216

新約聖書の​登場人物と​頻繁に​付き合ってください。​聖書に​あらわれる​感動的な​場面の​数々を​黙想しましょう。​主が​神と​しての​権威と​人間味溢れた​仕草を​お示しになる​場面、​あるいは、​人間的であると​共に​神的な​言葉遣いで​お話しに​なる​あの​荘厳な​赦しの​物語、​子供たちへの​疲れを​知らぬ愛の​話など。​あたかも​天国を​地上に​引き降ろしたような​それらの​場面は、​今も​福音書の​なかで​時間を​超えて​新鮮さを​保っています。​神の​保護を​感じて、​手で​触れる​ことができる​ほどです。​躓きを​ものとも​せずに​前進する​とき、​また、​転ぶたびに​起き​上がっては​やり直し、​神に​希望を​託しつつ内的生活を​続ける​ならば、​神の​ご保護を​感じとれないはずは​ありません。

​ 内外の​障害を​克服すべく​熱心に​戦う​意欲を​もたなければ、​賞を​獲得する​ことは​できません。​「『競技に​参加する​者は、​規則に​従って​競技を​しないならば、​栄冠を​受ける​ことができない』21。​また、​相手が​いなければ、​真の​戦いには​ならない。​それゆえ、​敵が​いないなら、​勝利の​冠も​得られない。​敗者の​いない​ところに、​勝利者が​いるは​ずが​ないからである」22。

​ 困難が​あっても​意気消沈する​ことなく、​かえって​それを​活用し、​キリスト者と​して​成長する​ための​刺激に​変えなければなりません。​戦えばこそ​聖化は​実現し、​使徒職は​一層の​効果を​上げるからです。​まず、​ゲッセマニの​園で、​続いて、​嘲りの​的と​なり、​孤独の​うちに​十字架に​かかった​イエス・キリスト、​その​キリストは​受難の​巨大な​重みを​感じながらも、​御父のみ​旨を​受け入れ、​愛されました。​このような​イエス・キリストを​黙想するに​つけ、​私たちは​キリストに​倣い、​キリストの​よい​弟子に​なる​ために、​主の​勧めを​心から​受け入れる​必要の​ある​ことが​よく​分かってきます。​「わたしに​ついて​来たい者は、​自分を​捨て、​自分の​十字架を​背負って、​わたしに​従いなさい」23。​そこで、​私は​好んで​イエスに​お願いします、​「主よ、​一日たりとも​十字架の​ない​日が​ありませんように」。​こうして、​神の​恩寵を​受けて​性格は​強められ、​惨めな​点が​多いにも​かかわらず、​神の​支えにまでなる​ことができるのです。

​ よく​考えて​ごらんなさい。​壁にくぎを​打ちつけても、​手応えが​なければ​何も​吊すことができません。​神の​助けに​すがって​犠牲を​捧げ、​自らを​鍛えなければ、​神に​役立つよい​道具に​なる​ことは​できないのです。​神の​愛の​ために​喜んで​艱難辛苦を​活用する​決心さえ​すれば、​困難や​不快な​こと、​煩わしく​辛い​ことなどを​問題に​せずに、​使徒聖ヤコブ、​聖ヨハネと​同じように、​「できます」​24と​叫ぶことも​できるでしょう。

この点を別の言語で