神の仕事

1960年2月6日


始める​人は​多いが、​完成させる​人は​わずかである。​神の​子たらんと​努力する​私たちは​その​「わずか」の​人々の​仲間に​入らなければなりません。​「事の​終わりは​始めに​まさる」1と​聖書に​あるように、​主の​賞賛に​値するのは、​愛を​込めて​最後まで​立派に​仕事を​完成させた​人だけである​ことを​忘れる​わけには​ゆきません。

​ すでに​別の​機会に​お聞きに​なったかもしれませんが、​いずれに​せよ、​非常に​教訓的で​分かり易い​話なので、​もう​一度​お話ししましょう。​ある​とき、​ローマ定式書の​中に​建物の​「最後の​石」​(落成)を​祝別する​祈りを​探していました。​多くの​人々の​何年にもわたる​忍耐強い汗と​努力の​結晶を​象徴的に​締めくくるのですから、​この​「最後の​石」には​重要な​意味が​あります。​ところが​驚いた​ことに、​この​種の​祈りは​なく、​結局、​「一般祝別」で​我慢しなければなりませんでした。​こういう​ものが​抜けているとはとうてい​考えられなかったので、​幾度も​丹念に​定式書を​調べてみましたが、​やはり​見つかりませんでした。

​ 神が​要求なさるように​永遠の​生命を​得るには、​仕事の​細部にまで​注意深く​気を​配り、​心を​込めて​仕事を​果たし、​仕事を​聖化しなければならない​ことを、​大勢の​キリスト者は​忘れ去っています。​神に​捧げるのなら、​仕事は​全力​投球の​結果と​して、​完全で​欠点が​なく、​また​細心の​注意を​払って​細部に​わたって​完成された​仕事であるべきです。​神は​<やっつけ仕事>を​お受けに​なりません。​「あなたたちは​傷の​ある​ものを​ささげてはならない。​それは​主に​受け入れられないからである」2と、​聖書は​戒めています。​従って、​一人​ひとりの​仕事、​毎日​その​ために​努力の​大半を​費やす仕事は、​神の​仕事、​神の​ための​仕事と​して、​創造主に​捧げる​ために​ふさわしい​捧げものでなければなりません。​簡単に​言えば、​完璧に​仕上げた​仕事でなければならないのです。

よく​注意してみると、​イエスの​生き方に​触れた​大勢の​人々の​感想の​なかに、​すべてを​言い​尽くしていると​思われる​言葉が​あります。​主の​奇跡を​目の​当たりに​して、​驚きかつ​熱狂した​群衆が​我知らず口に​した​叫びの​ことです。​「あの​方は​すべてを​よくなさった」3、​驚く​ほど​よくなさった。​人目を​奪うような​奇跡から、​誰の​目にも​留まらないような​些細で​日常的な​ことに​いたるまで、​「完全な​神、​完全な​人」4である​キリストは、​完璧に​なさいました。

​ 私は​キリストの​全生涯に​心酔していますが、​特に、​ベツレヘムや​エジプト、​ナザレでの​三十年間の​隠れた​生活には​つい心を​奪われてしまいます。​この​三十年に​わたる​長い​期間に​ついて、​福音書は​多くを​語りません。​従って、​物事を​表面的に​しか​見ない​人は​そこに​隠れている​深い​意味に​気づいていないようです。​しかし、​ずっと​主張してきたように、​師である​主の​生涯の​この​期間は、​たとえ描写されていなくても、​実に​雄弁に​述べています。​イエス・キリストの​生活は、​普通の​生活、​私たちと​同じ​生活であって、​仕事と​祈りで​充実した、​神的かつ​人間的な​生き方でした。​慎ましく​目立たない​あの​仕事場で、のちに​群衆の​前で​行われたように、​すべてを​完全に​なさったのです。

仕事は​神の​力に​あずかる​こと

人間は​創造された​最初の​瞬間から​働かねばならなかった。​これは​私が​言い出した​ことでは​ありません。​聖書の​最初の​頁を​開けば​充分​お分かりに​なるでしょう。​人類が​罪を​犯し、​その​結果、​死と​罪と​惨めさを​負うようになる前に​5、​神は​土から​アダムを​造り、​アダムと​その​子孫の​ために、​このように​美しい​世界を​お与えに​なりましたが、​それは​「耕し、​守るように」6させる​ためでした。

