神の子の改心

1952年3月2日 四旬節第一主日


痛悔と​浄化、​それに​改心の​時である​四旬節が​始まりました。​しかし、​四旬節の​目標は​容易に​実現できるわけでは​ありません。​キリスト教は​安逸を​むさぼる​道では​ありませんから、​歳月の​経つに​任せるだけでは​教会の​一員と​して​満足できる​状態とは​言えないのです。​キリスト信者の​一生の​うち、​最初の​改心には​計り知れない​意義が​あります。​その​一度​限りの​最初の​改心の​とき、​主の​お望みに​なることが​すべてはっきりと​わかった​ことを​憶えていらっしゃるでしょう。​けれども、​最初の​改心よりも、​もっと​大切でもっと​難しい​仕事が​あるのです。​それは​つまり、​連続的な​改心の​ことです。​相続く​改心に​おいて​神の​恩恵が​与えられますが、​その​恩恵の​働きを​容易に​する​ためには、​若々しい​心を​維持し、​主のみ​名を​お呼びし、​主の​仰せに​耳を​傾け、​自己の​過ちを​発見し、​主に​赦しを​願うことが​必要と​なります。

​ 日曜日の​典礼を​通して​主が​告げておられます。​「彼が​わたしを​呼び求める​とき、​彼に​答え」1ようと。​主は​こんなにも​私たちの​ことを​思っていてくださるのです。​常に​耳を​傾け、​私たちの​話しかけを​待っていてくださいます。​「打ち砕かれ悔いる​心」2で​お願い​すれば、​時を​選ばずいつも​聞き入れてくださるのです。​そして​私たちの​心の​中に​自己を​浄化する​決意が​できている​今こそ、​その​時なのではないでしょうか。

​ 主は​願いを​お聞き​入れに​なりますが、​それは、​交流を​求めて​私たちの​生活に​入り込み、​私たちを​悪から​解放し、​善で​満たしてくださる​ためなのです。​主が​「彼と​共に​いて​助け、​彼に​名誉を​与えよう」3と​言われる​ときの​「彼」とは​私たちの​ことなのです。​そこで​私たちは​誉れを​受ける​希望に​満たされ、​誉れに​向かう​道、​つまり​内的生活への​第一歩を​踏みだすことになります。​なぜなら、​栄光への​希望の​おかげで​信仰は​強められ、​愛徳が​刺激され、​その​結果、​私たちを​父である​神の​似姿に​する​対神徳を​実行する​ことに​なるからなのです。

​ これ以上に​よい​四旬節の​迎え方が​あるでしょうか。​再び信仰と​希望と​愛の​徳の​実行に​励みましょう。​信・望・愛の​三徳こそ​痛悔の​心と​浄化の​望みの​源であるからです。​四旬節とは​今迄以上に​寛大な​犠牲の​実行に​励むだけの​機会では​ありません。​もし外的に​犠牲を​実行する​ことだけが​四旬節の​目的であると​考えてしまうと、​キリスト信者の​生活に​おける​四旬節の​深い​意味を​見逃してしまうことになります。​外部に​表れる​行いは​信仰と​希望と​愛の​徳の​結実であるべきですから。

キリスト者の​冒険

 ​「いと​高き神のもとに​身を​寄せて​隠れ、​全能の​神の​陰に​宿る」4。​神の​ご保護のもとに​住み、​神と​共に​生きる​こと ― これは​キリスト信者の​冒険なのです。​神が​耳を​傾けてくださる​こと、​私たちが​近寄るのを​待ちかねておられる​ことを​固く​信じなければなりません。​そう​すれば​心が​平安に​満たされる​ことでしょう。​しかし、​神と​共に​生きようと​すれば、​ある​種の​危険を​冒さなければなりません。​神は​部分だけでは​満足なさらず、​すべてを​要求なさるからです。​もう​少しでも​神に​近づきたいと​思えば、​改心して​再び​自らを​正し、​心に​芽生える​聖なる​望みと​神の​勧めに​もっと​注意して​聞き​入り、​実行する​覚悟を​持たなければなりません。

​ キリストの​教えを​すべて​完全に​実行しようと、​初めて​決意を​固めてから​今日まで、​主のみ​言葉に​忠実に​従う​道に​かなり​深く​分け​入った​ことでしょう。​しかし、​まだ​取り組むべきことがたくさん​残っている​ことも​確かではないでしょうか。​特に、​高慢な​心が​幅を​利かせているのではないでしょうか。​利己主義が​影を​ひそめ、​私たちの​内に​キリストが​成長できる​ためには、​再び生活を​一新し、​より​完全・​忠実に、​また、​より​深い​謙遜を​身に​つける​決意が​何にもまして​必要なのです。​「あの​方は​栄え、​わたしは​衰えねばならない」​5からです。

