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良い​意味での​「神化」を​偽りの​神化からはっきりと​区別できるように、​聖火曜日の​ミサの​本文に​即して、​謙遜に​ついて​お話ししましょう。​謙遜の​徳こそ、​人間の​惨めさと​偉大さを​同時に​教えてくれる​徳です。

​ 人間の​惨めさは​歴然と​しています。​人間が​夢に​見ながらも、​たとえ時間の​不足に​よるだけに​しろ、​決して​実現できないような​大きな​憧れに​対する​限界、​つまり​人間に​固有な​限界を​いま問題に​する​つもりは​ありません。​そうではなくて、​日々の​生活に​おける​無分別な​行為や​種々の​失敗、​避け得たであろうに​避ける​努力を​せずに​犯した​過ちに​ついて​考えたいと​思います。​私たちは​絶えず​自分の​無能を​思い知らされます。​そして​時には、​これら​すべてが​同時に、​しかも​あまりにも​明らかに​見えるので、​自分の​無能に​打ちの​めされてしまいます。​どう​すれば​よいのでしょうか。

​ 「主に​希望しなさい」1。​教会が​教えるように​愛と​信仰と​希望を​もって​生きる​ことです。​「雄々しく​振舞い​なさい」2。​神に​希望を​おいているなら、​私たちが​土くれであったとしてもかまわないでは​ありませんか。​万一、​罪を​犯し、​内的生活に​頓座を​来たすような​ことが​あれば、​日常生活で​身体の​健康回復の​ために​用いるような​手段を​講じなければなりません。​そして、​再び歩み始めるのです。

聖書への参照
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