自然徳(人間徳)

1941年9月6日


聖ルカ福音書の第七章を繙いてみましょう。「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた」1。すると、その町で罪の女と噂のある女が香油を入れた壷を持って入って来ました。その女は、当時の習慣どおり横になっているイエスに近づき、主の足を洗います。この感動的な場面を想い浮かべてください。女は涙でイエスの足を洗い、黒髪で拭う、そして御足に口づけしたあと、香油を塗ります。

 ファリサイ派の人は物事を悪いようにしかとりません。イエスの無限の慈しみが理解できず、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ」2と考えたので、イエスはそれを見抜いて諭します。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」3。

 さて、今回は主の慈悲深い聖心ではなく、イエスが人々に欠けているとお気づきになった点、つまり、礼儀や細やかな心遣いについて考えてみましょう。それらはファリサイ派の人が持ち合わさなかった心です。キリストは三位一体の第二のペルソナ、完全な神であり完全な人間4です。キリストは救いをもたらす御方であって、人間性を破壊するようなことはなさいません。キリストから他人を悪し様にあしらってはならないことを学びましょう。私たちは例外なく全員が神に造られた存在であり、「神のかたどり、神の似姿」5なのですから。

自然徳

ある種の世俗主義的な考え方と敬虔主義と呼ぶことのできる考え方は互いに対立する考え方ですが、両者の間にはひとつだけ共通点が見られます。いずれもキリスト者をまともな人間であるとは考えないことです。前者の考え方は、福音の要請に従うなら人間の資質が窒息させられると言い、後者の考え方は、堕落した人間は信仰の純粋さを危うくすると主張します。双方とも、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」6という、受肉の秘義の深い意味が理解できていません。

 人間として、キリスト者として、また司祭としての私の経験に照らしてみても、事実はその反対です。たとえ罪に浸り切っている人でも、ちょうど灰の中の埋み火のように、高潔な光を心に秘めているのです。そのような人たちと一対一で話し合い、キリストの言葉を伝えると、いつも良い反応があったから、こう申し上げるのです。

 世の中には、神と没交渉の人が多いのですが、それは神について聞く機会に恵まれなかったか、または忘れてしまったかのいずれかでしょう。ところで、そのような人々にも誠実で忠実な心構え、憐れみ深く、人間的にまじめな態度が見られます。このような心構えをもつ人なら、神に対してすぐに心を開くことができるはずだと、私は敢えて断言したい。超自然徳の基となる自然徳(人間徳)を身につけている人々だからです。

ただし、このような自然的素養だけでは救霊のために充分であるとは言えません。キリストの恩寵が必要です。正しい生活態度を守り育むならば、神が道を整えてくださることでしょう。人間として立派な生き方を知る人であればこそ、聖人になることもできるからです。

 たぶん、これとは反対の事実にも気づいたことがあるでしょう。多くの人が自らをキリスト者であると言う。洗礼の秘跡を受けており、他の秘跡にもあずかっている。しかし、その振舞いは不誠実で傲慢。ほんのわずかのあいだ天空高く光り輝いたかと思ったとたんに消えてしまう流れ星のように、たちまちにして倒れてしまう人々のことです。

 神の子としての責任を果たそうと努力する私たちに、神は真に人間的であれとお望みです。頭は天にまで届かせ、両足はしっかりと大地を踏まえていなければなりません。キリスト信者として生きると言っても、人間であることをやめ、キリストを知らない人々のつ諸徳を身につけるべく努めなくてもよい、とは言えないのです。完全な神であり、同時に完全な人間であるキリストに倣えという、主のお望みに応えるために日々努力しなければなりません。キリスト者とは主の御血で贖われた人間、人間的であると同時に神的な生き方をするよう、キリストが強くお望みになっている存在ですから。

自然徳(人間徳)のうちでどれが最も重要であるかを決めるのは難しいことです。見方を変えれば変わりますし、どれが大切かを考えてもあまり役に立たないでしょう。事実、ある特定の徳だけを実行すればよいというわけではありません。徳は相互に関連していますから、すべての徳を身につけ、すべての徳を実行に移すための戦いが必要です。たとえば、誠実であろうと努力すれば、喜びに溢れ分別と落ち着きをもった人、正義の人となることができるのです。