​ 歩みを​止めるわけには​いきません。​聖パウロが​示す目標に​向かって​前進しなければならないのです。​「生きているのは、もは​やわたしでは​ありません。​キリストが​わたしの​内に​生きておられるのです」6。​それは、​キリストと​一致し、​聖性に​達すると​いう​高く​高貴な​目標の​ことなのです。​洗礼の​秘跡に​おいて​心の​中に​生まれた​この​神的な​生命に​相応しい​道は​これ以外には​ありません。​前進と​は​聖性に​進歩する​ことであって、​信仰生活の​正常な​成長を​妨げれば​後退を​意味します。​神の​愛と​いう​火が​日毎に​成長し心に​燃え​上がる​ためには、​燃料の​補給が​必要なのです。​新たな​火種を​加えていってこそ、​火を​絶や​す​ことなく​維持できるのです。​少しずつ火を​大きくする​努力を​続けないと、​神の​愛は​消えてしまう​ことでしょう。

​ 聖アウグスチヌスの​次の​言葉を​考えてみましょう。​「もう​十分だ、​と​言えば、​あなたは​下り坂に​いる。​常に​前方を​見よ。​常に​歩め。​常に​前進せよ。​同じ​ところに​留まってはならない。​後退してはならない。​横道に​逸れてはならない」7。

​ 四旬節を​迎えた​私たちは、​次のような​根本的な​質問に​答えなければなりません。​「キリストに​対してより​忠実に​なっていますか」、​「聖人に​なる​望みは​強まってきましたか」、​「日常生活・仕事・隣人愛に​おいて​使徒職への​熱意は​大きくなってきましたか」。

​ 言葉に​表す必要は​ありません。​各自この​問い​かけに​答えを​出してみれば、​キリストが​心の​中に​お住まいに​なることができる​ために、​そして​私たちの​行いに​キリストの​像が​くっきりと​映し出される​ために、​新たな​変化の​必要な​ことがわかるでしょう。

​ ​「わたしに​ついて​来たい者は、​自分を​捨て、​日々、​自分の​十字架を​背負って、​わたしに​従いなさい」8。​キリストは​またまた​語りかけておられます。​日々の​十字架だと​耳もとで​囁いておられるのです。​「迫害の​時代や​殉教の​可能性の​ある​時代だけでなく、​どんな​事情のもとに​あっても、​どんな​仕事を​し、​何を​考えていても、​何を​言っている​時でも、​古き姿を​捨てて​現在の​私たちを​宣言しよう。​私たちは​キリストに​おいて​生まれ変わったのである」9と​聖イエロニモは​書いています。

​ 聖パウロも​同じ​ことを​言っています。​「あなたがたは、​以前には​暗闇でしたが、​今は​主に​結ばれて、​光と​なっています。​光の​子と​して​歩みなさい。​― 光から、​あらゆる​善意と​正義と​真実とが​生じるのです。​― 何が​主に​喜ばれるかを​吟味しなさい」10。

​ 改心は​一瞬の​問題ですが、​聖化は​全生涯に​わたる​事業です。​神が​心の​内に​蒔いてくださった​愛の​種が​成長し、​行いの​実を​結ぶ​ことを​主は​望んで​おられます。​私たちも​いつも​主の​お喜びに​なる​実を​結びたいと​願っています。​ですから、​何度も​再出発を​試み、​私たちの​生活に​新たな​場面が​登場する​毎に、​あの​最初の​改心の​時の​力と​光を​再び自分の​ものに​する​覚悟が​不可欠と​なるのです。​こう​考えてくると、​さらに​深く​主を​知り、​自己の​ありのままの​姿を​さらに​よく​自覚する​ためには、​主に​援助を​願い、​深い​自己反省に​よって​自己を​整える​必要の​ある​ことが​理解できると​思います。​生活を​一新しようと​思えば​これ以外に​道は​ないのです。

今は​好機

 ​あなた方が​心の​扉を​閉ざさない​限り、​この​四旬節の​間に​神は​心を​恩恵で​満たしてくださいますから、​「神から​いただいた​恵みを​無駄に​してはいけません」​11と​あなた方に​勧めます。​善い​心構えを​もち真摯な​気持ちで​生活を​改め、​神の​恩恵を​弄ぶことの​ないようにしなければならないのです。

​ キリスト信者を​動かすのは​キリストに​顕れた​神の​愛であり、​この​愛の​教えに​従って​私たちは​すべての​人・​全被​造物を​愛します。​ですから、​恐れに​ついて​話すのではなく、​責任感や​真剣な​態度に​ついて​話さなければならないと​思います。​聖パウロは、​「思い違いを​してはいけません。​神は、​人から​侮られる​ことは​ありません」​12と​警告しています。

