祈りの生活

1955年4月4日


自己を​改善し、​もっと​物惜しみしない心で​主に​仕えたい。​こう​望んで​キリスト教的な​生き方を​する​ために、​はっきりと​した​道標や​道案内を​求める​とき、​聖霊は​いつも​あの​聖書の​一節を​思い出させてくださいます。​「倦まず弛まず​祈れ」1。​祈りは​超自然な​仕事全体の​基礎であって、​祈りが​あれば​私たちは​全能に​なり、​祈りを​忘れ去れば​無能に​なってしまいます。

​ この​黙想中に​しっかりと​心に​刻みつけて​おきたいことがあります。​街の​雑踏の​中で、​仕事場で、​一日中、​弛まず神と​語り続け、​観想の​人と​なるべきであると​いう​こと。​主の​足跡を​忠実に​歩んで​従いたいの​なら、​これ以外に​道は​ありません。

そこで、​私たち自身を​映すべき鏡で​あり模範である​イエスに​目を​向けてみましょう。​主は​大事を​為すに​当たって、​外面的には​どのように​行動されたでしょうか。​福音書は​何を​語っているでしょうか。​大きな​奇跡を​なさる​前に​いつも​御父のもと​へ馳せ寄る​キリストの​姿に​心打たれます。​公生活を​始める​前、​祈る​ために​四十日四十夜​砂漠に​退かれましたが、​その​ときの​姿を​見ると​感動せずには​おれません2。

​ 敢えて​繰り返します。​救い主の​足跡を​注意深く​見つめる​ことは​非常に​大切です。​主が​来られたのは、​御父のもとへと​続く​道を​示すためであったからです。​こう​すれば、​見た​ところ​無意味な​活動に​超自然の​色彩を​与える​方​法を​主と​共に​求め、​各瞬間を​永遠との​つながりのうちに​生きる​ことを​学び、​神との​親しい​語り合いが​必要である​ことを​さらに​深く​理解する​ことができます。​主と​付き合い、​主を​呼び求め、​主を​賛美し、​心から​感謝の​意を​表明し、​主の​言葉に​耳を​傾ける、​あるいは​単に​主の​傍に​いる​ためです。

​ もう​何年も​前の​ことですが、​この​主の​習慣に​ついて​考えていた​とき、​どのような​種類の​使徒職であっても、​使徒職とは​内的生活の​溢れ出である、と​いう​結論に​達しました。​ですから、​キリストが​最初の​十二人を​お選びに​なる​とき、​どうな​さったかを​語る​聖書の​一節は、​極めて​自然であると​同時に、​超自然的であると​思えるのです。​弟子を​選ぶ前に​「神に​祈って​夜を​明かされた」3と​ルカは​語っています。​ベタニアで​ラザロの​ために​涙を​お流しに​なった​主は、​ラザロを​蘇らせる​前に​何を​なさったのでしょうか。​目を​天に​上げ、​叫ばれます。​「父よ、​わたしの​願いを​聞き入れてくださって​感謝します」4。​主の​大切な​教えです。​隣人を​助けたいの​なら、​人生の​本当の​意味を​発見するよう​人々を​導こうと​心から​望むなら、​祈りを​基礎にしなければなりません。

イエスが​御父とお話しになる​場面は​無数に​あるので、​今それら​すべてに​目を​留める​ことは​できません。​しかし、​受難と​死去に​先立つあの​非常に​密度の​濃い​数時間、​人類を​神の​愛に​引き戻す犠牲を​準備する​ときに​ついては、​考えないわけには​ゆきますまい。​高間での​親しい​雰囲気の​中で、​主の​聖心から​愛が​溢れ出ます。​御父に​向かって​嘆願の​声を​あげ、​聖霊の​降臨を​予告し、​愛と​信仰の​火を​保ち続けるよう弟子たちを​励まされる。

​ 贖い主の​燃えるような​祈りは​ゲッセマニでも​続きます。​受難が​目前に​迫っている​こと、​屈辱と​苦痛、​悪人を​吊す十字架の​想像を​絶する​苦しみが​近づいている​こと、​これら​すべてを​予感しておられる。​しかも、​それらを​熱望しておられます。​「父よ、​御心なら、​この​杯を​わたしから​取りのけてください」5。​けれども、​すぐさま、​「しかし、​わたしの​願いではなく、​御心のままに​行ってください」6と​仰せに​なる。​その後、​永遠の​司祭のように​両腕を​大きく​広げて、​一人きりで​木に​釘づけに​されながらも、​主は​御父との​会話を​お続けに​なりました。​「父よ、​わたしの​霊を​御手に​ゆだねます」7。