​ それゆえ、​仕事から​逃げ出そうとする​人には、​仕事とは、​なんらかの​形で​誰もが​果た​すべきものであり、​無情な​法律のように​課せられては​いるが、​同時に​素晴らしい​現実であると​いう​ことを​理解して​欲しいのです。​この​義務は​原罪の​結果と​して​生じたのでも、​近年の​発見に​よる​ものでもない​ことを​忘れないでください。​日々を​仕事で​満たし、​創造の​わざに​あずから​せる​ために、​この​世で​神が​私たちに​お任せに​なった​手段、​生活の​糧を​得、​同時に​「永遠の​命に​至る​実を​集め」​7る​ために​必要な​手段、​それが​仕事です。​「鳥が​高く​飛ぶために​生まれるように、​人間は​働く​ために​生まれる」8のです。

​ 幾世紀を​経た​今日でも、​こう​考える​人は​少ないとおっしゃるかもしれません。​大部分の​人は​それぞれの​理由で​働いています。​ある​人は​お金の​ため、​ある​人は​家族を​養う​ため、​また別の​人は​社会的地位を​高める​ためとか​能力を​伸ば​すため、​情欲を​満足させる​ためや​社会の​発展に​貢献する​ため、と​いった​具合に。​そして、​たいていの​場合は、​避けようにも​避けられず、​仕方​なく​働いています。

​ こういった​表面的で​利己主義的なさもしい​見方に​対しては、​みな​神の​子であり、​福音書の​喩え話に​登場する​あの​男のように、​父なる​神から​「わたしのぶどう​園に​行って​働きなさい」9と​招かれている​ことを、​まず​私たち自身が​思い出し、​また、​人々に​思い起こさせてあげる​必要が​あります。​個人的な​義務を​神の​命令と​して​受け取るよう​日々​努力すれば、​人間的にも​超自然的にも​最高完全に​物事を​やり遂げる​ことができるでしょう。​時には、​「いやです」​10と​答えた​長男のように​反抗する​こともあるでしょうが、​痛悔して​心を​改め、​義務遂行に​できるだけ​努力したい​ものです。

「一目​置かれるような​地位ある​人の​前に​出るだけでも​行儀よく​振舞うのであれば、​あらゆる​ところに​偏在なさる​神のみ​前、​私たちが​知り、​愛する​神のみ​前で、​どうして​言葉や​行い、​思いすべてに​おいて​常に​より​良くしようと​努めないのだろうか」​11。​神は​私たちを​ごらんに​なっている、​この​ことを​しっかり心に​刻みつけているなら、​また、​何を​するにも​例外なく​すべて​神のみ​前で​行うわけで、​神の​御眼を​逃れる​ものは​何ひとつない​ことに​気が​ついているなら、​本当に​注意深く​仕事を​やり​終えるでしょうし、​物事への​対応の​仕方も​異なってくる​ことでしょう。​何年も​前から​ずっと​説き続けてきましたが、​これが​聖性を​得る​ための​秘訣です。​神が​私たちを​お呼びに​なったのは、​皆が​神に​倣う​ため、​そして​社会の​直中に​いる​社会人と​して、​真面目な活動すべての​頂点に、​私たちの​主キリストを​据える​ためなのです。

​ ここまで​考えると、​次の​話が​もっと​よく​分かるのではないでしょうか。​万一、​自分の​仕事を​愛さないと​すれば、​あるいは、​聖人に​なる​ために​仕事を​真剣に​果た​そうと​決心していないのなら、​あるいは​職業を​持っていないと​すれば、​私が​話す仕事の​超​自然的な​意味を​理解する​ことは​決して​できません。​職業人に​なる​ための​条件を​欠いているからです。

私の​話を​聞いてくださる​人々が​聞き過ごしているか​どうか、​私には​すぐ​判ります。​自惚れているわけでは​ありません。​共に​神に​感謝を​捧げていただきたいので、​私事で​恐縮ですが、​お話しさせてください。​一九​二八年、​神の​お望みが​分かると​すぐに、​私は​すべきことを​始めました。​(苦しい​事も​甘美なことも​たくさん​送ってくださった​神に​感謝しています。​) 当時、ある​人々は​私を​気違い​扱いしていました。​別の​人々は​少しばかりの​理解を​示して​夢想家と​呼んでくれましたが、​それは​実現不可能な​夢を​追っていると​言いたかったようです。​欠点だらけの​私であり、​苦しみも​ありましたが、とにかくがっかりしないでがんばりました。​<計画>​その​ものは​私が​考え出したわけでは​ありませんでしたから、​困難の​さなかに​あっても​道は​どんどん​開け、​今日では​世界中に​広がりました。​また、​主が​ご自分の​計画である​ことを​人々に​お見せに​なりましたから、​たいていの​人は​ごく​当たり前の​教えだと​考えるようになっています。

