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始める​人は​多いが、​完成させる​人は​わずかである。​神の​子たらんと​努力する​私たちは​その​「わずか」の​人々の​仲間に​入らなければなりません。​「事の​終わりは​始めに​まさる」1と​聖書に​あるように、​主の​賞賛に​値するのは、​愛を​込めて​最後まで​立派に​仕事を​完成させた​人だけである​ことを​忘れる​わけには​ゆきません。

​ すでに​別の​機会に​お聞きに​なったかもしれませんが、​いずれに​せよ、​非常に​教訓的で​分かり易い​話なので、​もう​一度​お話ししましょう。​ある​とき、​ローマ定式書の​中に​建物の​「最後の​石」​(落成)を​祝別する​祈りを​探していました。​多くの​人々の​何年にもわたる​忍耐強い汗と​努力の​結晶を​象徴的に​締めくくるのですから、​この​「最後の​石」には​重要な​意味が​あります。​ところが​驚いた​ことに、​この​種の​祈りは​なく、​結局、​「一般祝別」で​我慢しなければなりませんでした。​こういう​ものが​抜けているとはとうてい​考えられなかったので、​幾度も​丹念に​定式書を​調べてみましたが、​やはり​見つかりませんでした。

​ 神が​要求なさるように​永遠の​生命を​得るには、​仕事の​細部にまで​注意深く​気を​配り、​心を​込めて​仕事を​果たし、​仕事を​聖化しなければならない​ことを、​大勢の​キリスト者は​忘れ去っています。​神に​捧げるのなら、​仕事は​全力​投球の​結果と​して、​完全で​欠点が​なく、​また​細心の​注意を​払って​細部に​わたって​完成された​仕事であるべきです。​神は​<やっつけ仕事>を​お受けに​なりません。​「あなたたちは​傷の​ある​ものを​ささげてはならない。​それは​主に​受け入れられないからである」2と、​聖書は​戒めています。​従って、​一人​ひとりの​仕事、​毎日​その​ために​努力の​大半を​費やす仕事は、​神の​仕事、​神の​ための​仕事と​して、​創造主に​捧げる​ために​ふさわしい​捧げものでなければなりません。​簡単に​言えば、​完璧に​仕上げた​仕事でなければならないのです。

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