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登場人物の​一人と​なって

​ 三十年の​司祭生活を​通して、​祈りの​必要性と、​生活を​神への​絶え​ざる​叫びに​変えうる​ことを、​飽く​ことなく、​執拗に​主張してきましたが、​時々、​「しかし、​いつでも​そうする​ことができるのですか」と​尋ねられました。​実は、​できるのです。​主と​ひとつに​なると​言っても、​この​世から​離れたり、​世界の​潮流から​離れて​風変わりな​人間に​なったりする​ことでは​ありません。

​ 神が、​私たちを​造り、​御ひとり子を​お渡しに​なるまで​愛し25、​贖い、​また、​喩え話の​放蕩息子の​父親のように​<毎日​>​私たちの​立ち返りを​待っていてくださる​26と​すれば、​当然、​私たちの​熱烈な​愛を​お望みに​なっていると​言えるはずです。​神と​話を​せず、​神から​離れ、​神を​忘れ、​恩寵の​絶え間ない​働きかけに​対して​無神経に​なる​ほど、​活動に​没頭する​ことこそ、​おかしな​ことであるとしか​言いようが​ありません。

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