聖霊、知られざる偉大な御方

1969年5月25日 聖霊降臨の祝日


聖霊が​火のような​舌と​なって​現れ、​使徒たちの​上に​留まった​あの​五旬節の​出来事を​使徒言行録に​読むとき、​いろいろな​民族に​教会を​発展させ​はじめられた​神の​偉大な​力を​感じます。​従順と​十字架上での​ご死去と​その​ご復活に​よって​キリストが​死と​罪に​対して​得られた​勝利を、神は​はっきりとお示しに​なったのです。

​ 復活の​光栄の​証人と​なった​使徒たちは、​聖霊の​力を​自らの​うちに​感じました。​新たな光が​彼らの​知性と​心を​開いたのです。​すでに、​彼らは​キリストに​従い、​その​教えを​信仰を​もって​受け入れてはいましたが、​その​意味を​完全に​理解できたわけでは​ありませんでした。​真理の​霊が​来て​すべてを​悟らせる​ことが​必要だったのです1。​イエスだけが​永遠の​生命のみ​言葉を​有しておられる​ことは​知っており、​キリストの​跡に​従い、​生命を​捧げる​覚悟は​ありましたが、​まだ​弱く、​試練の​ときが​来ると​キリストを​見捨てたこともありました。​しかし、​聖霊降臨の​日に​すべては​過去の​出来事と​なったのです。​剛毅の​霊である​聖霊は、​彼らを​確固たる​自信に​満ちた​大胆な​人間に​変えました。​使徒たちの​言葉は​エルサレムの​街々や​広場に​強く​生き​生きと​響き渡り​始めたのです。

​ あの​時、​いろいろな​地方から​やって​来た​人々は​街に​集まり、​驚いて​聴きいっていました。​「パルティア、​メディア、​エラムからの​者が​おり、​また、​メソポタミア、​ユダヤ、​カパドキア、​ポントス、​アジア、​フリギア、​パンフィリア、​エジプト、​キレネに​接する​リビア地方などに​住む者も​いる。​また、​ローマから​来て​滞在中の​者、​ユダヤ人も​いれば、​ユダヤ教への​改宗者も​おり、​クレタ、​アラビアから​来た​者も​いるのに、​彼らが​わたしたちの​言葉で​神の​偉大な​業を​語っているのを​聞こうとは」2。​人々は、​目の前で​行われた​不思議の​おかげで​使徒の​説教に​耳を​傾ける​ことになりました。​使徒たちに​働きかけた​聖霊は、​同じく​人々の​心を​動かし、​信仰に​導かれたのです。

​ 聖ルカに​よれば、​聖ペトロが​キリストの​復活を​宣言すると、​取り​囲んでいた​多くの​人々が​近づいて​質問しました。​「兄弟たちよ、​わたしたちは​どうしたら​よいのですか」。​ペトロは​答えて​言いました。​「悔い​改めなさい。​めいめいイエス・キリストの​名に​よって​洗礼を​受け、​罪を​赦していただきなさい。​そう​すれば、​賜物と​して​聖霊を​受けます」。​その​日に​三千人ほどが​仲間に​加わった、と​聖書は​結んでいます3。

​ 聖霊降臨の​日の​聖霊の​訪れは​一つの​孤立した​出来事では​ありません。​使徒言行録の​中で、​キリスト教徒の​最初の​集団を、​生命と​み業で​導き励ます聖霊と​その​行いに​ついて​触れない​頁は​ほとんど​ありません。​聖ペトロを​宣教に​奮い​立たせたのも​4、​使徒たちの​信仰を​強めたのも​5、​呼びかけた​異邦人に​聖霊の​賜物を​注がれたのも​6、​パウロと​バルナバを​遠隔の​地に​遣わして​イエスの​教えの​ために​新しい​道を​開いたのも​7、​すべて​聖霊であります。​一言で​いえば、​聖霊は​その​存在と​働きかけに​よって​すべてを​支配されるのです。

