聖母―われらが喜びの源

1961年8月15日 聖母被昇天の祝日


​「マリアは​天に​上げられ天使は​喜ぶ」1。​神は​聖母マリアを​体も​霊魂も​共に​天に​上げられました。​天使も​人間も​喜びを​隠せません。​心の​底から​溢れるように​湧き​上がる​喜び、​心を​平和で​満たす​今日の​喜びは​一体​どこからくるのでしょうか。​私たちの​母の​光栄を​祝うからなのです。​三位一体の​神に​これほど​称賛される​聖母を​みて、​その子である​私たちが​大いに​喜ぶのは​当然だと​言えるでしょう。

​ 兄である​至聖なる​御子キリストは、​カルワリオに​おいて、​聖ヨハネに​向かい、​「見なさい。​あなたの母です」2と​言われ御母を​私たちの​母と​してお与えに​なりました。​あの​悲嘆が​頂点に​達する​とき、​主に​愛された​弟子と​共に​私たちは​聖母を​お受けしたのです。​「あなた​自身も​剣で​心を​刺し貫かれます」​3と​いう​昔の​預言が​成就した​その​とき、​苦痛の​うちにも​聖母は​私たちを​受け入れてくださいました。​私たちは​みな​聖母の​子であり、​聖母は​全人類の​母であります。​人々は​今、​得も​言われぬ被昇天を​祝います。​聖母マリアは​天に​上げられたのです。​神なる​御父の​娘、​神なる​御子の​御母、​神なる​聖霊の​花嫁、​御身に​まさるのは​ただ神お一人。

​愛の​神秘

 これこそ愛の​神秘です。​人間の​理性では​到底理解できない​真理です。​被造物である​人間が​三位一体の​神の​愛と​喜びが​集中する​対象と​なったのです。​これほどの​尊厳を​受ける​ところまで​人間が​高められた​わけを​明らかに​するのは、​信仰以外に​ないでしょう。​これは​神の​神秘なのです。​しかし、​聖母に​関する​神秘ですから、​信仰の​他の​真理よりは​理解し易いような​気が​します。

​ もし、​今一度​自分の​母と​なる​人を​選ぶことができると​すれば、​どうするでしょうか。​やはり、​現在の​母を​選び、​できる​限りの​愛を​込めて​接する​ことでしょう。​キリストも​そうな​さったのです。​全能に​して​全知、​愛その​もの4である​キリストは​その力に​よって​すべての​望みを​遂げられたのです。

​ 昔の​キリスト信者は​どのように​考えたのでしょうか。​ダマスコの​聖ヨハネは​次のように​書いています。​「処女性を​完全に​保った​御方が​死後も​身体を​腐敗から​守ったのは​相応しい​ことであった。​子に​なった​創造主である​神を​胎内に​宿した​御方が​神の​宮殿に​住まうのは​相応しい​ことであった。​聖霊の​花嫁が​天の​宮殿に​入るのは​相応しい​ことであった。​出産の​ときに​なかった​苦痛を、​十字架上の​キリストを​見ながら心に​受けた​御方が、​神の​右に​座す御子を​眺めるのは​相応しい​ことであった。​神の​御母が​御子の​ものを​所有し、​すべての​人々から​神の​母、​神の​は​しためと​して​称えられるのは​相応しい​ことであった」5。

​ 神学者たちは​しばしば​同じように​考えて、​聖母マリアに​豊かに​与えられ、​その​被昇天に​おいて​頂点に​達する​恩恵の​わけを​なんとか​理解しようと​努めました。​「それが​相応しかった。​神は​そうする​ことが​できた。​よって​そのようになさった」6と。​これは、​なぜ神は​聖母に​無原罪の​御宿りの​最初の​瞬間から​あらゆる​特権を​お与えに​なったのか、と​いう​質問に​対する​答えなのです。​悪魔の​力に​服する​ことの​なかった​聖母は、​霊魂と​身体と​共に​清く​美しく​純粋であったのです。

