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愛徳とは​寛大に​正義を​超える​ことですが、​それには​第一に、​義務の​履行が​要求されます。​まず​正当な​ところから​始まり、​平等を​狙う。​しかし、​愛と​呼べる​ところまで​行くには、​非常に​上品で​心細やか、​丁重で​優しい​態度、​一言で​いえば、​「互いに​重荷を​担いなさい」と​いう​使徒聖パウロの​勧めを​実行しなければなりません。​「そのように​してこそ、​キリストの​律法を​全う​する​ことに​なるのです」​35、​つまり、​十全な​愛に​生き、​キリストの​命令を​果たしている​ことに​なるのです。

​ 世の​母親ほど、​明らかに​この​正義と​愛との​つながりを​教える​模範は​ないと、​私は​考えます。​子供全員に​同じ愛を​注ぎますが、​正に​同じ愛が​あるから​こそ、​一人​ひとりに​対しては​<不平等の​正義>を​実行し、​それぞれに​異なった​接し方を​します。​一人​ひとり異なる​存在であるからです。​隣人に​対しても​同じで、​愛は​正義を​補い、​そして​完成させます。​人に​応じて​異なる​接し方を​しなければなりません。​悲しむ人には​喜びを、​教育の​ない​人には​知識を、​孤独に​沈む人には​愛情を、と​いう​ふうに。​定義に​よれば、​正義とは、​各自が​受けるべきものを​各自に​与える​ことであって、​全員に​同じ​ものを​与える​ことでは​ありません。​非現実的で​夢のような​平等主義こそ、​ひどい​不正義の​源に​ほかならないのです。

​ 子に​対する​母親のような​態度を​保とうと​すれば、​「ヒトの​子が、​仕えられる​ためではなく​仕える​ために​(…)​来たのと​同じように」36とお教えに​なった​イエス・キリストのように、​自分の​ことを​忘れて、​人々の​役に​立つことのみを​唯一の​望みとしなければなりません。​その​ためには、​自分の​意志を​神の​お望みに​従わせ、​すべての​人々の​ために​働き、​永遠の​幸せと​人々の​安寧の​ために​戦わなければならないのです。​依託と​奉仕の​生活を​営む人は​正義の​人であると​言えますが、​その​正義の​人になろうと​思うなら、​今​述べた​以外に​道は​ないでしょう。

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