謙遜によるキリストの勝利

1963年12月24日 降誕祭


​「今は、​光が​われらの​上に​輝く。​主が​生まれ給うたからである」1。​これは、​キリスト信者を​感動させる​のみならず、​信者を​通して​全人​類に​伝えられる​べき偉大な​知らせです。​神が​私たちの​間に​おられます。​この​事実を​前に​して、​私たちの​生活は​喜びに​満たされるはずです。​降誕祭が​訪れる​毎に、​私たちは​神との​新たな​特別の​出会いの​時を​もち、​神の​光と​恩恵が​心の​奥底まで​注がれるは​ずだからです。

​ 幼子と​聖母マリア、​聖ヨセフを​前に​して、​私たちは​人となり給うた神の​御子を​眺めています。​深いわけが​あって、​一九五一年​八月十五日、​イタリアの​ロレットに​ある​聖家族の​家を​訪問した​ときの​ことが​思い出されます。​そこで​ごミサを​たてました。​ゆっくりと​心を​込めて​ごミサを​たてる​つもりだったのですが、​信仰熱心な​群衆の​ことを​忘れていました。​この​大祝日には​その​地方​特有の​深い​信仰と​〈マドンナ〉への​愛から、​付近の​大勢の​人々が​ロレットに​来る​ことを​忘れていたのです。​典礼法規の​面からだけ判断するならば、​必ずしも​適切とは​言えなかったのですが、​人々は​深い​信仰を​外的に​表していました。

​ ルブリカ(ミサの​式法)に​従って​私が​祭壇に​接吻している​とき、​三、​四人の​農家の​人たちも​同じ​ことを​していたのです。​その​人たちに​気を​とられてしまいましたが、​同時に​心打たれました。​その​とき、​また、​イエス、​マリア、​ヨセフが​住んで​おられた​と​聖伝が​証しする​この​聖なる​家の​祭壇に、​「ここに​おいてみことばは​人となり​給えり」と​記された​言葉を​考えていたのです。​私たちが​住んでいる​この​地球の​片隅の、​人の​手に​成る​この​家に、​神は​お住まいに​なったのです。

完全な​神・完全な​人、​イエス・キリスト

 人と​なった​神の​御子は、​「完全な​神であり、​完全な​人」2であります。​この​秘義は​キリスト信者の​心を​動かさずには​おきません。​あの​時の​感動は​今も​続いており、​ロレットに​戻ってみたいと​思っています。​「ここに​おいてみことばは​人となり​給えり」と​繰り返し唱え、​ゆっくりと​考え、​イエスの​幼年時代を​思い起こすために​行ってみたいのです。

​ 〈神で​あり人である​イエス・キリスト〉。​この​「神の​偉大な​業」3を​黙想し、​「地に​平和、​御心に​適う人に​あれ」4と​平和を​もたら​すために​来られた​主に、​感謝を​捧げなければなりません。​平和は、​神の​善良な​ご意志に​自分の​意志を​一致させたいと​望む​すべての​人々にも​たらされました。​金持ちだけにではなく、​貧しい​人だけに​限らず、​すべての​人々、​すべての​兄弟にも​たらされたのです。​みんな​イエス・キリストに​おいて​兄弟であり、​神の​子であり、​キリストの​兄弟ですから、​キリストの​御母は​私たちの​母でもあります。

​ 地上には​神の​子と​称される​一つの​人種しか​存在しません。​天に​おいでになる​私たちの​父が​教えてくださった​言葉を​話さなければなりません。​イエスが​御父と​対話なさる​言葉、​心と​知恵から​出る​言葉、​今皆さん方が​祈りに​お使いに​なっている​言葉です。​神の​子である​ことを​自覚した​観想的な​人々、​霊的な​人々の​言葉を​使わなければならないのです。​その​言葉は​多くの​意志決定、​聡明な​知性、​心からの​愛情、​正しい​生活を​送り、​善を​実行し、​幸福と​平和に​貢献する​決心を​表します。

