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再び、​神に​問い​かけてみましょう。​主よ、​何の​ために​このような​能力を​与えてくださったのですか。​なぜ、​選んだり、​拒否したりする​力を​お与えに​なったのですか。​私が​この能力を​正しく​使う​ことを​お望みです。​しかし、​私は​何を​すれば​よいのでしょうか17。​すると、​ためらいを​許さぬ適確な​答えが​返ってきます。​「心を​尽くし、​精神を​尽くし、​思いを​尽くして、​あなたの神である​主を​愛しなさい」18。

​ お分かりでしょうか。​自由が​本当の​意味を​もつのは、​救いを​もたらす真理を​得る​ために​使う​とき、​あらゆる​種類の​奴隷状態から​解き​放つ神の​無限の​愛を、​疲れを​いと​わず​求める​ときなのです。​キリスト者が​有する​この​測り​知れない​宝、​つまり​「神の​子らの​光栄の​自由」​19を​大声で​人々に​告げ知らせたいと​いう​気持ちが​日毎に​強くなります。​聖パウロの​言葉には、​「善悪を​識別した​後に​善」を​追求すると​いう、​「善き意志」​20に​ついての​教えが​要約されています。

​ 良心の​負うべき​大切な​責任に​ついて​黙想して​欲しいと​思います。​誰一人と​して​私たちの​代わりに​選択する​ことは​できません。​「善に​向かって​自己を​導くのは、​自分​自身であって​他人ではないと​いう​こと、​ここに​こそ、​人間の​も​つ​最高の​尊厳が​ある」21。​カトリックの​信仰を​両親から​受け継い​できた人は​大勢います。​神の​恵みに​よって、​生まれて間もなく​洗礼を​受けた​とき、​超自然の​生命が​芽生えました。​しかし、​全生涯を​通じて、​いや​毎日、​何にもまして​神を​愛すると​いう​決意を​新たにしなければなりません。​「神の​御独り子である​<みことば>の​支配を​無条件に​受け入れる​者こそ、​キリスト信者、​つまり真の​信者である」22。​そして、​この​恭順には、​「神である​主を​拝み、​ただ主に​仕えよ」​23と​言われた​キリストと​同じ​態度で​悪魔の​誘惑に​立ち向かう​心構えが​伴っていなければなりません。

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