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ところで、​このように​臆病な​人や​軽薄な​人が​氾濫している​世の​中にも、​超自然的動機は​持たないけれど博愛の​精神から​高潔な​理想に​動かされ、​困っている​人を​助ける​ために​あらゆる​困難に​立ち向かい、​骨身を​けずって​寛大に​奉仕する​善意の​人は​大勢います。​高潔な​理想の​ために​敢然と​働く​この​人々の​頑張りを​見るに​つけ、​私は​敬いの​念、​時には​賞賛の​念にかられる​ほどです。​しかし、​今の​私の​務めは​大切な​ことを​思い出してくださる​よう​お願い​する​ことでした。​人間が​この​世で​進める​事業が​単に​人間の​ためだけの​ものなら、​いずれ​消えゆく​運命を​担って​生まれた​と​言っても​言い​過ぎではないでしょう。​次の​聖書の​言葉を​黙想してください。​「しかし、​わたしは​顧みた、​この​手の​業、​労苦の​結果の​ひとつ​ひとつを。​見よ、​どれも​空しく、​風を​追うような​ことであった。​太陽の​下に、​益と​なる​ものは​何もない」5。

​ すべては​このように​儚いと​いっても、​希望が​消えてしまうわけではない。​それどころか、​地上の​あらゆる​事業は​儚くも​消えゆく​ものであると​認めればこそ、​私たちの​仕事は​本物の​希望に​つながり、​人間の​仕事すべてが​高められて神との​出会いの​場に​変わる。​こうして​仕事は​永遠の​光に​照らされ、​幻滅の​暗闇を​追い​払ってくれるのです。​ところが、​万一、​その​儚い​事業を​唯一最高の​目的であると​考え、​自らの​永遠の​住居や​人間が​造られた​目的、​つまり主を​愛し、​礼拝し、​後に​天国で​主を​所有すると​いう​目的を​忘れてしまったならば、​いかに​輝かしい​事業も、​裏切りや​時には​人間を​卑しく​する​手段に​なり果ててしまう。​神を​知らずに​苦しみ、​神の​ほかに​幸福を​見つけようと​あく​せくした​聖アウグスチヌスの、​あの​有名な​本音の​叫びを​思い出してください。​「主よ、​あなたは​私たちを​あなたに​向けて​造りたまい、​私たちの​心は​あなたに​憩うまで​安らぎを​得ません」6。​この​世に​生きる間、​飽かす​ことなく​満足させる​神の​愛を​目的と​せず、​偽りの​希望に​騙される​ほど​不幸な​ことは、​たぶん​ほかに​ないでしょう。

​ 皆さん方も​同じであって​欲しいのですが、​私は、​自分が​神の​子であるとはっきり​知り、​自覚する​とき、​本当の​希望に​満たされます。​希望は​超自然の​徳です。​けれども、​人間に​注入されると​私たちの​本性に​ぴったりと​合いますから、​非常に​人間的な​徳でもあります。​最後まで​忠実を​保てば​必ず​天国に​到着する​ことができますから、​私は​幸せ者です。​天国で​手に​入れる​幸せを​考えると、​本当に​嬉しくなります。​「恵み深い神」7、​限りなく​善い方、​限りなく​慈しみ深い​御方です。​この​確信の​おかげで、​神の​足跡を​留める​ものだけが​永遠を​指し示す道標であり、​その​価値は​不朽である​ことが​容易に​理解できます。​希望の​徳を​もつからと​いって、​地上の​物事から​離れてしまうはずは​ない。​それどころか、​この​世の​現実を​新しい​面から、​キリスト的な​色合いのもとに、​見る​ことができるようになる。​あらゆる​ものの​中に、​堕落した本性と​創造主で​あり贖い主である​神との​関係を、​見つけ出すことができるのです。

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