今度は、​主の​御母を​眺めましょう。​私たちの​母でもある​聖母は、​カルワリオの​十字架の​傍らで​祈っておられる。​マリアの​この​態度は​ここに​始まった​ことでは​ありません。​いつも​このように​祈って​こられました。​家事に​専念し、​義務を​果たし、​この​世の​雑事に​取り囲まれながら、​常に​思いを​神に​向けておられたのです。​「完全な​神であり、​完全な​人である」8キリストは、​私たちが​熱心に​絶えず神の​愛を​見つめる​ことのできるように、​非常に​優れた​御方​・恩寵に​満ちた​御母の​力を​借りる​ことを​望んで​おられます。​お告げの​場面を​思い出してください。​天使が​神から​受けた​使信、​すなわち​「マリアは​神の​母に​なるだろう」と​いう​知らせを​伝えに​来た​とき、​聖母は​引きこもって​祈っておられた。​「あなたに​挨拶します。​恩寵に​みちた​御方、​主は​あなたと共に​おいでになります」9。​聖ガブリエルが​こう​挨拶した​とき、​マリアは​主の​うちに​心を​潜めて​おられたのです。​数日後、​聖母は​その心の​よろ​こびを​「マリアの​賛歌」に​吐露します。​マリアの​賛歌は、​細部に​わたって​すべてを​忠実に​記す聖ルカを​通して、​聖霊が​伝えてくださいましたが、​それを​見ると、​聖なる​処女マリアが​絶えず神との​親しさを​保っていた​ことが​分かります。​聖母は、​救い主を​待ち望んでいた​旧約の​義人たちの​言葉と​歴史を、じっくりと​深く​黙想されました。​幾度も​恩知らずな​態度を​示した​民に​対する、​浪費とさえ​言える​ほどの​神の​慈しみと​奇跡の​数々を​みて、​聖マリアは​心打たれていたのです。​絶えず示される​神の​優しさに​思いを​巡らすとき、​聖母の​汚れなきみ心は​愛で​いっぱいに​なる。​「わたしの​魂は​主を​あがめ、​わたしの​霊は​救い主である​神を​喜びたたえます。​身分の​低い、​この​主の​は​しためにも、​目を​留めてくださったからです」10。​この​善き母の​子供である​初代の​信者は​聖マリアから​多くを​学びました。​私たちも​多くを​学ぶことができます。​学ばなければならないのです。

使徒言行録に​この​上なく​素晴らしいと​思われる​一節が​あります。​いつでも​役に​立つ、​明らかな​模範を​示してくれる​ところです。​「彼らは、​使徒の​教え、​相互の​交わり、​パンを​裂く​こと、​祈る​ことに​熱心であった」11。​これは​キリストに​従った​初代の​信者の​生活を​語る​ところに​必ず​出てくる​教えです。​「心を​合わせて​熱心に​祈っていた」12。​ペトロが​勇敢に​真理を​説いたが​ために​捕えられた​ときも、​弟子たちは​祈る​ことに​決めます。​「教会では​彼の​ために​熱心な​祈りが​神にささげられていた」​13のです。

​ 今も​昔も​祈りは​唯一の​武器、​内的生活で​勝利を​得る​ための​最も​強力な​武器なのです。​「あなたが​たの中で​苦しんでいる​人は、​祈りなさい」14。​聖パウロは、​すべてを​要約するかのように、​「絶えず​祈りなさい」​15、​決して​諦めずに​祈れ、​と​言っています。

