神と隣人を思いつつ

1963年11月3日


祈願と​意向を​「ひとつ」1に​して、​今から​私たちは​念祷を​始めます。​主が​お任せに​なった​仕事を​果たすよい​道具に​なりたいと、​望みも​新たに​この​ひと​ときを​主との​語り合いの​うちに​過ごしたいと​思います。​聖体に​現存される​イエスに​向かって、​私は​好んで​明白に​信仰告白する​ことに​しています。​その​秘跡に​ましますイエスのみ​前で、​皆さんにも​心に​熱い​望みを​燃え​上がらせて​欲しいのです。​神と​隣人に​労を​惜しまず​仕える​人、​そのような​人々の​いる​ところなら、​たとえ世界の​果てまでも、​高鳴る​鼓動、​心に​躍動する​力を​伝えに​行こうと。​私たちは、​聖徒の​交わりと​いう​素晴らしい​現実に​よって、​神の​真理と​平和を​広める​仕事の​担い手、​聖ヨハネに​よれば、​神の​「協働者」2と​なったからです。

​ 当然、​どのように​して主に​倣うべきかを​考えます。​心の​底から​キリストのみ​国を​広げたいと​思うなら、​私たちの​行いに​輝き出るべき徳を​じかに​学ぶため、​心を​落ち着けて​主の​生涯を​黙想しなければなりません。

賢明、​要と​なる​徳​(枢要徳)

​ 本日の​ミサで​読んだ​聖マタイ福音書に​こう​書いてあります。​「それから、​ファリサイ派の​人々は​出て​行って、​どのようにして​イエスの​言葉じりを​とらえて、​罠に​かけようかと​相談した」3。​偽善者の​この​やり方は​今日でも​珍しく​ありません。​ファリサイ派の​人のような​毒を​含んだ​雑草が、​この​世から​姿を​消すことは​ないでしょう。​常に​驚くべき繁殖力を​誇っています。​きっと​主は、​私たち神の​子を​賢明に​する​ために、​そのような​雑草が​繁殖しても​放っておかれるのでしょう。​賢明とは、​判断したり、​力を​与えたり、​矯正したり、​心を​燃え立たせたり、​元気づけたりする​立場に​ある​人に​とって、​欠く​ことのできない徳であるからです。​実に​今​述べたような​行いこそ、​キリスト信者が​使徒と​して、​日常生活を​取り巻く​様々な​条件を​活用しながら、​周りの​人々に​示すべき態度です。

​ 私は​今、​聖母の​執り成しを​願い、​心を​神に​上げて​祈っています。​聖母マリアは​教会の​中に​おられますが、​教会を​超える​御方です。​キリストと​教会の​間に​おられ、​主の​御母であると​同時に​人類の​母と​して、​私たちを​守り、​そして​導いてくださいます。​社会機構の​中で​神の​ために​働きたいと​望む​人々を​はじめ、​あらゆる​人々に、​神が​この​賢明の​徳を​お恵みくださる​よう​祈らなければなりません。​なんと​しても​賢明に​なる​必要が​あるのです。

先ほどの​福音書の​続きを​読んで​みましょう。​ファリサイ派の​人は​「その​弟子たちを​ヘロデ派の​人々と​一緒に​イエスの​ところに​遣わして​尋ねさせた。​『先生、​…』」4。​「先生」と​呼びかけますが、​偽善も​いい​ところです。​教えを​垂れる​大家に​接する​ときのように、​崇拝者顔、​友人顔を​して​尊称を​使います。​「先生、​あなたが​真実な方で」5ある​ことを​存じておりますと。​何と​いう​悪賢さ、​何と​いう​二心でしょう。​世渡りには​注意が​必要です。​疑い​深いびく​びくした​人に​なれと​いうのでは​ありませんが、​カタコンブに​ある​善き牧者の​絵を​思い出しながら、​羊に​対する​牧者の​責任を​感じとって​欲しいのです。​ただし、​この​羊とは、​個人ではなく、​教会全体、​全人​類を​指しています。

​ 牧者と​しての​責任を​堂々と​担うなら、​神の​権利を​守り、​かつ主張する​ために、​大胆で​賢明な​人に​なります。​そうすると、​人々は​皆さんの​しっかりと​した​生き方を​見て、​皆さんが​現世の​誉れを​求めないにも​かかわらず、​先生と​考え、​そう​呼びかける​ことでしょう。​ところで、​近づいてくる​大勢の​なかに、​へつらう​ことしか​考えていない​人々が​いても​驚かないでください。​私が​何度も​繰り返してきた​ことを​しっかりと​頭に​入れておいて​欲しいと​思います。​讒言や​中傷に​振り回され、​人目や​他人の​噂を​気に​しては​なりません。​ましてや、​偽善者の​追従を​真に​受け、​義務の​遂行を​怠るような​ことが​あってはならないのです。

