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しかし、​やがて、​全霊を​込めて​愛する​ものを​手に​入れれば、​もう​それ以上は​探し求めなくなるのではないか、​自由は​消えてしまうのではないかと、​危惧されるかもしれません。​実は、​その​時こそ、​自由は​一層​自由に​なったと​言えます。​本当の​愛が​あれば、​習慣的に​義務を​果たす​ことで​満足する​こともなければ、​不快感を​味わうことも、​無関心に​陥る​こともないからです。​愛するとは、​毎日​仕え直す​こと、​愛情の​こもった​行いを​実行する​ことです。

​ 皆さん​一人​ひとりの​心に、​火と​燃える​文字で​深く​刻み込んで​欲しいので、​重ねて​申し上げたい。​自由と​献身は​決して​矛盾する​ものではない、かえって​互いに​助け合う​ものであると。​愛が​あってこそ、​自由を​捧げる​ことができます。​愛が​なければ、​自由を​捧げる​ことは​できないのです。​当たらずとも​遠からず式に​言葉を​弄んでいるわけでは​ありません。​自ら​進んで​献身するなら、、​献身は​自由の​結果ですから、​一つ​ひとつのの​献身の​行為が​愛を​新たに​する​ことになります。​そして、​献身を​新たに​するとは、​若さと​寛大さを​失わず、​大きな​理想を​もち続けて、​大きな​犠牲を​払う力を​維持する​ことです。​ポルトガル語で​若者の​ことを​<新しい​人たち>と​呼ぶと​知った​とき、​たい​そう嬉しかった​ことを​覚えています。​若者とは​実に​<新しい​人>の​ことです。​このような​話を​するのは、​私自身もう​かなりの​歳ですが、​「わたしの​若さを​喜びで​満たす神」​28に​向かって​祭壇のもとで​祈る​とき、​本当に​若々しい​力を​感じるからです。​自分が​年寄りだと​思った​ことは​ありません。​忠実に​神に​留まるなら、​神の​愛は​私を​絶えず​生き​生きとさせ、​鷲のような​若さを​保たせてくださいます29。

​ 自由を​愛するが​ゆえに​我が​身を​縛る。​高慢に​なった​ときのみ、​このような​状態を​鎖のように​重たく​感じるようになります。​心の​柔和で​謙遜な​キリストは、​真実の​謙遜に​ついてお教えに​なりましたが、​本当に​謙遜で​あれば、​主の​く​びきは​快く​その荷は​軽い​30こと、​また​そのく​びきこそ​自由で​あり、​愛、​一致であり、​生命である​こと、​くびきこそ主が​十字架上で​勝ち得てくださった宝である​ことが​理解できるはずです。

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