祈り方

​ では、​どのように​祈れば​よいのでしょうか。​私は​迷う​ことなく、​祈り方は​たくさん​ある、​いや​無限に​ある、​とお答えしましょう。​ただ、​いずれの​方法を​選ぶに​しても、​神の​子に​ふさわしい​祈りを​してください。​「『主よ、​主よ』と​言う​者が​皆、​天の​国に​入るわけではない」16。​主の​このような​叱責を​かうような​祈り、​偽善者に​よく​見られる​多言を​弄する​祈り方​は​して​欲しく​ありません。​実行を​伴わない​祈り​(偽善的な​祈り)を​する​人々にも、​祈りのように​聞こえる​音を​たてる​ことは​できるでしょう。​しかし、​聖アウグスチヌスが​言うように、​彼らの​祈りは​「生命の​こもらぬ祈りですから、​祈りまが​いの​雑音では​あっても、​祈りの​声には​なっていない​のみならず」​17、​御父のみ​旨を​果たす​熱意にも​欠けています。​「主よ」と​語り​かける​私たちの​祈りが、​聖霊の​内的霊感を​実行せんと​する​効果的な​望みであって​欲しいと​思います。

​ 自己の​内部に​偽善の​影さえも​映さないよう努力すべきです。​主が​厳しく​叱責される​二心と​いう​悪意を​捨て​去る​ためには、​常に、​しかも​その​時々に、​罪を​避ける​決意を​しなければなりません。​心から、​きっぱりと、​誠実に、​大罪を​忌み嫌う​決心を​しなければならないのです。​また、​たとえ恩寵を​奪われないまでも、​恩寵の​通り道を​塞いでしまう​罪―小罪だから​いいだろうと​思って​犯してしまう​罪―も​避けなければなりません。

祈りに​ついて​話すのが​億劫に​なった​ことは​なく、​これからも​神の​恩寵の​助けを​受けて​決して​面倒に​思う​ことはないと​思いますが、​とにかく​一九三〇年頃から​ずっと、​当時若輩司祭であった​私に​近づいてきた​あらゆる​社会層の​人々、​(もっと​神に​近づきたいと​努力していた)​大学生や​労働者、​健康な​人や​病気の​人、​富める​人や​貧しい​人、​司祭や​信徒の​方​々に、​常に​祈りなさい、​と​勧めてきました。​祈りを​始めるには​どう​すれば​よいのか分からない​人には、​まず神のみ​前に​いる​ことを​考え、​続いて、​主よ、​どのように​して​祈れば​よいのか​分かりませんと、​心に​かかる​不安や​苦しみを、​ありのまま​主に​申し上げるよう​勧めた​ものです。​たいていの​場合、​このような​謙遜な​打ち明け話の​うちから、​キリストとの​親しさ、​キリストとの​親しく​深い​交わりが​生まれました。

​ それから​幾歳月もが​過ぎましたが、​今も​これ以外の​処方​箋は​ないと​確信しています。​祈りの​準備が​できていないと​感じる​ときには、​弟子たちのように​主に​近づいて​申し上げましょう。​「祈り方を​教えてください」18と。​そう​すれば、​「“霊”も​弱いわたしたちを​助けてくださいます。​わたしたちは​どう​祈る​べきかを​知りませんが、​“霊”​自らが、​言葉に​表せない」、​つまり、​適切な​言葉で​表現できない​「うめきを​もって​執り成してくださる」19ことが​よく​理解できるでしょう。​神の​言葉に​すがれば、​何と​形容して​よいか​分からない​ほど​強い力を​得る​ことができます。​司祭に​なって​このかた、​今​述べた​勧めを​幾度も​繰り返してきましたが、​これは​私が​考え出した​勧めではなく、​聖書に​学び、​聖書から​得た​教えです。​主よ、​どのようにしてあなたに​近づけば​よいのでしょうか、​祈り方を​教えてください、​とお願いします。​すると、​聖霊の​光と​火と​激しい​風、​つまり​愛に​溢れた​助けが​与えられ、​心に​愛の​炎が​燃え立ってくるのです。

祈りとは​語り合い

​ ​私たちは​すでに​祈りの​道に​入りました。​これから​先どのように​して​続けていけば​よいのでしょうか。​大勢の​男女が​満足げに​自分​自身に​耳を​傾けて​独り言を​言う​ことは​ご存じでしょう。​それは、​慰められたい、​誉められたいと​いう​病的な​望みから、​自らの​心配事を​別段解決策を​講ずる​ことなく​長ったらしく​話し続ける​独り言、​終わりの​ない​無駄話です。​それ以上の​ことは​考えないのです。

