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謙遜の​徳を、​あたかも​人間的な​意気地なさで​あり、​永遠に​続く​悲しみであるかのように​話す人を、​決して​信用しては​なりません。​かすが​いで​繕われた​脆い器であると​感じる​ことは、​絶える​ことの​ない​喜びの​源であるはずです。​神のみ​前では​本当に​幼い​子供に​過ぎない​ことを​認める​ことだからです。​哀れで​弱い​自分を​自覚すると​同時に、​神の​子である​ことを​知っている​人の​喜び以上に​大きな​喜びが​あるでしょうか。​なぜ、​人間は​悲しむのでしょう。​この​世の​生活が​望み通りに​いかないから、​また、​途中に​障害物が​あらわれ、​思惑通りの​満足を​得る​ことができないからです。

​ 超​自然的に​神の​子である​ことを​固く​自覚した​生活を​営むならば、​先に​述べたような​悲しい​状態には​ならないはずです。​「もし神が​わたしたちの​味方である​ならば、​だれが​わたしたちに​敵対できますか」33。​神の​子であると​いう​ことを​認めたがらない​人は​悲しんで​当然です。

​ 最後に、​私たちの​口と​心から​矢のように​飛び出すべき​二つの​嘆願を、​今日の​典礼から​引用してみましょう。​「全能の​神よ、​私たちが天の​賜物に​あずかる​ことができるよう、​神性の​秘義を​行ってください」34。​「主よ、​あなたのみ​旨に​従って、​いつも​あなたに​仕える​ことができますように」35。​仕える​こと、​奉仕する​こと、​つまり、​「我々の​日々に、​忠実な​神の​民が​増え、​その​功徳が​増すように、​すべての​者の​召し​使いに​なる」36、​これこそ​私たちの​道なのです。

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