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大天使はいと​高き御者の​計画を​聖マリアに​告げました。​その​荘厳な​瞬間に​ついて​考えてみましょう。​私たちの​御母は​まず耳を​傾け、​次いで、​主の​要求を​さらに​深く​理解する​ために​質問なさいます。​その後、​はっきりと、​「なれかし」8、​お言葉の​通りに​この​身に​なりますように、​とお答えに​なりました。​これこそ神に​自らを​捧げる​決意です。​最高の​自由を​もつ​人の​返事です。

​ カトリック信仰の​秘義の​いずれを​みても、​このように​自由を​称えています。​至聖なる​三位一体は、​尽きる​ことの​ない​豊かなみ心の​愛を​注ぎ、​世界と​人類を​創造されました。​<みことば>は​天よりくだり、​人間の​体を​おとりに​なりましたが、​それは​ご自分の​自由を​御父の​意志の​中に​見事に​封じ込める​ことに​よってでありました。​「わたしに​ついて​巻き物に​記されているとおり、​神よ、​わたしは​あなたのみ​旨を​行う​ために​来た」9。​人間を​罪の​状態から​救い出すために、​神が​お定めに​なった​時が​訪れたのです。​ゲッセマニの​園で​血の​汗を​流すほど​苦しむ10イエス、​しかし​最後には、​御父の​望みどおりの​<いけに​え>と​して、​心静かに、​自発的に​自らを​捧げ、​「屠所に​引かれる​小羊のように、​毛を​刈る​者の​前に​物を​言わない​羊のように」11、​素直に​み旨に​従うイエスを​黙想しましょう。​主は​聖心を​開いてお話しに​なり、​ご自分こそ​御父に​近づく​ための​唯一の​道である​ことを​弟子たちに​教えられましたが、​その​ときすでに​受難を​予告しておかれました。​「わたしは​命を、​再び受ける​ために、​捨てる。​それゆえ、​父は​わたしを​愛してくださる。​だれも​わたしから​命を​奪い​取る​ことは​できない。​わたしは​自分で​それを​捨てる。​わたしは​命を​捨てることも​でき、​それを​再び受ける​ことも​できる」12。

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