聖霊降臨は​過去の​思い出ではない

​ 聖書が​示すこの​重大な​事実、​聖霊降臨は、​過去の​思い出でもなく、​歴史のかなたに​残された​教会の​黄金時代でもありません。​聖霊降臨は​私たち一人​ひとりの​持つ​惨めさや​罪を​超えた、​今日の、​そして​あらゆる​時代の​教会の​現実の​姿なのです。​「わたしは​父に​お願いしよう。​父は​別の​弁護者を​遣わして、​永遠に​あなたが​たと​一緒に​いるように​してくださる」8と、​主は​弟子たちに​仰せに​なり、​そして、​その​約束を​守られました。​つまり、​ご復活と​ご昇天の​後、​私たちを​聖化する​ために、​永遠の​御父と​一緒に、​聖霊を​お遣わしに​なったのです。

​ 神の​力は​地の​面を​照らし出します。​キリストの​教会は、​聖霊の​力を​得て、​常に、​すべてに​おいて、​諸国に​対して​掲げられた​しるしと​なり、​神の​愛と​恩恵を​人類に​伝えるのです9。​私た​ちが​どんなに​限界だらけの​存在であっても、​信頼を​もって​天を​眺めれば、​喜びに​満たされます。​神は​私たちを​愛し、​罪から​解放してくださるからです。​教会に​おける​聖霊の​存在と​働きかけに​よって​神の​お与えに​なる​平和と​喜び、​そして、​永遠の​至福を​垣間見る​ことができるのです。

​ 聖霊降臨の​日、​聖ペトロに​近づいた​最初の​人々のように、​私たちも​洗礼を​受けました。​洗礼に​おいて​父である​神は​私たちの​生命を​占有され、​キリストの​生命に​一致させ、​聖霊を​送ってくださいました。​聖書には​次のように​書いてあります。​「救いは、​聖霊に​よって​新しく​生まれさせ、​新たに​造りかえる​洗いを​通して​実現したのです。​神は、​わたしたちの​救い​主イエス・キリストを​通して、​この​聖霊を​わたしたちに​豊かに​注いでくださいました。​こうして​わたしたちは、​キリストの​恵みに​よって​義と​され、​希望どおり永遠の​命を​受け継ぐ​者と​されたのです」10。

​ 自分の​弱さや​失敗の​経験、​キリスト信者と​自称している​人々の​卑少で​こせこせした​言動のも​たらす、​嘆かわしくも​悪い​手本、​一部の​使徒的事業の​外見上の​失敗や​混乱、​これら​すべては​人間の​限界と​罪とを​明らかに​する​現実では​ありますが、​私たちの​信仰の​試金石ともなり、​神の​力は​どこに​あるのかと​いう​疑問や​誘惑を​誘いだすもとにも​なるのです。​このような​誘惑には​断固と​して​抵抗し、​もっと​純粋に、​もっと​希望を​強めなければなりません。​つまり、​そのような​時こそ、​忠誠を​固めるべく​努力を​傾ける​ときなのです。

もう​何年も​前の​ことですが、​私の​体験を​述べさせてください。​信仰は​ないが​善良な​心を​持った​友人が、​ある​日、​世界地図を​指して​言いました。​「ご覧なさい。​東西南北を」。​「何を​見れば​よいのですか」と​問うと、​次のように​答えました。​「キリストの​失敗を。​何世紀にも​わたって​人々の​心に​その​教えを​吹き込もうと​努めてきましたが​結果は​どうでしょう」。​一瞬、​私は​非常に​悲しくなりました。​確かに​まだ、​主キリストを​知らない​人が​たくさんおり、​キリストを​知っている​人々の​中にも、​知らないかのような​生き方を​している​人が​多く​いる​ことに​大きな​苦痛を​感じていたからです。

​ しかし​この​思いは​ほんの​一瞬で​消え去り、​直ちに​愛と​感謝の​思いに​変わりました。​イエスは、​各人が​自由に​主の​救霊のみ​業に​協力するように​とお望みに​なったのです。​失敗されたのでは​ありません。​み教えと​ご生活は​世界を​絶えず​豊かに​しています。​キリストの​救霊のみ​業は​それ自体十分で、​溢れる​ばかりに​豊かな​実りを​もたらしたのです。

​ 神は​奴隷ではなく​子どもと​しての​私たちを​お望みで、​私たちの​自由を​尊重されます。​救霊は​続けられ、​私たちは​それに​参与します。​聖パウロの​強い​言葉の​ように、​キリストのみ​旨に​よると、​キリストの​体である​教会の​ために、​私たちは​自らの​体と​自らの​生命で、​キリストの​苦しみの​欠ける​ところを​満たさなければならないのです11。