​ 本心から​心の​重荷を​下ろしたい​とき、​率直誠実な​人なら、​愛と​理解を​示してくれる​人の​忠告を​求めるはずです。​父や母、​夫や妻、​兄弟や​友人に​話します。​このような​場合、​相手の​助言を​聞くよりも、​自分の​心を​打ち明け、​起こった​ことを​話すほうを​好むのが​普通ですが、​それでも、​これは​対話です。​神が​私たちの​言葉に​耳を​傾け、​答えてくださる​ことを​確信し、​神に​対しても​このように​話したい​ものです。​神のもとに​駆け寄り、​心を​悩ませる​事柄すべてを、​信頼を​込めて​謙遜に​話すのです。​喜びと​悲しみ、​希望と​不快、​成功と​失敗、​日々の​出来事の​些細な​点まで​打ち明けます。​私たちに​関わりある​ことは​すべて、​天の​御父の​関心事である​ことが​分かるでしょう。

祈りは​後回しに​しても​よいと​いうような​考え方や​怠け心に​気づいたなら、​そんな​思いは​すぐに​捨ててしまってください。​恵みの​泉である​祈りを​決して​遅らせないでください。​今こそ​ちょうどよい​時です。​私たちの​一日を​優しく​見つめる​神は、​心に​秘めた​願いを​見守ってくださる。​繰り返しますが、​あなたも​私も​神に​対しては、​兄弟や​友人、​父親に​信頼するように、​何もかも​打ち明けなければなりません。​神に​申し上げましょう。​あなたこそは、​偉大さの​極み、​善その​もの、​慈しみ​その​ものです、と。​私は​そうする​ことに​しています。​そして、​付け加えます。​私は​あなたに​夢中に​なりたい。​不器用で、​地上の​難路から​舞い​上がった埃で​汚れて​傷ついた​惨めな​手しかない​私ですが、と。

​ このように​すると、​気づかないうちに、​超自然的な​歩みを​力強く​元気よく​踏み出すことができます。​そうなれば、​苦しみや​自己放棄や​悩みも、​主の​傍らから​離れさえしなければ、​喜ばしい​ものである​ことが​分かるでしょう。​神の​子である​私たちは、​これほど​御父の​近くに​いる​ことを​知るだけで、​大きな​力を​得る​ことができるのです。​それゆえ、​何が​起ころうとも​泰然自若と​している​ことができる。​岩で​あり砦である​主、​我が​父が​一緒に​いてくださるからです20。

以上は​こと​ごとく、​ある​人に​とっては​聞き慣れた​こと、​また​他の​人に​とっては​初めて​耳に​する​ことかもしれません。​いずれの​人に​とっても​困難な​ことです。​しかし​私は、​命ある​限り​休みなく​説き続ける​つもりです、​あらゆる​時、​あらゆる​場所に​おいて、​いつも​祈りの​人である​ことが​第一に​必要であると。​神が​私たちを​お見捨てになるような​ことは​決してないからです。​神と​親しく​する​ことに​ついて、​進退きわまった​ときに​のみ​神の​助けを​求めるのは​キリスト者の​態度では​ありません。​愛する​人の​ことを​忘れたり、​軽く​考えたりするのが​まともな​人だと​思いますか。​とんでも​ない​ことです。​私たちの​言葉や​望みや​思いは​絶えず愛する​人々に​向かい、​あたかもいつも​その​人が​傍らに​いるかのように​感じます。​神との​付き合いに​おいても​同じことが​起こるのです。

​ このような​方​法で​主を​探し求めれば、​私たちの​一日は​朝から​晩まで、​神との​親密な​信頼に​満ちた​会話に​変わる。​これに​ついては、​幾度と​なく​断言し、​また​書いてきましたが、​ここで​再び繰り返したいと​思います。​昼夜を​分かたず絶えず​祈り続ける​ことが​確実な​生き方である​ことを、​主が​模範で​示してくださいました。​万事が​うまく​行く​ときは、​「我が​神よ、​感謝いたします」。​困難に​出遭った​ときには、​「主よ、​私を​見捨てないでください」と​叫ぶ。​そうしている​限り、​「心の​柔和で​謙遜な」21神が​私たちの​祈りを​忘れたり、​無関心を​装ったりなさる​ことは​ありません。​主自らそう​断言されたからです。​「求めなさい。​そう​すれば、​与えられる。​探しなさい。​そう​すれば、​見つかる。​門を​たたきなさい。​そう​すれば、​開かれる」22と。