善い​サマリア人の​話を​思い出してみましょう。​盗賊に​一銭の​こらず​奪われ、​傷つけられて​道端に​捨て​置かれた​男が​いた。​そこを、​まず司祭、​ついで​レビ人が​通りかかる。​二人とも​気に​かけず​通り過ぎた。​「ところが、​旅を​していた​ある​サマリア人は、​そばに​来ると、​その​人を​見て​憐れに​思い、​近寄って​傷に​油とぶどう​酒を​注ぎ、​包帯を​して、​自分の​ろばに​乗せ、​宿屋に​連れて​行って​介抱した」6。​主は​少数の​選ばれた​人にだけこのような​模範を​お示しに​なったのでは​ありません。​その​証拠に、​(隣人とは​誰かと)​質問した​人、​つまり​私たち一人​ひとりに、​すぐ​付け加えて​仰せに​なりました、​「あなたも​同じようにしなさい」7と。

​ 私たち自身の​生き方や​隣人の​生き方に、​何か​まずい​ところ、​霊的、​人間的な​手立てを​講じて​直すべき点が​あるとします。​しかも、​助ける​ことができる​ことであると​同時に、​神の​子と​して​当然そう​すべきであるとしましょう。​そのような​とき、​賢慮の​徳を​備えているなら、​愛と​剛毅と​誠実の​心で​根本的かつ適切な​手段を​講じます。​遠慮している​わけには​いきません。​ただ​眺めて​いたり、​助けを​遅らせたりしても​問題は​解決できないのです。

​ 必要な​ときには​傷口を​開いて、​間に​合わせではなく​徹底的な​治療を​するのが​賢明と​いう​ものです。​少しでも​悪い​徴候が​見つかれば、​治療される​側であろうと​治療する側であろうと、​単純に​本当の​ことを​言わねばなりません。​そのような​ときは、​神のみ​名に​おいて​治療資格の​ある​人に​自らを​委ねる​必要が​あります。​その​人は​まず傷の​周りを​押さえ、​徐々に​傷口に​近づいていく。​そうして​最後は、​傷口の​膿を​出し切り、​消毒する。​私たちも​まず​自分​自身に​対して、​次いで、​正義あるいは​愛の​点から​助けてあげるべき人に​対して​そうします。​これは​特に、​子を​もつ親と、​形成・教育に​携わる​方​々に​お願い​したい​ことです。

世間体

猫かぶりのような​言いわけに​負けないで、​徹底的に​治療してください。​ただし、​母のように​優しい​手、​子供の​とき​遊び転げて​できた​大小の​傷を​そっと​優しく​手当て​してくれた、​あの​母の​手で​癒さなければなりません。​時には​少し​時間を​おきますが、​必要以上に​延ばさないようにしましょう。​事を​恐れる​臆病心に​負け、​賢明とは​言えない​態度を​とってしまうことが​あるからです。​特に、​人々の​教育を​任されている​方に​申し上げたい。​消毒を​恐れるような​ことが​あっては​なりません。

​ 治療の​任に​当たる​人が、​「先生、​わたしたちは、​あなたが​真実な方で​(…)​ある​ことを​知っています」​8と​いう​巧みな​囁きを​耳に​して、​託された​義務遂行を​ためらったり、​嫌に​なったりする​こともあるでしょう。​皮肉たっぷりの​お世辞などに​耳を​貸しては​なりません。​自分の​仕事を​勤勉に​やり遂げない​人は、​本当の​道を​教えていないわけですから、​先生とは​呼べません。​明確な​規準を​大げさだと​考え、​軽く​見ますから、​真理の​人でも​ありえません。​この​規準は、​正しい​行い、​年齢、​よき指導技術、​人間の​弱さに​ついての​知識、​各々の​羊に​対する​愛に​よって、​正当であると​充分に​証明しつくされている​ものですから、​そのような​規準に​従っているなら、​人々に​話しかけ、​干渉し、​関心を​示すことができるはずなのです。

偽りの​教師たちは​恐れから​真理を​極めようとしない。​時には、​苦痛を​伴う​治療を​施す必要―義務―が​あると​考えるだけで​怖くなってしまう。​このような​態度は​賢明とは​言えません。​敬虔でもなく​思慮分別も​ない、かえって​無責任、​無分別、​愚かさの​あらわれです。​大事に​至ってから、​すでに​手遅れでは​あるが​やっと​腰を​あげ、​慌て​ふためいて​悪を​くい​止めようとする。​これも​偽りの​教師の​態度です。​賢明で​あれば、​濁りの​ない​目でものを​見、​経験に​照らして​充分​考えた​末の​勧めを、​必要な​時にはっきりと​告げるべきである​ことを、​忘れてしまっているのです。