​ ひとこと​言葉を​交わすだけで、​話を​理解してくださったか​どうか、​すぐに​判ると​申しました。​卵を​温めている​鴨の​巣に、​横から​誰かが​家鴨の​卵を​押しつけた​ときのような​ことは、​私には​起こりません。​何日か​経って​雛が​かえり、​おぼつかない​足どりであちらこちら​歩きまわるのを​見て​はじめて、​それは​自分の​雛ではない、​いくら教えても​ピョピョと​鳴く​ことは​できないと、​やっと​気が​つく。​このような​ことは​私には​起りません。​私に​背を​向けた​人にも、​せっかく​助けてあげようとしたのに​横柄な​態度を​示した​人にも、​悪意を​持った​ことは​ありません。​一九三九年ごろ、​学生グループの​黙想会の​ために​借りていた​建物での​ことですが、​その​建物の​壁の​透かし飾りの​言葉に​目を​引き付けられた​ことを​よく​覚えています。​「旅人よ、​おのが​道を​行け」。​本当に​有益な​教えでした。

本論から​逸れる​つもりは​ないのですが、​少し​脱線気味に​なった​ことを​お詫びします。​もとの​話に​戻りましょう。​仕事は​キリスト信者に​とって​欠く​ことのできない​本質的部分である​ことを​得心してください。​どこで​何を​していようと、​動機が​何であろうと、​自分の​選んだ​職業に​よって​聖人に​なれと、​主は​仰せに​なります。​神法に​反していない​限りどのような​仕事も​貴く、​神の​子と​しての​生き方の​特徴と​いうべき神愛の​流れに​乗っている、と​言えます。

​ 仕事の​話を​すると、​貧乏くじを​引いたような​顔を​して、​時間が​足りない、​時間が​足りない、と​言うくせに、​その実、​利己主義や、​せいぜい​人間的な​動機だけで​働く、​同僚の​仕事量の​半分も​できていない​人を​みると、​心配に​なってしまいます。​ここに​いる​私たちは​皆、​イエスとの​個人的な​話し合いを​中断する​ことなく、​医者、​弁護士、​会計士と​いった​仕事に​従事しています。​同僚の​中で​職業上の​名声の​ある​人、​真面目な人、​無欲の​奉仕を​する​人の​ことを​考えて​ごらんなさい。​仕事の​ためなら、​昼夜を​問わず​何時間も​費やしているでは​ありませんか。​学ぶべき​ところが​あるのではないでしょうか。

​ こう​お話ししながら、​私も​自分の​行いを​糾明しています。​この​質問を​自分に​投げかける​とき、​少々​恥ずかしくなって​神に​赦しを​お願いします。​私の​応じ方が​あまりにも​弱々しく、​神が​この​世で​私たちに​お任せに​なった​使命から​遠く​離れているように​思えるからです。​ある​教父は​書いています。​「キリストは​私たちを​この​世に​誕生させてくださった。​それは​私たちが​人々の​灯と​なり師と​なって、​パン種の​働きを​する​ためであった。​また、​人々の​間に​あっては​天使の​ごとく、​子供の​中では​大人らしく、​理性だけを​ふりか​ざす人間の​間では​霊的な​人と​なって、​種子と​なり実を​稔らせるようにとの​思し召しであった。​私たちの​生活が​このように​輝くなら、​口を​開く​必要は​ないだろう。​模範を​示せば、​言葉は​不要である。​私たちが真の​キリスト者である​ならば、​異教徒が​いるはずは​ない」12。

職業生活は​模範と​しての​価値を​持つ

使徒職とは​一連の​信心行為を​実行する​ことである、と​考えるのは​間違いです。​私たちは​キリスト信者であると​同時に、​社会人で​あり勤労者です。​本当に​聖人に​なりたいの​なら、​与えられた​義務を​模範的に​果たさねばなりません。​私たちを​急き立てるのは​イエス・キリストです。​「あなたがたは​世の光である。​山の​上に​ある​町は、​隠れる​ことができない。​また、​ともし火を​ともして​升の​下に​置く​者は​いない。​燭台の​上に​置く。​そう​すれば、​家の​中の​もの​すべてを​照らすのである。​そのように、​あなたが​たの光を​人々の​前に​輝かしなさい。​人々が、​あなたが​たの​立派な​行いを​見て、​あなたが​たの天の​父を​あがめるようになる​ためである」13。

​ どのような​種類の​仕事を​していても、​同僚や​友人を​照らす灯に​なることができます。​オプス・​デイの​召し出しを​受けた​人たちに​私が​常に​繰り返すことがあります。​それは​今、​わたしの​話を​聴いてくださっている​人々にも​当てはまります。​誰それは​エスクリバー神父の​よい子で、​よい​信者だが、​靴屋と​しては​最低だと、​噂されるような​ことが万一あれば、​聞き捨てに​できません。​自分の​仕事を​よく​研究し、​心を​込めて​やり遂げようとしないのなら、​仕事を​聖化する​ことも、​神に​捧げる​ことも​できないでしょう。​現世の​事柄に​浸っていながら、​神と​親しく​交わる​決意を​した者に​とって、​日常の​仕事の​聖化とは、​真の​霊性の​要なのです。