​ 諺に​あるように、​大天使聖ミカエルと​悪魔の​双方にろう​そくを​灯すような​生活を​すべきでは​ありません。​悪魔の​ためのろう​そくを​消してしまわなければならないのです。​精根尽き果てるまで​挺身して​主に​奉仕しなければならないのです。​聖人に​なりたいと​いう​真剣な​望みを​持ち、​素直に​自分を​主のみ​腕に​委ねれば、​何もかも​巧く​いくはずです。​神は​いつも​恩恵を​与えようと​待ち構えておられますが、​四旬節中は、​私たちの​新たな​改心の​ため、​そして​キリスト信者と​しての​生活を​向上させる​ために​特に​多くの​恩恵を​与えてくださるのです。

​ 今年の​四旬節を​ただ典礼暦年の​一季節が​巡ってきただけだと​考えては​なりません。​神の​助けを​受け入れる​べき唯一無二の​時なのです。​イエスは​私たちの​傍を​〈お通り​〉に​なります。​そして​私た​ちが、​今日・今すぐに​生活を​改めるのを​待ち望んで​おられます。

​ ​「今や、​恵みの​時、​今こそ、​救いの​日」13。​今こそ​絶好の​機会、​救いの​日に​なり得ると​聖書は​教えています。​またまた​善き牧者の​愛に​満ちた​呼び声が​聞こえてきます。​「わたしは​あなたの名を​呼ぶ」​14。​私たち一人​ひとりを​名指しで​呼んで​おられます。​愛する​者同士が​使う親しみ深い​呼び名で​呼んで​おられるのです。​私たちに​向けられた​イエスの​優しい​愛は​言葉に​表すことなどできない​ほどです。

​ 素晴らしい​神の​愛に​ついて​一緒に​考えてみましょう。​主は、​わざわざ道の​途中まで​出迎えてくださいます。​私たちが主を​見過す​ことの​ないように​待っていてくださるのです。​そして、​一人​ひとりを​お呼びに​なり、​私たちに​関係の​ある​色々な​ことを​お話しに​なります。​私たちに​関係の​ある​ことは​主の​関心事でも​あるからです。​心を​揺さぶって​痛悔の​心を​促し、​心惜しみなく​自己を​与えるようにと力を​貸してくださいます。​そして​私たちの​心に、​忠実になろう、​主の​弟子と​称されるようになろうと​いう​希望を​芽生えさせてくださるのです。​愛情に​溢れた​叱責にも​似た​恩恵の​この​囁きに​気づきさえ​すれば、​自分の​罪が​原因と​なって​キリストを​見る​ことのできなかった​あの​時々の​ことを​すぐ​思い出すことができるでしょう。​キリストは​神の​御心の​中に​ある、​あの​尽きる​ことの​ない​愛を​もって​愛してくださるのです。

​ お聴きなさい。​また​繰り返しておられます。​「恵みの​時に、​わたしは​あなたの​願いを​聞き入れた。​救いの​日に、​わたしは​あなたを​助けた」15。​主は​あなたに​ご自分の​愛と​栄光を​約束され、​時が​来れば​お与えに​なります。​そして​今あなたを​呼んでいらっしゃいます。​では​主に​何を​差し上げましょう。​お通りに​なる​イエスの​愛に​どう​お応え​すれば​よいのでしょうか。

​ 「今は​救いの​時である」。​善き牧者の​呼び声が​届きます。​「わたしは​あなたの名を​呼ぶ」、​「愛には​愛を​返す」と​言われるように、​私たちも、​「お呼びに​なったので​参りました」16と​答えなければなりません。​岩の​表面を​素通りする​水のように、​四旬節が​私たちの​生活に​跡形も​残さずに​過ぎ去ってしまわないよう努力する​覚悟が​できております。​できるだけたくさんの​教えを​吸収し自己を​一新します。​心を​改め再び主に​向かって​話しかけます。​御身が​お望みに​なるように​御身を​お愛しします、と。

​ 「心を​尽くし、​精神を​尽くし、​思いを​尽くして、​あなたの神である​主を​愛しなさい」17。​「まだ​自分を​愛する​ために​心の​一部を​残しているのか。​あなたの​霊や​知恵を​まだ​自分の​ために​残しているのか。​『すべてを​尽くして』と​神は​仰せに​なる。​あなたを​お創りに​なった​御方は​あなたの​すべてを​お望みなのだ」​18。

愛の​誓いを​立てた​限り、​神を​愛する​人に​相応しく​振る​舞わなければなりません。​「あらゆる​場合に​神に​仕える​者と​して​その​実を​示しています」19。​私たちは、​何事に​おいても​神の​奉仕者に​適った​行動を​しなければなりません。​主の​お望みに​なるように​自己を​委ねれば、​専門職や​仕事、​また​大小さまざまな​人間的な​事柄を​神的な​値打ちの​ある​ものに​変えようとする​努力に​おいても、​主の​働きが​顕れる​ことでしょう。​神の​愛が​あれば、​すべては、​新しい​次元、​新しい​意味を​持ってくるからなのです。