隠れた​犠牲の​秘義

 確かに​神は​御母を​称賛されましたが、​地上に​おける​生活の​中では​信仰の​明暗や​仕事の​疲労、​苦痛から​聖母を​免除されなかったのも​確かな​事実です。​群衆の​中から​一人の​女が​イエスを​称えて​突然、​「なんと​幸いな​ことでしょう、​あなたを​宿した胎、​あなたが​吸った​乳房は」と​叫んだ​とき、​主は、​「むしろ、​幸いなのは​神の​言葉を​聞き、​それを​守る​人である」7とお答えに​なりました。​それは、​マリアの​誠実な​「フィアット」​8​(この​身に​成りますように)への​讃辞、​自己を​捧げ尽くして​「フィアット」の​最後の​最後まで​果たした​聖母への​讃辞だったのです。​ところで​聖母の​「フィアット」は、​大仰な​振舞いには​表さずに、​日々の​黙々とした​隠れた​犠牲の​うちに​果たされました。

​ この​事実を​黙想すると​神の​お考えが​少しわかるのではないでしょうか。​つまり、​私たちの​生活に​超自然の​価値が​あるか​否かは、​時と​して​想像するように​大手柄を​立てるか​否かにではなく、​神のみ​旨を​忠実に​受け入れ、​日々の​小さな​犠牲を​寛大な​心で​捧げるか​否かに​かかっている、​これが​神の​お考えです。

​ 神の​ものである​ため、​そして​神に​仕える​ためには、​人間的な​事柄を​大切に​する​ことから​始めなければなりません。​神を​見つめつつ社会生活を​営み、​外見上小さく​見える​事柄を​聖化しなければならないのです。​これは​マリアの​生活でした。​恩恵に​満ちた​御方、​神の​喜びの​対象と​なった​御方、​天使と​聖人の​上に​位する​御方は、​平凡な​毎日を​過ごしました。​聖母は​私たちと​同じく、​喜びと​楽しみ、​苦しみと​涙を​感じる​心を​持っておられたのです。​大天使聖ガブリエルから​神の​お望みを​知らされる​前の​マリアは、​永遠の​昔から​救い主の​母に​選ばれている​ことを​ご存じではなく、​自らを​は​しためであると​考えていました9。​それゆえ、​後に​なって、​「力ある​方が、​わたしに​偉大な​ことを​なさいましたから」10と​深い​謙遜の​心から​認める​ことが​できたのです。

​ 聖マリアの​清さと​謙遜と​寛大は、​私たちの​惨めさや​利己主義と​全く​対照的であると​言えます。​この​事実に​気づいたからには、​なんとか​聖母に​倣いたいと​いう​望みが​湧き​上がって​当然ではないでしょうか。​聖母と​同じく​私たちも​神に​創られた​存在です。​神が​偉大な​業を​行ってくださるように、​忠実であるよう努力するだけで​いいのです。​私た​ちがつまらない​存在であっても、​そんな​ことは​何の​妨げにもなりません。​神は​あまり役に​立たない​ものを​選び、​それに​よって​神愛の​力強さを​さらに​明白に​人々に​お示しに​なるのです11。

聖母マリアに​倣う

​ 聖母は、​恩恵には​いかに​応えるべきかを​示す模範であります。​その​生涯を​黙想するなら、​神の​光が​与えられ、​日常生活に​神的な​価値を​与えるには​どのように​すべきかが​理解できるでしょう。​年間を​通して​聖母の​祝日を​祝う​毎に、​また​日常生活の​いろいろな​瞬間に、​信者は​しばしば​聖母に​思いを​馳せます。​そのような​瞬間を​活用して、​私たちの​果た​すべき仕事を、​聖母ならどのように​果たすかと​考えて、​学びとる​事柄が​見つかり、​ついには​私たちが​聖母に​似てくる​ことでしょう。​ちょうど子どもが​母親に​似るように。

​ まず、​マリアの​愛に​倣わなければなりません。​愛徳とは​感情的な​ことだけでは​ありません。​言葉に、​特に​行いに​表れなければなりません。​聖母マリアは​「なれかし」と​言った​のみならず、​確固たる​決意、​取り消しを​許さない​決意を​最後まで​守りました。​私たちも​同じ態度を​保つべきです。​神の​愛に​刺激されて、​神のみ​旨を​察すると、​忠実・信実を​約束し、​また​約束を​実現させなければならないのです。​「わたしに​向かって、​『主よ、​主よ』と​言う​者が​皆、​天の​国に​入るわけではない。​わたしの​天の​父の​御心を​行う​者だけが​入るのである」12。