自分を​甘やかす傾向に​対しては​断固と​して​戦いなさい。​自分​自身には​もっと​厳しい​態度を​とりましょう。​健康や​休息に​気を​遣いすぎます。​力を​回復して​仕事に​向かう​ため、​休息が​必要な​ことは​確かです。​しかし、​何年も​前に​書いた​とおり、​「休息とは​何もしない​ことではなく、​少しの​努力ですむ他の​活動で​気を​紛らわすこと」であるからです。

​ 時には、​ありも​しない​口実を​探して​安逸を​むさぼり、​双肩に​かかる​幸いな​責任を​忘れ、​その​場を​しのいで​満足します。​理由に​ならない​理由に​ごまか​され、​手を​こまねいて、​突っ立ってしまうのです。​その​間中、​サタンと​その​一味は​休みなく​働いていると​いうのに。​ここで、​奴隷であった​キリスト者に​聖パウロが​書き送った​言葉に​注意深く​耳を​傾け、​しっかり​黙想してください。​主人に​従えと​命令しています。​「人に​へつら​おうと​して、​うわべだけで​仕えるのではなく、​キリストの​奴隷と​して、​心から​神の​御心を​行い、​人にではなく​主に​仕えるように、​喜んで​仕えなさい」14。​まことに​私たちに​相応しい​忠告では​ありませんか。

​ 私たちの​主イエス・キリストに​光を​求めましょう。​そして、​仕事が​聖化の​基盤で​あり軸である​ことを、​各瞬間に​再発見できるよう​お願いしましょう。​福音書に​よると、​イエスは​「大工で、​マリアの​子」​15と​思われていました。​それなら​私たちも、​聖なる​誇りを​もって、​働き人である​ことを​行いで​表しましょう。​労働に​いそしむ​人間である​ことを、​身を​もって​示すのです。

​ 常に​神から​遣わされた​者と​して​振舞わねばなりません。​万一、​自分の​任務を​放棄したり、​職務上の​責任を​協調の​精神で​果たさなかったり、​あるいは、​怠け者、​だらしない者、​軽薄な者、​役立たずなどと​見なされていると​すれば、​真心込めて​神に​仕えているとは​言えません。​表面的に​あまり​重要でなさそうな​義務を​おろそかに​する​者は、​おそらく​内的生活に​関する​義務を​果たすことも​できないでしょう。​「ごく​小さな​事に​忠実な​者は、​大きな​事にも​忠実である。​ごく​小さな​事に​不忠実な​者は、​大きな​事にも​不忠実である」16。

空想を​述べているのでは​ありません。​私が​お話ししているのは、​非常に​具体的で、​非常に​重要な​ことです。​救いの​わざが​始まったばかりの​頃、​社会は​すこぶる​異教的で、​神の​要求に​強い​敵意を​示していましたが、​そのような​社会を​さえ​変える​ことが​できた​理由に​ついて​話しています。​当時の​無名作者の​言葉を​よく​味わってください。​召し出しの​偉大さを​次のように​要約しています。​「この​世に​いる​キリスト信者は、​肉体の​中に​ある​霊魂のような​役割を​果たす。​霊魂が​体の​四肢に​行き渡っているように、​キリスト信者は​世界の​諸都市に​行き渡っている。​霊魂が​体に​住んでいても​体の​ものでないように、​キリスト信者は​この​世に​住んでいながら​この​世の​ものではない。​見えない​霊魂は​見える​体に​保護されている。​事実、​キリスト者も、​この​世に​いる​ことは​知られているが、​彼らの​内的生活は​見えないままである。​(…​)死滅しない​霊魂が、​死滅する​幕屋に​住んでいるように、​キリスト信者も​天上の​朽ちない​住処を​仰ぎ見ながら、​朽ちる​この​世に​寄留人のように​住んでいる。​霊魂が​犠牲に​よって​一層美しくなるように、​キリスト信者は​迫害に​あって​日に​日に​増加してゆく。​(…​)霊魂は​自ら​望んで​肉体から​離れる​ことができないように、​キリスト信者も​社会に​おける​自分の​使命を​放棄する​ことは​許されていない」17。