​ しかし、​神に​仕える​ことは​容易な​仕事ではない​ことを、​今年の​四旬節にも​忘れたく​ありません。​今週の​日曜日の​ごミサで​朗読される​聖パウロの​書簡を​黙想し、​なぜ​それが​容易な​ことではないのかを​思い出してみましょう。​「大いなる​忍耐を​もって、​苦難、​欠乏、​行き詰まり、​鞭打ち、​監禁、​暴動、​労苦、​不眠、​飢餓に​おいても、​純真、​知識、​寛容、​親切、​聖霊、​偽りの​ない愛、​真理の​言葉、​神の​力に​よって​(…)」20。

​ どのような​状況に​あっても、​一生を​通して​主が​私たちと​一緒に​おられる​こと、​私たちは​神の​子である​ことを​自覚しつつ、​神の​僕に​相応しい​振舞いを​しなければなりません。​生命の​中に​神的な​根が​接木されている​ことを​よく​自覚し、​その​自覚に​基づいた​生活態度を​保つ必要が​あるのです。

​ 聖パウロの​言葉を​聞くと​喜びに​満たされます。​この​世の​直中で、​同僚を​はじめ多くの​人々と、​仕事の​労苦や​喜びを​分かち合いつつ生活する​キリスト信者の​召し出しを、​聖パウロの​言葉は、​いわば​列聖しているからです。​どのような​ことであっても​すべて​神へ​至る​道と​なるのです。​いつも​神の​子らしく、​神の​僕らしく​働くようにと神は​お望みに​なります。

​ しかし​本当に​生活を​一新し自己を​依託しないなら、​日常生活​その​ものが​神的な​道に​なる​ことは​ないのです。​聖パウロは​厳しい​言葉で​警告しています。​キリスト信者の​生活は​難しく​危険に​満ちている、​従って、​いつも​緊張した​生活を​送らなければならない、と。​ところが、​キリスト教を​安易安直な​道にしようとしたが​ために、​人々は​キリスト教その​ものを​歪めてしまったのです。​しかし​その​反対に、​人生に​付き物の​障害を​身に​しみて​感じつつ​生きる​信者の​深く​真剣な​生活が、​苦悩と​圧迫と​恐れに​満ちた​ものであると​考えるなら、​これも​また、​真実を​曲げる​ことになります。

​ キリスト信者は​現実主義者であるべきです。​しかし、​超自然的であると​同時に​人間的な​現実主義であって、​苦痛と​喜び、​自他の​苦しみ、​自信と​困惑、​寛大な​心と​利己主義への​傾きなどの​生活の​綾、​生活の​色々な​微妙な​変化を​よく​自覚していなければなりません。​キリスト信者は、​不屈の​魂と​神から​いただいた​剛毅に​支えられて、​すべてを​知り、​すべてに​対処すべきなのです。

キリストの​誘惑

 四旬節には、​イエスが​砂漠で​お過ごしに​なった​四十日を​記念します。​その​四十日は​十字架と​復活の​栄えに​おいて​頂点に​達する​主の​宣教生活の​準備であったのです。​祈りと​犠牲の​四十日が​終わると、​キリストの​誘惑21の​場面が​始まります。

​ 神が​悪魔の​誘惑を​受ける​ ― これは​人間には​理解できない​神秘に​満ちた​場面です。​しかし、​そこに​含まれる​教えを​悟る​ことができるように​お助けくださいと​主に​願いつつ黙想する​ことは​可能でしょう。

​ イエス・キリスト、​誘惑を​受ける。​聖伝の​解釈に​よれば、​主は​すべてに​おいて​私たちの​模範と​なる​ために、​敢えて​誘惑を​お受けに​なりました。​キリストは​罪以外に​おいて​私たちと​同じ​人となられた​22のです。​多分、​雑草と​木の​根と​わずかな​水だけを​糧とした​四十日間の​断食の​後で、​イエスは​空腹を​感じられました。​生きる​ものなら​感じる​空腹を​実際に​感じられたのです。​悪魔が​石ころを​食物に​変えろ、​と​言い​寄った​とき、​主は​ご自分の​体が​必要と​する​食事を​おとりに​ならないだけでなく、​それよりはるかに​大きな​唆しを​拒否なさいました。​個人的な​問題を​解決する​ために​神の​力を​使う​ことを​拒絶な​さったのです。

​ 福音書を​読めば​気づく​ことですが、​イエスは​ご自分の​利益の​ために​奇跡を​なさった​ことは​ありませんでした。​水を​ぶどう​酒に​お変えに​なったのも、​カナの​新郎新婦の​ためだったのです23。​パンと​魚を​増やされた​ときも、​空腹を​かかえた​群衆の​ためだったのです24。​長い​間ご自分の​働きで​毎日の​糧を​得ておられました。​ずっと​後に​なって、​イスラエルの​地を​巡り歩かれた​時に​初めて​ご自分に​従う​者たちの​援助を​お受けに​なったのです25。

