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私たちが​造られたのは、​この​世に​最終的な​神の​国を​建てる​ためでは​ありません9。​「この​世は、​苦しみの​ない​住居である​もう​一つの​世界への​道である」10からです。​だからと​言って、​私たち神の​子が​この​世の​諸活動に​無関心で​いるわけには​ゆきません。​神は​諸活動の​直中に​私たちを​お置きに​なりましたが、​それは、​この​世の​諸活動を​聖化し、​その​中に​聖なる​信仰を​浸透させる​ためです。​信仰のみが、​真実の​平和と​喜びを、​人々の​心の​中や​その​他色々な​環境にもたらすことができます。​これは​一九二八年以来​絶えず​説き続けてきた​考えです。​社会の​キリスト教化を​急が​なければなりません。​社会の​あらゆる​階層に​超自然的感覚を​植えつけ、​一人​ひとりが​互いに​日々の​義務、​仕事、​職務を、​恩寵の​レベルにまで​高めなければならないのです。​こうして​初めて、​人々の​職業は​すべて​新たな​希望に​照らされ、​時間を​超えて、​衰えを​知らぬものとなるでしょう。

​ 洗礼を​受けた​私たちは、​傷ついた​心を​癒して​鎮め、​そして​力づける、​キリストの​言葉の​運び手と​なりました。​主が​私たちの​中で​自由に​お働きに​なることができるよう、​常に​戦う​心構えを​示すべきです。​たとえ、​無能で​弱い​自分を​思い知り、​惨めさと​弱さが​肩に​重くの​しかかるのを​感じても、​神の​助けと​神ご自身に​希望を​託しております、​と​繰り返さなければなりません。​必要なら、​「希望する​すべも​なかった​ときに、​なおも​望みを​抱いて、​信じた」11アブラハムのように。​これが​できれば、​熱意を​新たに​して​働き、​そして​憎しみや​心配事、​無知や​無理解、​悲観的見方を​うち捨てて​泰然自若と​して​生きようと、​人々に​教える​ことができる。​神に​不可能は​ないからです。

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