謙遜

1965年4月6日


良い​意味での​「神化」を​偽りの​神化からはっきりと​区別できるように、​聖火曜日の​ミサの​本文に​即して、​謙遜に​ついて​お話ししましょう。​謙遜の​徳こそ、​人間の​惨めさと​偉大さを​同時に​教えてくれる​徳です。

​ 人間の​惨めさは​歴然と​しています。​人間が​夢に​見ながらも、​たとえ時間の​不足に​よるだけに​しろ、​決して​実現できないような​大きな​憧れに​対する​限界、​つまり​人間に​固有な​限界を​いま問題に​する​つもりは​ありません。​そうではなくて、​日々の​生活に​おける​無分別な​行為や​種々の​失敗、​避け得たであろうに​避ける​努力を​せずに​犯した​過ちに​ついて​考えたいと​思います。​私たちは​絶えず​自分の​無能を​思い知らされます。​そして​時には、​これら​すべてが​同時に、​しかも​あまりにも​明らかに​見えるので、​自分の​無能に​打ちの​めされてしまいます。​どう​すれば​よいのでしょうか。

​ 「主に​希望しなさい」1。​教会が​教えるように​愛と​信仰と​希望を​もって​生きる​ことです。​「雄々しく​振舞い​なさい」2。​神に​希望を​おいているなら、​私たちが​土くれであったとしてもかまわないでは​ありませんか。​万一、​罪を​犯し、​内的生活に​頓座を​来たすような​ことが​あれば、​日常生活で​身体の​健康回復の​ために​用いるような​手段を​講じなければなりません。​そして、​再び歩み始めるのです。

高価だが​壊れ易い​装飾品や​花瓶を​持っている​家族が、​それらを​どんなに​大切に​取り扱うかに​注目したことが​あるでしょうか。​ある​日、​その​素晴らしい​<想い出の​品>が​子供の​悪戯で​砕けてしまいました。​がっかりしますが、​すぐ​修理に​とりかかります。​かけらを​拾い​集めて​入念に​接ぎ合わせ、​元のように​きれいに​復元します。

​ 壊れ物が​普通の​瀬戸物なら、​鉄や​他の​金属の​<かすが​い>が​あれば​事足ります。​このように​接ぎ合わされて​元通りに​なった​器には、​一種独特の​魅力が​備わっている​ものです。

​ 以上を​内的生活に​当てはめてみましょう。​主の​恩寵の​おかげで​大事には​至らなかったとは​いえ、​惨めさや​罪、​過ちに​気づいたならば、​父なる​神に​向かって​祈りたい​ものです。​「主よ、​貧しく​脆く​こわれた​土器に​過ぎない​この​私に、​<かすが​い>を​はめてください、​そう​すれば​痛悔する​私の​心を​赦すあなたの​おかげで、​以前にもまして​頑丈で​美しい​器と​なる​ことでしょう」。​これは、​哀れな​土くれに​過ぎない​私たちが、​挫折する​たびに​繰り返すべき心からの​祈り、​慰めを​もたら​す祈りと​言えます。

​ た​とえ、​自分の​躓きに​気づいても​驚く​ことは​ありません。​些細な​ことですぐに​駄目になってしまうことが​今更ながら​分かっても、​がっかりする​必要は​ないのです。​いつなんどきでも​助けの​手を​差し​伸べようと​待ちかまえていてくださる​主に​信頼してください。​「主は​わたしの​光、​わたしの​救い、​わたしは​誰を​恐れよう」3。​天の​御父と​このように​親しく​接する​ことができるのですから、​誰に​対しても、​何に​対しても、​恐れなど​抱いて​欲しく​ありません。