​ こういうわけで、​この​世の​事柄を​無視するなら、​道を​誤る​ことに​なるでしょう。​神は​日常茶飯事の​なかで​待っていてくださいます。​無限の​知恵である​神の​摂理が、​整え、​あるいは​許す日常生活の​出来事を​通して、​人間は​神に​向かうべきなのです。​しかし、​自分の​仕事を​最後まで​仕上げず、​人間的にも​超自然的にも​意欲的に​仕事を​始めて​おきながら​途中でくじけるなら、​最も​有能な​人のように​職務を​果たさないと​すれば、​さらに​本当に​望むならできるはずですから、​それ以上​立派に​仕事を​やり遂げなければ、​この​目的を​達成する​ことは​できないでしょう。​私たちは​完全に​遣り遂げた​仕事、​精妙で​巧みを​尽くした​細工の​名品を​神に​捧げる​ために、​この​世の​正当な​手段だけでなく​必要な​霊的手段すべてを​用いる​ことができるのです。

仕事を​祈りに​変える

​ いつも​述べている​ことを​重ねて​申し上げます。​聖櫃から​私たちを​ごらんに​なり、​耳を​傾けてくださっている​イエスとの​この​語らいの​ひと​ときは、​一対一の​個人的な​祈りでなければなりません。​神との​語り合いを​すぐに​始める​ために、​多弁は​必要では​ありません。​匿名の​氏である​ことを​止め、​ありのままの​姿で​神のみ​前に​近づいてください。​教会を​埋める​群衆の​なかに​逃げ込み、​虚しい​言葉の​羅列で​ごまか​してはいけません。​心から​湧き出た​ものでもなく、​中身の​ない​言葉を、​習慣的に​繰り返しても​役に​立たないからです。

​ さらに​申し上げるなら、​仕事を​個人的な​祈り、​天に​おられる​御父との​素晴らしい​語らいに​変えなければなりません。​仕事を​通して、​仕事の​なかに、​聖性を​求めるなら、​当然、​神との​個人的な​祈りが​できるよう努力すべきでしょう。​あなたの​努力も、​誰が​しているのか分からないような、​お決まりの​仕事ぶりに​なってしまっては​残念です。​と​いうのは、​その​瞬間に​日常生活に​力を​与える​神の​刺激が​力を​失ってしまうからです。

​ スペイン内乱中、​前線を​訪問した​ときの​ことを​思い出します。​人間的な​手段は​何も​ありませんでしたが、​私の​司祭と​しての​仕事を​必要と​している​人が​いれば、​どこに​でも​行きました。​当時、​非常に​特殊な​情況であるのを​いいことに、​多くの​人々は​怠慢や​不注意を​平気で​見過ごしていましたから、​私は、​内的生活に​関わる​こと​以外にも​助言を​与えました。​主が​人々の​目を​覚ましてくださる​よう、​何とか​したかったのです。​そして、​今も​その​気持ちは​変わりません。​一人​ひとりの​霊的善に​関心が​ありますが、​同時に、​この​世でも​喜びを​もっていて​欲しいからです。​そこで、​何か役に​立つことを​して​時間を​活用するように、​戦争が​人生の​空白時期に​なってしまわないように、と​励ました​ものです。​自棄に​なり、​塹壕や​哨楼を、​鉄道の​待合室に​変えてしまわないように​と​勧めました。​当時の​待合室では、​皆が​時間を​潰していたのです。​来るか​来ないかわからない​列車を​待って…。

​ 兵役と​両立する​ことで​何か役に​立つこと、​たとえば、​勉強や​外国語を​学ぶことを​具体的に​提案しました。​神の​人である​ことを​決して​止めてはならない、​毎日の​振舞いが​神の​業と​なるよう​努力しようと​勧めました。​そして、​尋常でない​情況のもとで​青年たちが​忠告を​見事に​実行してくれるのを​見て、​彼らの​堅固な​内的生活に​胸を​打たれました。

この​時期、​ブルゴスに​滞在したことがあります。​その​地区の​兵営に​配属された​者以外にも、​外出許可を​得た​若者たちが​多数、​私の​ところに​来て​数日を​過ごした​ものです。​私は、​数人の​霊的子供たちと​共に、​おんぼろ​ホテルの​一室を​住居と​していました。​必要な​ものにも​事欠く​有様でしたが、​やってくる​百人以上​もの​若者たちに、​休息し元気を​回復する​ために​必要な​ものが​不足しないように、​一所懸命工夫した​ものです。

​ アルランソン川の​ほとりを​散歩しながら、​語り合ったり、​彼らの​打ち明け話を​聴いたり、​また、​内的生活を​強め、​あるいは​視野を​広げるのに​役立つ忠告を​与えて​指導したりしていました。​こうして​神の​助けに​よって常に​彼らを​励まし、​元気づけ、​キリスト者らしく​振舞いたいと​いう​望みを​燃え​上がらせる​ことが​できたのです。​時には、​ラス・ウェルガスの​修道院まで​足を​伸ばし、​大聖堂に​入る​こともありました。

