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​表面的には​小さい​事柄であるかのように​見えても、​神の​愛に​よってなされた​業は​いつも​偉大な​ものです。​神は​哀れな​被造物である​人間に​近づき、​私たちを​愛しているとおっしゃいました。​「人の​子らと​共に​楽しむ」10。​人間の​目には​大事だと​思われるような​活動も、​また​反対に​ほんの​少しの​価値しかないと​考えられている​事柄も、​すべて​同じように​重要であると​いう​ことを​主は​教えてくださいました。​何も​無駄には​なりません。​神は​何人も​見下げたりなさいません。​すべての​人は​それぞれの​召し出しに​従いつつ、​つまり、​家庭や​職場での​自分の​地位に​伴う​義務を​実行しながら、​社会人と​しての​務めを​果たしながら、​自分の​権利を​行使しながら、​天国に​あずかるように、​神に​呼ばれているのです。

​ 聖ヨセフは​前述のような​ことを​私たちに​教えてくださいました。​すなわち、​その​生涯は​単調な​日々の​連続であり、​何年もの間、​いつも​変わらない​仕事を​やり続けた、​ごく​ありふれた​ものであったと​いう​ことです。​私は​聖ヨセフに​ついて​黙想した​とき、​この​ことに​気が​付きました。​そして​これが、​彼に​特別な​信心を​感じる​理由の​一つなのです。

​ 一九六二年十二月八日、​第二バチカン公会議の​席上で​教皇ヨハネ二十三世が、​聖ヨセフの​名を、​ミサ奉献文​(カノン・ロマーノ)の​中に​入れる​ことを​宣言された​とき、​友人の​枢機卿から​すぐに​次のような​電話が​ありました。​「おめでとう。​この​宣言を​聞いた​とき、​すぐに​私は​貴方の​こと、​そして​貴方が​どんなに​喜ばれるかと​いう​ことを​考えました」。​確かに​そうだったのです。​聖霊のもとに​集まり、​全教会を​代表している​公会議で、​神の​目から​見た​聖ヨセフの​寛大さ、​神に​面を​向けて​働き、​神のみ​旨を​こと​ごとく​果た​した​その​素朴な​生活の​価値が​称賛されたからです。

聖書への参照
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