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祈り方

​ では、​どのように​祈れば​よいのでしょうか。​私は​迷う​ことなく、​祈り方は​たくさん​ある、​いや​無限に​ある、​とお答えしましょう。​ただ、​いずれの​方法を​選ぶに​しても、​神の​子に​ふさわしい​祈りを​してください。​「『主よ、​主よ』と​言う​者が​皆、​天の​国に​入るわけではない」16。​主の​このような​叱責を​かうような​祈り、​偽善者に​よく​見られる​多言を​弄する​祈り方​は​して​欲しく​ありません。​実行を​伴わない​祈り​(偽善的な​祈り)を​する​人々にも、​祈りのように​聞こえる​音を​たてる​ことは​できるでしょう。​しかし、​聖アウグスチヌスが​言うように、​彼らの​祈りは​「生命の​こもらぬ祈りですから、​祈りまが​いの​雑音では​あっても、​祈りの​声には​なっていない​のみならず」​17、​御父のみ​旨を​果たす​熱意にも​欠けています。​「主よ」と​語り​かける​私たちの​祈りが、​聖霊の​内的霊感を​実行せんと​する​効果的な​望みであって​欲しいと​思います。

​ 自己の​内部に​偽善の​影さえも​映さないよう努力すべきです。​主が​厳しく​叱責される​二心と​いう​悪意を​捨て​去る​ためには、​常に、​しかも​その​時々に、​罪を​避ける​決意を​しなければなりません。​心から、​きっぱりと、​誠実に、​大罪を​忌み嫌う​決心を​しなければならないのです。​また、​たとえ恩寵を​奪われないまでも、​恩寵の​通り道を​塞いでしまう​罪―小罪だから​いいだろうと​思って​犯してしまう​罪―も​避けなければなりません。

聖書への参照
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