​食わされた​ほどの​侮辱を​感じたのだった。​しかし、​それにも​かかわらず、​あなたは​遜る​ことができなかった。

​ そして、​今、​あなたを​戒めるのは​あなたの​良心であって、​あなたの​ことを​高慢ちき、​臆病と​呼んでいる。​神に​感謝しなさい、​〈謙遜に​なる​義務〉が​分かりかけてきたのだから。

  あなたは、​私、​私、​私で​一杯に​なっている。​あなたが、​神、​神、​神で​一杯に​なり、​神の​名と​その​力に​よって​行動しない​限り、​効果を​上げる​ことは​できないだろう。

  あなたは​自分を​中心に​置いて​空回りしている。​そんな​ことを​していて​キリストに​付き従う​ことができると​思うのか。

  性急に、​また度を​越すほど、​職業上高い​地位に​就く​ことに​心を​奪われている​場合、​〈人々に​仕える​〉と​いう​口実とは​裏腹に、​自己愛を​包み隠している​可能性が​ある。​文字通りの​欺瞞だが、​ある​種の​機会や​有利な​状況を​無駄に​すべきではない、と​自らを​不当に​正当化するのである。

​ イエスに​視線を​戻しなさい。​彼こそ​〈道〉であるからだ。​隠れてお過ごしに​なった​歳月の​間にも、​公生活を​繰り上げるのに​〈すこぶる​有利な​〉時期や​状況が​あった。​たとえば、​律法学士た​ちが十二歳の​イエスの​質問や​答えに​感嘆した​ときなど。​しかし、​イエスは​御父のみ​旨を​果た​しつつお待ちに​なる。​従われるのだ。

​ 全世界を​神のもとに​連れて​行こうと​いう​聖なる​野心を​失ってはならない。​しかし、​有利な​時期や​状況を​利用すべきだとの​考えが​浮かんでくるなら、​(それは​脱走したいと​いう​心の​表れかもしれないから)​次の​点を​思い出して​ほしい。​すなわち、​主が​他の​ことを​要求なさらない​限り、​あなたがな​すべきは、​従う​こと、​あまり​見栄えの​しない​その​目立た​ぬ仕事に​従事する​ことなのだ、と。​主には​ご自分の​時と​道が​あるのだ。

  お金、​家柄、​階級、​地位、​知性などに​よって​得た​特権的な​状態を​悪用して、​あまり恵まれていない​人々を​屈服させる​人は、​皆、​愚かで​高慢な​人間である​ことを​露呈する​ことになる。

  悪魔の​操る​糸に​踊らされ、​見栄っ張りで​脳み​そのない​操り​人形のように​動く​人を​高慢な​人と​言うが、​そういう​人は​いかに​威厳に​満ちていても、​遅かれ早かれ人々の​前で​自らの​高慢さゆえに​辱めを​受ける​ことになる。

  自惚れからか、​単なる​虚栄心からか、​〈闇市〉で​作為的に​自らの​値打ちを​高めようとする​人が​大勢いる。

  地位が​低いとか、​高いとか​―どうでも​よいではないか。​自ら​言い​切るように、​あなたは、​常に​御意の​ままにと​いう​心構えで、​役に​立つため、​仕える​ために​来たのであるから、​そのように​振る​舞い​なさい。

  あなたは​捲し立て、​そして​批判する…。​まるであなたが​居ないと、​誰も​何も​満足に​できないみたいだ。

​ まるで​尊大な​暴君のような​やり方だ、​と​言っても​怒らないで​ほしい。

  忠誠心と​愛情に​溢れる​良き友が、​あなたの​振る​舞いを​醜く​する​点を、​二人だけの​時に​注意してくれた。​すると​あなたの心に、​それは​間違いだ、​私の​ことが​分かっていない、と​いう​思いが​湧き​上がってきた。​そのような​自惚れの​申し子、​つまり、​誤れる​確信が​ある​限り、​あなたには​手の​施しようが​ない。

​ 不憫に​思う。​あなたには​聖性を​求めようと​いう​決意が​ないからだ。

  意地が​悪い、​邪推を​する、​複雑である、​他人を​信用しない、​疑い​深い…。​不愉快に​思うだろうが、​いずれも​あなたに​当てはまる。

​ 改めなさい。​他人は​いつも​悪くて、​あなたは​いつも​良いなんて、​変だろう?