主に​従う​ために

​ ​「謙遜には​知恵が​伴う」4と​箴言に​あります。​主の​声を​聞く​ためには​謙遜でなければなりません。​謙遜とは、​真っ向から​自分を​見つめ、​ありのままの​自分の​姿を​知る​ことです。​そして、​ほとんど​価値の​ない​自分に​気づくと、​その​時こそ神の​偉大さに​目を​向ける​ことができます。​これが​人間の​素晴らしい​ところでしょう。

​ 地上の​ありと​あらゆる​被造物に​優る​貴婦人、​御子の​母は、​謙遜を​本当に​深く​理解しておいでになりました。​「権力ある​者を​その​座から​引き降ろし、​身分の​低い者を​高く​上げ…」5と​聖マリアは​主の​力を​褒め称えます。​「身分の​低い、​この​主の​は​しためにも​目を​留めてくださったからです。​今から​後、​いつの​世の​人も​わたしを​幸いな者と​言うでしょう」6と。

​ 神の​謙遜を​目の​当たりに​した​聖マリアは、​その​汚れない​心ゆえに​聖なる​者と​なりました。​「聖霊が​あなたに​降り、​いと​高き方の​力が​あなたを​包む。​だから、​生まれる​子は​聖なる​者、​神の​子と​呼ばれる」7。​聖マリアの​謙遜は、​深遠で​測り知る​ことのできない​神の​恩寵の​おかげ、​胎内で​三位一体の​第二の​ペルソナが​人となられた​結果であると​言えます。

この​秘義に​思いを​はせる​聖パウロの​口から、​喜びの​賛歌が​ほとばしり出ます。​ゆっくりと​味わってみましょう。​「互いに​この​ことを​心がけなさい。​それは​キリスト・イエスにも​みられる​ものです。​キリストは、​神の​身分で​ありながら、​神と​等しい者である​ことに​固執しようとは​思わず、​かえって​自分を​無に​して、​僕の​身分に​なり、​人間と​同じ​者に​なられました。​人間の​姿で​現れ、​へりくだって、​死に​至るまで、​それも​十字架の​死に​至るまで​従順でした」8。

​ 主イエス・キリストは、​教えを​垂れる​とき、​たびたび​自らの​謙遜を​模範と​してお示しに​なりました。​「わたしは​柔和で​謙遜な​者だから、​わたしの​軛を​負い、​わたしに​学びなさい」9。​これは、​人間が​自己の​虚無を​率直に​認める​ほかに​神の​恩寵を​引き寄せる​道は​ないと​いう​教えです。​「私たちの​ために​主は​来られた。​食べ物を​与える​ために​空腹を​覚え、​飲み物を​与える​ために​渇きを​感じ、​不死の​体を​まとわせる​ために​滅びる​人間の​肉体を​持ち、​豊かに​する​ために​貧しさの​なかに​来られた」10。

「神は、​高慢な​者を​敵とし、​謙遜な​者には​恵みを​お与えに​なる」11と​使徒聖ペトロは​教えています。​いつ、​どこで​でも、​聖なる​生活を​送るには、​謙遜に​生きる​以外に​方法は​ありません。​主は、​人間を​辱める​ことに​喜びを​お感じに​なるのでしょうか。​いいえ、​そんなはずは​ありません。​すべてを​創造し、​その​存在を​保ち支配する​御方が、​しょげ返る​私たちを​見た​とて、​何を​得ると​言うのでしょう。​神は​私たちの​謙遜を​お望みです。​主が​お満たしに​なる​ために、​自らを​無に​する​私たちを​待っていてくださる。​人間的な​言い方ですが、​私たちの​哀れな​心に​主の​恩寵が​満ちるのを​妨げてはならないと​仰せに​なるのです。​「キリストは、​万物を​支配下に​置く​ことさえできる​力に​よって、​わたしたちの​卑しい​体を、​御自分の​栄光ある​体と​同じ​形に​変えてくださる」12、​その​神が、​謙遜であれとお勧めに​なります。​主は、​私たちを​ご自分の​ものとし、​私たちの​良い​意味での​<神化>を​実現してくださるのです。

