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先ほどの​福音書の​続きを​読んで​みましょう。​ファリサイ派の​人は​「その​弟子たちを​ヘロデ派の​人々と​一緒に​イエスの​ところに​遣わして​尋ねさせた。​『先生、​…』」4。​「先生」と​呼びかけますが、​偽善も​いい​ところです。​教えを​垂れる​大家に​接する​ときのように、​崇拝者顔、​友人顔を​して​尊称を​使います。​「先生、​あなたが​真実な方で」5ある​ことを​存じておりますと。​何と​いう​悪賢さ、​何と​いう​二心でしょう。​世渡りには​注意が​必要です。​疑い​深いびく​びくした​人に​なれと​いうのでは​ありませんが、​カタコンブに​ある​善き牧者の​絵を​思い出しながら、​羊に​対する​牧者の​責任を​感じとって​欲しいのです。​ただし、​この​羊とは、​個人ではなく、​教会全体、​全人​類を​指しています。

​ 牧者と​しての​責任を​堂々と​担うなら、​神の​権利を​守り、​かつ主張する​ために、​大胆で​賢明な​人に​なります。​そうすると、​人々は​皆さんの​しっかりと​した​生き方を​見て、​皆さんが​現世の​誉れを​求めないにも​かかわらず、​先生と​考え、​そう​呼びかける​ことでしょう。​ところで、​近づいてくる​大勢の​なかに、​へつらう​ことしか​考えていない​人々が​いても​驚かないでください。​私が​何度も​繰り返してきた​ことを​しっかりと​頭に​入れておいて​欲しいと​思います。​讒言や​中傷に​振り回され、​人目や​他人の​噂を​気に​しては​なりません。​ましてや、​偽善者の​追従を​真に​受け、​義務の​遂行を​怠るような​ことが​あってはならないのです。

聖書への参照
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