 個人的な徳と社会的な徳とを区別する考え方も私は納得できません。自己愛を満足させるための徳などありえず、いずれの徳も必然的に自分と周囲の人々の霊的善にかかわっているからです。神の子である人々が、野心満々、輝かしい経歴を得るためにのみ生きることなど許されません。皆がもっと連帯感を持たねばならないのです。恩寵の世界では、聖徒の交わりという超自然の絆によって、すべての人がひとつに結ばれています。

 決心と責任が各自の自由に委ねられているからには、もろもろの徳は徹底的に個人的なもの、パーソナルなものであると言わねばなりません。とはいえ、愛のための戦いにおいては、決して独りぼっちではなく、お互いになんらかの方法で助け合い、また迷惑をかけ合っています。誰一人として孤立した存在ではなく、皆がひとつの鎖の環を作り上げています。天国において永遠に主のみ顔を仰ぐ日まで、この鎖が主のみ心にしっかりと繋ぎ止められているよう、主なる神にお願いしたいものです。

剛毅、沈着、忍耐、雅量

さて、そろそろ個々の自然徳(人間徳)について考えてみましょう。私が話す間、主と語り合いを続けてください。受肉の秘義の意味をより深く知るための勇気をお願いして欲しいと思います。私たちもまた、人々の間で主の証人となって、主が人々の救いのためにこの世におくだりになったことを、世に示すためです。

 キリスト者の生活だけではなく、およそ人間の生活は思ったほど簡単ではありません。確かに予定通り事の運ぶ時期もありますが、あまり長続きしない。生きるとは、困難に立ち向かい、喜びや苦しさを味わうことです。人間は試練の中で忍耐強くも逞しくもなり、そうして沈着と雅量を身につけてゆくものです。

 自らの良心に従ってなすべきことを知り、これを最後まで果たす人、そのような人は剛毅の人と言えます。仕事の価値を自分の得る利益によってではなく、常に仕事を通して人々に提供できる奉仕の値打ちによって測る。強い人は、時々苦しむことはあっても、抵抗します。泣くこともあるでしょう。しかし涙を抑えることができ、大きな困難や反対にも屈することはない。マカバイ記の一節を思い出してみましょう。神の法を破るより死を選ぶ老人エレアザルの話です。「男らしく生を断念し、年齢にふさわしい者であることを示し、若者たちに高貴な模範を残し、彼らも尊く聖なる律法のためには進んで高貴な死に方ができるようにしよう」7。

 剛毅の人は、徳にかなった行いの効果を見出そうと焦慮にかられて行動するようなことはなく、何事に対しても忍耐強く対処する。強さによって、自然徳(人間徳)であると同時に神的な徳でもある忍耐力を培うのです。「『自ら耐え忍ぶことによって、自分の霊魂を救わなければならない』(ルカ21・19)とあるように、魂の救いは、すべての徳の源であり守り手としての忍耐によって全うされる。私たちは忍耐によって自分の魂を救うが、それは、己に打ち勝つことを学びながら、自らを所有するからである」8。忍耐すれば、より深く人々を理解することができる。ちょうど時と共に美味を増す良質のぶどう酒のように、人々も時とともに著しく進歩することが分かっているからです。

強くて忍耐のある人々には落ち着きが見られます。しかし、その落ち着きは、人々についての関心を失ってしまったり、万人の責任である世界中に善を広めるという大事業に興味がもてなくなったりした結果ではありません。落ち着いて沈着な態度を保つことができるのは、いつも赦すことを知っているから、何に対しても手だてを見つけることができるからです。何もできないのは死に対してだけです。とはいえ、神の子にとって、死は生命です。沈着な人でなければ、少なくとも理性的に行動できるわけはない。落ち着きを保つ人なら、考えることができる。物事の可否を考慮し、予定の行動の結果を思慮深く勘案することができるのです。そしてその後で、穏やかに、しかしきっぱりとした決断を下すことができるでしょう。

これまでいくつかの自然徳(人間徳)について考えてきました。皆さんは祈りながら、ほかにも多くの徳について思い巡らしていることでしょう。私は今しばらく、素晴らしい資質の一つである雅量と呼ばれる徳について考えたいと思います。