高慢は​敵である

​ ところで、​何が、​謙遜な​生活すなわち良い​意味での​<神化>を​妨げるのでしょうか。​それは​高慢です。​高慢こそ​悪い​意味での​<神化>を​もたらす重大な​罪です。​些細な​事柄に​おいて​さえも、​「目が​開け、​神のように​善悪を​知る​ものとなる」13と​囁く、​サタンの​人祖に​対する​誘惑に​屈服させるのが​高慢なのです。​また、​聖書には​次のようにも​書いてあります。​「高慢の​初めは、​主から​離れる​こと、​人の​心が​その​造り主から​離れる​ことである」14。​ひとたび高慢と​いう​悪徳に​とり憑かれると、​人間の​全存在が​影響を​受け、​聖ヨハネが​「生活の​おごり」​15と​称する​状態に​陥ってしまいます。

​ 思い​上がる?​何に​ついてでしょうか。​聖書は、​高慢な​者を​非難して、​その​悲劇と​滑稽さを​同時に​強調し、​次のように​言っています。​「土くれや​灰に​すぎぬ身で、​なぜ​思い​上がるのか。​だから​わたしは、​彼のはらわたを、​生きている​ときに、​つかみ出して​やった。​長患いは、​医者の​手に​負えず、​今日、​王であっても、​明日は​命を​奪われる」16。

自惚れが​巣くうと、​貪欲と​不節制、​嫉妬、​不正と、​すべての​悪徳が​数珠つなぎに​なって​襲って​来ます。​別に​不思議な​ことでは​ありません。​高慢は、​酷く​不正な​心で​行動し、​万事に​慈悲深い神の​玉座を​乗っ取ろうと​して​無駄な​試みを​するからです。

​ このような​状態に​打ち負かされないように、​主に​依り頼まねばなりません。​高慢ほど​悪質で​愚かな​罪は​ない。​多くの​幻影で​人を​さいなむ。​高慢に​とり憑かれた​人は​外見のみを​飾りたてて​虚しさで​自らを​満たすのです。​ちょうど、​お伽噺に​登場する​あの​自惚れに​溺れて裂けよと​ばかり腹を​膨らませ続けた​蛙のようです。​人間的にも​高慢は​いやな​ものです。​自分を​誰よりも​勝れていると​思う​人は、​絶えず​他人を​軽蔑し、​自分​自身の​ことしか​考えません。​そんな​人は、​いずれ嘲笑の​的に​なるでしょうが。

​ 高慢に​ついて​話すのを​聞くと、​あの​横暴で​威圧的な​態度を​想像するかもしれません。​熱狂的な​歓呼の​叫びの​中を​通り過ぎる​ローマ皇帝のような​勝利者、​栄えある​額が​白い​大理石に​当たらないように、​頭を​少し​垂れて​高い​アーチの​下を​通り過ぎる​勝利者のような​態度を。

しかし、​もっと​現実的に​考えなければなりません。​今​述べたような​高慢は​幻想の​中にだけ存在する​ものです。​私たちは、​もっと​微妙でもっと​たびたび起こる​別の​形の​高慢に​対して​戦わねばなりません。​隣人よりも​自己を​優先させる​高慢、​話しぶりや態度に​表れる​虚栄心、​何の​悪気も​ない​隣人の​言動に​辱めを​感じとる​病的な​ほどの​猜疑心、​―これこそ​私たちが​戦いを​挑むべき敵です。

​ いずれも​普通に​見られる​誘惑です。​誰でも、​自分を​太陽のように、​つまり​周囲を​取り巻く​ものの​中心であるかのように​考えてしまいます。​すべてが​自分を​中心に​して​回らなければ​気が​すまず、​人々が​労わり可愛がってくれる​よう、​痛みや​悲しみを​訴え、​果ては​病気を​装うまでに​なります。

