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正義と​愛徳

福音書を​読んで、​主の​生涯の​各場面の​教えを、​ひとコマずつ​黙想してください。​中でも、​地の​果てから​果てまで​主の​教えを​伝える​使者・​使徒と​なるべき​一握りの​人々に、​準備と​してお与えに​なった​勧めや​注意を​よく​考えて​欲しいのです。​使徒たちの​道標と​なるべき規準と​して​何を​挙げる​ことができるでしょう。​愛徳に​ついての​新しい​掟でしょうか。​使徒たちは​愛に​よって、​異教の​堕落した​世界に​一歩一歩道を​切り拓いてゆきましたから。

​ 正義一辺倒では​人類の​抱える​大問題を​解決する​ことなど​到底できません。​正義のみを​闇雲に​実行すれば、​傷つく​人が​出てきて​当然です。​人々は、​神の​子と​しての​人間の​尊厳を​認めよと​言うでしょう。​「神は​愛」​33ですから、​すべてを​優しくし、​神化します。​従って​正義は、​愛徳に​包まれ、​愛に​支えられて​行うべきです。​神の​愛が​あれば、​容易に​隣人を​愛し、​人間的愛を​清め、​そして​高めてくれますから、​いつも​神の​愛を​動機に​しなければなりません。​厳格な​正義を​超えて、​深くて​豊かな​愛へと​進むのは​容易な​ことでは​ありません。​また、​そこまで​進む人が​大勢いると​いうわけでもありません。​出発点あたりで​満足する​人もいます。​彼らは​正義など​おかまいなしに、​わずかばかりの​慈善を​愛徳だと​思い込んでしまい、​それだけでは​果た​すべき義務の​一部​分に​過ぎない​ことに​気づこうとも​せず​ご満悦なのです。​ちょうど​ファリサイ派の​人々が、​週に​二度の​断食と​全財産の​十分の​一税を​支払うだけで​律法の​枡を​溢れんばかりに​満たしていると​考えていたように​34。

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