 雅量(大度)とは、多くの事柄の入りうる広い心、大きな心のことです。それはまた、自分の殻から抜け出させてくれる力であり、人々のために役立つ価値ある事業にとりかかることができるようにしてくれる力でもあります。狭量な心をはじめ、けちや打算や利害関係を伴った騒ぎが入り込む余地はありません。雅量のある人は、やり甲斐のあるもののためには全力を注ぐ。それゆえ自らを捧げることができるのです。人に何かを与えるだけでは満足せず、自らを与える。ここまで来ると、神にすべてを捧げることにこそ、雅量の本領があることが理解できます。

勤勉と精励

勤勉と精励、この二つは結局一つになります。いずれも、神から与えられた才能を十二分に活用するため全力を傾けるという態度に表れるからです。二つとも善徳です。すべてを最後まで完全にやり遂げるよう促すからです。一九二八年以来、説き続けてきたように、仕事は決して呪いではなく、罪の罰でもありません。神に逆らう前のアダムに対しても神は働くことをお望みになったと創世記に書いてあります9。神の計画によると、人は常に働くことによって創造という広大なわざに参加するのです。

 勤勉な人は時間を活用します。「時は金なり」というよりも、時は神の光栄であるからです。果たすべきことをやり遂げる、しかも、決して惰性や時間潰しのためではなく、注意深く考えた上で遂行する。それゆえ、勤勉は同時に精励であるというのです。勤勉、精励を意味するヨーロッパ系の言語は、ラテン語の愛する、鑑賞する、選び出すという意味をもつ動詞を語源とします。この語源となる動詞はまた、細やかで、研ぎ澄まされた、注意深い様子を表しています。ですから、慌てずに、愛を込めて、よく働くことを勤勉というわけが分かります。

 完全な人間である主は、地上での生活で、大工の仕事を選び、細やかな心遣いを示してお働きになりました。村人たちの間で一職人として仕事に精進なさったのです。ご自分の人間的、神的な仕事によって、日常の生活は小さくて価値のないものではなく、神との絶えざる出会いの場、つまり聖化の場である、とお教えになりました。知的な活動や手仕事で、神を崇め称えなければならないことをお示しになったのです。

信実と正義

信実と正義にかなった生き方をしようとすれば、絶え間ない努力が必要です。自らの安全が危険にさらされるような情況の中で、長時間にわたって、信実な態度を維持するのは難しいことだからです。信実の素晴らしさを玩味してください。信実はすたれてしまった、嫌なものを好ましく見せるような外交的な行動が決定的な勝利を得ている、とおっしゃるのですか。真理を恐れ、つまらない方便に走って、誰一人として真実を語らず、真理を実行せず、見せかけや嘘に訴えている、とおっしゃるのですか。

 幸いなことに、そうではありません。キリスト者の中にも、キリスト者でない人々の中にも、たとえ体面や名誉を犠牲にしてでも真理を守る覚悟をもった人は大勢います。寄らば大樹の陰とばかりに、大樹から大樹へと駆けずり回るようなことはしません。真実を愛するがゆえに、間違いを犯せば改めることのできる人たちなのです。嘘を言い始める人や、真理を自らの過ちを覆い隠すための単なる言葉にする人は、自らの過ちを正すことなどできないでしょう。

信実の人なら正義にかなう人であると言えます。正義について述べることには倦むことを知らない私ですが、ここでは、自然徳(人間徳)というしっかりとした基礎の上に真の内的生活を築くために、いろいろ考えていることを心に留めて、簡単にいくつかの点だけをお話ししましょう。正義とは一人ひとりにその人のものを与えることですが、それだけでは不充分だと思うのです。各々は神の手から出た存在ですから、正義が要求すること以上を与えねばなりません。最高の愛徳は正義をはるかに越えます。人目を引くことなく実行されるでしょうが、天においても地においても豊かな実りをもたらします。

 中庸という表現を、あたかも倫理徳の特徴であるかのように、言い換えれば、実現可能なことの半分ぐらいを実行すればよい、というような意味にとるのは誤りです。中庸とは欠如と過度の中間、すなわち頂上・最高という意味ですから、賢慮(賢明)の徳が示す最高の事柄のことです。最も善い点を示します。ところで、対神徳に関しては「バランスをとりながら…」という態度は許されません。信じすぎ、望みすぎ、愛しすぎ、というようなことはありえないからです。神への限りない愛があれば、自然に、周りの人々への寛大さ、理解、愛徳に溢れた態度にあらわれるでしょう。