​ 内的生活で​出遭う​困難の​多くは、​想像の​所産と​言えます。​人は​どう​言っているだろうか、​どう​思うだろうか、​私の​ことを​考えてくれているのだろうか、​などと​考えてしまうのです。​そして、​その​哀れな​人は​猜疑心を​起こして、​ありも​しない​ことを​疑い、​哀れな​思い​上がりの​ために​苦しむ。​この​厄介で​不幸な​状態に​陥ると、​苦々しい​気持ちが​続き、​他人を​も​不安に​陥れようと​やっきに​なります。​謙遜に​ならないから、​また神を​愛するが​ゆえに​寛大に​自己を​忘れて​人々に​仕える​すべを​会得しなかったからです。

主の​玉座は​一頭の​ロバ

再び福音書を​繙き、​鑑である​イエス・キリストに​自らを​映してみましょう。

​ ヤコブと​ヨハネは、​母を​仲介者と​して、​主の​左右の​座を​占める​ことができるようキリストに​願いました。​他の​弟子たちは​腹を​立てます。​ところで​主は​どのように​お答えに​なったのでしょうか。​「あなたが​たの中で​偉くなりたい者は、​皆に​仕える​者に​なり、​いちばん上に​なりたい者は、​すべての​人の​僕に​なりなさい。​人の​子は​仕えられる​ためではなく​仕える​ために、​また、​多くの​人の​身代金と​して​自分の​命を​献げる​ために​来たのである」17。

​ カファルナウムに​行かれた​とき、​たぶんイエスは​いつもと​同じように​弟子たちの​数歩先を​歩んで​おられたのでしょう。​「一行は​カファルナウムに​来た。​家に​着いてから、​イエスは​弟子たちに、​『途中で​何を​議論していたのか』とお尋ねに​なった。​彼らは​黙っていた。​途中で​だれが​いちばん偉いかと​議論し合っていたからである。​イエスが​座り、​十二人を​呼び寄せて​言われた。​『いちばん先に​なりたい者は、​すべての​人の​後に​なり、​すべての​人に​仕える​者に​なりなさい』。​そして、​一人の​子供の​手を​取って​彼らの​真ん中に​立たせ、​抱き上げて​言われた。​『わたしの​名の​ために​このような​子供の​一人を​受け入れる​者は、​わたしを​受け入れるのである。​わたしを​受け入れる​者は、​わたしではなくて、​わたしを​お遣わしに​なった方を​受け入れるのである』」18。​こう​仰せに​なりました。

​ イエスの​このような​話の​仕方を​みると​感動しませんか。​よく​分かるように​生き生きとした​例を​引いて​教えを​説かれます。​家の​中を​走り​回っていた​幼子の​一人を​呼び、​胸に​引き寄せる。​なんと​「雄弁」な​沈黙!​それだけで​もう​何もかも​お教えに​なりました。​主は​幼子のようになる​人に​愛を​お示しに​なる。​そして、​付け加えられます。​素直で​謙遜な​心が​あれば、​天に​おいでになる​御父と​キリストを​抱く​ことができると。

受難の​時が​近づくと、​イエスは​自らの​王威を​はっきりと​示すため、​人々の​歓呼を​受けて​エルサレムに​入城なさいます。​ところが、​ロバにのって。​メシアは​謙遜の​王でなければならないとすでに​書かれていました。​「シオンの​娘に​告げよ。​『見よ、​お前の​王が​お前の​ところに​おいでに​なる、​柔和な方で、​ろばに​乗り、​荷を​負うろばの​子、​子ろばに​乗って』」​19と。

​ さて​最後の​晩餐に​おいて​イエスは、​弟子たちに​別れを​告げる​ため、​すべてを​準備なさいました。​その間、​弟子たちは​選ばれた​群れの​中で​誰が​いちばん偉いかと、​またも​や​果てしの​ない​議論に​夢中に​なっていたのです。​イエスは、​「食事の​席から​立ち​上がって​上着を​脱ぎ、​手ぬぐいを​取って​腰に​まとわれた。​それから、​たらいに​水を​くんで​弟子たちの​足を​洗い、​腰に​まとった​手ぬぐいで​ふき始められた」20。