​ ゆりかごの​中の​私たちの​愛である​幼子を​見つめ、​秘義を​前に​している​ことを​知らなければなりません。​信仰を​もって​その​秘義を​受け入れ、​同じく​信仰を​もって​秘義の​深い​意味を​究めなければならないのです。​その​ためには、​キリスト信者と​しての​謙遜な​心構えが​必要です。​神の​偉大さを​人間の​貧弱な​概念を​用いて​説明したりせず、​たとえ理解できなくても、​この​秘義は​人生を​導く光である​ことを​悟るべきなのです。

​ 聖ヨハネ・クリゾストムは​言っています。​「我々人間の​本質を​有する​イエスは、​おとめマリアから​お生まれに​なった。​この​奇跡が​いかに​して​行われたかは​知るよしも​ない。​それを​知る​ことに​空しい​努力を​費やす​ことなく、​むしろ神の​啓示を​謙虚に​受け入れる​べきである。​お明かしに​ならない​ことを​むやみに​詮策してはならないのである」5。​このような​敬いの​態度が​あれば、​理解し、​愛する​ことができるでしょう。​そして、​この​秘義も​明解な​教えと​なり、​どんな​人間的理論よりも、​もっと​説得力を​もつ​ことでしょう。

イエスの​ご生活の​超​自然的意味

 馬屋の​前で​話すときは、​飼い​葉桶の​乾草の​上の​布に​包まれた​主・キリストを​見つめる​よういつも​努めてきました。​主から​学ばなければなりませんから、​まだ​幼く​何も​話さなくても、​イエスを​博士、​先生と​して​眺める​必要が​あります。​そして、​主の​教えを​学ぶためには、​その​ご生涯を​知る​努力を​しなければなりません。​イエスの​地上での​ご生涯の​超​自然的意味を​汲みとる​ために、​福音書を​読み、​聖書に​述べてある​いろいろの​場面を​黙想するのです。

​ 聖書を​読み、​黙想し、​今のように​馬屋の​前で​祈る​ことに​よって、​キリストを​知り、​その​キリストの​ご生活を​私たちの​毎日に​再現しなければなりません。​生まれた​ばかりの​幼子イエスが​祝福された​この​地上で、​目を​お開きに​なった​ときから​お教えに​なった​事柄を​理解しなければならないのです。

​ イエスは​一人の​人間と​して​成長し生活しながら、​人間の​生活や​日々の​平凡な​出来事に​超自然の​意味が​ある​ことを​示しておられます。​これらの​真理を​どれだけ​黙想したとしても、​人々の​間で​お過ごしに​なった​ご生活の​大部分に​あたる​隠れた​三十年を​考えると​心打たれる​思いが​します。​隠れた​生活と​言っても、​私たちに​とっては​太陽のような​光を​与える​ご生活です。​私たちは、​世界中​あらゆる​所の​何百万の​人々と​同様、​ごく​当り前の​生活を​営む普通の​信者ですから、​キリストの​隠れた​ご生活に​よって、​私たちの​日々は​照らされ、​日常生活の​真の​意味が​明らかに​されます。

​ イエスは​三十年間を​隠れてお過ごしに​なりました。​「大工の​息子」​6だったのです。​その後、​群衆の​叫びに​囲まれた​三年間の​公生活が​始まります。​人々は​驚いて、​これは​誰だ、​これほどの​ことを​どこで​学んだのだろうと​言います。​イエスの​生活は​周囲の​人々と​全く​同じであったし、​イエスは​「大工で​(…)​マリアの​息子」​7だったからです。​しかも、​イエスは​神であり、​人類の​救いを​実現させ、​「すべての​人を​自分の​もと​へ​引き寄せ」​8ておられたのです。