​ 聖マタイの​話の​続きを​読むと、​ファリサイ派の​人は、​「あなたが​真実な方で、​真理に​基づいて​神の​道を​教え​(…)る​ことを​知っています」9と​言っている。​皮肉たっぷりの​この​言葉には​開いた​口が​ふさが​りません。​主イエスの​言葉を​わざと​曲げて​解釈しよう、​不注意な​言葉尻を​とらえて​非難してやろうと​いう​意図を、​彼らは​おくびにも​出さない。​解決不可能な​問題である​ことを​自ら素直に​述べる​かわりに、​正しい​心、​信頼心を​もつ​人が​口に​すべき賛辞を​弄して、​主を​困らせようと​いうのです。​彼らの​言葉に​注目して、​疑い​深くなるのではなく​賢明に​なる​ために、​裏の​意味は​何かを​学びとりたいと​思います。​見せかけの​マヤカシを​受け入れるような​愚を​犯しては​なりません。​「あなたは​人の​区別を​されない。​すべての​人の​ために​来られた。​真理を​説き、​善を​教える」10と​彼らは​言う。​言葉自体は、​真実を​言い​表し、​真実に​合った​態度が​見られるが、​この​場合は​上辺だけである​ことに​注意しなければなりません。

​ 重ねて​申します、​賢明に​振舞ってください。​しかし、​疑い​深くはならないようにしましょう。​あらゆる​人に​全き​信頼を​寄せる、​気高い​心の​持ち主であってください。​私は​意見の​一致した​百人の​公証人の​署名よりも、​一人の​キリスト者、​つまり​誠実な​人の​言葉を​無条件で​信じますし、​また​そちらの​方に​重きを​おきます。​むろん、​このように​していれば​時には​騙される​ことが​あるでしょう。​しかし、​人と​して、​神の​子と​して、​当然受けるべき信用を​他人から​奪うよりは、​自らの​信頼心を​悪用される​危険に​身を​さらす方が​よいのではないでしょうか。​このような​生き方を​続けた​結果、​裏切られた​ことは​一度も​なかったと​保証します。

正しく​生きる

​ 福音書から​実生活に​役立つ決心が​引き出せなければ、​福音書を​充分に​黙想したとは​言えないでしょう。​皆さんの​中には​壮年期の​方​々も​おられますが、​多くは​若い​人々の​ようです。​いずれに​しても、​私たちは​全員、​よい​実を​結びたいと​望んでいます。​そうでなければ、​今ここに​いるはずは​ありません。​私たちは​犠牲を​捧げ、​主から​任せられた​<タラントン>を​巧く​使う​努力を​しています。​神の​助けを​受けて、​人々の​救いを​望む心が​熱く​燃えているからです。​ところで、​今に​始まった​ことでは​ありませんが、​善意が​あるにも​かかわらず、​「ファリサイ派や​ヘロデ派の​人」​11の​共謀する​罠には​まってしまうことも​考えられます。​キリスト者であるからには​当然神の​権利を​守るべきでありながら、​悪の​勢力に​惑わされ、​悪と​結託し、​信仰に​おける​兄弟や​救い主に​仕えんと​する​人々に​巧みに​近づく​輩―このような​輩に​陥れられる​ことが​あり得るのです。

​ 賢明に​なってください。​言葉も、​行いも、​自然であるように。​問題が​あれば​根底にまで​立ち入って​解決してください。​上辺を​撫でるだけでは​役に​立ちません。​キリスト者と​しての​義務を​立派に​果た​そうと​心から​望むなら、​相手も​自分も​不愉快な​思いを​経験するだろう​ことは、​今から​覚悟しておくべきでしよう。

矯正すべき​ときや、​悲しみを​与えるような​決定を​下さなければならない​ときは、​最初から​最後まで​苦しむのは​私自身です。​これは​知っておいて​欲しい。​ただし、​私は​特に​感傷的な​人間と​いうわけでは​ありません。​動物は​涙を​流せないが、​人間すな​わち神の​子は​泣けると​思うと​心が​慰められます。​義務を​忠実に​果た​そうと​努めるなら、​時には​苦しい​こともあるのです。​他人に​嫌な​思いを​させたくない​一心から、​何と​しても​苦しみを​避けようと​努めるのは、​楽であるには​違いないが​道を​踏み外すことになります。​この​種の​遠慮には、​往々に​して、​自分は​苦しみたくないと​いう​逃げの​態度が​潜んでいるからです。​他人に​真剣な​忠告を​与えて​気分の​いい​人は​いません。​しかし、​言うべきことを、​言うべき​ときに​言わなかった​人が、​地獄には​大勢いる​ことを​忘れないでください。

​ ここにも​何人かの​医者が​おられるが、​再び医学を​例に​あげる​厚かましさを​お許しください。​間違った​ことを​言ってしまうかもしれませんが、​内的生活の​例と​しては​ぴったりだと​思うのです。​傷を​治すに​当たって、​医者は​まず患部を​洗い、​傷の​周辺も​同様に​洗います。​こう​すれば​傷口が​痛むことは​充分承知しているが、​そうしておかないと​後でもっと​ひどい​痛みに​襲われる​ことも​よく​知っているからです。​続いて、​消毒薬を​塗ります。​傷は​うずき​(私の​故郷では​「さす」と​言いますが)​苦痛を​与える。​しかし、​黴菌が​入らないように​するには​こうする​ほか​仕方​ないのです。