​ 再び、​模範と​行いで​お教えに​なります。​高慢な​思い​上がりから​夢中に​なって​言い​争う​弟子たちの​前で、​イエスは​腰を​低くして、​召し​使いの​役目を​喜んで​果たす。​それから​食卓に​坐って、​説明を​続ける。​「わたしが​あなたが​たに​したことが​分かるか。​あなたがたは、​わたしを​『先生』とか​『主』とか​呼ぶ。​そのように​言うのは​正しい。​わたしは​そうである。​ところで、​主であり、​師である​わたしが​あなたが​たの足を​洗ったのだから、​あなたが​たも​互いに​足を​洗い​合わなければならない」21。​キリストの​この​優しさには​心打たれます。​私が​こうするのであるから​お前たちは​な​おさら​そう​すべきだとは​おっしゃいません。​主は​自らを​弟子たちと​同じ​立場に​置き、​強制せずに、​彼らの​寛大さの​不足を​優しく​お咎めに​なります。

​ 最初の​十二使徒に​対するのと​同じく、​私たちにも​また、​主は​示唆を​続けておられます。​「わたしが​あなたが​たに​した​とおりに、​あなたが​たも​するように」22と、​謙遜の​模範を​お示しに​なるのです。​柔和で​謙遜な心で​人々に​仕える​ことを​あなたたちが学ぶために、​私は​召し​使いに​なった、と​言われるのです。

謙遜の​実り

​「偉くなればなる​ほど、​自ら​へりくだれ。​そう​すれば、​主は​喜んで​受け入れてくださる」23。​もし謙遜ならば主は​決してお見捨てには​ならないでしょう。​神は、​傲る​者を​いやしめ、​目を​伏せる​者を​助け上げ、​罪なき者を​解き放たれる。​あなたの手を​清く​保ちなさい。​そう​すれば、​救われる​24。​主は​無限の​憐れみに​よって、​謙遜に​呼び求める​者に​すぐ​お応えに​なる。​そればかりではなく、​その​とき、​全能の​神に​ふさわしい​助けを​お与えに​なります。​たとえ、​多くの​危険に​さらされていても、​あるいは​四方を​取り囲む敵に​攻めたてられているにしても、​力尽きる​ことは​ないでしょう。​これは、​過去の​単なる​言い​伝えではない、​今も​な​お起こっている​ことです。

本日の​書簡で、​飢えた​ライオンの​間に​放り込まれた​ダニエルの​話を​読みました。​そして、​現代でも​放たれた​ライオンが​数多く​歩き回っており、​私たちは​そのような​環境の​中で​生きねばならない​ことを​考えました。​しかし、​悲観するには​及びません。​一概に、​昔は​良かったとは​言えません。​いつの​時代にも​善と​悪が​混在しています。​ライオンは​貪り​食う​物を​探し回っているのです。​「あなたが​たの敵である​悪魔が、​ほえたける​獅子のように、​だれかを​食い​尽く​そうと​探し回っています」25。

​ そのような​猛獣を​どのように​して​避ければ​いいのでしょうか。​ダニエルと​同じような​ことは​たぶん​起こらないでしょう。​私は、​奇跡好きでは​ありませんが、​主の​壮大な​力には​感服します。​預言者の​飢えを​満た​すために、​食物を​与えるか、​あるいは​食物の​ある​所へ​連れていく​方が​簡単であった​ことは​確かです。​しかし​そうは​せずに、​食物を​運ばせる​ために​他の​預言者ハバククを​ユダヤから​奇跡的に​お移しに​なりました。​神は​不思議な​奇跡を​しても​よいと​思っておられたのです。​ダニエルが​井戸の​中に​いたのは、​悪魔の​信奉者たちの​不正な​仕業です。​ダニエルは​神の​奉仕者、​偶像の​破壊者でもありました。