​ 私は​好んで​塔に​登り、​高い​ところに​ある​装飾の​彫刻を​眺めた​ものです。​それは​まさしく​石で​できた​レースであって、​辛抱強い​仕事の​実りでした。​青年たちと​話しながら、​あの​見事な​彫刻は​地上からは​見えない​ことを​示しました。​そして、​繰り返し説明してきた​ことを​もっとはっきりと​分から​せる​ために、​地上からは​見えない​あの​石の​レースこそ、​神の​仕事、​神の​業だ、​と​言ったのです。​それこそ、​仕事を​完璧に​美しく​仕上げる​こと、​石であっても​華奢な​絹の​カーテンのように​巧みに​仕上げる​ことです。​若者たちは​目に​見える​こういう​事実を​前に​して、​これが​すべて​祈りであり、​神との​美しい​対話である​ことを​悟りました。​このように​仕事に​精魂こめた​人々は、​自らの​努力が​道を​行き交う​人たちの​ためではなく、​ひとえに​神の​ためである​ことを​よく​知っていたのです。​職業上の​召し出しを​どう​すれば​神に​近づける​ことができるのか、​もう​お分かりに​なったでしょう。​あの​石工たちと​同じように​するのです。​そう​すれば、​あなたの​仕事も​神の​業と​なる、​すなわち、​人間の​仕事では​あっても、​神的な​中身と​輪郭を​もつようになるのです。

「どんな​ところで​でも​神に​出会う​ことができると​確信していれば、​主を​賛美しつつ土地を​耕し、​波を​切って​進み、​神の​慈しみを​歌いながら​他の​どのような​仕事にも​従事する」18。​こうして​何時いかなる​時でも​神と​一致する​ことができます。​塹壕の​中の​あの​青年たちのように、​いつもの​生活の​場から​離れて、​独りぼっちに​なる​ときも、​仕事に​精を​だして、​仕事を​祈りに​変える​ときも、​神の​うちに​浸って​歩むことができるでしょう。​神なる​父、​神なる​御子、​神なる​聖霊のみ​前で​仕事を​始め、​そして​終えているからです。

​ しかし、​人目も​ある​こと、​キリスト信者と​しての​証しが、​皆さん方、​特に​あなたに​期待されている​こと、​この​点を​忘れないでください。​私たちを​知っている​人、​愛してくれる​人が​私たちの​仕事ぶりを​見て​恥じ入り、​赤面しないように、​人間的な​面でも​正しく​振舞わなければなりません。​私が​熱心に​教えている​この​精神に​即して​生きるなら、​皆さんを​信頼する​人々に​恥を​かかせる​ことは​ないでしょうし、​皆さん方​自身が​顔を​赤らめる​こともないでしょう。​また、​喩えに​出てくる、​あの​塔を​建て​ようと​していた​人のようになることもないはずです。​「土台を​築いただけで​完成できず、​見ていた​人々は​皆​あざけって、​『あの​人は​建て​始めたが、​完成する​ことは​できなかった』と​言うだろう」19。

​ 超​自然的な​照準を​見失わなければ、​仕事を​完成する​ことができます。​大聖堂を​完成して​立派に​<最後の​石>を​置く​ことができるのです。

「できます」20。​神の​助けが​あれば、​この​戦いにも​勝つことができます。​仕事を​祈りに​変えると​いっても​難しい​ことでは​ありません。​仕事を​神に​お捧げして​着手するや、​神は​すぐに​願いを​聴き入れ、​励ましてくださいます。​日常の​仕事を​通して、​観想生活を​会得しましょう。​神は​常に​見つめていてくださいます。​しかし​同時に、​小さな​犠牲、​都合の​悪い​ときに​訪れる​人に​対する​微笑み、​楽しい​仕事ではないが​急を​要する​仕事から​始める​こと、​整理整頓に​細かく​気を​配る​こと、​あまりにも​安易に​放置しが​ちな​任務を​遂行する​ための​忍耐、​今日​すべきことを​翌日まで​延ばさないなど、​新たな​戦いを​要求なさいます。​すべては​父なる​神に​喜んでいただく​ためです。​そして、​観想的精神を​目覚めさせるのに​役立つよう、​目立たない​場所や​机の​上に​十字架像を​置きましょう。​十字架は​あなたが​心と​知恵で​奉仕の​教えを​学ぶための​教科書です。