​ 超​自然的な​見方を​決して​失う​ことなく、​出来事の​一つ​ひとつの​背後に​神を​見る​努力を​しましょう。​楽しい​ことが​やってきた​ときも、​不快な​ことに​出くわした​ときも、​また​慰めを​受ける​ときや、​反対に、​愛する​人の​死に​よる​悲しみを​前に​した​ときも。​まず​何よりも、​心の​中に​おいでになる神を​求め、​父なる​神と​話し合う。​これは、​無意味で​つまら​ぬことである​どころか、​堅実な​内的生活、​つまり、​真の​愛の​語り合いの​あらわれです。​精神に​悪い​影響を​与えるはずは​ありません。​キリスト者に​とって、​祈りとは​心臓の​鼓動のように​自然な​活動であるはずです。

口祷と​念祷

このような​信仰生活の​枠の​中に、​宝石を​散りばめたように​あらわれるのが​口祷です。​それらは、​神が​好まれる​祈り、​「天に​おられる…」、​「アヴェ・マリア、​恵みに​満ちた方…」、​「栄光は​父と​子と​聖霊に…」であり、​また、​神と​聖母への​賛辞で​編んだ​あの​冠、​つまり​ロザリオの​祈り、​そして、​私たちの​兄弟である​キリスト者が​昔から​唱えてきた、​敬虔な​心溢れる​無数の​喜びの​叫びです。

​ ​「主よ、​わたしを​憐れんでください。​一日たりとも​疎かに​せず、​あなたに​一日​中​叫びました」と​いう​詩編八十五の​一節を​解説して、​聖アウグスチヌスは​言っています。​「一日​中とは​世の​始めから​終わりまで​間断なくと​いう​意である。​(…)​ただ​一人の​人間が​世の​終わりにまで​至る。​叫ぶのは​キリストの​体の​成員であるから。​ある​者は、​すでに​主と​共に​永遠の​休息に​憩い、​また​他の​者は​いま祈願の​声を​上げている。​我々の​死後は、​別の​者たちが​我々の​ために​祈り、​その​後に​また次の​世代が​祈りを​引き継ぐのである」23と。​時間の​制限を​超えて​創造主礼拝に​加わる​ことができると​考えれば、​感動を​覚えないわけには​いかないのではないでしょうか。​神に​愛されている​自分を​知り、​<一日​中>、​地上を​旅する​間の​各瞬間に​主に​身を​寄せる​とき、​人間は​本当に​偉大な​存在に​なります。

思いを​神に​上げ、​神のもとに​繁く​通う​ために、​毎日​必ず​特別の​時間を​当ててください。​歌い​止まぬ心で​歌うわけですから、​言葉を​口に​する​必要は​ありません。​この​敬虔な​「規定」に​充分な​時間を​割きましよう。​できるなら​時間を​決めて、​聖櫃の​傍で、​愛ゆえに​そこに​お残りに​なった​御方に​付き添うのです。​それが​どうしても​できない​ときは、​場所は​どこでもかまいません。​神は​恩寵の​状態に​ある​霊魂の​中に、​筆舌に​尽くしが​たい​仕方で​現存しておられますから。​とは​いえ、​できる​ときは​いつも、​聖堂で​祈る​ことを​お勧めします。​私は​チャペルと​いう​言葉を​使わないように​しています。​と​いうのは、​聖堂とは、​公の​儀式ばった​体裁を​つくろって​鎮座する​ための​場所ではなく、​イエス・キリストが、​秘跡の​外観の​もとに​隠れて​現存なさる​ところだからです。​主が​聖櫃から​私たちを​見つめ、​私たちに​耳を​傾け、​私たちを​待っていてくださる​ことを​確信し、​心を​潜めて​親しく​語り​かけ、​心を​天に​上げる​ための​場所、​それが​聖堂である​ことを​はっきりと​示すためです。