​ 聖ヨハネは​次のような​場面を​書き記しています。​イエスは​長い​道のりを​歩いた後で​シカルの​井戸に​お着きに​なりました。​食物を​買う​ために​弟子を​村に​遣わされましたが、​サマリアの​女が​近づくのを​ご覧に​なり、​水を​所望されました。​水を​汲むものを​持っておられなかったからです26。​長旅に​疲れを​感じられた​ことも​あり、​元気を​回復する​ために​眠りに​つかれた​こともありました​27。​自らを​卑しくし、​人間の​条件を​一つ​残らず​お受け​入れに​なった​寛大な​主は、​困難や​努力を​避ける​ために​神と​して​有しておられる​力を​利用なさるような​ことは​なかったのです。​人間と​しての​ご自分の​模範を​示して、​私たちが​強く​逞しくなり、​仕事を​愛するよう​教えておられるのです。​神に​自己を​委ねたのであれば、​人間的であると​同時に​神的な​高貴な​心を​大切にし、​依託の​結果と​して​要求される​ことを​も​すべて​受け入れなさい、と​教えておられるのです。

​ 二つ目の​誘惑で​悪魔が​神殿の​頂上から​身を​投げるように​言った​ときも、​主は​神と​しての​力を​使う​ことを​拒否なさいました。​キリストは​虚栄心の​満足や​華麗な​ことは​お求めに​なりません。​自分が​優れている​ことを​示すために​神を​引き合いに​出すと​いう​人間に​ありがちな​喜劇を​演じる​こともありません。​イエス・キリストは​御父のみ​旨を​果た​そうと​望んで​おられます。​しかも​時を​早めたり、​奇跡の​時を​繰り上げたりせずに、​辛い​人間の​道、​十字架に​向かう​愛すべき道を​一歩​一歩​踏みしめる​ことに​よって​御父のみ​旨を​果た​そうと​思っておられるのです。

​ 三つ目の​誘惑にも​よく​似た​ことが​見られます。​悪魔は​王国と​権力と​栄光を​提供します。​悪魔は、​神に​のみ​帰すべき礼拝を、​人間的な​野心にまで​向けさせようとするのです。​つまり、​悪魔は​自分の​前に​ひざまずいて​礼拝する​者や​偶像の​前に​ひざまずく​者どもに​安易な​生活を​約束するのです。​しかし​主は、​唯一に​して真である​崇拝の​対象は​神である​ことを​明言し、​また​ご自分が​奉仕する​意志を​持っている​ことを​はっきりさせる​ために​仰せに​なりました。​「退け、​サタン。​『あなたの神である​主を​拝み、​ただ主に​仕えよ』と​書いてある」28。

イエスの​この​態度に​倣わなければなりません。​生涯を​通して、​ご自分に​属する​光栄さえ​拒否されたのです。​神に​相応しい​待遇を​受ける​権利を​持っておられたにも​拘わらず、​奴隷の​姿・僕の​姿を​おとりに​なりました​29。​ですから、​キリスト信者は​すべての​光栄を​神に​帰すべきことを​知るのです。​また、​崇高に​して​偉大な​福音を、​人間的な​利益を​得たり、​野望を​遂げたりする​ための​道具と​すべきではないことが​よく​理解できるのです。

​ イエスから​学びましょう。​すべての​人間的光栄に​真っ向から​反対する​ときの​イエスの​態度は、​人類の​救済の​ために​託身された​神の​愛子の​偉大な​使命と​深い​関係が​あります。​「お前は​わたしの​子、​今日、​わたしは​お前を​生んだ。​求めよ。​わたしは​国々を​お前の​嗣業とし、​地の​果てまで、​お前の​領土と​する」30。​御父は​使命を​成就させる​ために​あらゆる​配慮を​してくださるのです。

​ キリストに​従って​完全に​神を​礼拝する​生活を​送れば、​私たちも​主の​優しい​言葉を​受ける​ことでしょう。​「彼は​わたしを​慕う​者だから、​彼を​災いから​逃れさせよう。​わたしの​名を​知る​者だから、​彼を​高く​上げよう」31。

イエスは​闇の​帝王である​悪魔を​退けられました。​すると​直ちに​光が​現れたのです。​「そこで、​悪魔は​離れ去った。​すると、​天使たちが​来て​イエスに​仕えた」32。​イエスは​試練に​耐えられました。​聖アンブロジウスが​説明するように、​主は​神と​して​有する​力を​使う​ことなく、​人と​して​私たちと​同じ​手段を​講じて​勝利を​得られました。​それゆえ、​イエスの​お受けに​なった​誘惑は​正真正銘の​誘惑だったのです。​もし主が​神の​力を​使って​誘惑に​打ち​勝ったと​すれば、​それは​私たちの​模範には​ならなかった​ことでしょう​33。

​ 腹黒い​悪魔は、​旧約聖書を、​歪んだ​意向で​引用しました。​「主は​あなたの​ために、​御使いに​命じてあなたの​道の​どこに​おいても​守らせてくださる」34と。​しかし​イエスは​御父を​試みる​誘惑を​退け、​聖書の​章句の​真の​意味を​お示しに​なります。​そして​時が​くると、​忠誠を​守った​イエスに​報いる​ために​御父のみ​使いが​仕えに​来たのです。