生涯の​出来事の​いずれに​ついても​言える​ことですが、​イエスの​隠れた​生活を​黙想して​感動も​せず、​その​生活の​意味する​ところを​知らずに​いるわけには​いきません。​イエスの​ご生涯の​日々は、​利己主義や​安逸な​生活から​抜け出るようにと​いう​呼びかけなのです。​主は、​人間の​限界・利己主義・野心を​すべて​ご存じです。​つまり、​自己を​忘れ、​隣人の​ために​自分を​捧げる​ことが​人間に​とっていかに​難しいかを​ご存じです。​愛を​求めても​見つからない​ときの​悲しみも、​付き従うと​言いつつ中途半端な​従い方​しかしない​人々に​出会った​経験も​お持ちなのです。​福音史家の​描く​悲しい​場面を​思い出してみましょう。​使徒たちは​現世的な​野望や​全く​人間的な​考え方しか​持っていなかったのです。​しかし​イエスは​彼らを​選び、​傍に​おき、​御父から​受けた​使命を​彼らに​お任せに​なります。

​ 私たちにも​呼びかけておられます。​ヤコブや​ヨハネに​お尋ねに​なったように、​私たちにも​問い​かけておられるのです。​「あなたがたは、​(…)​この​わたしが​飲もうと​している​杯を​飲むことができるか」9と。​「できます」​10、​はい、​その​覚悟です。​これが、​ヨハネと​ヤコブの​答えでした。​私たちも​すべてに​おいて、​父である​神のみ​旨を​果た​そうと​真剣に​考えているでしょうか。​自分の​心を​すべて​主に​お捧げしたでしょうか。​それとも、​自分​自身、​自己の​利益、​安楽、​自愛心に​執着し続けているのではないでしょうか。​信者と​しての​自分に​相応しくない​こと、​浄めなければならない​ことが​残っているのではないでしょうか。​今日こそ、​それらを​捨てる​機会なのです。

​ イエスの​問い​かけは​私たち一人​ひとりに​向けられている​ことを、​まず​納得しなければなりません。​主が​質問して​おられるのであって、​私では​ありません。​私など、​自分に​対しても​問い​かける​勇気は​ありません。​私は​自分の​祈りを​声に​出しています。​皆さん方も​一人​ひとり、​心の​中で、​主に​告白しているのです。​主よ、​私は​なんと​いう​厄介者でしょう。​なんと​弱虫だった​ことでしょう。​あちこちで、​あれや​これやの​機会に​なんと​多くの​過ちを​犯した​ことでしょう。​さらに​続けて​申し上げましょう。​主よ、​御手で​支えてくださったので​助かりました。​私は​どんな​罪深い​ことを​やってのけるかわからないのです。​私を​放さないでください。​小さな​子どものように​扱ってください。​私が​強く、​大胆で、​志操堅固であるように​助けてください。​未熟な​子どもに​対するように、​年を​とっても​私を​お導きください。​御母が​いつも​傍に​いて​守ってくださいますように。​このような​助けが​あれば、​私たちでも、​御身を​模範と​して​仰ぐことができます。

​ 「できます」の​叫びは​虚勢では​ありません。​イエス・キリストは​この​神的な​道を​教えるだけでなく、​弱い​私たちの​手に​届く​ものとし、​私たちが​その道を​歩むように​望んで​おられます。​その​ために​主は、​あれほど​遜られたのです。​「神と​しては​御父と​同格である​主が、​奴隷の​姿を​とるまで​自分を​低めてくださった​動機は、​これであった。​しかし、​威厳や​権能に​おいて​遜られたのであって、​善性や​慈悲に​おいてではなかった」11。

​ 神は​善い​御方ですから、​私たちの​道を​容易に​してやりたいとお望みに​なりました。​イエスの​招きを​退けたり、​拒んだり、​呼びかけに​聞こえない​ふりを​したりするのは​よしましょう。​逃げ口上は​許されません。​できないなどと​考え続ける​理由も​ありません。​主は​模範を​もって​教えてくださいました。​「それゆえ​兄弟たちよ、​私は​切に​願う、​主の​示してくださった​素晴らしい​模範が​無駄に​ならぬよう主に​一致し、​己が​精神を​新たに​せんことを」12。