​ 聖母マリアの​自然な、​そして​同時に​超自然的な​優雅に​倣わなければなりません。​聖母は、​救いの​歴史に​おいて​特典を​受けた​御方であり、​彼女に​おいて、​「言は​肉と​なって、​わたしたちの​間に​宿られた」​13からです。​表立った​行動を​しない​心細やかな​証人でもありました。​自分の​栄誉を​望まず、​称賛されるのを​好まなかったのです。​聖母は​御子の​幼少時代の​秘義に​立ち会われましたが、​敢えて​言うならば、​秘義と​言っても​それは​ありふれた​秘義でした。​そして、​大きな​奇跡や​群衆の​歓呼の​際には​姿を​現さなかったのです。​エルサレムで​キリストが​小ろばに​乗って​入城し、​王と​しての​歓迎を​受ける​とき、​聖マリアの​姿は​見あたりません。​しかし、​みんなが​逃げてしまった​ときは、​十字架の​傍らに​姿を​現したのです。​聖母の​このような​振舞いには、​おのずと​心の​偉大さと​聖性の​深さが​顕れています。

​ 威厳と​服従の​両方を​兼ね備える​絶妙の​態度、​神に​従う態度を、​聖母を​模範と​して​学びたい​ものです。​聖母には、​従いは​するが、​あの​愚かな​おとめの​態度は​見られません。​聖マリアは​注意深く​神の​思し召しに​耳を​傾け、​理解できない​ことは​よく​考え、​知らない​ことは​尋ねます。​そして、​神のみ​旨を​果た​すために​すべてを​捧げます。​「わたしは​主の​は​しためです。​お言葉どおり、​この​身に​成りますように」14。​なんと​素晴らしい​態度でしょう。​神への​従順とは​隷従でも​良心の​隷属でもない​ことを、​私たちの​師である​聖マリアは​教えてくださいます。​心に​働きかけて、​「神の​子の​自由」​15を​発見させてくださるのです。

祈りの​学び舎

 召し出しに​忠実な​聖母を​見つめて、​聖母の​純潔と​謙遜、​剛毅と​寛大と​忠実など​いろいろと​模範に​すべきことを​神の​助けに​よって​見出した​ことでしょう。​それらは​おのずと​模倣へと​招きます。​なかでも、​霊的生活の​進歩を​促す風土と​なると​いう​理由から、​他の​すべてを​包括する​もの、​つまり​祈りの​生活に​ついて​話してみたいと​思います。

​ 今日、​聖母マリアを​通しても​たらされる​恩恵を​活用し、​また​霊魂の​牧者である​聖霊の​勧めに​従う​ためには、​神との​活発な​交わりを​続ける​真剣な​覚悟を​しなければなりません。​無名氏と​して​隠れている​わけには​いかないのです。​神との​一対一の​出会いが​なければ​内的生活は​存在しないでしょうから。​表面的であれば​キリスト教的とは​言えません。​内的生活で​惰性に​陥って​平気であると​いう​ことは、​観想生活に​終止符を​打つに​等しいのです。​神は​私たち一人​ひとりを​探し求めて​おられるのですから、​私たちも​一人​ひとり個人的に​神の​呼びかけに​応えなければなりません。​「お呼びに​なったので​参りました」16と。

​ 周知の​通り、​祈りとは​神と​語り合う​ことです。​しかし、​語り合うと​言っても​何に​ついて​話すのだろうと​問う​人も​いるでしょう。​神に​ついて、​あるいは​日常の​出来事に​ついてでなければ、​何を​話題に​取り上げる​ことができるでしょうか。​イエスの​降誕に​ついて、​この​世での​生活、​隠れた​生活、​宣教、​奇跡、​贖いの​ご受難、​十字架と​復活に​ついて​話し合うのです。​そして、​三位一体の​神のみ​前で、​聖マリアを​仲介者とし、​敬愛する​私たちの​師である​聖ヨセフを​弁護者と​して、​日々の​仕事や​家族に​ついて、​友人に​ついて、​また​大きな​計画や​些細な​事柄ついても​話し合いましょう。

​ 私の​祈りは​自分の​生活に​ついてです。​私は​そうしています。​そして​自らの​姿を​見ると、​自らを​改善し、​神の​愛に​もっと​素直になろうと​いう​確固とした​決心、​誠実で​具体的な​決心が​生まれてきます。​さらに、​大急ぎで、​しかし​信頼し切った​願いを​しなければなりません。​聖霊が​私たちを​お見捨てになりませんように、​「神よ、​あなたは​わたしの​力です」​17と。