​ 神の​信頼と​愛に​応える​ために​生命を​かけて​自己を​捧げ尽く​すこと、​特に、​キリスト教の​信仰を​真剣に​受けとめる​決意は、​誠に、​努力を​傾ける​値打ちの​ある​仕事です。​使徒信条を​唱える​とき、​全能の​神と、​ご死去の​後、​復活された​御子イエス・キリスト、​生命の​主であり与え主である​聖霊への​信仰を​宣言します。​そして​「一、​聖、​公、​使徒継承」の​教会は、​聖霊に​よって​生命を​与えられた​キリストの​神秘体であると、​信仰告白します。​さらに​罪の​赦しと​未来の​復活への​希望に​喜ぶのです。​しかし、​このような​真理は​心の​底まで​浸透しているのでしょうか。​それとも​ただ口先だけに​留まっているのでしょうか。​聖霊降臨のも​たらす神からの​勝利と​喜びと​平和の​使信は、​全キリスト信者の​考え方、​受けとめ方、​そして​生き方の​確固とした​基礎であるべきなのです。

神の​力と​人間の​弱さ

 ​「主の​手が​短くて​救えないのではない」12。​昔とくらべ、​神の​力が​弱まったのでも、​人類に​対する​神の​愛が​真実を​失くしたのでもありません。​天地万物と​地球や天体の​運行、​被造物の​正しい​行い、​歴史上の​出来事に​みられる​肯定的な​もの、​一言で​いうなら、​すべては​神に​由来し、​すべては​神に​向かう、と​信仰は​教えています。

​ 聖霊の​働きかけに​人は​気づかないでいる​こともあります。​神は​ご計画を​人に​お教えにならず、​また​罪が​目を​曇らせ、​濁らせて、​人間は​神の​賜物に​気づかなくなったのです。​しかし、​主の​絶え​ざる​働きかけを、​私たちは​信仰に​よって​知っています。​私たちを​創造し、​維持されるのは​神ご自身で​あり、​神の​子らの​栄光に​輝く​自由13を​与える​ため、​全被​造界を​恩恵に​よって​導いておられるのも​神ご自身なのです。

​ それゆえ​キリスト教の​聖伝は、​聖霊に​対してとるべき​私たちの​態度を​〈素直〉と​いう​一語に​要約しました。​素直であるとは、​私たちの​周囲や​私たちの​心の​中で、​聖霊が​お勧めに​なる​事柄と​分配される​賜物に​対して、​また​聖霊の​興される​運動や団体に​対して、​さらに​心の​中に​興してくださる​よい​感情や​決心に​対して、​敏感に​なることに​ほかなりません。​典礼聖歌で​歌われるように、​聖霊は、​天の​賜物の​分配者・心の​光・霊魂への​客人であり、​労苦する​者の​憩い​・悲しい​ときの​慰め主であります。​聖霊の​助けが​なければ、​人間には​純真無垢で​高潔な​ところなどない​ことでしょう。​聖霊こそ​汚れた​ものを​清め、​病人を​回復させ、​冷えた​ものを​温め、​曲がった​ものを​直し、​人を​救霊と​永遠の​喜びの​門に​導く​御方であるからです14。

​ 聖霊に​対して、​私たちは​完全で​篤い​信仰を​持たなければなりません。​世界に​おける​聖霊の​臨在を​漠然と​信じるだけではなく、​特に​その力の​顕れやしるしを​感謝の​心で​受け入れなければならないのです。​真理の​霊が​来る​とき、​「その方は​わたしに​栄光を​与える。​わたしの​ものを​受けて、​あなたが​たに​告げるからである」15と、​イエスは​お告げに​なりました。​聖霊とは、​キリストが​この​世で​獲得された​聖化の​業を​行う​ために、​キリストから​遣わされた​霊なのです。

​ キリスト自身と​キリストの​教え、​キリストの​秘跡、​キリストの​教会を​信じなければ、​聖霊を​信じているとは​言えないでしょう。​教会を​愛さず​信頼もしない​人々や、​教会を​代表する​人の​落度や​欠点を​指摘するだけで​満足している​人々、​外部から​教会を​批判して​教会の​子どもになりきれない​人々などは​キリスト教の​信仰を​持っていませんし、​本当に​聖霊を​信じているとは​言えないのです。​司祭が​ミサを​たて、​カルワリオの​犠牲を​新たに​する​とき、​聖なる​慰め主の​働きかけは​いかに​豊かで、​いかに​重要であるかを​考えずには​いられません。

