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神との​父子関係

​ 戦いに​臨んでも​死ぬことはないと​信じ、​信頼に​満ちた​祈りが​できるのは​なぜでしょうか。​それは、​いくら感嘆しても​感嘆し尽くせない​現実、​つまり​私たちと​神との​親子関係から​生まれる​確信の​おかげなのです。​この​四旬節に​改心を​望んで​おられるのは​私たちの​父であって、​独裁的な​支配者でも、​厳格で​無慈悲な​裁判官でもありません。​私たちの​寛大さに​欠けた​態度や​罪や​過ちを​指摘なさいます。​しかし​そうなさるのは、​罪や​過ちから​私たちを​解放し、​私たちを​神の​友情と​愛に​相応しい​ものとする​ためなのです。​神の​子である​ことが​自覚できれば、​喜んで​改心できるはずです。​改心とは​御父の​住まいに​立ち返る​ことですから。

​ 神の​子である​ことを​自覚する​ことこそ​オプス・​デイの​精神の​基礎であります。​人間は​みな神の​子ですが、​子の​父に​対する​態度には​色々​あります。​主は​私たちに​子に​対する​愛を​示し、​ご自分の​家、​この​世の​中で​生活する​ご自分の​家族の​一員に​してくださいました。​また、​主の​ものを​私たちの​ものに、​私たちの​ものを​主の​ものとし、​私たちが、​月を​欲しがる​子どものように​親しみを​込めて、​信頼しきって​願い​求める​ことができるようにも​してくださいました。

​ 神の​子であるなら、​子が​父に​対するように​神に​近づきます。​主に​対しては、​奴隷のような​接し方​でも、​形だけの​儀礼的な​尊敬を​示すのでもなく、​誠実で​信頼心に​溢れた​態度を​とらなければならないのです。​神は​私たちの​ことを​呆れ果てた奴だと​憤慨なさる​ことは​ありません。​私たちの​度重なる​不忠実な​行いに​うんざりなさる​こともありません。​天に​おられる​私たちの​父は、​どのような​侮辱を​受けても、​私たちが​痛悔の​心を​もち、​赦しを​求めて​立ち帰る​限り赦してくださるのです。​私たちの​赦しを​得たいと​望む心を​主は​予め知っておられ、​自ら​進んで​腕を​ひろげ恩恵を​与えてくださる​ほど​慈悲深い​御父なのです。

​ 天に​おられる​私たちの​父の​愛を​教える​ために、​神の​御子が​話してくださった​放蕩息子37のたとえを​思い出してみれば、​私が​別に​新奇な​ことを​言っているのではないことが​おわかりに​なるでしょう。

​ 「まだ​遠く​離れていたのに、​父親は​息子を​見つけて、​憐れに​思い、​走り​寄って​首を​抱き、​接吻した」38。​これは​主の​言葉なのです。​首を​抱いてくちづけを​浴びせたと​書いてあります。​いとおしくて​仕方が​なかったのです。​これ以上​人間味に​溢れた​話し方が​できるでしょうか。​御父である​神が​私たちに​対して​抱く​愛を​これ以上​生き​生きと​描写する​ことは​できないでしょう。

​ 私たちの​方​へ​走り​寄ってきてくださる​神を​前に​して​口を​つぐんでいるわけには​いきません。​聖パウロと​共に、​「アッバ、​父よ」​39と​呼びかけましょう。​宇宙の​創造主では​あるが、​立派な​称号で​呼ばれ、​その​主権に​敬意を​払って​欲しいとは​お思いに​ならないのです。​父と​呼ばれたい、​この​呼び名を​かみしめて​味わって​欲しい、​お前たちに​喜びを​与えたい、と​言ってくださるのです。

​ 人間の​一生とは、​ある​意味で、​何度も​御父のもとに​立ち戻る​ことだと​言えます。​新たに​生活を​立て直すと​いう​固い​決心と​痛悔の​心を​もって、​主の​お住まいに​立ち戻る​ことなのです。​そして​その​決心は​犠牲と​依託に​表れるはずです。​罪を​告白して​赦しを​受け、​キリストを​着る​ことのできるゆる​しの​秘跡を​通して​御父のもとに​帰り、​キリストの​兄弟・神の​家族の​一員と​なるのです。

​ 私たちには​そんなに​していただく​値打ちは​ないのですが、​放蕩息子の​父のように、​神が​大喜びで​迎え​入れてくださるのです。​心を​打ち明けて​御父の​家を​なつかしく​思慕するだけで​よいのです。​恩知らずの​私たちであるのに​本当に​ご自分の​子に​してくださった​神の​賜物に​驚き、​喜びさえ​すれば​よいのです。

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