59

私の​話を​聞いてくださる​人々が​聞き過ごしているか​どうか、​私には​すぐ​判ります。​自惚れているわけでは​ありません。​共に​神に​感謝を​捧げていただきたいので、​私事で​恐縮ですが、​お話しさせてください。​一九​二八年、​神の​お望みが​分かると​すぐに、​私は​すべきことを​始めました。​(苦しい​事も​甘美なことも​たくさん​送ってくださった​神に​感謝しています。​) 当時、ある​人々は​私を​気違い​扱いしていました。​別の​人々は​少しばかりの​理解を​示して​夢想家と​呼んでくれましたが、​それは​実現不可能な​夢を​追っていると​言いたかったようです。​欠点だらけの​私であり、​苦しみも​ありましたが、とにかくがっかりしないでがんばりました。​<計画>​その​ものは​私が​考え出したわけでは​ありませんでしたから、​困難の​さなかに​あっても​道は​どんどん​開け、​今日では​世界中に​広がりました。​また、​主が​ご自分の​計画である​ことを​人々に​お見せに​なりましたから、​たいていの​人は​ごく​当たり前の​教えだと​考えるようになっています。

​ ひとこと​言葉を​交わすだけで、​話を​理解してくださったか​どうか、​すぐに​判ると​申しました。​卵を​温めている​鴨の​巣に、​横から​誰かが​家鴨の​卵を​押しつけた​ときのような​ことは、​私には​起こりません。​何日か​経って​雛が​かえり、​おぼつかない​足どりであちらこちら​歩きまわるのを​見て​はじめて、​それは​自分の​雛ではない、​いくら教えても​ピョピョと​鳴く​ことは​できないと、​やっと​気が​つく。​このような​ことは​私には​起りません。​私に​背を​向けた​人にも、​せっかく​助けてあげようとしたのに​横柄な​態度を​示した​人にも、​悪意を​持った​ことは​ありません。​一九三九年ごろ、​学生グループの​黙想会の​ために​借りていた​建物での​ことですが、​その​建物の​壁の​透かし飾りの​言葉に​目を​引き付けられた​ことを​よく​覚えています。​「旅人よ、​おのが​道を​行け」。​本当に​有益な​教えでした。

この点を別の言語で