キリスト信者は​恩恵と​いう​素晴らしい​宝を​土の​器16に​入れて​持っていると​言えるでしょう。​神は​その​賜物を​もろく​壊れやすい​人間の​自由に​任されました。​神の​力に​助けられているとは​言え、​私たちは、​情欲や​安楽や​高慢に​負けて、​しばしば​その​助けを​退け、​罪を​犯してしまうのです。​二十五年以上も​前から、​信仰宣言を​唱え、​一・聖・公・​使徒継承の​神の​教会に​対する​私の​信仰を​宣言する​とき、​幾度と​なく​「たとえ何が​あろうとも」と​付け加えてきました。​この​習慣を​人に​話した​ところ、​そうする​わけを​尋ねられました。​「あなたの​罪や​私の​罪にも​かかわらず」​信じる、​― これが​私の​返事だったのです。

​ 確かに​今申し上げた​通りだと​思っています。​しかし、​対神徳である​信仰を​持たず、​一部の​信者や​聖職者の​素質のみに​注目して、​教会を​人間的に​判断する​ことは​許されません。​これでは​外面しか​見る​ことができないからです。​教会に​おいて​最も​大切な​ことは、​人間が​いかに​神に​応えているかではなく、​神のみ​業を​知る​ことなのです。​教会とは、​私たちの​間に​おられる​キリスト、​救霊の​ために​人々の​間に​来られた​神、​啓示を​もって​人々を​呼び、​恩恵で​聖化し、​絶え間ない​助けに​よって​日常の​大小の​戦いを​支えてくださる​神のみ​業の​顕れなのです。

​ 人間に​対して​不信を​抱く​ことは​できます。​また、​自分を​信じないで​〈わが​過ち〉と​深く​誠実な​痛悔の​祈りを​もって​毎日を​終わらなければならない​ことも​確かです。​けれども​神を​疑う​ことだけは​絶対に​許されません。​教会と​その​神的起源、​宣教や​秘跡の​救済的効果を​疑う​ことは、​神ご自身を​疑う​ことであり、​聖霊降臨に​対しては​徹底的な​不信を​示すことに​なるからです。

​ 聖ヨハネ・クリゾストモは​次のように​記しています。​「キリストが​十字架に​付けられる​前に​神と​人との​間に​和解は​なかった。​そして​和解の​ない間は​聖霊も​送られなかった。​聖霊が​おいでにならないと​いう​ことは、​神の​怒りの​しるしであった。​今や​聖霊が​十分に​送られるのを​見たからには、​和解を​疑ってはならない。​しかし、​誰かが​『今、​聖霊は​どこに​おられるのか』と​尋ねるかもしれない。​奇跡が​行われ、​死者が​蘇り、​重い​皮膚病の​人が​癒される​とき聖霊に​ついて​話すことができよう。​今確かに​聖霊が​おられると​いう​ことは​いかに​してわかるのか。​心配しないで​よい。​今も​我々の​間に​聖霊が​おられる​ことを​示そう。

​ もし聖霊が​おいでにならないなら、​主イエスよ、​と​呼びかける​ことは​できない。​『聖霊に​よらなければ、​だれも​“イエスは​主である​”とは​言えないのです』​(1コリント12・3)。​もしも​聖霊が​おいでにならないと​すれば、​信頼を​持って祈る​ことは​できないだろう。​事実、​祈る​ときには、​『天に​おられる​わたしたちの​父よ』​(マタイ6・9)と​呼びかける。​聖霊が​おいでにならなければ​神を、​父よ、​と​呼ぶことは​できないだろう。​どうして​それが​わかるのだろうか。​使徒が​次のように​教えるからである。​『あなたが​たが​子である​ことは、​神が、​“アッバ、​父よ”と​叫ぶ御子の​霊を、​わたしたちの​心に​送ってくださった​事実から​分かります』​(ガラテヤ4・6)。

​ 父である​神よ、​と​呼びかける​ときには、​あなたの心を​動かして​その​祈りを​与えたのは​聖霊である​ことを​忘れてはならない。​もし聖霊が​おいでにならなかったと​すれば、​教会には、​英知の​言葉も​知識の​言葉も​何も​ないだろう。​『ある​人には​“霊”に​よって​知恵の​言葉、​ある​人には​同じ​“霊”に​よって​知識の​言葉が​与えられ』​(1コリント12・9)と​書かれてあるからである。​もし聖霊が​おいでにならなければ、​教会は​存在していないだろう。​しかし​教会が​存在しているからには、​聖霊が​おいでになることも​確かである」17。