​ 主イエス・キリストを​試みる​ために​悪魔が​とった​方​法に​ついて​考える​必要が​あります。​彼は​聖書を​援用するのですが、​冒涜と​思われる​ほどに​意味を​歪曲するのです。​しかし​イエスを​欺く​ことは​できません。​託身された​み言葉は、​人間の​救いの​ために​書き記された​神のみ​言葉に​精通しておられます。​ですから、​愛に​よって​キリストに​一致する​人なら​聖書の​内容が​不当に​操作されている​ことに​すぐ​気づくはずです。​悪魔は​光を​闇に​変じようと​試みます。​つまり、​神が​お使いに​なる​言葉を​使いながら、​欺瞞に​満ちた​解釈を​加え、​キリスト信者の​良心を​混乱に​陥れようとするのが​悪魔の​常套手段なのです。​しかし​私たちは​そのような​手段を​十分​承知しています。

​ 今少し、​イエスの​生活に​介入した天使に​ついて​考えてみましょう。​そう​すれば、​人間の​生活に​おける​天使の​役割や​その​使命に​ついて、​さらに​深く​理解できる​ことでしょう。​教会の​聖伝に​よると、​守護の​天使は​私たちの​頼りがいの​ある友である​ことが​わかります。​人々の​伴侶と​して​神が​守護の​天使を​お与えくださったのです。​ですから​守護の​天使との​交流を​保ち、​助けを​得るようにしなければなりません。

​ 四旬節を​迎えた​私たちは、​自分が​浄化を​必要と​する​哀れな​罪人である​ことを​悟りますが、​教会は​キリストの​生涯を​黙想させ、​四旬節は​同時に​喜びの​季節であると​教えます。​四旬節は​剛毅の​時であると​共に​喜びの​時であり、​神は​常に​傍に​いてくださるので​主の​恩恵の​欠ける​ことは​ありません。​また、​「彼ら​(み​使い)は​あなたを​その​手にのせて​運び、​足が​石に​当たらないように​守る」35と​詩編に​歌われる​通り、​旅を​続ける​人間の​良き忠告者・伴侶と​して、​さらに​私たちの​興す事業の​協力者と​して天使まで​遣わしてくださるのですから、​私たちは​勇気に​満たされる​ことでしょう。

​ 守護の​天使と​交わるよう​努めなければなりません。​今、​天使に​話しかけてみましょう。​四旬節の​超自然の​水は​私の​魂を​素通りしませんでした。​痛悔の​心を​持っているので、​心の​奥底まで​届きました、と。​堆肥場に​咲いた​一輪の​百合の​花のように、​恩恵の​おかげで​私たちの​惨めさの​さなかに​芽生えた​この​よい​心構えを、​主のみ​許まで​運んでくださる​よう​願いましょう。​「大天使聖ミカエル、​戦いに​おいて​我らを​守り、​悪魔の​凶悪なる​謀計に​勝たしめ給え。​天主の​彼に​命を​下し給わんことを​伏して​願いたて​まつる。​ああ天軍の​総帥、​霊魂を​そこな​わんとて​この​世を​徘徊する​サタンおよび​その​他の​悪魔を、​天主の​御力に​よって​地獄に​閉じ込め給え」36。

神との​父子関係

​ 戦いに​臨んでも​死ぬことはないと​信じ、​信頼に​満ちた​祈りが​できるのは​なぜでしょうか。​それは、​いくら感嘆しても​感嘆し尽くせない​現実、​つまり​私たちと​神との​親子関係から​生まれる​確信の​おかげなのです。​この​四旬節に​改心を​望んで​おられるのは​私たちの​父であって、​独裁的な​支配者でも、​厳格で​無慈悲な​裁判官でもありません。​私たちの​寛大さに​欠けた​態度や​罪や​過ちを​指摘なさいます。​しかし​そうなさるのは、​罪や​過ちから​私たちを​解放し、​私たちを​神の​友情と​愛に​相応しい​ものとする​ためなのです。​神の​子である​ことが​自覚できれば、​喜んで​改心できるはずです。​改心とは​御父の​住まいに​立ち返る​ことですから。

​ 神の​子である​ことを​自覚する​ことこそ​オプス・​デイの​精神の​基礎であります。​人間は​みな神の​子ですが、​子の​父に​対する​態度には​色々​あります。​主は​私たちに​子に​対する​愛を​示し、​ご自分の​家、​この​世の​中で​生活する​ご自分の​家族の​一員に​してくださいました。​また、​主の​ものを​私たちの​ものに、​私たちの​ものを​主の​ものとし、​私たちが、​月を​欲しがる​子どものように​親しみを​込めて、​信頼しきって​願い​求める​ことができるようにも​してくださいました。