​ 風変わりな​ことなど​せずに、​また​世捨て​人に​ならずとも、​いつもの​仕事を​続けながら​観想の​道に​分け入る​決心を​するなら、​すぐに​神の​友と​なり、​神に​至る​この​地上の​道を​人類全体に​開くと​いう​役目を、​神から​受ける​ことでしょう。​そうです。​あなたの​仕事で、​キリストのみ​国を​世界中に​広げていくのです。​信仰を​受け入れる​素地の​ある​遠い​国々の​ために、​信仰表明を​強制的に​禁じられている​東欧諸国の​ために、​さらに、​キリスト教的伝統を​持ちながら​福音の​光が​暗くなり、​人々が​無知の​影の​なかで​戦っているかのような​国々の​ために、​何時間もの​仕事を​捧げる​ことができるでしょう。​こうして、​もう​一分、​もう​少しと、​努力を​重ねて​遂に​完成した​仕事には、​測り​知れない​値打ちが​あります。​ごく​自然に、​そして​確実に、​観想は​使徒職に​変わります。​主イエスの​いとも​甘美にして​慈しみ深い​聖心に​合わせて​鼓動を​打つ心は、​必要にかられて​使徒職と​なってあらわれるのです。

すべては​神の​愛の​ため

常に​このような​精神に​導かれて仕事を​完璧に​やり遂げるには、​どう​すれば​よいのでしょうと、​お尋ねのようですが、​私の​代わりに​聖パウロが​答えてくれています。​「雄々しく​強く​生きなさい。​何事も​愛を​もって​行いなさい」21。​何を​するにも​愛を​もって​自由に​行いなさい。​恐れや​マンネリに​譲歩しては​なりません。​父なる​神に​仕えるのです。

​ あまり​大した​詩では​ありませんが、​次の​詩は​私の​体験を​表しているので、​好んで​繰り返し味わっています。​「私の​命は​愛する​こと。​私が​愛の​熟練者なら、​それは​苦しみの​おかげ。​多く​苦しんだ​人ほどに、​多く​愛せる​人は​いない」。​神の​愛ゆえに​職務に​打ち込むのです。​繰り返しますが、​神を​愛する​ための​働きなら、​たとえ人間的に​みて​無理解、​不正、​忘恩、​さらには​失敗を​経験しても、​愛するが​ゆえに、​素晴らしい​仕事の​実りを​目に​する​ことができるでしょう。

しかしながら、​善意の​人の​中には、​信仰の​美しい​教えを​ぜひ​広めたいと​口では​言いながら、​実際の​行いを​見ると、​軽率で、​不真面目で、​不注意な​仕事ぶりの​人が​いる​ものです。​こういう​口先だけの​キリスト者に​出会ったら、​助ける​ために、​親切にはっきり​言ってあげるべきです。​必要ならば、​福音的方法である​兄弟的説諭を​実行しましょう。​「万一だれかが​不注意にも​何かの​罪に​陥ったなら、​“霊”に​導かれて​生きている​あなたがたは、​そういう​人を​柔和な心で​正しい​道に​立ち帰らせなさい。​あなた​自身も​誘惑されないように、​自分に​気を​つけなさい。​互いに​重荷を​担いなさい。​そのように​してこそ、​キリストの​律法を​全う​する​ことに​なるのです」22。​その​人が​カトリックであると​公言するだけでなく、​年長者であり、​経験を​持ち、​責任ある​地位に​いる​人で​あればな​おさらの​こと、​話し合って、​行いを​改めるよう​勧めなければなりません。​辱めるのではなく、​良き父・​良き教師と​して​導いてあげる​ことに​よって、​その​人が​職場で​一層​重きを​なす人と​なる​ためです。

​ 聖パウロの​行動を​じっくり黙想すると、​心打たれます。​「わたしたちに​どのように​倣えば​よいか、​よく​知っています。​わたしたちは、​そちらに​いた​とき、​怠惰な​生活を​しませんでした。​また、​だれからも​パンを​ただで​もらって​食べたりは​しませんでした。​むしろ、​だれにも​負担を​かけまいと、​夜昼大変​苦労して、​働き続けたのです。​(…)​あなたが​たのもとに​いた​とき、​わたしたちは、​『働きたくない​者は、​食べてはならない』と​命じていました」23。