​ 望みさえ​すれば、​神との​語り合いの​ために、​一人​ひとりが​独自の​話題を​見つけ出すことができます。​決まった​方​法とか​方​式に​ついて​話すのは​好きでは​ありません。​すべての​人に、​主に​近づきなさいと​勧めてきましたが、​各々​固​有な​性格を​もつ​人々の、​あるが​ままの​姿を​尊重してきたつもりです。​私たちの​生活に​神の​ご計画を​導入してくださる​よう、​主に​頼みなさい。​頭の​中だけでなく、​心の​奥に、​そして、​すべての​外的活動の​中にも。​このように​すれば、​利己的な​考えからくる​不快な​思いや​苦しみの​大部分を​免れ、​周囲の​人々に​善を​広げる​ために​充分な​力を​感じる​ことを​保証します。​神は​決して​私たちを​お見捨てになりませんから、​神の​すぐ​傍に​いるなら、​幾多の​困難も​消え去る​ことでしょう。​ご自分の​弟子、​病人、​足の​悪い​人に​向けられた​愛が、​異なった​仕方で​再び示されます。​イエスは​お尋ねに​なります、​「どう​したのか」と。​「実は…」と​答え​はじめる​やいなや、​光が​与えられるか、​あるいは​少なくとも、​現状を​受け入れる​ことができ、​平和を​取り戻すのです。

​ 主との​信頼に​満ちた​語り合いに​招くに​あたり、​特に​出合いが​ちな​障害にも​触れておきましょう。​幸福を​邪魔する​ものの​大半は、​程度の​差こそ​あれ、​隠れた​高慢から​生まれます。​私たちは​非凡な​資質に​恵まれ卓越した​人物であると​自負する。​そして、​第三者が​そのように​評価してくれないと、​ひどい​侮辱を​感じる。​その​時こそ、​方​向転換に​遅すぎる​ことなど​ありえないと​信じて、​意向を​改め、​祈りに​赴くべき​ときです。​もちろん方​向転換は​早いに​越した​ことは​ありません。

​ 恩寵の​助けを​受けつつ祈る​ならば、​高慢を​謙遜に​変える​ことができる。​そうすると、​たとえまだ、​私たちの​翼に​土が​こびりついている、​惨めさと​いう​乾いた​泥が​付着していると​感じても、​心の​うちに​本当の​喜びが​芽生え​始めます。​その後で、​犠牲を​実行して​その​泥を​落とせば、​神の​慈しみと​いう​追い​風の​後押しを​受けて、​天高く​舞い​上がる​ことができるのです。

ごらんなさい。​主が​私たちに​熱望しておられるのは、​超自然的であると​同時に​人間的な​素晴らしい​歩み方です。​このように​歩んで​行けば、​喜んで​自己を​否定して、​つまり​苦しみを​笑顔で​受けとめて、​自らを​忘れる​ことができるはずです。​「わたしに​ついて​来たい者は、​自分を​捨てなさい」24。​この​教えを​知らない​人は​いないでしょう。​きっぱりと​主に​従う​決心を​しなければなりません。​主が​私たちを​ご自分の​ために​道具と​してお使いに​なることができるように、​つまり、​世界中の​あらゆる​ところで、​神の​うちに​留まりながら、​塩と​なり、​パン種と​なり、​光と​なる​ために。​こうして、​神の​うちに​身を​置く​あなたは、​周囲を​照らし、​味を​与え、​成長させ、​発酵させる​ことができるようになります。

​ しかし、​私たちは​光ではなく、​単に​光を​反射するだけだと​いう​ことを、​決して​忘れないでください。​人々に​善行を​させる​ために​後押しし、​彼らの​魂を​救うのは、​実は​私たちでは​ありません。​私たちは​質の​良し悪しは​あるにしても、​神の​救いの​計画の​ための​道具に​過ぎないのです。​万一、​何らかの​機会に、​立派な​ことを​しているのは​自分だと​考えるような​ことが​あれば、​高慢、​それも​以前よりも​さらに​性質の​悪い​高慢に​とりつかれているわけですから、​やがて、​塩は​味を​失い、​酵母は​腐り、​光は​闇に​変わってしまうでしょう。

登場人物の​一人と​なって

​ 三十年の​司祭生活を​通して、​祈りの​必要性と、​生活を​神への​絶え​ざる​叫びに​変えうる​ことを、​飽く​ことなく、​執拗に​主張してきましたが、​時々、​「しかし、​いつでも​そうする​ことができるのですか」と​尋ねられました。​実は、​できるのです。​主と​ひとつに​なると​言っても、​この​世から​離れたり、​世界の​潮流から​離れて​風変わりな​人間に​なったりする​ことでは​ありません。