​ 身体の​健康の​ために、​ほんの​少し​擦り剥いただけでも​このような​治療を​しなければならないと​すれば、​人間の​中枢神経である​霊魂の​健康と​いう​大事を​守る​ために、​洗浄や​放血、​払拭、​消毒を​施さず、​また​苦痛を​忍ばなくても​よいと​言えるでしょうか。​賢明な人でありたいなら、​干渉すべき​ときには​干渉しなければならず、​義務から​逃げ出すわけには​ゆきません。​避けて​通ろうと​するのは​思慮の​欠如を​あらわすだけでなく、​時には、​正義と​剛毅に​反する​行為と​なってしまいます。

​ キリスト者が、​神と​人に​対して​正しい​生き方を​しようと​望むなら、​あらゆる​徳を、​少なくとも​潜在的に​もっている​必要が​あります。​「でも​神父さま、​私には​色々と​弱い​ところが​あるのですが…」とおっしゃるのですか。​それなら​こう​答えましょう。​たとえ自分が​病気、​それも​慢性の​病に​苦しんでいると​しても、​医者は​患者を​治すのでは​ありませんか。​自分が​病気で​あれば​患者の​処方​箋を​書く​ことも​できないのでしょうか。​他人を​治療するには、​自らの​病を​克服するのと​同じように、​必要な​知識を​患者に​当てはめれば​よいのです。

弱さに​つける​薬

神のみ​前で、​勇気を​出して​良心の​糾明を​してください。​皆さんも​私同様、​毎日、​無数の​失敗を​している​ことに​気が​つくでしょう。​たとえ根こそぎには​できないに​しても、​神の​助けを​借りて​失敗を​繰り返さないよう​戦うなら、​重大な​ことには​なりません。​それどころか、​神の​恩寵に​応える​努力さえ​すれば、​自分の​弱さを​乗り越えて、​他人の​大きな​欠点を​補うのにも​役立ちます。​自分も​同じように​弱く、​どのような​過ちを​犯し、​どのような​悪事を​働くかも​知れないと​分かれば、​他人を​もっと​よく​理解する​繊細な​心を​もつようになり、​同時に、​さらに​心を​尽くして​神を​愛すべきことが​理解できるようになるのです。

​ 神の​子たる​信者は、​あの​偽善者たちが邪な心で​主に​囁いた​「だれを​もはばからない」12と​いう​言葉を​正直に​実行しつつ、​人々を​助けなければなりません。​つまり、​えこひいきは​断固と​して​避けなければならないのです。​それには、​あれや​これやの​事情に​よって、​あるいは​見た​ところ​人間的な​理由しかない​場合も​あるでしょうが、​いずれに​しても、​神が​私たちの​傍らに​いるように​配慮された​人々を、​まず​大切にしなければなりません。

「真理に​基づいて​神の​道を​教える」13。​説き教える​こと。​とにかく、​嘘偽りの​ない​真理、​神の​道を​教えるのです。​自分の​欠点が​他人に​知られるのを​恐れないでください。​私は、​内的戦いの​状況と、​忠実に​神に​仕える​ために​いろいろ​改善したいと​思う​点を、さらけ出すように​しています。​自分の​惨めな​ところを​根こそぎにしようと​努力するなら、​すでに​神への​小道を​歩んでいる​しるしと​言えるでしょう。​傍目にも​明らかな​失敗が​あるにしても、​まず生活の​模範に​よって、​続いて​言葉で、​神へ​至る​道を​人々に​示さねばなりません。​ちょうど​主が、​「行い、​また​教え​始められた」14ように。

​ 私が​皆さんを​たい​へん愛している​こと、​そして、​無限に​善い方、​この​上ない父である​御父の​愛は、​私の​その​愛よりもはるかに​深いと​いう​事実を、​まず​保証します。​次いで、​私には、​皆さんが​イエスと​その​教会、​つまり​イエスの​羊の​群れを​愛するよう手助けする​義務が​あり、​この​義務遂行に​ついては​誰にも​負けないつもりである​ことを​考えていただければ、​私が​皆さんを​非難する​ことなど​ありえない​ことも​お分かりいただけるでしょう。​それにも​かかわらず、​説教や​個人的な​話し合いの​中で、​皆さんの​過ちを​指摘するような​ときは、​皆さんを​苦しませる​ためではなく、​かえって、​一緒に​もっと​深く​主を​愛するようになりたい​一心からである​ことを、​理解していただきたいと​思います。​諸徳の​実行に​力を​入れる​べきだと​主張する​ときも、​実は​私にも​それが​必要である​ことを​よく​自覚しています。