節制の実り

節制とは自らの主人であることです。心と体が経験できることを、実際にことごとく経験することはできません。また、たとえできるとしても、すべてを実行しなければならぬというわけではありません。自然の衝動と称するものに引きずられるままになるのは容易なことですが、そうなると、遂には、悲しみに襲われ、自らの惨めさの中で孤独をかこつことになるでしょう。

 食したり、見たり、所有したりすることにおいては思いのままで、何を拒まない人がいます。清らかな生活を送れという忠告を無視し、神の業に参与するための気高い能力である生殖機能を、わが身を満足させるための道具であるかのようにみだりに利用するのです。

 ところで、私は不純なことについては口にさえしたくありません。節制のもたらす実りについて述べることにしましょう。本当に人間らしい人間について考察したいと思います。小鳥を獲るための罠に使われるような安光りする価値のないものに執着しない人、霊魂を害するものから離脱できる人、犠牲といっても犠牲に見えるだけであることに気づいている人、このような人々について考えたいのです。犠牲を実行すれば、多くの隷属状態から解放され、心の深奥で神の愛をことごとく味わうことができます。

 心の奥で神の愛を味わうようになると、不節制によって言わばぼやけてしまった生活が、色合いを取り戻します。人々に心を配り、自分のものを分かち合い、大きな仕事にも取りかかる。節制によって、飲食には控えめで、慎み深く包容力のある人になる。魅力ある慎みが自然に表にあらわれる。その人の行動は知性に導かれているからです。節制は偉大さを示すのであって、制限を意味するのではありません。不節制であるがゆえに不自由になると、ブリキでできた鈴のようなつまらない響きにすぐ負けてしまいます。価値のないものにすぐ心を奪われてしまうのです。

心の知恵

箴言に「心に知恵があれば分別ある人といわれ(る)」10と書いてあります。万一、臆病な人や小心な人、大胆さに欠ける人を、分別や賢慮のある人であると考えるなら、分別とは何かを正しく理解しているとは言えないでしょう。分別や賢慮は善に向かう習性ともいうべき徳で、目的を明確にし、目的に到達するために最もふさわしい手段を探す態度を含んでいるからです。

 しかし、この分別・賢慮が最高の徳というわけではありません。常に何のための分別であるかを自問すべきです。利己主義のためや、不正な目的を正当化するための<ずる賢さ>と呼ぶにふさわしい偽りの分別もあるからです。<ずる賢さ>を上手に使えば使うほど、その人の状態は悪くなり、正に聖アウグスチヌスのあの咎めを受けねばならなくなるでしょう。「自分の邪悪な心に合わせるために、いつも真っ直ぐで正しい神の心をまげようというのか」11。このような態度は、自分の力を過信して、すべてを正当化できると思う人の偽りの分別です。聖パウロは次のように言っています。「自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」12。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」13。

聖トマス・アクィナスは、知性という良い習性の働きとして、三つの点を指摘しています。つまり、助言を仰ぐこと、正しく判断すること、決定を下すこと14。分別の第一歩は、自らの限界を認める謙遜の徳に始まります。自分だけで、ある特定の問題のすべてを把握し、数多くの場面や情況に通暁することはできない相談であると認め、判断を下すときには考慮すべき点を見落とさないために助言を仰ぐ。しかし、誰に助言を求めてもいいというものではありません。助言する資格があり、神を愛し、神に忠実に従う真摯な望みをもった人でなければならないのです。単に意見を求めるのではなく、公平で正しい助言のできる人に導いてもらわなければなりません。

 そのあとで判断を下します。分別・賢慮は、ふつう機敏で適切な決断を要求するからです。時には、判断のための諸要素がすべて揃うまで決断を差し控えることが賢明であり、またある場合、特に人々の善が危険にさらされているときには、すべきことをできるだけ早く始めるのが分別ある態度になります。

この心の知恵、つまり分別が、聖パウロの言う「肉の思い」15になるようなことがあってはなりません。知性をもちながら、神を見つけ、神を愛するために、その知性を活用しないようなことがあってはならないのです。真の分別がある人なら、神の教えに注意深く聴き入り、救いの約束と実現を受けることができるでしょう。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」16。