​ 神が、​私たちを​造り、​御ひとり子を​お渡しに​なるまで​愛し25、​贖い、​また、​喩え話の​放蕩息子の​父親のように​<毎日​>​私たちの​立ち返りを​待っていてくださる​26と​すれば、​当然、​私たちの​熱烈な​愛を​お望みに​なっていると​言えるはずです。​神と​話を​せず、​神から​離れ、​神を​忘れ、​恩寵の​絶え間ない​働きかけに​対して​無神経に​なる​ほど、​活動に​没頭する​ことこそ、​おかしな​ことであるとしか​言いようが​ありません。

さらに、​他人の​真似を​しない​人は​いないことに​注目してください。​人間は​知らず知らずの​うちに​互いに​真似を​し合います。​それならば、​イエスを​真似なさい、と​いう​招きを​無視する​ことができるでしょうか。​誰でも​選んだ​モデルを​頭に​描き、​自分に​とって​魅力ある​その​モデルと​同じようになろうと​努力する。​各々、​自分の​考え出した​理想に​従って​行動の​仕方を​決めます。​私たちの​師は​キリスト、​神の​御子、​聖三位一体の​第二の​ペルソナです。​従って、​キリストを​真似る​努力を​続ければ、​あの​<愛の​流れ>、​すなわち三位一体の​秘義に​参加すると​いう、​想像を​絶したことが​可能に​なるのです。

​ 時と​して、​イエスのみ​跡に​ついて​行くだけの​元気が​ないこともあるでしょう。​そのような​ときには、​主の​在世中に​親しく​主を​知っていた​人々と、​友のように​言葉を​交わしなさい。​第一に、​主を​私たちに​お与えに​なった​聖母マリア、​続いて、​使徒たち。​「さて、​祭りの​とき礼拝する​ために​エルサレムに​上って​来た​人々の​中に、​何人かの​ギリシア人が​いた。​彼らは、​ガリラヤの​ベトサイダ出身の​フィリポのもと​へ​来て、​『お願いです。​イエスに​お目に​かかりたいのです』と​頼んだ。​フィリポは​行って​アンデレに​話し、​アンデレと​フィリポは​行って、​イエスに​話した」27。​この​一節を​読めば​元気が​出てくるのでは​ありませんか。​あの​外国人たちは、​じかに​主に​お目に​かかる​勇気が​なかったので、​良い​仲介者を​探したのでした。

私は​あまりにも​罪深い​人間だから​主は​耳を​貸してくださらない、とでも​思うのですか。​そんな​ことは​ありません。​主は​憐れみの​泉です。​万一、​このように​素晴らしい​事実を​考えてもな​お自分の​惨さを​痛感するのなら、​あの​徴税人を​真似ましょう​28。​「主よ、​ご覧ください。​わたしは​ここに​おります」。​そして、​人々が​イエスの​前に​中風の​人を​運ん​できた​ときの​情景を​心に​描きなさい。​聖マタイの​話に​注目してみましょう。​あの​病人は​ひと言も​口にしません。​ただ、​そこ、​神のみ​前に​いるだけです。​それに​対しキリストは、​病人の​痛悔の​心と​功徳も​ない​自らを​悔やむ病人の​心に​動かされ、​すぐに、​いつもの​憐れみを​お示しに​なりました。​「子よ、​元気を​出しなさい。​あなたの罪は​赦される」29と。

​ あなたに​助言したいと​思います。​祈りの​中で、​福音書の​色々な​場面に、​登場人物の​一人と​なって​入り込みなさい。​まず、​心を​静め、​黙想に​役立ちそうな​場面や​秘義を​頭に​浮かべる。​次に、​想像力を​働かせて​主の​生活の​具体的な​一面を​考える。​たとえば、​とても​優しい​主の​聖心、​主の​謙遜、​主の​純潔、​御父のみ​旨への​従順など。​そうしてから、​その​点に​ついて​自分の​場合は​どうなのか、​いつもは​どんな​ことが​起こるのか、​また​今は​どうなのかを​主に​お話ししなさい。​そして、​よく​注意して​耳を​澄ましましょう。​主は​何かを​教えようと​しておられるかもしれません。​まもなく、​内的な​神の​呼びかけを​耳にし、​今まで​分からなかった​点に​気づき、​痛悔の​心が​湧き​上がる​ことでしょう。

