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今、​聖櫃の​中から​私たちを​見守っておられる​神のみ​前で​―イエスが​近くに​いてくださるので​力強い​限りですから​―魂を、​喜び、​それも​「希望の​喜び」3で​満たす神の​甘美な賜物、​希望の​徳に​ついて​黙想しましょう。​忠実を​保てば、​神の​無限の​愛を​受ける​ことができるはずですから。

​ 私たち全員、​つまり​私たち一人​ひとりに​とって、​この​地上には​二通りの​生き方しかない​ことを​忘れないでください。​一つは、​神を​お喜ばせする​ために​内的戦いを​続ける​神的な​生き方、​もう​一つは、​見た​ところ​人間の​ようだが、​神を​排除している​ために​動物的としか​言いようの​ない​生き方です。​信仰を​もたない​ことを​誇りに​するような​<似非聖人>には​感心できません。​もちろん​そういう​人たちを​も​私は​心から​愛しています、​兄弟である​すべての​人を​愛するのと​同じように。​ある​面では​英雄的とも​言える、​その​人々の​よい​意志を、​賞賛するに​吝かでは​ありません。​しかし、​同情の​念を​禁じ得ない​ことも​事実です。​彼らは、​神の​光と​熱、​そして​神の​希望から​生まれる​揺るぎない​喜びである​<対神徳>を​欠いていると​いう​点で、​この​上なく​不幸な​状態に​いるからです。

​ 信仰に​即して​生きる​真摯な​キリスト者なら、​超自然的な​見方を​保ち、​神のみを​見つめながら​生活します。​愛すべき社会の​中で、​何事に​つけ努力を​傾けるが、​常に​目は​天に​向けている。​聖パウロは​こう​断言しています。​「上に​ある​ものを​求めなさい。​そこでは、​キリストが​神の​右の​座に​着いておられます。​上に​ある​ものに​心を​留め、​地上の​ものに​心を​引かれないようにしなさい。​あなたがたは​死んだのであって」、​つまり、​洗礼を​受けて​この​世的な​ものに​死んだのであって、​「あなたが​たの命は、​キリストと​共に​神の​内に​隠されているのです」4。

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