  あなたは​独りぼっちで、​ぶつぶつ​不平を​言っている。​何もかも​不愉快だ、と。​自分の​ことしか​考えない​あなたの​自己中心の​態度の​ゆえに、​また、​神に​近づこうとしないから、​あなたは​兄弟から​離れてしまうのである。

  あなたは​いつも​あからさまに​人々の​注意を​引こうと​している。​特に、​他人よりも​あなた​自身の​ことを​もっと​考慮して​ほしいと​望んでいる。

  なぜあなたは、​他人の​言うことには​常に​裏が​あると​考えるのだろうか。​そんなに​気を​回しているようでは、​絶えず​恩恵の​働きを​制限する​ことになる。​ところで、​確信していて​ほしいのだが、​恩恵と​いう​ものは、​キリストの​理想に​自らの​行いを​合わせる​ため戦いを​続ける​人の​言葉を​通して、​あなたに​届くのだ。

  他人は​常に​あなたを​中心に​して​生きていなければならないと​あなたが​確信している​限り、​また、​仕える​決心―つまり​隠れ、​姿を​消す決心―を​しない​限り、​兄弟や​同僚や​友人との​付き合いは、​不愉快や​不機嫌の、​すなわち高慢の​絶え​ざる​原因と​なるだろう。

  自惚れを​忌み嫌いなさい。​虚栄を​捨てなさい。​毎日、​各瞬間毎に、​高慢心と​戦いなさい。

  かわい​そうに​高慢な​人は、​他人なら​一顧だに​しない、​馬鹿げたつまらない​ことを、​自己愛で​大問題に​して​勝手に​苦しむ。

  他人は​二十歳代を​過ごした​ことがないと​思うのか?​ 未成年だと​いう​理由で​家族の​者から​色々​制限を​受けた​人は​いないと​思うのか?​ 今あなたが​直面しているような​大小さまざまの​問題を​抱えずに​済んだ​人が​いると​思うのか?​ ​そんな​人は​いない。​人は​みな​今あなたが​いるような​状況を​くぐり抜けてきたのである。​もちろん、​神の​恩恵の​助けを​受けてでは​あるが、​その​おかげで​円熟したのだ。​心を​惜しまず、​辛抱強く​自我を​踏みつけ、​できる​時には​譲歩もし、​できない​時にも​傲慢にならず​他人を​傷つけず、​心静かに​謙遜に​忠節を​保ちつつ。

  あなたは​考え方から​すれば​すこぶる​カトリック的である。​学生寮の​雰囲気も​気に入っている。​しかし、​ミサは​正午でなく、​授業も​午前中だから、​コニャックを​一、​二杯味わいながら​遅い​夕食の​後、​ゆっくり勉強する​ことのできないのが​残念だと​言う。​あなたの​そのような​〈カトリック〉は​偽物、​単なる​贅沢志向である。

​ あなたの年齢で​そんな​風に​考えてはならない​ことが​分からないのか。​怠惰や​唯我独尊的な​状態から​抜け出しなさい。​そして、​他人の​必要や、​あなたを​取り巻く​周囲の​現実に​自らを​合わせなさい。​そう​すれば、​真剣に​カトリック的な​生き方が​できるだろう。