​ 人間の​限界や、​至らなさを​超えて、​教会とは、​世界に​おける​神の​遍在の​しるしであり、​ある​意味では、​普遍的な​秘跡であると​言えます。​ただし、​新約の​七秘跡と​その本質は​教義と​して​定められてありますから、​厳密な​意味で​秘跡であると​いうのでは​ありません。​キリスト信者とは​神から​再生の​恵みを​受け、​救いを​告げる​ために​遣わされた​者の​ことです。​確固たる​信仰、​生き​生きした​信仰を​持ち、​勇敢に​キリストを​告げ知らせる​ならば、​使徒の​時代のような​奇跡が​私たちの​目の前で​行われるに​違い​ありません。

​ 天を​見上げて​神のみ​業を​見る​ことのできなかった​盲人が​視力を​回復し、​激情に​しばられ、​愛する​ことのできなかった​精神障害者や、​足の​不自由な​人が​解放される​ことでしょう。​神に​ついて​聞きたくなかった​耳の​不自由な​人が​聞こえるように、​また​自己の​失敗を​告白したくないが​ために​舌を​縛られていた​口の​利けない​人が​話せるようになり、​罪に​よって​生命を​失った​死人が​よみが​える​ことでしょう。​こうして、​「神の​言葉は​生きており、​力を​発揮し、​どんな​両刃の​剣よりも​鋭」​18い​ことを、​私たちは​納得するのです。​そして​初代教会の​信者のように、​聖霊の​力強さや​人間の​知性や​意志への​働きかけを​眺めて、​喜びに​満たされるのです。

キリストを​告げ知らせる

​ 個人的な​ものから​何らかの​意味に​おいて​歴史的大事件と​称される​事件に​至るまで、​人生の​あらゆる​出来事は、​真実を​直視させる​ために​神が​人々を​招く​呼びかけであると​共に、​私たちの​従う​聖霊19を、​恩恵の​助けを​受けて​言葉と​行いに​よって​人々に​告げ知らせる​ために、​キリスト信者に​与えられた​機会であります。

​ 各世代の​キリスト信者は、​自己の​属する​時代を​贖い、​聖化しなければなりません。​その​ためには、​聖霊の​働きかけと​神のみ​心から​常に​溢れでる​豊かな​宝に​対して、​どう​応えるべきかを、​〈言葉の​賜物〉を​もって​知らせる​ことができるように、​隣人や​同僚を​理解し、​その​抱負を​分かち合わなければなりません。​福音の、​古く​かつ新しい​知らせを、​私たちの​生きる​世代や​社会に​告げ知らせる​ことは、​キリスト信者に​課せられた​義務なのです。

​ 人間の​存在や​運命に​ついての​信仰の​教えに​対して、​現代人が​すべて​閉鎖的で​無関心であるとは​思えません。​現代の​人々が​地上の​ことのみに​関心を​持ち、​天を​見上げようとしないと​いうのも​当たっていないと​思います。​閉鎖的な​イデオロギーに​事欠かず、​また​それを​支持する​人々も​ある​ことは​ありますが、​今日でも、​大きな​志とさも​しい​態度、​英雄的な​行為と​卑怯な​行為、​夢と​偽りが​存在します。​今以上に​人間を​尊重する​正しい​世界を​夢みる​人々も​おり、​最初に​抱いた​理想が​挫折し、​幻滅を​感じて​自己の​安寧のみを​求め、​いつまでも​過ちの​中に​低迷している​人々も​いるのです。

​ 男女を​問わず​このような​人々​すべてに、​どこに​いても、​有頂天に​なっている​ときも、​危機感や​挫折感に​襲われている​ときも、​聖霊降臨後、​聖ペトロが​厳かに​告げた、​次の​知らせを​私たちは​伝えなければならないのです。​「この​方こそ、​『あなたが​た家を​建てる​者に​捨てられたが、​隅の​親石と​なった​石』です。​ほかの​だれに​よっても、​救いは​得られません。​わたしたちが​救われる​べき名は、​天下に​この​名の​ほか、​人間には​与えられていないのです」20。