 心の知恵は他のもろもろの徳を治め、そして導きます。分別と賢慮のある人は無分別にならずに大胆であることができる。表には出さないけれども、安楽を求める心から神のみ旨に従う努力を惜しむこともない。分別のある人、賢慮の人は節制を実行するにしても、それが無感覚や厭世的なものであるとは考えない。分別のある人の正義には温かみがあり、その忍耐に卑屈さはみられない。

分別とは、決して間違いを犯さないことではなく、自分の誤りを正す態度のことです。問題を避けるという楽な方法をとるよりも、むしろ度重なる不手際を意にも介さず、的確な判断を求める努力をする、このような人こそ分別ある人と言えます。モノに憑かれたかのように大慌てで仕事をしたり、おどおどしながら働いたりはしない。決心した結果、困難が襲ってくるかもしれないが、その責任は自分で負う。的はずれなことになるのを恐れて善獲得の努力を止めることもない。自分に都合のよいことばかりを探し回るようなことをしない人、客観的で熟慮型の人に出会ったとき、そのような人に対しては、ほとんど本能的に信頼してしまいます。自惚れることなく、大げさな身振りや仰々しさもなく、いつも公正で親切に振舞う人々だからです。

 このように真心のこもった徳はキリスト者に不可欠です。しかし、分別と賢慮の最終目標は、摩擦を招かないための落ち着きや、社会的協調性ではありません。分別の根本は神のみ旨の遂行にあります。主は私たちの単純さをお望みですが、決して子供じみた態度を望んではおられない。真実を愛せよと仰せになるが、軽はずみで浮ついた態度をとれとはおっしゃらないのです。聖書に「知恵ある人は知識をもつ」17と書いてあります。その知恵とは神の愛のこと、決定的な知恵、救いをもたらす知恵のことです。このような知恵があれば、誰でも平安と理解の実りを得るだけでなく、永遠の生命を受けることができます。

平凡な

これまで自然徳について考えてきましたが、皆さんの中には、「そうは言っても、このような生き方をするならば、自分の生活環境から孤立してしまうのではないか、また、それは現実離れした事柄ではないだろうか」と、問う人がいるかもしれません。しかるに、そのようなことは決してありえないと申し上げます。キリスト信者は世間に馴染まない変人でなければならないとは、どこにも記されていません。主キリストは自然さと単純さが必要であると教え、またその模範を示されました。これらは特に私の気に入りの徳であると申し添えておきましょう。

 主がどのようにしてこの世においでになったかを思い出してください。私たちと同じようにお生まれになりました。幼年時代と青年時代をお過ごしになったパレスチナでは、大勢の村人のひとりでした。公生活においても、ナザレの村人と変わらぬ生活が色々な機会にあらわれます。仕事についてお話しになる、弟子たちが休めるようにと気遣われる18、誰とでも付き合い、誰とでも語り合う。付き従う人々に対しても、近寄ろうとしている子供たちを妨げてはならない19とおっしゃいました。きっとご自分の幼年時代を思い出しながら、広場で遊ぶ子供たちの例20を挙げてお話しになったのでしょう。

 これらすべて、ごく当たり前で自然な情景ではありませんか。平凡な生活の中では生きられないとでも思う人がいるでしょうか。とはいえ、人間はありきたりのことには慣れに陥ってしまい、知らず知らずのうちに華やかで技巧的なものを追い求めることは、皆さんもご承知の通りです。たとえば、切り取ったばかりのバラの清楚な花びらや香りを褒めるつもりが、「まるでベルベットのようだ」と言ったりします。

自然さと単純さは素晴らしい自然徳(人間徳)で、これらの徳を備えた人なら容易にキリストの使信を受け入れることができます。複雑なこと、自己中心の堂々巡りの状態に巻き込まれると、主の声に耳を傾けることは難しくなります。主がなぜファリサイ派の人を責められたかを思い出してください。ファリサイ派の人々は薄荷、いのんど、茴香の十分の一税までも払うことを強要しておきながら、法と正義と信仰の要求する根本的な義務を放棄していました。ぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいたのです21。