善を​行いつつ巡られた

​ イエスを​知り、​愛を​込めて​その​ご生涯を​見守る​ことが​いかに​必要であるか​おわかりでしょう。​聖書の​中に​イエスの​伝記か​その​生涯の​定義と​なる​ものは​ないかと​何回も​探してみました。​そして​読んでいく​うちに、​聖霊に​よって​書かれた​「方​々を​巡り歩いて​人々を​助け」​13と​いう​言葉が​見つかりました。​ご降誕から​ご死去に​至るまで、​地上で​お過ごしに​なった​間ずっと、​イエスは​「巡り歩いて​人々を​助けられた」のです。​聖書には、​「この​方の​なさった​ことは​すべて、​すばらしい」​14、​何事を​するにも​最後まで​完全に​された、​中途半端な​ことは​されず、​しかも​善い​ことしかなさらなかった​とも​書いてあります。

​ ところで​私たちは​どう​すれば​よいのでしょう。​改めるべき点は​ないか​振り返ってみましょう。​私には​たくさんやり直すべきことがあります。​私一人では​善を​行う力は​ありません。​イエスご自身も​「わたしを​離れては、​あなたがたは​何も​できない」15と​仰せに​なりました。​ですから、​神を​愛する​者に​相応しい​親密な​語らいの​うちに、​聖母マリアを​仲介者と​して、​主の​助けを​願いましょう。​各々の​必要に​応じて、​皆さん方​一人​ひとりが​祈るべきですから、​私には、​これ以上​何も​付け加える​ことは​ありません。​勧めを​差し上げている​この​瞬間にも、​心の​中で​多弁を​弄する​ことなく、​この​教えを​私自身の​惨めさに​当てはめているのです。

​「巡り歩いて​人々を​助け」られた。​それほどの​善、​しかも善だけを​振り撒く​ために、​イエスは​何を​なさったのでしょうか。​この​問いに​答えて、​福音書は​イエスに​ついて​もう​一つの​伝記を​記しています。​「両親に​仕えてお暮らしに​なった」​16 。​不従順・不和・陰口が​社会に​満ちている​今日、​特に​この​従順の​徳を​大切に​したい​ものです。

​ 私は​自由こそ​かけが​えの​ない​ものだと​考えています。​そして​自由を​愛すれば​こそ、​この​キリスト教的な徳である​従順を​大切に​するのです。​神の​子と​しての​自覚を​もち、​父である​神のみ​旨を​果たす​熱意を​持たなければなりません。​〈自ら​望んで​〉神の​お望みに​従って​事を​運ぶ、​これこそ​最も​超自然的な​理由です。

​ 私は​三十五年以上も​前から​オプス・​デイの​精神を​自ら​実行し、​人にも​教えよ

 うと​努めてきましたが、​この​オプス・​デイの​精神の​おかげで、​個人の​自由を​理解し愛する​ことができるようになりました。​父である​神は​人々に​恩恵を​与え、​一人​ひとりに​固有の​召命を​お与えに​なりますが、​それは​ちょうど、​子どもである​私たちを​探し求める​父親、​私たちの​弱さを​よく​知っている​父親が、​逞しくまた​愛情に​満ちた​腕を​伸ばして​助けを​与えるのと​同じです。​差し​伸べられた​手に​すがる​努力を​主は​期待しておられます。​主は​私たちの​自由を​試すために、​私たちの​努力を​要求なさるのです。​最後まで​努力を​続けるには​謙遜に​ならなければなりません。​幼い​子どものようになって、​祝福された​従順を​愛し、​優しい​御父に​応えなければならないのです。

​ 望ましい​ことは、​障害や​問題に​出遭う​ことなく​主が​人の​心の​中まで​安心してお入りに​なる​ことです。​人は​〈自分を​守り〉、​自我に​執着する​傾向が​あります。​惨めな​王国に​過ぎなくとも、​私たちはとにかく王であろうとします。​このように​考えると、​イエスに​助けを​求める​必要が​ある​ことを​理解できる​ことでしょう。​私たちは​イエスの​おかげで​真に​自由に​なり、​その​結果、​神と​人々に​仕える​ことができるようになるのです。​こうして​のみ、​聖パウロの​次の​言葉の​真意を​把握する​ことができるのです。​「今は​罪から​解放されて神の​奴隷と​なり、​聖なる​生活の​実を​結んでいます。​行き着く​ところは、​永遠の​命です。​罪が​支払う​報酬は​死です。​しかし、​神の​賜物は、​わたしたちの​主キリスト・イエスに​よる​永遠の​命なのです」17。

