32

良心の​自由

長年の​司祭生活を​通じて​私は、​個人の​自由への​愛を、​説くと​いう​より、​むしろ​大声で​叫んできました。​そういう​とき、​自由を​擁護すると、​信仰に​害を​与えるかのように、​人々の​顔に​不信の​色が​浮かぶのに​気づきました。​このような​臆病な​態度が​消え去るように​願って​やみません。​信仰に​害を​加えるのは、​誤って​解釈された​自由、​目的も​客観的規準も​原理も​責任ももたない​自由、​一言で​いうなら、​わが​ままだけです。​不幸にも​ある​人々が​守ろうと​しているのは​放縦、​つまりわが​ままです。​そのような​意味での​自由を​回復する​ことこそ、​信仰を​傷つけると​言わなければなりません。

​ と​いうわけで、​神を​拒否する​ことが​道徳的に​善であると​いうに​等しい、​誤れる​<良心の​自由>に​ついて​話す​ことは​正しく​ありません。​主の​救いの​計画には​反抗する​ことも​できると​言いましたが、​たとえできると​しても、​そのような​ことは​すべきでは​ありません。​万一誰かが​故意に​このような​態度を​とるなら、​「あなたの神である​主を、​全力を​尽くして​愛しなさい」31と​いう、​最も​根本的な​第一の​掟に​反する​罪を​犯すことになります。

​ 私は​もう​ひとつの​「良心(複数)の​自由」​32を​擁護します。​人々の​神礼拝を​阻むものは、​なんぴとに​対しても、​それは​違法であると​全力を​挙げて​教えます。​真理を​求める​正当な​心を​尊重しなければなりません。​人間は、​主を​探し求め、​主を​知り、​主を​礼拝すると​いう​重大な​義務を​負っています。​しかし、​この​地上では​いかなる​人も​信仰の​実践を​隣人から​強制される​べきでは​ありません。​同じように​誰も、​神を​信じる​人に​害を​加える​権利は​ありません。

聖書への参照
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