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自然徳

ある​種の​世俗主義的な​考え方と​敬虔主義と​呼ぶことのできる​考え方は​互いに​対立する​考え方ですが、​両者の​間には​ひとつだけ共通点が​見られます。​いずれも​キリスト者を​まともな​人間であるとは​考えない​ことです。​前者の​考え方は、​福音の​要請に​従うなら​人間の​資質が​窒息させられると​言い、​後者の​考え方は、​堕落した​人間は​信仰の​純粋さを​危うく​すると​主張します。​双方とも、​「言は​肉と​なって、​わたしたちの​間に​宿られた」6と​いう、​受肉の​秘義の​深い​意味が​理解できていません。

​ 人間と​して、​キリスト者と​して、​また​司祭と​しての​私の​経験に​照らしてみても、​事実は​その​反対です。​たとえ罪に​浸り​切っている​人でも、​ちょうど灰の​中の​埋み火のように、​高潔な​光を​心に​秘めているのです。​そのような​人たちと​一対一で​話し合い、​キリストの​言葉を​伝えると、​いつも​良い​反応が​あったから、​こう申し上げるのです。

​ 世の​中には、​神と​没交渉の​人が​多いのですが、​それは​神に​ついて​聞く​機会に​恵まれなかったか、​または​忘れてしまったかの​いずれかでしょう。​ところで、​そのような​人々にも​誠実で​忠実な​心構え、​憐れみ深く、​人間的に​まじめな​態度が​見られます。​このような​心構えを​もつ​人なら、​神に​対して​すぐに​心を​開く​ことができるはずだと、​私は​敢えて​断言したい。​超自然徳の​基と​なる​自然徳​(人間徳)を​身に​つけている​人々だからです。

聖書への参照
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