​ 自己愛の​傾きは​死に​絶える​ことなく、​誘惑も​いろいろな形で​襲ってきますから、​警戒しなければなりません。​神のみ​旨は​鳴り物入りで​示されるのでは​ありませんから、​み旨に​従う​ときには​信仰の​行為を​実行するよう​要求されます。​時折、​良心の​奥の​方で​響くだけの​小さな​声で​主は​ご自分のみ​旨を​お示しに​なります。​ですから、​その声を​聞き分けて​忠実に​従う​ために、​注意深く​耳を​傾けなければなりません。

​ 大抵の​場合は、​人々を​通してお話しに​なります。​ところが、​その​人の​欠点に​気づいたり、​その​人は​よく​物事を​弁えているのだろうか、​問題に​精通しているのだろうか、​などと​考えたりするならば、​従わなくても​よいのではないかと​考える​ことになります。

​ これら​すべてに​超自然の​意味が​あると​言えます。​神は​盲目的な​従順を​強制なさるのではなく、​理性的な​従順を​お望みだからです。​それぞれが​理性の​光を​使って​人々を​助ける​責任が​ある​ことを​知らなければなりません。​しかし、​まず​自分​自身に​対して​正直に​なりましょう。​自己を​動かすのは​真理への​愛か、​あるいは​自我や​自己の​判断への​執着ではないか、​いつも​糾明する​ことにしましょう。​見解の​相違の​ために​人々から​孤立したり、​兄弟との​一致や​交流を​断ち切ったりする​ことが​あれば、​それこそ神の​精神に​沿って​行動していない​ことを​示す明らかな​証拠です。

​ 従う​ためには​謙遜でなければならない​ことを​忘れないようにしましょう。​もう​一度、​キリストの​模範を​見ましょう。​イエスは​従われます。​ヨセフと​マリアに​従われるのです。​神は​従う​ために、​人間に​従う​ために、​地上に​お降りに​なったのです。​私たちの​母である​聖マリア ― 聖母に​優るのは​神おひとりです ― と​全く​清らかな​聖ヨセフ。​二人共、​完全な​被造物ですが、​あくまで​被造物です。​ところが、​神である​イエスが​彼らに​従われたのです。​神を​愛さなければなりません。​そう​すれば、​神のみ​旨を​愛し、​その​呼びかけに​応える​望みが​湧いてくるでしょう。​神からの​呼びかけは、​身分上の​義務、​職業、​仕事、​家庭、​人との​付き合いとか、​自分や​隣人の​苦しみ、​友情、​善いこと・正しい​ことを​する​希望、​など​日常生活の​義務を​通して​示されます。

降誕祭が​来ると、​幼子イエスの​ご像が​見たくなります。​ご像は、​主が​無に​等しい​ものとなられた​ことを​示しており、​神が​私たちを​お呼びに​なっている​こと、​全能の​御方が​無力な​者と​なり、​人の​助けを​必要と​する​状態を​お望みに​なった​ことを​思い起こさせます。​ベトレヘムの​飼い​葉桶から、​キリストは​あなたにも​私にも、​私たちが​必要だと​言っておられます。​ほんとうに​キリスト信者らしい​生活、​自己奉献・仕事・​喜びの​生活を​送るよう急かせておられるのです。

​ 心の​底から​イエスに​倣わないなら、​主のように​謙遜でなければ、​真の​朗らかさを​得る​ことは​到底できないでしょう。​神の​偉大さが​どこに​隠れているか​気が​付きましたかと、​もう​一度​お尋ねします。​岩穴の​中で​布に​包まれて、​飼い​葉桶の​中に​おいでになるのです。​謙遜に​振る​舞い、​自分の​ことだけを​考えるのを​やめて、​人を​助ける​責任を​感じる​ときのみ、​私たちの​生活は​贖いに​役立つものとなります。

