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時々、​自分より​貧しい​人から​仕事を​頼まれる​ことも​あったでしょうが、​そのような​時には、​依頼人が​支払うべき​ものは​支払ったと​満足できるように、​気持ちだけの​ものは​受け取って​引き受けた​ことでしょう。​けれども、​普通の​場合、​成就した​仕事に​対しては​正当な​報酬を​受け取ったに​違い​ありません。​神への​忠実を​理由に、​実際には​義務であるはずの​権利を​捨てる​ことは​間違っているからです。​聖ヨセフは、​仕事の​報酬に​よって、​神から​託された​家族を​支えなければならなかったのですから、​当然受け取るべきものは​請求しなければなりませんでした。

​ 自己の​権利の​主張は、​個人的な​利己主義の​結果であっては​なりません。​人々との​関係に​おいて、​正義が​実行されるのを​求め、​愛さないならば、​実際に​正義を​愛している​ことには​ならないのです。​人々の​必要を​無視して、​安易な​信心生活に​閉じこもることも​許されません。​神のみ​心に​適った​生活を​望むならば、​正義が​人々の​間で​実現されるように​努力しなければならないのです。​そして​それも、​ただ神のみ​名を​損なわなければ​それで​よいと​いうのであっては​なりません。​カトリック信者であると​いう​ことは、​人間社会の​中に​ある​すべての​尊い​願いを​引き出すことも​意味するのです。​使徒聖ヨハネの​有名な​言葉19を​敷衍して​解釈すると、​神に​対しては​正しく​あっても​人々に​対して​正しくない​人は、​嘘つきの​偽善者であって、​その​人には、​真実は​存在していない、と​言えるのです。

​ 勤労者聖ヨセフの​祝日が​典礼上の​祭日に​加えられた​とき、​すべての​カトリック信者と​同様、​私も​大いに​感激しました。​この​祝日は​仕事の​神的価値を​教会が​公に​認めた​ことを​示しますが、​同時に、​神の​お望みに​よって​我々の​時代が​特に​黙想しなければならない、​福音書の​中心的な​真理を、​教会が​共同体と​して​公に​示したことにも​なるからです。

聖書への参照
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