​ 私たちは​普通の​キリスト信者であり、​種々の​職業に​従事しています。​私たちの​活動は​すべて​通常の​経過を​たどり、​いつもの​調子で​展開されます。​毎日​同じような​日ばかりで、​単調に​感じる​こともあります。​ところが、​表面的には​平凡に​しか​見えない​ところに​こそ神的な​価値が​あるのです。​それこそ神の​関心事なのです。​キリストは​人間の​日常茶飯事の​なかに​入り込み、​もっとも​慎ましい​行為を​含めすべてに​生命を​与えようと​望まれたのです。

​ この​考えは​確かに​純粋な​超​自然的事実であって、​金縁の​歴史書に​自らの​名を​書き連ねる​ことのできなかった​人々を​慰める​単なる​思いでは​ありません。​キリストの​関心事は、​会社や​工場や仕事場、​学校や​田畑などで、​絶えず​繰り返さなければならない​私たちの​知的労働であり、​肉体的労働です。​また、​自らの​不機嫌を​人々に​ぶちまけないための​隠れた​犠牲にも​関心を​持っておられます。

​ 以上のような​ことを​念祷で​考え直してみましょう。​そのような​機会を​利用して​イエスを​礼拝して​ほしいのです。​そう​すれば、​世間の​直中で、​街頭の​雑踏の​なかで、​つまり​あらゆる​ところで​観想の​人である​ことができるでしょう。​これが、​イエスとの​交わりかた​教室の​第一課です。​そして​この​教室の​最も​すぐれた​先生は​聖マリアです。​聖母は​身の​まわりに​起こった​出来事を​常に​超自然的に​眺めて​信仰篤い態度を​保ち、​「これらの​ことを​すべて​心に​納めて​いた」​18のですから。

​ 観想の​人と​なる​ことができるよう、​また、​心の​扉を​叩いて​呼びかける​神に​気づく​ことができるよう助けてくださいと、​今日聖マリアに​謹んで​お願い​したい​ものです。​聖母よ、​あなたは​父である​神に​愛を​示すイエスを​この​世にも​たらしてくださいました。​日々の​仕事の​うちに、​イエスを​見つける​ことができるよう​お助けください。​神の​声や​恩恵の​働きかけを​聴きとることができるよう知性と​意志を​動かしてください。

使徒の​元后

 ところで、​自分の​ことだけを​考える​わけには​いきません。​人類全体を​受け入れる​広い心を​持たなければならないのです。​まず、​親戚や​友人、​同僚など​周囲の​人々を​思い​描き、​どう​すれば​主との​深い​交わりに​導いてあげられるかを​考えるのです。​心が​正しく​まっすぐな​人で​常に​主の​近くに​いる​ことのできる人で​あれば、​その​人の​ために​特に​聖母に​お願いしましょう。​さらに、​まだ​会った​ことの​ない​人々の​ためにも​祈りましょう。​人間は​すべて、​同じ船に​乗っているのですから。

​ 広い心を​持ち、​気高くなければなりません。​私たちは​キリストの​神秘体、​聖なる​教会と​いう​一つの​体を​構成しており、​それには​清い心で​真理を​求める​多くの​人々が​召されています。​従って、​人々に​キリストの​深い愛を​示す義務が​私たちに​厳しく​課せられているのです。​キリスト信者が​利己主義に​なっては​なりません。​万一そうなれば、​自らの​召し出しに​背く​ことになります。​自らの​魂の​安らぎを​保つことで​満足する​人は、​実は​偽りの​安らぎに​すぎないのですが、​キリスト者であるとは​言えません。​信仰に​よって​示された​人生の​真の​意義を​受け入れたのであれば、​人々を​神に​近づける​ために​具体的な​努力を​しないで、​自分だけは​正しい​生き方を​していると​考え、​呑気に​構えている​わけには​いかないのです。

