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宴会に​招かれた​人たちの​喩えの​中で、​晩餐に​出席すべき​人々の​幾人かは、​理由に​ならない​理由を​あげて​招待を​断りました。​すると​家長は​召使いに​命令します。​「通りや​小道に​出て​行き、​無理に​でも​人々を​連れて​来なさい」43。​これは​強制ではないでしょうか。​各々が​有する​良心の​正当な​自由を​無視して、​暴力を​用いるに​等しいと​言うべきではないでしょうか。

​ 福音書を​よく​読み、​イエスの​教えを​深く​黙想してみると、​家長の​命令は​決して​強制ではないことが​分かるでしょう。​キリストが、​いつも、​どのような​方​法で​勧めを​お与えに​なるかを​ごらんなさい。​「もしあなたが​完全に​なりたいなら…」、​「もし​私の​跡に​従いたいと​思うなら…」、と​仰せに​なります。​この​章句の​「無理に​でも​連れて​来なさい」と​いう​命令は、​物理的強制でも​精神的強制でもありません。​信者の​強い​模範の​力を​示す​ところです。​キリスト者の​行いの​うちに​神の​力が​働く​ことを​示しているのです。​「御父が​どのように​人を​引きつけられるかを​見よ。​無理に​引き寄せるのではなく、​喜んで​教える​ことに​よって、​人を​お引き寄せに​なるのだ」​44。

​ このように​自由な​雰囲気の​なかで​呼吸するなら、​悪を​行う​ことは、​解放ではなく、​隷属である​ことが​明らかに​なります。​「神に​対して​罪を​犯すものは、​強制からの​自由と​いう​意味では​自由意志を​持ち続けるが、​罪からの​自由と​いう​点では​それを​失う」45。​自分の​好みに​従って​行動したのだ、​と​言えるかもしれませんが、​真の​自由を​享受するには​至らないでしょう。​神不在、​つまり​最悪の​ものを​選んだわけで、​自由に​なる​どころか、​最悪な​ものの​奴隷に​なり下がったわけですから。

聖書への参照
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