聖霊の​賜物の​中でも、​すべての​キリスト信者に​とって​特に​必要な​ものが​一つ​あると​言えるでしょう。​それは​上智の​賜物です。​上智の​賜物に​よって、​神を​知り味わうに​つれ、​この​世の​事柄を​正しく​判断できるからです。​信仰に​一致した​生活を​しているなら、​周囲を​眺め、​世界的・​歴史的事件に​思いを​巡らせる​とき、​イエス・キリストの​あの​憐れみの​心が​私たちにも​伝わってくる​ことでしょう。​「飼い​主の​いない​羊のように​弱り果て、​打ち​ひしがれているのを​見て、​深く​憐れまれた」21。

​ キリスト信者は​人類の​持っている​すべての​よい​ものに​気づき、​清らかな​喜びを​評価し、​現世の​理想や​望みに​参与するのです。​これら​すべてを​心の​奥底に​感じ、​深く​共鳴し、​共に​生きようと​するはずです。​信者なら、​誰よりも​人の​心の​深遠さを​よく​知っているからです。

​ キリスト教の​信仰は、​心を​小さく​する​ものでも、​気高い​衝動を​そぐ​ものでもありません。​気高い​衝動や​心の​有する​真実で​正確な​意義を​明らかに​する​ことに​よって、​それらを​さらに​大きく​育てるのが​信仰であります。​私たちは​ありきたりの​幸福に​運命づけられているのでは​ありません。​神の​深奥の​生命に​あずかり、​父である​神・子である​神・聖霊なる​神を、​三位に​おける​ご一体の​神と​して​知り愛すると​同時に、​すべての天使と​すべての​人々を​知り、​愛するよう召されているからです。

​ キリスト教の​信仰は​非常に​大胆であります。​人間の​本性の​価値と​尊厳を​称揚し、​人間を​超自然的な​次元まで​高める​恩恵に​よって​神の​子の​尊厳に​達する​ことができるように​創造された​と​宣言するのです。​これは​父である​神の​救世の​約束に​基づき、​キリストの​御血に​よって​実証され、​聖霊の​絶え​ざる​働きかけに​よって​再確認されて​可能と​なったのでなければ、​到底信じえない​ほど​大胆な​宣言であると​言えます。

​ 私たちは​信仰に​よって​生き、​信仰に​よって​成長しなければなりません。​そして​遂には、​東方​教会の​偉大な​博士の​一人が​何世紀も​前に​言った​言葉が、​信者一人​ひとりの​言葉と​ならなければなりません。​「清らかで​透明な物体が​光線を​受けると​燦然と​輝き光を​放つように、​聖霊に​よって​導かれ照らされた​霊魂も​また​自ら聖と​なり、​人々を​恩恵の​光で​照らさなければならない。​未来に​ついての​知識と​秘義を​知る​こと、​隠された​真理を​理解する​こと、​賜物の​分配、​天国での​市民権、​天使たちとの​語り合い、​これらは​すべて​聖霊から​出る​ものである。​終わる​ことの​ない​喜び、​神に​おける​堅忍、​神と​似た​ものに​なる​こと、​考えられる​ものの​中で​最も​崇高な​ことすな​わち神に​なる​こと、​これらも​聖霊に​由来する​ものである」22。

​ 人間の​尊厳、​特に​恩恵に​より​神の​子と​なった​人間の​偉大な​尊厳を​自覚すると、​その​自覚は​信者の​心の​中で​謙遜と​一体と​なります。​救いと​生命を​得るのは​人間の​力に​よるのではなく、​神の​ご厚意に​よる​ものだからです。​これは​決して​忘れてはならない​真実です。​もしこの​事実を​忘れ去ると、​〈神化〉の​意味が​誤解され、​神化は​傲慢や​僣越に​変わってしまい、​遅かれ早かれ自己の​弱さや​惨めさを​経験して​霊的に​倒れてしまう​ことでしょう。

​ 聖アウグスチヌスは​次のように​自問自答しています。​「自分は​聖人であると​敢えて​言えるだろうか。​聖化する​ものを​聖人と​考えて、​誰も​私を​聖化する​必要が​ないと​言えば、​私は​傲慢で​偽り者である。​しかし、​『神である​わたしが​聖であるから、​あなたたちも​聖なる​者と​なりなさい』と​レビ記に​書かれている​意味に​おいて、​聖化される​人を​聖人と​解釈するならば、​地の​果てに​住む人間であっても​キリストの​御体の​一部であるから、​その頭と​共に​頭の​下で​大胆に、​私は​聖人であると​言える」23。