​ 使徒職を​する​上で​確かに​障害は​あります。​世間体を​気に​したり、​霊的な​生活を​するのを​恐れたり。​こんな​話は​雰囲気に​合わないだろうとか、​相手の​気持ちを​傷つけるのではなかろうかと​心配するのです。​大抵の​場合、​このような​態度は​利己主義の​仮面です。​使徒職とは​人を​傷つける​どころか、​人に​仕える​ことであるからです。​私たち一人​ひとりは​別に​たいした​人物では​ありませんが、​神の​恩恵の​おかげで​人々に​役立つ道具と​なって​福音を​伝えるのです。​「神は、​すべての​人々が​救われて真理を​知るようになる​ことを​望んで​おられます」19。

​ こんな​風に​他人の​生活に​干渉する​ことは​許されるのでしょうか。​許される​どころか​必要なのです。​キリストは​許可など取らずに​私たちの​生活の​なかに​入り込んで​来られました。​初代の​弟子たちの​ときも​同じでした。​「イエスは、​ガリラヤ湖の​ほとりを​歩いておられた​とき、​シモンと​シモンの​兄弟アンデレが​湖で​網を​打っているのを​御覧に​なった。​彼らは​漁師だった。​イエスは、​『わたしに​ついて​来なさい。​人間を​とる​漁師にしよう』と​言われた」20。​人には​各々​自由が​あります。​聖ルカが​述べる​あの​金持ちの​青年21のように、​神に​従わない​決心を​する​自由、​誤れる​自由が​あるのです。​しかし​それにも​拘わらず、​主は​「行って​福音を​宣べ伝えなさい」22と​仰せられたので、​その​言葉に​従わなければなりません。​人間に​とって​偉大な​テーマである、​神に​ついて​人々に​話す権利と​義務が​私たちには​あるのです。​人間の​心の​底から​湧き​上がる​最大の​望みこそ、​神への​渇望であるからです。

​ 御子の​愛を​人々に​知らせようと​望む​すべての​人々の​元后、​使徒の​元后、​聖マリアよ、​あなたは​人間の​惨めさを​よく​ご存じですから、​火と​なって​燃えるべきであったのに​灰と​化し、​輝きを​失ってしまった​光、​味を​失った塩である​私たちの​ために​赦しを​願ってください。​神の​御母、​全能の​嘆願者よ、​人々に​キリストの​信仰を​もたら​すために、​赦しと​共に​希望と​愛に​生きる​力を​お与えください。

唯一の​処方​箋、​聖性

 すべての​人々に​仕えたいと​いう​行いを​伴った​望みと​大胆な​使徒職の​熱意を​持ち続ける​ために、​唯一の​道は、​信仰・希望・愛を​完全に​生きる​こと、​つまり、​聖性に​至る​ほかは​ありません。​聖性を​求める​以外の​処方​箋は​見当たらないのです。

​ 今日は、​全教会と​一致して、​神の​母であり娘、​そして​花嫁である​聖マリアの​栄光を​祝います。​イエスの​死後​三日目に​主の​復活を​喜んだように、​今​私たちは​嬉々と​して​祝うのです。​ベトレヘムから​十字架まで​イエスに​伴った​あと、​聖マリアは、​体と​霊魂ともに、​イエスの​傍らに​座を​占め、​永遠の​栄光を​楽しんでいるからです。​聖母は​救いのみ​業に​加わったので、​御子の​傍らを​歩まなければなりませんでした。​ベトレヘムでの​貧困、​ナザレでの​日常の​仕事に​明け暮れる​目立たない​生活、​ガリラヤの​カナに​おける​神性の​顕れ、​受難の​辱めと​十字架の​犠牲、​天国に​おける​永遠に​続く​幸せなど。​これこそ、​神の​救いの​神秘なのです。

​ これら​すべては​直接​私たちに​関係が​あります。​このような​超​自然の​行程は​私たちの​道でも​あるのです。​この​道が​歩み易く​安全である​ことを​聖母は​示してくださいました。​聖マリアは​キリストの​模倣に​おける​先輩であり、​聖母の​栄光は​私たち自身の​救いに​確かな​希望を​与えます。​それゆえ、​聖母の​ことを、​〈われらの​希望〉、​〈われらが​喜びの​源〉と​称するのです。

​ 聖人に​なろう、​神の​招きには​応じよう、​最後まで​堅忍しようと​いう​信念を​決して​捨てては​なりません。​聖化の​業を​始められた​神は​必ず​それを​成就なさるでしょう​23。​「神が​わたしたちの​味方である​ならば、​だれが​わたしたちに​敵対できますか。​わたしたちすべての​ために、​その​御子を​さえ惜しまず死に​渡された​方は、​御子と​一緒に​すべての​ものを​わたしたちに​賜らないはずが​ありましょうか」​24と​書かれてあるのですから。