  ​自分が​贈った​もので、​今は​崇敬の​対象と​なっている​ご像を​見た​人が、​「この​聖人は​私の​おかげで​こうなったのだ」と​言った。

​ まるで​漫画の​ようだなんて​思わないように。​少なくともあなたの​振る​舞いを​見る​限り、​いく​つかの​メダイを​身に​つけ、​惰性で​いく​つかの​信心業を​しているだけで、​神に​対する​義務を​果たしていると​考えているのではないか。

  人が​私の​良い​行いを​見るように、とあなたは​言う。​しかし、​あなたは​自分の​素質が​人に​見られる​よう、​ワゴンセールの​安物のように​見せびらかしている​ことに​気が​つかないのか。

​ また、​イエスの​命令の​後半を​忘れてはならない。​「人々が、​あなたが​たの​立派な​行いを​見て、​あなたが​たの天の​父を​あがめるようになる​ためである」と​主は​仰せに​なったのだ。

  〈称賛すべき​私自身に​〉。​ある​書物の​一頁目に​献辞と​して​こう​書いて​あった。​大勢の​かわい​そうな​人たちが​一生の​最後の​頁に​同じ​言葉を​書く​ことに​なるだろう。

​ あなたと​私が​こんな​生き方を​し、​こんな​生涯の​終え方を​すると​すれば、​まことに​悲しい​ことだ。​真剣に​良心の​糾明を​しようではないか。

  教会の​ことや​人々の​こと、​兄弟の​ことなどに​ついて、​決して​自信たっぷりの​態度を​とらないで​ほしい。​ところで、​そのような​態度が​社会での​活動に​おいて​必要な​ときが​ある。​神と​人々の​利益を​守るべきときである。​その​場合、​それは​自信たっぷりの​態度ではなく、​心静かに、​謙遜に​実行する​信仰と​剛毅に​溢れた​態度と​なるのである。

  本人の​前で、​その​人の​親切に​ついて​話したり、​素質を​誉めたりするのは、​軽率で​子供っぽい​こと、​愚かな​ことである。

​ ​そんな​ことを​すれば​虚栄心を​助長し、​当然すべての​栄光を​帰し奉るべき神から、​その​栄光を​〈奪う​〉ことにも​なりかねない。

  あなたの​良い​意向に​常に​謙遜が​伴うようにしなさい。​良い​意向には、​往々に​して​厳しい​判断や​ほとんど​譲歩しない​態度、​あるいは​個人、​国家、​グループの​一種の​自惚れが​くっついてくるからである。

  自分の​失敗を​見てもがっかり​せず、​それに​反発しなさい。

​ 実りが​ないのは、​―特に、​痛悔しているなら​―失敗した​結果と​いう​よりは、​高慢の​結果なのだ。

  倒れたのなら、​以前よりも​大きな​希望を​持って​起き​上がりなさい。​過ちを​犯しても、​行いを​改めさえ​すれば、​己を​知り、​謙遜に​なるのに​役立つ。​それが​分からないのは、​自己愛に​囚われている​ときだけである。

  ​「私たちは​何の​役にも​立たない」。​こう​言うのは​悲観的な​言い分であり、​偽りでもある。​前提条件であり、​基本条件である​神の​恩恵の​助けを​得て、​望みさえ​すれば、​多くの​事業(使徒職)に​おいて​良い​道具と​して​役に​立つようになるのだ。

  ある​尊大な​人を​見て、​あの​神の​人が​口に​した​厳しいが​正確な​言葉を​聞いた​とき、​私は​考え込んだ。​「あの​人は​悪魔と​同じ​皮膚、​つまり​高慢を​身に​つけている」と​言ったのである。

​ それに​対して、​イエス・キリストが​説かれた​徳を​身に​着けたいと​いう​誠実な​望みが​心に​湧いてきた。​「わたしは​柔和で​謙遜な​者だから」と​仰せに​なったのだ。​謙遜は​また、​主の​御母で​あり​私たちの​母である​御方に、​至聖なる​三位一体の​神の​視線を​惹きつけた。​謙遜とは、​自らの​無を​自覚し、​それを​感じる​ことである。

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