​ 善良な​人たちで​さえ、​個人的な​悩みを​作りだし、​それを​重大問題に​発展させる​ことが​よく​ありますが、​大抵の​場合、​客観的な​基礎が​欠けている​ものです。​問題の​原因は​自己を​よく​知らない​ことに​あり、​自己を​知らないが​ゆえに​傲慢に​なっているのです。​皆の​中心に​なりたいとか、​注目や称賛を​浴びたいとか、​面子が​つぶれないように​図るとか、​善の​ために​尽くしても​知られずに​いるのを​好まないとか、​自己の​安全を​追求するとか、​すべて​傲慢の​証拠です。​こうして、​この​上ない​平和を​味わい、​大きな​喜びに​浸る​ことができるはずの​多くの​人々が、​傲慢と​自負心の​ために、​不幸で​実りの​ない​人間に​変わってしまうのです。

​ キリストは​謙遜な方でした​18。​ご生涯を​通して、​ご自分の​ためには​何の​特権も​特別な​ことも、​お求めには​なりませんでした。​普通の​人間と​全く​変わりなく、​御母の​胎内に​九ヶ月間と​どまっておられました。​人類が​是非とも​主を​必要と​している​ことを​あまりにも​よく​ご存じでした。​それゆえ、​人類を​救う​ために​地上に​来る​ことを​切望しておられましたが、​時間を​縮めたりなさらなかったのです。​人間が​この​世に​生まれる​時のように、​来るべき時に​おいでになりました。​ご懐妊から​ご降誕までの​間、​聖ヨセフと​聖エリザベトを​除いて​誰も、​神が​人々の​間に​お住みに​なると​いう​驚異的な​出来事に​気が​つかないのです。

​ ご降誕も​素朴​その​ものと​言える​雰囲気に​包まれています。​主の​来臨に​壮麗さは​なく​人知れない​ものでした。​地上では​マリアと​ヨセフのみが​神の​冒険 ― ご計画 ― に​あずかるのです。​その後で、​天使に​知らされた​羊飼いたち、​ずっと​後れて​東方の​賢人たちも​訪れます。​天と​地、​神と​人とを​結びつける​重大な​出来事は、​このように​して​起こったのです。

​ この​情景に​慣れてしまうような​固い​心を​どうして​持つことができるでしょうか。​神が​遜ってくださったのは、​人々を​主に​近づける​ため、​愛に​愛を​もって​応える​ことができる​ため、​神の​力の​現れを​見るだけでなく、​素晴らしい​謙遜を​みて​私たちの​自由を​お捧げする​ためなのです。

​ 神である​幼子の​偉大さとは、​その​御父が​天地を​創造な​さった神であるのに、​ご自分は​「旅館に​部屋が​なかった」​19ので、​飼い​葉桶に​横たわっておられる​ことです。​全被​造物の​主の​ために​地上には​他に​場所が​なかったのです。

父である​神のみ​旨の​成就

 イエスは​今も​私たちの​心の​中に​安らぎの​場を​探し続けておられると​申し上げても、​信仰の​真理から​離れる​ことには​なりません。​自己の​盲目や忘恩を​恥じて​主の​赦しを​願わなければなりません。​心の​扉を​今後決して​閉じる​ことの​ないよう、​恩恵を​願わなければならないのです。

​ 神のみ​旨への​完全な​従順は、​自己放棄と​奉献を​要求する​ことを、​主は​隠そうとは​なさいません。​神の​愛は​権利を​要求せず、​奉仕を​望まれるからです。​その​道を​最初に​歩まれたのが​主だったのです。​イエスよ、​御身は​どのように​従われたのですか。​「死に​至るまで、​それも​十字架の​死に​至るまで」20。​自己の​殻から​抜け出して、​〈自分の​生活を​煩わせ〉、​神と​人々への​愛に​賭けなければなりません。​「ここであなたは​生きる​ことを​望んでいたが、​何かが​起こる​ことは​望んでいなかった。​しかし、​神は​他の​ことを​お望みであった。​二つの​意志が​あるが、​あなたの​意志は、​神の​ご意志に​一致する​ために、​矯正されなければならない。​あなたの​意志に​合わせる​ために、​神の​ご意志を​歪めるような​ことが​あってはならない」21。