ある​時、​恥知らずな​人が、​失敗の​経験は​同じ​失敗を​何度も​繰り返すのに​役立つだけだ、​と​言いました。​しかし​私は、​賢明で​あれば、​そのような​不運な​失敗を​巧く​活用して、​自らを​戒める​機会、​自己を​改善する​機会となし、​聖性への​道を​さらに​前進する​決心を​立てるはずであると​申し上げたい。​神に​仕える​生活に​おいて​味わう​失敗と​成功の​中から、​神への​愛を​深める​機会を​得ると​共に、​キリスト者で​あり市民である​者の​義務と​権利を、たとえ辛くとも​果た​そうと​堅く​決心してください。​臆病にならず、​名誉も​責任も​避けないよう​努力しましょう。​神の​栄光と​隣人の​善のみを​誠実に​求めるにも​かかわらず、​偽の​兄弟たちが​巻き起こす反対に​出遭うこともあるでしょうが、​驚かないでください。

​ とにかく、​賢明に​ならなければならない。​何の​ために?​正しい​人と​なり、​愛に​生き、​神と​人々に​効果的に​仕える​ためです。​賢明の​徳が​「諸徳の​母」​15とか​「諸徳の​馭者」​16とか​呼ばれるのは​実に​当を​得ていると​言えます。

チェザルの​ものは​チェザルヘ

福音書の​場面を​よく​注意して​読み、​私たちの​行いの​指針と​なるべき徳に​関する​教えを​活用しましょう。​偽善と​追従に​みちた​前口上を​終えたのち、​ファリサイ派と​ヘロデ派の​人たちは​問題を​提起します。​「ところで、​どう​お思いでしょうか、​お教えください。​皇帝に​税金を​納めるのは、​律法に​適っているでしょうか、​適っていないでしょうか」​17。​「彼らの​悪知恵に​注目しなさい」と、​聖ヨハネ・クリゾストムは​言っています。​「なぜなら​彼らは、​どちらが​良いのか、​どちらが​適当なのか、​どちらが​正当なのかを​お教えくださいと​言うのではなく、​どう​思うかと​尋ねているからだ。​主を​裏切り者に​仕立て、​政治権力者たちの​敵にしようと​いう​妄執にとらわれていたのである」18。​しかし、​「イエスは​彼らの​悪意に​気づいて​言われた。​『偽善者たち、​なぜ、​わたしを​試そうと​するのか。​税金に​納める​お金を​見せなさい』。​彼らが​デナリオン銀貨を​持って来ると、​イエスは、​『これは、​だれの​肖像と​銘か』と​言われた。​彼らは、​『皇帝の​ものです』」​言った。​すると、​イエスは​言われた。​『では、​皇帝の​ものは​皇帝に、​神の​ものは​神に​返しなさい』」19。

​ お分かりのように、​古くから​このような​ジレンマに​陥らせるような​論法が​使われている​ことは、​主の​お答えが​疑いようもなく​明々​白々であると​同じくらい​明らかです。​神に​仕える​ことと​人々に​仕える​こととの​間に​対立は​ありえません。​市民と​しての​権利義務の​履行と​宗教上の​権利義務の​履行との​間にも、​また、​社会の​建設・改善の​義務と​この​世を​天の​祖国へ​通じる​旅路と​考える​こととの​間にも、​対立は​ありえないのです。

​ この​点にも、​私が​飽く​ことなく​説き続けている​<生活の​一致>の​大切さが​あらわれています。​<生活の​一致​>こそ、​職業と​家庭、​社会関係と​いう、​日常の​環境の​直中で​聖人に​なる​ために​努力する​人に​とって、​欠かす​ことのできない​条件です。​「だれも、​二人の​主人に​仕える​ことは​できない。​一方を​憎んで​他方を​愛するか、​一方に​親しんで​他方を​軽んじるか、​どちらかである」20。​イエスは​<生活の​一致>を​強調しておられます。​神の​召し出しに​無条件で​応え、​神のみを​選ぶなら、​信者は​すべてを​神に​差し向けると​共に、​正義の​点から​見て​当然​人々の​権利に​属する​ものを、​人々に​与える​ことができるようになるはずです。

一見した​ところ​敬虔に​見える​態度を​隠れ蓑と​して、​他人の​ものを​奪うような​行為は​許されません。​「『神を​愛している』と​言いながら​兄弟を​憎む者が​いれば、​それは​偽り者です」21。​しかしまた、​創造主で​あり​私たちの​父である​神に​当然捧げるべき愛と​礼拝を​惜しむなら、​それも​自らを​偽る​ことに​ほかなりません。​主の​掟に​従わないばかりか、​従えば​人々への​奉仕が​できなくなると​いう​人は、​自分で​自分を​だましているのです。​この​点に​ついては​聖ヨハネが​はっきりと​警告しています。​「神を​愛し、​その掟を​守る​ときは​いつも、​神の​子供たちを​愛します。​神を​愛するとは、​神の​掟を​守る​ことです。​神の​掟は​難しい​ものでは​ありません」​22。