​ 人目を​引き驚かせるような​ことを​しないで、​キリスト者と​して​平凡な​生活を​営み、​平和と​喜びの​「種蒔き人」と​なって、​無理解や​不正や​無知、​また​傲慢にも​神に​背を​向ける​自己満足などの​偶像を​倒さなければなりません。

​ た​とえ、​生活環境が​あの​飢えた​獣の​いる​穴に​いた​ダニエルよりも​さらに​酷い​状態であっても、​驚いたり、​恐れたりは​しないで​欲しい。​神のみ​手は​昔と​変わりなく​強力です。​必要ならば​驚く​ほどの​奇跡さえなさる​ことでしょう。​忠実を​保ちたい​ものです。​キリストの​教えに​対しては、​確たる​自覚に​基づいた​喜びと​心の​こもった​忠実を​保ちましょう。​現代が​過去より​悪くはない​こと、​主は​昔どおりの​力強い​御方である​ことを​信じて。

​ 私の​知り合いの​老司祭は​自らの​態度を​評していつも、​「平気、​平気」と​繰り返していました。​私たちも​いつも​この​司祭のような​姿勢を​保ちたい​ものです。​飢えた​ライオンに​取り囲まれた​世間に​いても、​平和を​失わず、​平気で​平静、​そして、​必要ならば主は​どんどん奇跡を​なさる​ことを​決して​忘れずに、​愛と​信仰と​希望に​生きるのです。

誠実な​態度で​ありのままの​自分を​示し、​高慢からではなく、​謙遜から​生まれる​ <神化>を​求めるならば、​どのような​境遇に​あっても​安全、​確実である​ことを​忘れないでください。​そう​すれば、​いつも​勝利を​謳歌し、​勝利者と​称されるようになるでしょう。​神の​愛に​よる​勝利、​心の​落ち着きと​幸せ、​理解を​もたらす勝利を​得る​ことができるのです。

​ 謙遜は​偉大な​仕事を​完成するように​駆り立てます。​しかし、​その​ためには、​自己の​卑小を​ただ知るだけではなく、​日毎に​深く​自覚しなければなりません。​「数多くの​奉仕の​仕事を​実行すべく​義務づけられている、​ただの​召し​使いと​しての​状態を、​ためらう​ことなく​受け入れなさい。​神の​子と​呼ばれる​ことに​よって​肩を​いから​せては​なりません。​主の​恩寵を​認めながら、​同時に​人間の​本性を​忘れては​なりません。​単に​義務を​果たしただけだからです。​太陽は​義務を​果たし、​月は​従う。​そして、​天使は​任務を​遂行します。​異教徒の​ために​選ばれた​パウロは​言います。​『わたしには​使徒と​呼ばれる​値打ちは​ない。​神の​教会を​迫害したのであるから』。​(…)​私たちとて​同じ​こと、​自らの​功徳のみを​見るならば、​人から​賞賛される​ことなど​思いも​よらないはずです」26。​私たちの​功徳は​取るに​足ら​ぬほど​僅かな​ものですから。

謙遜と​喜び

​「人間が​もつ​すべての​邪悪から​解放してください」27。​ミサの​本文は​再び良い​意味での​ <神化>に​ついて​語ります。​悪への​傾きと​共に​人間の​悪しき性質を​示した後で、​「あなたの光を​送ってください」​28、​あなたの光と​真理を​送り、​私を​導き、​あなたの聖なる​山に​連れて​行ってくださいと​嘆願します。​この​昇階誦を​朗読すると​深い​感動を​覚えずには​いられません。

