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一見した​ところ​敬虔に​見える​態度を​隠れ蓑と​して、​他人の​ものを​奪うような​行為は​許されません。​「『神を​愛している』と​言いながら​兄弟を​憎む者が​いれば、​それは​偽り者です」21。​しかしまた、​創造主で​あり​私たちの​父である​神に​当然捧げるべき愛と​礼拝を​惜しむなら、​それも​自らを​偽る​ことに​ほかなりません。​主の​掟に​従わないばかりか、​従えば​人々への​奉仕が​できなくなると​いう​人は、​自分で​自分を​だましているのです。​この​点に​ついては​聖ヨハネが​はっきりと​警告しています。​「神を​愛し、​その掟を​守る​ときは​いつも、​神の​子供たちを​愛します。​神を​愛するとは、​神の​掟を​守る​ことです。​神の​掟は​難しい​ものでは​ありません」​22。

​ 愛と​いう​名目の​下、​また他の​場合には​能率本位を​口実に、​色々と​新説を​出しては​熱弁を​ふるい、​何とか​して​神への​礼拝と​賛美を​勧めないようにしようとする​人が​大勢いる​ことは​ご存じでしょう。​主を​称える​行為は、​何事に​よらず​大げさに​映るらしいのです。​皆さん方は、​そのような​考えを​無視して、​自分の​道を​歩み続けてください。​彼らの​する​ことと​言えば、​口論を​重ねるだけで​何の​実りももたら​さず、​せいぜい​人々の​躓きに​なるだけです。​結局は、​イエスの​掟を​無視させ、​自らを​捧げないようにさせる、​つまり​正義の​徳を​少ししか​実行しないように​仕向けるだけなのです。

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