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自由の​意味

イエス・キリストの​愛と​同じく、​無限の​自由を​完全に​理解する​ことは​決して​できないでしょう。​しかし、​主の​この​上なく​貴重な宝、​すなわち寛大な​燔祭を​見ると、​尋ねないわけには​いきません。​なぜあなたは、​私が​み跡に​従うことも、​あなたに​逆らうことも​できるように​してくださったのですか。​このように​問い​かければ、​自由の​使い方の​正否を​判断できるようになります。​人が​善に​向かうなら、​その​自由の​使い方は​正しいが、​愛の​なかの​愛を​忘れて​神から​離れる​なら、​自由の​行使に​おいて​誤った​しるしです。​ひとりの​人間と​しての​自由、​私は​この​自由を、​今も、​いつまでも、​力の​限り弁護する​つもりですが、​とにかく​この​自由の​おかげで、​自分の​弱さを​知りつつも、​大船に​乗ったような​気持ちで​主に​申し上げる​ことができるのです。​「主よ、​何を​お望みか​おっしゃってください。​そして、​私が​進んで​それを​果たせますように」。

​ キリストは​答えてくださいます。​「真理は​あなたたちを​自由な​者と​するだろう」13。​ところで、​生涯を​貫く、​この​自由の​道の​始まりであり、​終わりである​真理とは、​一体どのような​真理の​ことなのでしょう。​神と​人間の​関係を​知れば​当然もちうる、​喜びと​確信に​満ちた​答えを​要約してみましょう。​ここで​いう​真理とは、​私たちが神のみ​手から​生まれ、​至聖なる​三位一体の​深い愛の​対象と​なり、​かくも​偉大な​御父の​子であると​いう​こと。​この​真理を​よく​自覚し、​日々​味わう​決心が​できるよう、​主に​お願いしましょう。​そう​すれば、​自由な​人間に​ふさわしい​生き方が​できます。​しっかりと​心に​刻み込んで​おいてください。​神の​子である​ことを​知らない​人なら、​自分に​最も​近しい​真理を​知らないわけですから、​何ものにもまして​主を​愛する​人らしく、​自らを​支配し、​自らに​打ち​勝つことは​できないでしょう。

​ 天国を​勝ち取る​ためには、​ためらわず、​たゆみなく、​全く​自発的に​決意して、​自由に​道を​切り拓いてゆか​ねばなりません。​しかし、​自由意志だけでは​充分でなく、​道標なり道案内なりが​必要です。​「魂が​歩みを​進める​ためには、​導き手が​いる。​それゆえ​魂は、​悪魔ではなく、​キリストを​王と​する​ことのできるよう​贖われたのである。​悪魔の​支配は​耐え難いが、​キリストのく​びきは​快く、​その荷は​軽い​(マタイ11・30)」14。

​ 自由、​自由、​と声を​大に​して​叫ぶ​人々の​欺瞞を​退けなさい。​そのような​叫びは​悲しむべき奴隷状態に​陥っている​証拠である​ことが​多いのです。​過ちを​選べても​自由であるとは​言えません。​私たちを​自由に​する​ことが​おできに​なるのは​キリストだけです15。​主のみ、​道であり、​真理、​生命です16から。

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