​ 本日の​祝日は​すべてが​喜びへの​招きです。​自己の​聖化への​確固たる​希望は​神の​賜物です。​しかし、​自分からは​何もしない​受身の​態度を​保つわけには​いきません。​キリストは​「わたしに​ついて​来たい者は、​自分を​捨て、​日々、​自分の​十字架を​背負って、​わたしに​従いなさい」25と​言っておられるからです。​よく​読んでください。​日々の​十字架だ、​と​言われます。​「一日と​して、​十字架の​ない​日は​なく」、​主の​十字架を​背負わない​日や、​キリストのく​びきを​受け入れない​日が​一日も​ないように、と。​このような​わけですから、​復活の​喜びは​十字架の​苦しみを​経て​はじめて​味わい​得ると​いう​事実を​思い出してください。

​ しかし、​十字架だと​言っても​恐れる​ことは​ありません。​主自ら次のように​仰せに​なりました。​「疲れた​者、​重荷を​負う者は、​だれでも​わたしのもとに​来なさい。​休ませてあげよう。​わたしは​柔和で​謙遜な​者だから、​わたしの​軛を​負い、​わたしに​学びなさい。​そう​すれば、​あなたがたは​安らぎを​得られる。​わたしの​軛は​負いやすく、​わたしの​荷は​軽いからである」26と。​聖ヨハネ・クリゾストムは​説明を​加えています。​「来るが​よい、と​仰せに​なるが、​それは​会計報告を​する​ためではなく、​罪を​赦される​ためである。​来るが​よい。​私に​栄光を​帰する​必要が​あるからではなく、​あなたたちの​救いが​必要だからである。​軛と​言われても​驚くには​当たらない、​快い軛であるから。​重荷と​聞いて​恐れなくても​よい、​軽い荷であるから」27。

​ 聖化の​道を​歩めば​毎日​十字架に​出合う​ことでしょう。​と​言っても、​不幸な​道ではないのです。​キリストご自身の​助けが​あり、​キリストと​一緒で​あれば​悲しみの​入り込む余地は​ないのです。​「喜びの​うちに、​一日と​して​十字架の​ない​日の​なく」と​私は​何度も​繰り返しています。

キリスト信者の​喜び

 教会が​提供する​話題を​もう​一度​取り上げてみましょう。​マリアは​霊魂と​体ともに​天に​上げられ、​天使たちは​喜び踊る。​私は、​天国で​マリアの​到着を​心待ちに​していた、​いと​潔き夫ヨセフの​ことも​考えています。​しかし​この​世での​生活の​話題に​戻りましょう。​信仰に​よれば​この​世での​生活は​巡礼・旅の​時期であり、​犠牲や​苦痛、​窮乏に​襲われない​ことはないと​教えていますが、​同時に​喜びも​あるのです。

​ 「喜び祝い、​主に​仕え」​28よ。​主に​仕える​ために​これ以上​よい​方法は​ありません。​心惜しみせずに​犠牲の​生活に​身を​捧げる​人、​「喜んで​与える​人を​神は​愛してくださる」29のです。​悲嘆に​くれても​当然だと​言えるような​動機など​存在しないのです。

​ 誰でも​自らの​至らなさや​失敗を​よく​知っており、​苦しみや​疲労、​忘恩や​憎しみを​経験するのだから、​こういう​楽天的な​考えは​大げさではないかと​考える​人も​いるでしょう。​キリスト信者と​いえども​他の​人々と​同じで、​人間の​条件から​免れる​ことは​できないのではないかと。

​ 地上を​旅する間、​苦痛や​落胆、​悲しみや​孤独に​何度も​見舞われる​ことを​否定するならば、​あまりにも​無邪気だと​言えるでしょう。​これらが​成り​行きの​結果でない​こと、​幸せの​望みを​失ってしまうのが​人間の​運命ではない​ことを、​信仰に​よって​確かに​学びました。​信仰は​あらゆる​事柄に​神的な​意味が​あると​教えますが、​その​神的な​意味こそ​私たちを​御父の​住まいに​導く​呼びかけの​核心なのです。​キリスト信者の​地上での​生活を​超自然的に​理解したからと​言って、​複雑な​人間の​生活を​単純化する​ことには​なりません。​しかし、​超自然的に​理解する​ことに​よって、​複雑な​人間生活には、​強くて​切れない​線、​つまり神の​愛と​いう​一本の​線が​貫き通っており、​それが​この​世の​生命と​天の​祖国での​最終的な​生命を​しっかり​結びつけていると​いう​事実が​確信できるのです。

