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愛の​誓いを​立てた​限り、​神を​愛する​人に​相応しく​振る​舞わなければなりません。​「あらゆる​場合に​神に​仕える​者と​して​その​実を​示しています」19。​私たちは、​何事に​おいても​神の​奉仕者に​適った​行動を​しなければなりません。​主の​お望みに​なるように​自己を​委ねれば、​専門職や​仕事、​また​大小さまざまな​人間的な​事柄を​神的な​値打ちの​ある​ものに​変えようとする​努力に​おいても、​主の​働きが​顕れる​ことでしょう。​神の​愛が​あれば、​すべては、​新しい​次元、​新しい​意味を​持ってくるからなのです。

​ しかし、​神に​仕える​ことは​容易な​仕事ではない​ことを、​今年の​四旬節にも​忘れたく​ありません。​今週の​日曜日の​ごミサで​朗読される​聖パウロの​書簡を​黙想し、​なぜ​それが​容易な​ことではないのかを​思い出してみましょう。​「大いなる​忍耐を​もって、​苦難、​欠乏、​行き詰まり、​鞭打ち、​監禁、​暴動、​労苦、​不眠、​飢餓に​おいても、​純真、​知識、​寛容、​親切、​聖霊、​偽りの​ない愛、​真理の​言葉、​神の​力に​よって​(…)」20。

​ どのような​状況に​あっても、​一生を​通して​主が​私たちと​一緒に​おられる​こと、​私たちは​神の​子である​ことを​自覚しつつ、​神の​僕に​相応しい​振舞いを​しなければなりません。​生命の​中に​神的な​根が​接木されている​ことを​よく​自覚し、​その​自覚に​基づいた​生活態度を​保つ必要が​あるのです。

​ 聖パウロの​言葉を​聞くと​喜びに​満たされます。​この​世の​直中で、​同僚を​はじめ多くの​人々と、​仕事の​労苦や​喜びを​分かち合いつつ生活する​キリスト信者の​召し出しを、​聖パウロの​言葉は、​いわば​列聖しているからです。​どのような​ことであっても​すべて​神へ​至る​道と​なるのです。​いつも​神の​子らしく、​神の​僕らしく​働くようにと神は​お望みに​なります。

​ しかし​本当に​生活を​一新し自己を​依託しないなら、​日常生活​その​ものが​神的な​道に​なる​ことは​ないのです。​聖パウロは​厳しい​言葉で​警告しています。​キリスト信者の​生活は​難しく​危険に​満ちている、​従って、​いつも​緊張した​生活を​送らなければならない、と。​ところが、​キリスト教を​安易安直な​道にしようとしたが​ために、​人々は​キリスト教その​ものを​歪めてしまったのです。​しかし​その​反対に、​人生に​付き物の​障害を​身に​しみて​感じつつ​生きる​信者の​深く​真剣な​生活が、​苦悩と​圧迫と​恐れに​満ちた​ものであると​考えるなら、​これも​また、​真実を​曲げる​ことになります。

​ キリスト信者は​現実主義者であるべきです。​しかし、​超自然的であると​同時に​人間的な​現実主義であって、​苦痛と​喜び、​自他の​苦しみ、​自信と​困惑、​寛大な​心と​利己主義への​傾きなどの​生活の​綾、​生活の​色々な​微妙な​変化を​よく​自覚していなければなりません。​キリスト信者は、​不屈の​魂と​神から​いただいた​剛毅に​支えられて、​すべてを​知り、​すべてに​対処すべきなのです。

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