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地上的な​希望と​キリスト教的な​希望

​「希望とは、​すべてを​失くした​あとで​失う​もの」と​いう​使い古された​格言は、​大勢の​人々の​口に​の​ぼります。​あたかも​希望が、​良心の​焦躁や​迷いを​忘れて生活する​ための​口実でしかないかのように。​あるいは、​良くない​行いを​正す​ことや​貴い​目標を​目指す​こと、​そして​何よりも​神との​一致と​いう​最高の​目標に​向かって​戦う​ことを、​永久に​延期する​ための​格好の​方便であるかのように。

​ これは​希望と​安逸との​混同に​ほかなりません。​本音を​言えば、​霊的な​善か​正当な​物的善かを​問わず、​そも​そも​真実の​善を​獲得せんと​する​熱意に​欠けています。​過もなく​不足も​ない​生活、​つまり、​生温い​見みせかけだけの​安定を​最高目標と​定め、​是が​非でも​その​安定を​守り通そうとする。​臆病で​怠惰な​おどおどした心は、​巧妙に​働く​利己主義に​負けて、​日々、​年々を、​大きな​望みを​持た​ぬかわりに、​恐れに​襲われる​こともなく​過したいと​思う。​大志を​抱いて​努力したり、​希望と​不安の​うちに​戦ったりする​ことを​嫌って、​何が​なんでも​恥と​涙は​避ける。​値打ちある​ものを​得ようと​すれば、​当然ながら​必要と​なる​努力と​犠牲を​このように​恐れ、​価値ある​ものを​獲得したいと​いう​希望まで​捨ててしまっては、​目的を​達成する​ことなど​到底できない​ことでしょう。

​ 反対に、​希望を​素朴な​空想であるかのように​思い、​時には​それが​文化的で​科学的な​考えであると​さえ​見せかけるが​ごとき​浅薄な​態度を​とる​人もいます。​誠実に​自己と​対決し、​断固と​して​善を​行う​態度を​とることができず、​希望するとは、​困難の​多い​人生の​悲哀を​前に​して、​一つの​夢、​ユートピア、​単なる​慰めを​追うことに​過ぎないと​考えているわけです。​そのような​偽りの​希望を​抱いた​ところで​何の​足しにもならないと​いうのに。

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