​ 神のみ​旨を​果た​すために​ ― 主よ、​御身のように​死に​至るまで​ ― 生涯を​賭けた​大勢の​人々を​見てきました。​彼らは、​全人​類の​利益の​ために、​自己の​情熱と​仕事を​教会への​奉仕に​捧げたのです。

​ 従順を​学びましょう。​奉仕の​心を​学びましょう。​人々に​役立つように、​自ら​進んで​自己を​捧げるに​優る​尊厳が​あるでしょうか。​心の​中で​不満を​囁く​自尊心や​スーパーマンであるかのように​思わせる​傲慢の​誘惑を​きっぱりと​拒否し、​唯一の​勝利は​謙遜の​勝利だけだと​叫ばなければなりません。​そう​すれば​十字架上の​キリストと​一致できる​ことでしょう。​嫌々ながら、​不安を​感じつつ仏頂面でと​いうのではなく、​喜んで​一致できる​ことでしょう。​自己を​忘れる​ことに​よって​得る​ことのできる​この​喜びは、​愛の​最良の​証しだからです。

もう​何度も​考えていただいた​ことですが、​イエスの​単純素朴な​ご生活を​今一度​振り返ってみましょう。​主が​隠れてお過ごしに​なった​歳月は、​無意味な​ものではなく、​その後に​来る​公生活の​単なる​準備期間でも​ありませんでした。​一九​二八年以来、​私は​主の​お望みが​はっきりと​わかるようになりました。​キリスト信者は​主の​ご生涯を​模範と​して、​主に​倣わなければならないと​いう​ことです。​主の​ご生涯の​中でも​特に、​隠れた​ご生活、​人々の​中に​あって​同じように​お過ごしに​なった​仕事の​ご生活を​倣ねるべきだと​理解したのです。​何年もの​黙々とした​地味な​生活に​大勢の​人々が​道を​見つけるように​主は​お望みなのです。​神のみ​旨に​従うとは​それゆえ、​自己の​殻から​脱けだす​ことです。​しかし、​それは、​身分、​職業、​社会的環境を​同じく​する​人々の​生活から​離れる​ことを​意味するのでは​ありません。

​ 市民と​しての​生活を​続けながら​自らを​聖化し、​隣人と、​情熱・夢・努力を​分かち合う​神の​子たちの​大群衆を​夢みてきましたが、​この​夢は​すでに​実現しました。​社会の​直中に​あって、​神が​皆さんの​ことを​お忘れに​なったから​でも、​お呼びに​ならなかったから​でも​ないのです。​この​神からの​真理を、​声を​大に​して​叫びたいのです。​地上で​携わっている​活動や​抱いている​抱負を​そのまま​続けなさいと​主は​呼びかけていらっしゃいます。​皆さんの​職業、​能力など、​いわゆる​人間的召し出しは​神の​ご計画と​無関係ではない​どころか、​主は​それらを​御父に​喜んでいただく​捧げ物と​して​聖化してくださったのです。

キリスト信者に​とって、​神のみ​旨に​従う​以外に​生きる​意味は​ないと​言っても、​それは​人々から​離れてしまいなさいと​いう​ことでは​ありません。​それどころか、​多くの​場合、​主の​お与えに​なる​ご命令は、​主が​私たちを​お愛しに​なったように​私たちも​互いに​愛し合う​22ことを​要求します。​〈人々と​一緒に、​同じように​生活しながら〉、​社会に​あって​主に​仕える​ために​自己を​捧げ、​神の​愛を​くまなく​人々に​伝え、​〈地上に​神へ​至る​道が​拓かれた​〉ことを​教えなさいと​主は​命じておられるのです。