​ 良い​意味での​<神化>を​実現させる​ために、​何を​すべきでしょうか。​福音書には​「イエスは​ガリラヤを​巡っておられた。​ユダヤ人が​殺そうとねらっていたので、​ユダヤを​巡ろうとは​思われなかった」​29と​書いてあります。​望みさえ​すれば​敵を​追い​払うことができましたが、​主は​そうは​せずに​手立てを​講じました。​神である​キリストは​思いのままに​情況を​変える​ことが​できたのに、​ユダヤに​行かず、​私たちに​良い​教訓を​残してくださいます。​「イエスの​兄弟たちが​言った。​『ここを​去って​ユダヤに​行き、​あなたのしている​業を​弟子たちにも​見せて​やりなさい。​公に​知られようとしながら、​ひそかに​行動するような​人は​いない。​こういう​ことを​しているからには、​自分を​世にはっきり示しなさい』」30。​彼らは​見世物的な​ことを​望んでいたのでした。​ここに、​良い​意味での​<神化>と​悪い​意味での​<神化>に​関する​教えの​ある​ことが​お分かりでしょう。

​ 良い​意味での​<神化>は​奉献文で​歌われるように​「み名を​知る​人は​あなたに​依り頼む。​あなたを​尋ね求める​人は​見捨てられる​ことがない」31と​主に​希望します。​そして​遜る​人の​喜びが​あとに​続きます。​「貧しい​人の​叫びを​お忘れに​なる​ことはない」32と。

謙遜の​徳を、​あたかも​人間的な​意気地なさで​あり、​永遠に​続く​悲しみであるかのように​話す人を、​決して​信用しては​なりません。​かすが​いで​繕われた​脆い器であると​感じる​ことは、​絶える​ことの​ない​喜びの​源であるはずです。​神のみ​前では​本当に​幼い​子供に​過ぎない​ことを​認める​ことだからです。​哀れで​弱い​自分を​自覚すると​同時に、​神の​子である​ことを​知っている​人の​喜び以上に​大きな​喜びが​あるでしょうか。​なぜ、​人間は​悲しむのでしょう。​この​世の​生活が​望み通りに​いかないから、​また、​途中に​障害物が​あらわれ、​思惑通りの​満足を​得る​ことができないからです。

​ 超​自然的に​神の​子である​ことを​固く​自覚した​生活を​営むならば、​先に​述べたような​悲しい​状態には​ならないはずです。​「もし神が​わたしたちの​味方である​ならば、​だれが​わたしたちに​敵対できますか」33。​神の​子であると​いう​ことを​認めたがらない​人は​悲しんで​当然です。

​ 最後に、​私たちの​口と​心から​矢のように​飛び出すべき​二つの​嘆願を、​今日の​典礼から​引用してみましょう。​「全能の​神よ、​私たちが天の​賜物に​あずかる​ことができるよう、​神性の​秘義を​行ってください」34。​「主よ、​あなたのみ​旨に​従って、​いつも​あなたに​仕える​ことができますように」35。​仕える​こと、​奉仕する​こと、​つまり、​「我々の​日々に、​忠実な​神の​民が​増え、​その​功徳が​増すように、​すべての​者の​召し​使いに​なる」36、​これこそ​私たちの​道なのです。

マリアを​ごらんなさい。​これほど​深い​謙遜を​もって​神の​計画に​あずかった​人が​いたでしょうか。​主の​は​しため37の​謙遜は、​聖母マリアを​私たちの​喜びの​源と​して​呼び​求める​動機でも​あります。​エバは、​神と​同等に​なると​いう​気違いじみた​ことを​望んで​罪を​犯し、​恥じ入って​神から​遠ざかり、​悲しみに​陥りました。​マリアは、​主の​は​しためである​ことを​宣言し、​<みことば>の​母と​なって​喜びに​満たされました。​この​良き御母の​喜びが​私たち全員に​<感​染>しますように。​謙遜に​おいて​聖母マリアに​似る​ことができますように。​私たちがより​キリストに​似た​ものとなる​ことができますように。

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