​ 聖母の​被昇天は​この​喜びに​満ちた​希望を​示してくれます。​私たちは​今の​ところ​旅人ですが、​聖母は​先に​進み、​すでに​目的地を​教えてくださったのです。​到着の​可能性を​示すだけでなく、​忠実で​あれば​〈必ず〉到着できると​繰り返し教えているのです。​聖母は​私たちの​模範である​上に、​キリスト信者の​助けでも​あるのです。​「御身が​母たる​ことを​示し給え」​30と​いう​願いを​耳にし、​母と​しての​心遣いを​示し、​子である​私たちの​世話を​しない​ことなど​聖母には​考えられない​ことです。

喜びは​キリスト信者の​財産です。​ただ神の​怒りを​かうと、​喜びは​隠れてしまいます。​罪は​利己主義の​結果であり、​利己主義は​悲しみの​原因です。​ところが​そのような​ときにも、​喜びは​心の​中で​埋れ火のように​燃え続けています。​神も、​御母も​私たちの​ことを​決してお忘れに​ならない​ことが​わかっているからです。​痛悔し、​心の​底から​悔い​改めて、​ゆる​しの​秘跡を​受けて​自らを​浄めるならば、​神は​私たちを​迎え​入れ、​罪を​赦してくださいます。​そして、​悲しみは​去るのです。​「お前の​あの​弟は​死んでいたのに​生き返った。​いなくなっていたのに​見つかったのだ。​祝宴を​開いて​楽しみ喜ぶのは​当たり前ではないか」31。

​ この​言葉は​放蕩息子のたとえの​最後を​飾る​素晴らしい​言葉ですが、​何度​黙想しても​飽きる​ことは​ありません。​「見よ。​御父は​迎えに​来られる。​あなたを​抱きしめ、​愛と​優しさを​示して、​衣服と​指輸を​持ってこさせてくださる。​まだ​叱責を​恐れている​あなたに​尊厳を​回復し、​罰を​恐れる​あなたに​口づけを​与え、​激昂の​言葉を​恐れる​あなたに​祝宴を​開いてくださるのだ」​32。

​ 神の​愛の​深さを​測り知る​ことは​できません。​神を​侮辱した​者に​対して​さえ、​このように​優しくしてくださるのであれば、​ましてや至聖なる​おとめ・​信実なる​おとめ・​無原罪の​御母を​称える​ために​どれほどの​ことを​なさるでしょうか。

​ 人間の​心は​あまりにも​狭くしばしば​裏切るにも​拘わらず、​かくも​大きな​神愛が​示されると​すれば、​神のみ​旨に​いささかの​抵抗を​も示さない​マリアの​心に​対して​神が​お示しに​なる​愛は​いか​ほどでしょうか。

​ 神の​無限の​憐れみを​人間の​理性で​測り知る​ことのできない​ことは、​典礼には​どのように​表れているのでしょうか。​典礼は​説明すると​いうより​歌っています。​想像力を​いたく​刺激し、​夢中に​なって​賛美させようと​しているのです。​「天に​大きな​しるしが​現れた。​一人の​女が​身に​太陽を​まとい、​月を​足の​下にし、​頭には​十二の​星の​冠を​かぶっていた」33。​「王は​あなたの​美しさを​慕う。​(…)​王妃は​栄光に​輝き、​進み入る。​晴れ着は​金糸の​織り​(…)」34。

​ 典礼は​マリアの​言葉を​結びにします。​偉大な​謙遜と​最高の​栄誉の​絡み合う​マリアの​言葉です。​「いつの​世の​人も、​わたしを​幸いな者と​言うでしょう、​力ある​方が、​わたしに​偉大な​ことを​なさいましたから」35。

​ いとも​甘美なる​マリアの​御心、​地上に​おける​道行に​力と​安全を​お与えください。​ご自身、​私の​道と​なってください。​イエス・キリストの​愛に​導く​近道を​ご存じですから。

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