​ 私たちを​愛していると​主が​仰せに​なっただけでなく、​行いを​もって​ご自分の​愛を​示してくださいました。​イエス・キリストが​人となられたのは、​神の​子と​しての​生活を​私たちに​教え、​私たちが​その​生活を​学ぶためであった​ことを​忘れては​なりません。​使徒言行録の​は​しがきに​福音史家聖ルカが​書き記しています。​「テオフィロさま、​わたしは​先に​第一巻を​著して、​イエスが​行い、​また​教え​始めてから、​お選びに​なった​使徒たちに​聖霊を​通して​指図を​与え、​天に​上げられた​日までの​すべての​ことに​ついて​書き記しました」23。​教える​ために​来られたのですが、​行いつつ教えられました。​教える​ために​来られましたが、​自ら​行いを​もって​手本を​示し、​師と​なり、​模範と​なる​ためでした。

​ 今、​幼きイエスのみ​前で、​それぞれ良心の​糾明を​続けましょう。​兄弟・同僚・隣人に、​自分の​生活の​模範を​示し、​教えを​伝える​決心を​したでしょうか。​もう​一人の​キリストに​なる​決意が​あるでしょうか。​口先だけの​答えでは​不十分です。​私は​あなたに​尋ねるだけでなく、​私自身にも​問い​かけています。​キリスト信者であるからには、​もう​一人の​キリストと​なるべく​呼ばれている​あなた、​あなたは​神のみ​旨に​注意を​払い、​神の​子に​相応しく​すべてを​成し遂げ、​人々から​「行い、​また​教える」​ために​来たと​言われるだけの​価値が​ありますか。​そうであれば、​救いのみ​業に​関係ある​善い​こと、​気高い​こと、​神の​こと、​人間の​ことに、​すべての​人々を​あずから​せるよう​導く​ことができるのです。​社会での​あなたの​日常生活に​おいて、​キリストの​ご生活を​実行していますか。

​ 神の​業を​行うとは、​美辞麗句を​連ねる​ことではなく、​神である​御方の​ために​自己を​使い​果たしなさいと​いう​招きなのです。​己れに​死に、​新たな​生命に​生まれなければなりません。​十字架の​死に​至るまで​イエスは​従順であったのです。​「へりくだって、​死に​至るまで、​それも​十字架の​死に​至るまで​従順でした。​この​ため、​神は​キリストを​高く​上げ、​あらゆる​名に​まさる​名を​お与えに​なりました」24。​従順であったから​神は​イエスを​高められたのです。​神のみ​旨に​従うならば、​十字架は​復活であり、​称揚でもあります。​キリストの​ご生涯が、​少し​ずつ、​私たちに​おいて​実現する​ことでしょう。​そう​すれば、​たとえ弱さや​過ちがどれほど​多かったとしても、​神の​よい子であろうと​努力し、​善を​なしつつ過ごした​と​言う​ことができるでしょう。

​ そして、​避ける​ことのできない​死が​訪れる​とき、​日常生活に​おいて​多くの​聖人た​ちが死を​待っていたように、​よろ​こんで​死を​迎える​ことができるでしょう。​よろ​こんで​死を​迎えられると​いうのは、​キリストに​倣って​善を​行い、​たとえ惨めさに​満ちてはいても、​従順に、​十字架を​担う​生活を​続けてきたのですから、​「ほんとうに​よみが​えられた​キリスト」25のように​復活できると​いう​ことなのです。

​ 子どもとなられ、​死に​打ち勝たれた​イエスを​黙想しましょう。​ご自分を​無と​する​ことに​よって、​その​謙遜と​従順とに​よって、​平凡で​ありふれた​生活に​神的な​価値を​付与する​ことに​よって、​神の​御子は​勝利者となられました。

​ キリストは​まさに​こうして​勝利を​得たのです。​自らは​人間の​子の​地位にまで​下り、​私たちを​神の​子の​地位にまで​高める​ことに​よって。

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