​ 神の​子であるなら、​子が​父に​対するように​神に​近づきます。​主に​対しては、​奴隷のような​接し方​でも、​形だけの​儀礼的な​尊敬を​示すのでもなく、​誠実で​信頼心に​溢れた​態度を​とらなければならないのです。​神は​私たちの​ことを​呆れ果てた奴だと​憤慨なさる​ことは​ありません。​私たちの​度重なる​不忠実な​行いに​うんざりなさる​こともありません。​天に​おられる​私たちの​父は、​どのような​侮辱を​受けても、​私たちが​痛悔の​心を​もち、​赦しを​求めて​立ち帰る​限り赦してくださるのです。​私たちの​赦しを​得たいと​望む心を​主は​予め知っておられ、​自ら​進んで​腕を​ひろげ恩恵を​与えてくださる​ほど​慈悲深い​御父なのです。

​ 天に​おられる​私たちの​父の​愛を​教える​ために、​神の​御子が​話してくださった​放蕩息子37のたとえを​思い出してみれば、​私が​別に​新奇な​ことを​言っているのではないことが​おわかりに​なるでしょう。

​ 「まだ​遠く​離れていたのに、​父親は​息子を​見つけて、​憐れに​思い、​走り​寄って​首を​抱き、​接吻した」38。​これは​主の​言葉なのです。​首を​抱いてくちづけを​浴びせたと​書いてあります。​いとおしくて​仕方が​なかったのです。​これ以上​人間味に​溢れた​話し方が​できるでしょうか。​御父である​神が​私たちに​対して​抱く​愛を​これ以上​生き​生きと​描写する​ことは​できないでしょう。

​ 私たちの​方​へ​走り​寄ってきてくださる​神を​前に​して​口を​つぐんでいるわけには​いきません。​聖パウロと​共に、​「アッバ、​父よ」​39と​呼びかけましょう。​宇宙の​創造主では​あるが、​立派な​称号で​呼ばれ、​その​主権に​敬意を​払って​欲しいとは​お思いに​ならないのです。​父と​呼ばれたい、​この​呼び名を​かみしめて​味わって​欲しい、​お前たちに​喜びを​与えたい、と​言ってくださるのです。

​ 人間の​一生とは、​ある​意味で、​何度も​御父のもとに​立ち戻る​ことだと​言えます。​新たに​生活を​立て直すと​いう​固い​決心と​痛悔の​心を​もって、​主の​お住まいに​立ち戻る​ことなのです。​そして​その​決心は​犠牲と​依託に​表れるはずです。​罪を​告白して​赦しを​受け、​キリストを​着る​ことのできるゆる​しの​秘跡を​通して​御父のもとに​帰り、​キリストの​兄弟・神の​家族の​一員と​なるのです。

​ 私たちには​そんなに​していただく​値打ちは​ないのですが、​放蕩息子の​父のように、​神が​大喜びで​迎え​入れてくださるのです。​心を​打ち明けて​御父の​家を​なつかしく​思慕するだけで​よいのです。​恩知らずの​私たちであるのに​本当に​ご自分の​子に​してくださった​神の​賜物に​驚き、​喜びさえ​すれば​よいのです。

ところで​人間とは​異な​もので、​こんなに​素晴らしい​ことも​忘れ去り、​これほどの​秘義にも​慣れてしまいます。​この​四旬節を​機会に、​キリスト信者である​限り浅薄な​生活を​送る​ことは​できないのだと​肝に​銘じたい​ものです。​人々と​同じく​仕事に​没頭し、​夢中に​なり、​緊張した​毎日を​送る​キリスト信者は、​同時に​神にも​夢中に​ならなければならないのです。​私たちは​神の​子なのですから。

​ 神との​親子関係は​喜びに​満ちた​真理であり、​慰めに​満ちた​秘義です。​この​関係は​私たちの​霊的生活全般に​大きな​影響を​与えます。​神の​子である​ことを​自覚する​ことに​よって​天の​御父に​近づき、​御父を​よく​知り、​愛する​ことができ、​従って、​内的な​戦いにも​希望が​湧き、​幼い​子どものように​単純で​素直で​信頼に​満ちた​心を​持つことができるようになるからです。​しかも、​神の​子である​ことを​自覚すれば、​創造主に​して父である​神の​御手から​出た​全被​造物を、​愛と​感嘆を​もって​眺める​ことができる​ことでしょう。​そして、​社会に​いながら世を​愛しつつ観想生活を​送る​ことが​可能に​なるのです。

​ 四旬節の​典礼は、​私たちが​有する​アダムの​罪の​結果を​思い出させます。​アダムは​神の​子に​相応しく​振る​舞わず、​神に​逆らったのです。​しかし、​同時に​全教会が​復活祭の​前夜に​喜び歌う​あの​「幸いな​罪よ」​40と​いう​歌も​聞こえてきます。