神への​愛、​そして、​人々への​愛ゆえに、​また​キリスト者と​しての​召し出しに​応える​ために、​模範を​示さなければなりません。​神の​子が​怠け者で​役立たずだと​いう​印象を​いささかなりとも​与えないため、​さらに、​躓きを​避け、​悪い​手本と​ならないように、​責任ある​人の​見事な​働き方、​正しい​行動規準を、​努めて​行いで​示すべきです。​耕作に​従事する​間に​心を​神に​上げる​農夫のように、​建築家も、​大工や​鍛冶屋も、​事務職員や​知識人も、​キリスト者一人​ひとりが​同僚の​模範とならなければなりません。​しかし、​威張らないで。​と​いうのは、​神の​助けに​よりすがらない​限り<勝つ​>ことができない​ことは​周知の​とおりです。​自分の​力だけでは​藁くず一本も​拾い​あげる​ことも​できないのです24。​各自が​社会で​占める​場で、​自分の​仕事に​ついている​ところで、​神の​仕事を​果たす義務を​感じて、​主の​平和と​喜びを​いたる​ところに​振り撒かなければなりません。​「完全な​キリスト者とは​常に​落ち着きと​喜びを​備えている​ものだ。​神のみ​前に​いるが​ゆえの​落ち着きであり、​賜物で​満たされているが​ゆえの​喜びである。​このような​キリスト者こそ本当の​人間であり、​神の​聖なる​司祭である」25。

この​目標に​到達する​ためには、​神に​愛を​示すために​働くべきであって、​決して​罰や​呪いの​重圧に​耐える​者のような​働き方であっては​なりません。​「何を​話すに​せよ、​行うに​せよ、​すべてを​主イエスの​名に​よって​行い、​イエスに​よって、​父である​神に​感謝しなさい」26。​そう​すれば、​時間を​充分​活用し、​日常の​仕事を​完全に​終える​ことができるでしょう。​私たちは、​弱点だらけであるが、​主が​お与えに​なるどのような​責任と​信頼にも​すぐ​気づき、​神の​愛に​夢中に​なる​道具でも​あるからです。​神の​力が​支えであるから​こそ、​どのような​仕事を​していても、​ただ神を​愛する​ために​のみ​働かなければなりません。

​ しかし、​現実に​目を​閉ざした、​浅はかで​表面的な​見方で​満足するような​ことが​あっては​なりません。​道は​容易であると​思ったり、​道を​歩むには、​誠実で​熱心な​決心さえ​あれば​充分だと​考えたりしてはならないのです。​思い違いを​しないでください。​長年の​間には、​ひょっと​すれば​予想外に​早く、​非常に​困難な​情況に​立たされて、​一層の​犠牲の​精神と​一層の​自己放棄を​要求される​ことが​あるかもしれません。​その​時こそ、​希望の​徳を​増し、​使徒と​共に​大胆に​叫びましょう。​「現在の​苦しみは、​将来わたしたちに​現されるはずの​栄光に​比べると、​取るに​足りないと​わたしは​思います」27。​確信して​平和な心で​黙想してください。​哀れな​人間に​注ぎ込まれる​神の​無限の​愛は​いかばかりでしょう。​あなたの​日常の​仕事を​通して​信仰を​実践し、​希望を​目覚めさせ、​愛を​生き​生きとさせるべき時が​訪れたのです。​言い​換えれば、​三つの​対神徳の​実行に​よって、​ごまかし、​隠し立て、​遠回しの​表現などを​用いずに、​職業上の​行為や​内的生活に​おける​過ちを​すぐに​追い出すときなのです。

再び聖パウロの​言葉に​耳を​傾けましょう。​「愛する​兄弟たち、​こういうわけですから、​動かされないように​しっかり​立ち、​主の​業に​常に​励みなさい」28。​お分かりですか。​聖化すると​決心して​仕事に​励むとき、​色々な​徳が​すべて​働きます。​剛毅は、​困難にも​かかわらずへばらずに​仕事を​最後まで​完成させる​ため、​節制は、​余す​ところなく​捧げ尽くして​安楽とわが​ままに​打ち​克つため、​正義は、​神に​対する、​また​社会、​家族、​同僚に​対する​義務を​実行する​ため、​賢明は、​各々の​場合に​どう​すれば​よいかを​知り、​ぐず​ぐずせずに​仕事に​とりかかる​ため、と​いうように。​そして、​繰り返しますが、​すべてを​神の​愛ゆえに​果たす​こと、​仕事と​使徒職が​もたら​す​実りが​多いか​少ないか、​その​責任を​負うのは​自分​自身である​ことを​忘れずに。

​ 「愛とは、​行いであって、​甘い​言葉の​ことではない」と​諺に​あります。​これには​何も​付け加える​必要は​ないでしょう。​主よ、​恩寵を​お与えください。​ナザレの​仕事場の​扉を​開いてください。​あなたと、​共に​おられる​聖マリア、​敬愛する​聖ヨセフ、​聖なる​仕事に​生活を​捧げた​この​三方を​黙想したいのです。​哀れな​心は​励ましを​受け、​日々の​仕事の​中に​あなたを​探し求め、​あなたを​見出す​ことでしょう。​私たちの​仕事を​神の​業、​神愛の​業に​変える​よう、​あなたは​お望みだからです。

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