​ 愛と​いう​名目の​下、​また他の​場合には​能率本位を​口実に、​色々と​新説を​出しては​熱弁を​ふるい、​何とか​して​神への​礼拝と​賛美を​勧めないようにしようとする​人が​大勢いる​ことは​ご存じでしょう。​主を​称える​行為は、​何事に​よらず​大げさに​映るらしいのです。​皆さん方は、​そのような​考えを​無視して、​自分の​道を​歩み続けてください。​彼らの​する​ことと​言えば、​口論を​重ねるだけで​何の​実りももたら​さず、​せいぜい​人々の​躓きに​なるだけです。​結局は、​イエスの​掟を​無視させ、​自らを​捧げないようにさせる、​つまり​正義の​徳を​少ししか​実行しないように​仕向けるだけなのです。

神と​人に​対する​正義

まず、​神に​対する​正義を​しっかりと​心に​刻みつけ、​それを​行いに​表すよう​努めましょう。​嫉妬や​恨み、​利己主義や​貧欲に​満ちた​人々の​<正義、​正義>と​いう​呻き声と、​本当の​「義に​飢え渇く​人」​23との​違いを​区別する​試金石は、​神に​対する​正義です。​創造主で​あり贖い主である​御方から、​あり余る​ほど​豊かな​宝を​受けていながら​感謝の​意を​示さないと​すれば、​それこそ​正義にもとる​忘恩と​言えます。​真に​正義にかなう​人に​なるよう​努めているのなら、​「あなたの​持っている​もので、​いただかなかった​ものが​あるでしょうか」​24と​言われるように、​幾度と​なく、​神に​依存しきっている​自らの​状態を​考える​ことでしょう。​すると、​心は​感謝に​溢れ、​ゆきすぎと​思える​ほど​私たちを​愛してくださる​神に、​なんとか​して​応えたいと​いう​望みが​湧いてきます。

​ そうして、​孝愛心は​息づき、​神との​心と​心の​触れ合いが​始まります。​私たちに​そこまで​要求する​権利が​主に​あるのだろうかと、​偽善者たちが​疑いを​吹き込んでくることが​あるかもしれません。​そんな​時は​欺かれないように​注意して、​「陶工の​手中に​ある​粘土のように」25素直に、​すべてを​おいて​神のみ​前に​控え、​頭を​垂れて信仰を​告白してください。​「わが​主、​わが​すべてよ」と。​たとえ、​不意の​災いに​見舞われ、​不当な​迫害に​襲われても、​新たな​喜びに​満たされて​歌う​ことができるでしょう。​「神の​いと​正しく、​いと​愛すべきみ旨は、​万事に​越えて​行われ、​全う​され、​賛美され、​永遠に​称えられますように。​アーメン、​アーメン」と。

喩え話に​登場する​一万タラントンの​負債を​抱えた召使い26の​状態は、​神のみ​前に​おける​私たちの​状態を​見事に​映し出しています。​私たちの​場合も、​寛大な​神から​受けた​莫大な​借り、​さらに​罪を​犯す毎に​増やしてきた​負債を​返すすべとてありません。​いくら​大胆に​頑張ってみた​ところで、​主が​赦してくださっただけの​額を​返済する​ことは​できないのです。​けれども、​私たちが​正義の​枡を​満たせない​ときは、​それにもまして​神が​慈しみで​埋め合わせを​してくださる。​神は​満足して​私たちの​負債を​帳消しに​してくださいます。​神は​恵み深く、​その​慈しみは​とこしえ27なのです。

​ お分かりのように、​喩え話の​始めと​終わりは​全く​対照的です。​莫大な​借金を​帳消しに​して​もらったばかりの​あの​召使いは、​たった​百デナリオンの​債務者を​憐れもうともしませんでした。​ここに​至って​召使いの​狭い​心が​明らかに​なります。​道理から​言えば、​貸金の​取り立てを​して​悪いわけでは​ありません。​それにも​かかわらず、​何かしっくりこない。​これほど​不寛容な​態度は​本当の​正義ではないと、​私たちには​思えるのです。​つい​先ほど​好意と​理解に​満ちた​憐れみを​示して​もらったばかりの​人が、​自分の​債務者に​向かって​ほんの​わずかの​辛抱さえできないと​いうのは、​どう​考えても​正義にかなうとは​言えません。​正義とは、​権利と​義務とを​杓子定規に​適用する​ことではないし、​算数のように​引き算や​足し算で​解決できる​ものでもないのです。

キリスト教の​徳は​もっと​高い​ところを​目指します。​すぐに​感謝の​心を​表し、​親切で​寛大、​順境に​あっても​逆境に​あっても​常に​忠実で​誠実な友であり、​法を​遵守し正当な​権威を​尊重し、​問題に​対処するに​当たって​自分の​非を​悟れば、​すすんで​直ちに​改めます。​そして​正義の​人であるなら、​何よりも、​職業、​家族関係、​社会関係から​生ずる​約束を​しっかりと​守ります。​大げさに​触れまわる​ことなく​身を​入れて​働き、​義務でもある​権利の​行使を、​決しておろそかに​しないはずです。