​ 時が​満ちると、​神は​御独り子を​お遣わしに​なりました。​それは、​人間に​平和を​もたらし罪から​解放して​「わたしたちを​神の​子となさる​ため」​41だったのです。​私たちを​神の​子とし、​罪の​く​びきから​解放して​聖三位一体の​ご生活に​参与させる​ためだったのです。​そして、​神の​子と​なった​新しき人に​力が​与えられた​結果​42、​神と​和睦させて​43くださった​キリストのもとに​すべてを​集め44、​被造界全体に​秩序を​回復すると​いう​大事業が​可能に​なりました。

​ 今こそ​痛悔の​心を​起こさなければなりません。​しかしすでに​見たように、​痛悔とは​否定的な​ことを​意味しているのでは​ありません。​キリストが​与えてくださった​45神の​子の​精神を​もって​四旬節を​過ごさな​ければならないのです。​主は、​私たちが神に​似た者と​なる​希望を​もって​近づくように​呼んでくださいます。​「あなたがたは​神に​愛されている​子供ですから、​神に​倣う​者と​なりなさい」​46、​そして、​破壊された​ものを​修復し、​失われた​ものを​回復し、​罪深い​人間が​乱した​秩序を​取り戻し、​道から​逸れた​者を​目的地まで​導き、​全被​造物の​間にもとの​調和・神的な​調和を​取り戻す神のみ​業に​謙遜な​心でしかも​熱心に​協力しなさい、と。

人間が​神から​離れた​状態を​黙想させる​四旬節の​典礼は、​時と​して​悲痛な​調子を​帯びてきます。​しかし、​この​悲劇的な​調子は​四旬節の​結論では​ありません。​結びの​言葉は​神が​述べられます。​そして、​その​言葉とは​救い主の​愛と​慈悲の​言葉、​従って、​神と​私たちの​親子関係を​確認する​言葉なのです。​それゆえ、​今日、​聖ヨハネの​言葉を​繰り返してみましょう。​「御父が​どれほどわたしたちを​愛してくださるか、​考えなさい。​それは、​わたしたちが神の​子と​呼ばれる​ほどで、​事実また、​そのとおりです。​世が​わたしたちを​知らないのは、​御父を​知らなかったからです」47。​私たちは、​「言の​内に​命が​あった。​命は​人間を​照らす光であった」​48と​書かれている​その​託身した​神の​御子の​兄弟・神の​子と​なったのです。

​ そろそろ​結びに​して​ごミサを​続けなければなりません。​皆さんの​一人​ひとりが​感謝の​祈りを​捧げ、​主の​お望みは​何か、​どのような​決心、​どのような​心構えを​せよとお望みなのかを​考えなければなりません。​自己を​委ね、​内的戦いに​赴くと​いう​超​自然的であると​同時に​人間的な​義務に​目覚めた​あなたに、​キリストこそ​私たちの​模範である​ことを​思い出していただきたいのです。​イエスは​神でありながら​誘惑を​お受けに​なったのですが、​それは​私たちが​勇気を​奮い​起こして、​勝利を​確信しつつ戦う​ことができる​ためだったのです。​イエス・キリストが​負け戦を​なさる​ことは​ありません。​彼と​一緒に​戦えば、​敗北者に​なる​どころか​いつも​勝利者に、​つまり神のみ​旨にかなう子と​なる​ことができるのです。

​ 喜びの​日々を​過ごしたい​ものです。​四旬節の​典礼に​従って​良心の​糾明を​し、​自分の​生活を​省みる​とき、​満足できる​状態ではないことがわかるのですが、​それでも​私は​喜びで​一杯です。​なぜなら​主が​私を​再び捜し求めてくださっている​こと、​主は​今も​私の​父である​ことが​わかったからなのです。​恩恵の​光と​恩恵の​助けに​よって、​何を​焼き尽く​すべきか、​何を​引き抜くべきかを​見極め、​その​すべてを​焼き尽くし捨てなければなりません。​まだ主に​差し上げていない​ものは​何かを​見極め、​未練を​残さず​捧げ尽くさなければならないのです。

​ 簡単な​仕事では​ありませんが、​はっきりと​した​道標を​頼りに​する​ことができる​上に、​私たちは​神に​愛されているのですから、​私たちの​内に​お働きに​なる​聖霊の​なさる​ままに​任せ、​自己を​浄化しましょう。​そう​すれば、​十字架上の​神の​御子を​抱き、​キリストと​共に​復活する​ことができる​ことでしょう。​十字架を​通れば​復活の​喜びに​あずかる​ことができるからです。

​ 私たちの​母おとめマリア、​キリスト信者の​助け、​罪人の​拠り所、​あなたの​取次ぎに​よって、​御子が​聖霊を​送ってくださいますように。​また​力強い​歩みを​続ける​決心が​私たちの​心に​生まれ、​初代教会の​殉教者の​心に​平安を​与えた​あの​呼びかけが​心の​奥底に​響きわたりますように。​「戻れ。​御父が​お前を​待っておられる」49。

この章を他の言語で