 イエス・キリストを知っている人で卑俗な生活を営む者はなく、また、キリスト者が一風変わった生き方をしてよいわけでもありません。自然徳について考えてきましたが、いずれの徳からみても同じ結論が引き出されます。真の人間であるためには、正直で忠実、強くて誠実、節制に富み寛大、正義にかない冷静、勤勉で忍耐強くあらねばなりません。このような生き方は容易であるとは言えないときもあるでしょうが、決して変った生き方ではないのです。万一、これを聞いて驚く人がいるとすれば、その人は表にはあらわさないまでも、臆病な心や、弱さに曇った目で物事を判断しているからに違いありません。

自然徳(人間徳)と超自然徳

以上のような自然徳を修めようと努めるなら、すでにキリストに近づいていると言えます。信徳・望徳・愛徳という対神徳と、神の恩寵と共に与えられる他のすべての徳のおかげで、多くの人々が持っており、自分も身につけようと努めているこれら良い素質を、決してなおざりにしてはならないことが、キリスト者にはよく理解できるからです。

 自然徳は超自然徳の土台であり、超自然徳は誠実に徳の進歩を目差すための力を与えてくれるということを、重ねて申し上げたい。ところで、いずれにせよ、これらの徳を身につけたいと熱心に望むだけでは役に立ちません。実際に徳を実行しなければならないのです。善を行うことを学ばなければならない22。つまり、誠実で正直、冷静で忍耐強い人になるためには、誠実な行い、正直な態度、公正な判断、冷静な振舞い、忍耐強い生き方を、実際に実行に移さなければなりません。行いこそ、愛なのです。言葉だけでなく、行いをもって誠実に23神を愛さなければならないのです。

キリスト者がこれらの徳を獲得するために戦うならば、その人の心は聖霊の恩寵を受ける用意ができていると言えるでしょう。人間としての良い素質は、慰め主のお与えになる霊感によってますます強められます。「霊魂の甘美な客人」24、つまり、三位一体の第三のペルソナである聖霊は、上智、聡明、賢慮、剛毅(勇気)、知識、孝愛、主への畏敬25からなる七つの賜物をお恵みになります。

 そして、内的喜びと平安26、自然徳である喜びを心に感じることができるのです。お先真っ暗に思えても、実は真っ暗ではありません。「あなたはわたしの神、わたしの砦」27。主が心の中にお住まいになれば、たとえ非常に重要に思えても、もろもろの事柄は一時的で儚いものに過ぎず、神のうちにいる私たちこそ永続するもの、留まるものであることが分かります。

 聖霊は、孝愛の賜物によって神の子であることを確信できるよう助けてくださいます。神の子でありながらどうして悲しんでなどいられますか。悲しみは利己主義の産物にすぎません。主のために生きようと望むなら、たとえ、自己の過ちや惨めさを見せつけられたとしても喜びを失うことはないはずです。喜びがあるということは神を愛している証拠ですから、祈りに熱中し、歌い出さずにはおられません。歌うことは、愛に酔っている人の特徴ではないのでしょうか。

このような生き方をするなら、世界の平和をもたらすために役立つ働きができます。神に仕えるのは楽しいことであると、人々に教えることができるのです。「喜んで与える人を神は愛してくださる」28からです。キリスト信者も社会の一員にすぎませんが、絶えざる恩寵の助けによって、その心から天の御父のみ旨を果たそうとする人の喜びが溢れ出ているはずです。決して、犠牲者意識を持ったり、拘束されていると感じたりすることはありません。常に胸を張って歩みます。人間には違いないが、同時に神の子であるからです。

 すべての人が培うべきこれらの自然徳に、光を与えて輝かせてくれるのは、私たちの信仰です。人間であるという点において、誰もキリスト信者を負かすことはできません。キリストに従う者のみ、人々が感じとっているだけで理解するまでには至らない事実を、自分の功徳ではなく神の恩寵によって伝えることができる。本当の幸せ、隣人への真の奉仕とは、完全な神であり、完全な人である救い主の聖心を通してのみ実現できるのです。

 神の手になる最も高貴な御方、聖母マリアの御助けをお願いしましょう。私たちを思慮深く正直な人にしてくださるように、また、恩寵の中に散りばめられたこれらの自然徳が、万人の平和と幸福のために、共に働いている人々への最大の助けとなりますように。

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