​ 怠け者が​正義を​口に​しても、​信じる​わけには​ゆきません。​愛する​イタリアの​表現を​借りれば​「楽しい​物臭さ」とでも​呼べそうな​生き方を​し、​仕事もしないわけですから、​公正の​基本原則を​時には​ひどく​欠く​ことに​なるからです。​神は​「耕し、​守らせる」​2​8ために​私たちを​お造りに​なりました。​人々も​家族の​者たちも、​私も、​人類も、​つまる​ところ、​私た​ちがいかに​効果的に​働くかに​かかっているのです。​正義とは​単に​物的な​富を​分配する​ことであると​考えるような、​情けない​正義観念は​もたないようにしましょう。

正義と、​自由と​真理への​愛

福音書の​言い方に​倣うと、​私が​「聞く​耳」​29を​もつようになった​とき、​つまり​物心が​ついた​頃には、​すでに​社会問題と​いう​言葉が​叫ばれていました。​と​言っても、​別に​どうこう​言う​ほどではなく、​ずいぶん​昔から​あったのです。​たぶん、​人間が​何らかの​組織作りを​始める​ことに​よって、​年齢、​知能、​仕事能力、​興味や​関心、​個性などの​相違が​目に​見えてはっきりしてきた​ときに​生じたのでしょう。

​ 社会階級が​どうしても​避けられない​ものなのかどうか​私には​分かりませんが、​いずれに​しても、​この​件に​ついて​話すのは​私の​役目では​ありませんし、​まして、​聖堂に​居るのは、​神に​ついて、​また神と​語り合う​ためですから、​この​件に​ついて​ここで​話そうとは​思っていません。​いずれに​せよ、​神以外に​ついては、​話すつもりも​ありません。

​ 皆さんは、​摂理に​よって​自由で​合法的な​討論に​任せられている​諸問題に​ついて​好きなように​考えてください。​私は​キリストの​司祭ですから、​さらに​高い​見地から​物事を​眺め、​常に​正義を​行う​義務、​また​必要なら、​英雄的な​行為が​要求されても​正義を​行うべきことを​お話ししなければならないと​考えています。

「キリストは​わたしたちを​自由の​身に​してくださった」​30のですから、​私たちには​すべての​人々の​自由を​守る​義務が​あります。​他人の​権利を​尊重しないで、​どうして​自分の​自由を​主張する​ことができるでしょうか。​真理も​私たちが​広めるべき事柄です。​「真理は​あなたたちを​自由に​する」​31と​仰せられたからです。​無知は​隷属を​強いる​ことになります。​すべての​人の​生きる​権利、​人と​しての​尊厳を​保つために​必要な​ものを​所有する​権利、​働き休息する​権利、​身分を​選ぶ権利、​家庭を​つくり、​結婚​生活に​おいて​子供を​もうけ、​子供に​教育を​与える​権利、​病気の​時や​老齢期を​安らかに​過ごす権利、​文化・教養を​身に​つける​権利、​合法的な​目的の​ために​グループを​つくる​権利、​そして、​正しい​良心が​あれば​万物の​中に​神の​足跡を​見つけ得るわけですから、​何よりも​まず、​全く​自由に、​神を​知り、​神を​愛する​権利を​擁護しなければなりません。

​ 正に​このような​理由から、​マルクス主義は​キリスト教の​信仰と​両立し得ない、と​繰り返さなければならないのです。​こうは​言っても、​私は​政治に​首を​突っ込んでいるわけではなく、​教会の​教えを​述べているだけです。​人々の​心から、​愛に​溢れた​神の​現存を​消し去る​こと、​これを​基盤に​するような​主義主張ほど​信仰に​反する​ものが​あるでしょうか。​正義を​行う​ために​マルクス主義など​必要は​ないと、​誰の​耳にも​届く​よう​大声で​叫ばなければなりません。​重大な​誤謬である​マルクス主義は、​単に​唯物的な​考え方に​基づいた​解決法しか​取らず、​平和の​神を​無視するわけですから、​人々の​幸せと​相互理解を​妨げてしまうのです。​キリスト教には、​常に​あらゆる​問題解決に​役立つ光が​あります。​「言葉や​口先だけではなく、​行いを​もって​誠実に」32カトリック者たらんと​努めさえ​すれば​よいのです。​この​点を、​機会が​訪れる​毎に、​時には​機会を​求めて、​恐れず​人々に​告げ知らせましょう。

正義と​愛徳

福音書を​読んで、​主の​生涯の​各場面の​教えを、​ひとコマずつ​黙想してください。​中でも、​地の​果てから​果てまで​主の​教えを​伝える​使者・​使徒と​なるべき​一握りの​人々に、​準備と​してお与えに​なった​勧めや​注意を​よく​考えて​欲しいのです。​使徒たちの​道標と​なるべき規準と​して​何を​挙げる​ことができるでしょう。​愛徳に​ついての​新しい​掟でしょうか。​使徒たちは​愛に​よって、​異教の​堕落した​世界に​一歩一歩道を​切り拓いてゆきましたから。