祈りを​軌道に​乗せる​ために、​私は、​もっとも​霊的な​ことでも​具体的な​物に​託すことに​しています。​この​方​法は​どなたかに​役立つかもしれません。​私たちの​主は​この​方​法を​お使いに​なりました。​主は​好んで​自分を​取り巻く​実生活に​ヒントを​求め、​そこから​得た​話を​使って、​人々に​お教えに​なったのです。​羊飼いと​羊の​群れ、​ぶどうの​木と​その枝、​舟と​網、​種蒔き人が​気前よく​蒔く​種の​話など。

​ 私の​心に​神の​言葉が​<落ち>ました。​この​言葉の​ために、​どのような​土地を​用意したのでしょう。​石だらけの​土地、​生い​繁った​茨で​覆われた​土地、​あるいは、​元気なく​あまりに​人間的で、​こせこせと​足踏みされて過度に​踏み固められた​土地でしょうか。​主よ、​私の​畑が、​寛大に​光と​雨を​受け入れ、​肥沃な​良い​土地に​なりますように。​あなたの​蒔かれた​種が​しっかりと​根を​おろし、​ふさふさと​した​穂を​垂れる​良質の​小麦を​実らせる​ことができますように。

​ ​「わたしは​ぶどうの​木、​あなたがたは​その枝である」30。​九月が​訪れ、​生気ある​細長い​節だらけの​枝を​四方にのばしたぶどうの​幹は、​そのしなやかな​枝も​たわわに​無数の​実を​ならせ、​摘み手を​待っています。​幹に​つながっていて​樹液を​受けるから​こそ、​枝は​生き生きと​している。​そうしてこそ枝は、​二、​三ヶ月前には​小さな​蕾に​すぎなかった​ものを、​人の​目や心を​楽しませる​甘く​熟した​果実31に​変える​ことが​できたのです。​木の​根元には​枯れた​枝が​散らばっているかもしれません。​それらも​以前は​生きた​枝だったのですが、​水分を​失い​枯れてしまったのです。​これほど​分かりやすい​不毛の​象徴は​ないでしょう。​「わたしを​離れては、​あなたがたは​何も​できないからである」32と​いうわけです。

​ 宝物。​宝を​見つけると​いう​幸運に​恵まれた​人の​喜びようを​想像して​ごらんなさい。​経済的な​問題も​悩みも​吹っ飛んでしまい、​持ち物を​すべて​売り​払って、​宝の​埋まっている​畑を​買います。​心は​宝の​ありかを​思って​喜びで​いっぱいに​なる​33。​私たちの​宝は​キリストです。​ですから、​主に​従う​ための​邪魔に​なる​もの​すべてを​捨て​去る​ことも​厭いません。​不要な​底荷を​捨てた船は、​一直線に​神の​愛と​いう​安全な​港に​向かって​航海を​続ける​ことでしょう。

もう​一度​繰り返しますが、​祈り方は​無数に​あります。​神の​子で​あれば、​御父に​話しかける​ために、​型には​まった​既製の​方​法など​必要では​ありません。​愛が​あれば​必要に​応じて​工夫し発明します。​愛が​あれば、​それぞれが​自分に​合った​道を​見つけ出し、​主とのたゆみない​語り合いに​入る​ことができるのです。

​ 本日​私たちが​黙想した​事柄の​一つで​さえ、​魂の​表面を​上滑りしないようにと神は​お望みです。​束の​間の​雨の​後、​太陽が​顔を​現し、​再び大地を​すっかり​乾燥させてしまう​夏の​嵐のように、​跡形も​残さないような​ことが​あっては​なりません。​神が​降らせてくださった​雨は、​大地に​留まって​根を​潤し、​善徳の​実を​結ば​なければならないのです。​そう​すれば、​神のみ​前で、​一生を​仕事と​祈りの​うちに​過ごすことができるでしょう。​万一つ​まずいた​ときは、​祈りの師である​聖マリアの​愛、​そして、​私たちの​父であり主である​聖ヨセフに​すがりましょう。​この​地上で​神の​御母と​最も​親しく​交わり、​また、​聖マリアに​次いで​最も​親密に​御子に​近づいた方ですから、​私たちは​聖ヨセフを​心から​称えます。​聖マリアと​聖ヨセフは​私たちの​弱さを​イエスに​見せ、​イエスが​それを​強さに​変えてくださる​ことでしょう。

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