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賢明、​要と​なる​徳​(枢要徳)

​ 本日の​ミサで​読んだ​聖マタイ福音書に​こう​書いてあります。​「それから、​ファリサイ派の​人々は​出て​行って、​どのようにして​イエスの​言葉じりを​とらえて、​罠に​かけようかと​相談した」3。​偽善者の​この​やり方は​今日でも​珍しく​ありません。​ファリサイ派の​人のような​毒を​含んだ​雑草が、​この​世から​姿を​消すことは​ないでしょう。​常に​驚くべき繁殖力を​誇っています。​きっと​主は、​私たち神の​子を​賢明に​する​ために、​そのような​雑草が​繁殖しても​放っておかれるのでしょう。​賢明とは、​判断したり、​力を​与えたり、​矯正したり、​心を​燃え立たせたり、​元気づけたりする​立場に​ある​人に​とって、​欠く​ことのできない徳であるからです。​実に​今​述べたような​行いこそ、​キリスト信者が​使徒と​して、​日常生活を​取り巻く​様々な​条件を​活用しながら、​周りの​人々に​示すべき態度です。

​ 私は​今、​聖母の​執り成しを​願い、​心を​神に​上げて​祈っています。​聖母マリアは​教会の​中に​おられますが、​教会を​超える​御方です。​キリストと​教会の​間に​おられ、​主の​御母であると​同時に​人類の​母と​して、​私たちを​守り、​そして​導いてくださいます。​社会機構の​中で​神の​ために​働きたいと​望む​人々を​はじめ、​あらゆる​人々に、​神が​この​賢明の​徳を​お恵みくださる​よう​祈らなければなりません。​なんと​しても​賢明に​なる​必要が​あるのです。

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