​ 正義一辺倒では​人類の​抱える​大問題を​解決する​ことなど​到底できません。​正義のみを​闇雲に​実行すれば、​傷つく​人が​出てきて​当然です。​人々は、​神の​子と​しての​人間の​尊厳を​認めよと​言うでしょう。​「神は​愛」​33ですから、​すべてを​優しくし、​神化します。​従って​正義は、​愛徳に​包まれ、​愛に​支えられて​行うべきです。​神の​愛が​あれば、​容易に​隣人を​愛し、​人間的愛を​清め、​そして​高めてくれますから、​いつも​神の​愛を​動機に​しなければなりません。​厳格な​正義を​超えて、​深くて​豊かな​愛へと​進むのは​容易な​ことでは​ありません。​また、​そこまで​進む人が​大勢いると​いうわけでもありません。​出発点あたりで​満足する​人もいます。​彼らは​正義など​おかまいなしに、​わずかばかりの​慈善を​愛徳だと​思い込んでしまい、​それだけでは​果た​すべき義務の​一部​分に​過ぎない​ことに​気づこうとも​せず​ご満悦なのです。​ちょうど​ファリサイ派の​人々が、​週に​二度の​断食と​全財産の​十分の​一税を​支払うだけで​律法の​枡を​溢れんばかりに​満たしていると​考えていたように​34。

愛徳とは​寛大に​正義を​超える​ことですが、​それには​第一に、​義務の​履行が​要求されます。​まず​正当な​ところから​始まり、​平等を​狙う。​しかし、​愛と​呼べる​ところまで​行くには、​非常に​上品で​心細やか、​丁重で​優しい​態度、​一言で​いえば、​「互いに​重荷を​担いなさい」と​いう​使徒聖パウロの​勧めを​実行しなければなりません。​「そのように​してこそ、​キリストの​律法を​全う​する​ことに​なるのです」​35、​つまり、​十全な​愛に​生き、​キリストの​命令を​果たしている​ことに​なるのです。

​ 世の​母親ほど、​明らかに​この​正義と​愛との​つながりを​教える​模範は​ないと、​私は​考えます。​子供全員に​同じ愛を​注ぎますが、​正に​同じ愛が​あるから​こそ、​一人​ひとりに​対しては​<不平等の​正義>を​実行し、​それぞれに​異なった​接し方を​します。​一人​ひとり異なる​存在であるからです。​隣人に​対しても​同じで、​愛は​正義を​補い、​そして​完成させます。​人に​応じて​異なる​接し方を​しなければなりません。​悲しむ人には​喜びを、​教育の​ない​人には​知識を、​孤独に​沈む人には​愛情を、と​いう​ふうに。​定義に​よれば、​正義とは、​各自が​受けるべきものを​各自に​与える​ことであって、​全員に​同じ​ものを​与える​ことでは​ありません。​非現実的で​夢のような​平等主義こそ、​ひどい​不正義の​源に​ほかならないのです。

​ 子に​対する​母親のような​態度を​保とうと​すれば、​「ヒトの​子が、​仕えられる​ためではなく​仕える​ために​(…)​来たのと​同じように」36とお教えに​なった​イエス・キリストのように、​自分の​ことを​忘れて、​人々の​役に​立つことのみを​唯一の​望みとしなければなりません。​その​ためには、​自分の​意志を​神の​お望みに​従わせ、​すべての​人々の​ために​働き、​永遠の​幸せと​人々の​安寧の​ために​戦わなければならないのです。​依託と​奉仕の​生活を​営む人は​正義の​人であると​言えますが、​その​正義の​人になろうと​思うなら、​今​述べた​以外に​道は​ないでしょう。

非現実的だと​考える​人が​いるかもしれませんが、​そう​思われても​私は​一向にかまいません。​たとえそれが​愛徳を​信じているからであったとしても、​これからも​信じ続ける​ことを​約束します。​そして​私は、​主が​この​世で​生きながらえさせてくださる​限り、​キリストの​司祭と​して、​唯一の​父なる​神の​子であるが​ゆえに​兄弟である​人々の​間に、​一致と​平和が​保たれ、​人間が​互いに​理解し合い、​信仰と​いう​唯一の​理想を​すべての​人々が​分かち合う​よう、​努力を​続けます。​<いとも​賢明>に​して​<信実な​>聖母マリアと、​その​浄配聖ヨセフ・完成された​義人37の​模範に​手助けを​お願いしましょう。​今まで​黙想してきた​種々の​徳を、​神の​御子イエスのみ前で​実行な​さった​お二人は、​私たちが​これらの​徳を​一つ​ひとつしっかりと​自分の​ものとし、​いついかなる​ときも​主に​ふさわしい​弟子と​して、​賢明と​正義と​深い​愛徳の​人と​なる​ことができるよう、​恩寵を​取り次いでくださる​ことでしょう。

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