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重ねて​申し上げます。​神の​愛への​隷属以外の​隷属を​受け入れる​ことは​できません。​他の​機会に​説明したように、​宗教とは、​獣のような​生き方には​甘んじたくないと​いう​人間、​創造主と​交わり、​主を​知るまでは​満足できず、​良心の​安らぎを​覚える​こともない​人間の、​最大の​反抗であるからです。​あらゆる​束縛から​解き放たれた​反乱分子に​なって​欲しいのです。​キリストが​そう​お望みですが、​私も​皆さんには​神の​子であって​欲しいのです。​奴隷に​なるか、​神の​子に​なるか​―これこそ​人間の​ジレンマです。​神の​子に​なるか、​さも​なければ、​多くの​霊魂が​陥る​高慢と​官能と​虚しい​利己主義の​奴隷と​なるか。​ほかに​道は​ありません。

​ 愛である​神が​真理と​正義と​善の​道を​示してくださいます。​主に​向かって、​「私の​自由は​あなたの​ために」と​応える​決心を​するなら、​卑小な​ことや馬鹿げた​心配事やけちな​野心に​自分を​縛りつけていた​鎖が​ことごとく​外れます。​そして、​測り​知れない​値打ちの​ある​宝、​豚に​投げ与えるには​あまりにも​高価で​素晴らしい​真珠46に​等しい​自由を、​余す​ところなく、​善の​実行の​ために​使うことができるのです47。​これこそ、​神の​子らの​光栄ある​自由です。​神の​言葉に​耳を​貸さない​者の​放縦を​前に​して、​万一、​キリスト信者が​影響を​受けてびく​びくしたり、​妬みにかられたりするなら、​それこそ、​信仰に​ついてみすぼらしい​考えしかもっていない​ことを​自ら暴露する​ことになります。​本当に​キリストの​掟を​守るなら、と​いう​より、​いつも​上手く​いくとは​限りませんから​<掟を​守る​>努力を​するなら、​人間の​尊厳の​もっとも​完全な​意味を​あちこち探しまわる​必要もなく、​凛々しい​精神を​与えられている​自分の​姿に​気づく​ことでしょう。

​ 私たちの​信仰は​重荷でも​制限でもありません。​そう​考えるようなら、​キリスト教の​真理に​ついて​実に​貧しい​考えしかもっていない​証拠です。​神を​選ぶ決心を​すると、​何一つ​失う​ことなく、​すべてを​得る​ことができます。​「自分の​命を​得ようとする​者は、​それを​失い、​わたしの​ために​命を​失う者は、​かえって​それを​得るのである」48。

​ 私たちは​一等賞・​切り札を​引き当てたのです。​この​ことがはっきりと​分からない​ときには、​何かが​邪魔を​しているわけですから、​心の​内を​糾明してみましょう。​おそらく、​信仰が​薄く、​神との​個人的な​付き合いや​祈りが​足りない​毎日を​送っているからでしょう。​主の​御母で​あり​私たちの​母である​聖母の​執り成しを​通して、​私たちの​愛を​増してくださる​よう、​また、​主の​現存が​もたらす​甘美さを​味わう​ことのできるよう、​主に​お願いしましょう。​愛する​ときのみ、​最も​完璧な​自由を​享受する​ことができます。​私たちの​愛の​対象を、​永遠に​見失わず、​決して​捨てないための​自由を​得る​ことができるのです。

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