​ 三位一体の​神の​第三の​ペルソナを​愛し、​心の​底で​励まし叱責する​神の​霊感に​耳を​傾けましょう。​心を​照らす光を​たよりに​して、​地上の​道を​歩みましょう。​希望の​神が​私たちを​平和で​満たし、​聖霊の​力に​よって​希望を​ますます豊かに​してくださる​ことでしょう​24。

聖霊と​交わる

​ 聖霊に​従って​生きるとは、​信仰・希望・愛を​もって​生きる​ことに​ほかなりません。​言い​換えれば、​神が​私たちを​ご自分の​所有物と​され、​私たちの​心を​根本的に​変えて​神に​相応しく​されるに​お任せする​ことなのです。​堅固で​円熟した​キリスト信者の​生活とは、​神の​恩恵が​成長する​おかげであって、​一朝​一夕に​して​成就できる​ものでは​ありません。​使徒言行録には、​初代の​キリスト信者に​ついて、​次のように​簡潔ですが、​意味の​深い​言葉が​記してあります。​「彼らは、​使徒の​教え、​相互の​交わり、​パンを​裂く​こと、​祈る​ことに​熱心であった」25。

​ これこそ、​初代教会の​人々の​生活であり、​私たちの​生活でなければならないのです。​信仰の​教えに​精通するまで​黙想する​こと、​ご聖体に​おいて​キリストと​出会う​こと、​匿名の​祈りではなく、​神と、​顔と​顔を​合わせた​個人的な​対話を​する​こと、​私たちの​生活は​根本的に​このような​内容を​持たなければなりません。​仮に​それらが​欠けていたとしても、​博学な​考察や、​多かれ少なかれ充実した​活動や​信心の​業や​習慣は​ある​ことでしょう。​しかし​真の​キリスト教的な​生活は​あり得ません。​キリストヘの​同化は​なく、​救いのみ​業にも​効果的に​あずかっていないからなのです。

​ すべての​人は​等しく​聖化に​召されているので、​この​教えは​すべての​キリスト信者の​ための​教えであります。​福音の​教えを​少しだけ実行すれば​よいと​いうような、​二流の​キリスト信者など​存在しないからです。​皆、​同じ​洗礼を​受けました。​神の​賜物や​各々の​状況が、​文字通り​種々​様々であったとしても、​神の​賜物を​分配する​聖霊は​一つであり、​信仰も​ひとつ、​希望も​ひとつ、​愛も​ひとつなのです。

​ 従って、​使徒の​次の​言葉は​私たちに​向けられた​ものと​考える​ことができます。​「あなたがたは、​自分が​神の​神殿であり、​神の​霊が​自分たちの​内に​住んでいる​ことを​知らないのですか」26。​この​言葉を​神との​今以上に​個人的で​直接的な​交わりへの​招きと​考える​ことができます。​残念な​ことに、​一部の​キリスト信者に​とって​慰め主は​〈知られざる​御者〉です。​その名を​口に​しても​唯一の​神の​三つの​ペルソナの​一つである​お方であると​理解していません。​聖霊なる​神と​話し、​その方に​よって​生きているとは​言えないのです。

​ 典礼を​通して​教会が​教えているように、​たゆみなく、​信頼を​もって​素直に​聖霊と​交わらなければなりません。​そう​すれば​私たちの​主を​より​深く​知り、​同時に​キリスト信者に​与えられた​計り​知れない​賜物に​ついても、​もっと​完全に​理解できる​ことでしょう。​前に​述べた​神の​生命への​参与や、​神化の​意味が​いかに​偉大で、​いかに​真実であるかも​深く​理解できる​ことでしょう。

​ なぜなら、​「聖霊とは、​ご自分が​神に​無縁な​存在であるかのように、​私たちの​中に​神の​本質を​描きだす​画家ではない。​神の​似姿を​私たちに​与えるのは​このような​方​法に​よるのではなく、​神で​あり神から​発出される​聖霊ご自身が、​それを​受ける​心に、​ろうに​印が​押されるように、​ご自分を​刻みつけられるのである。​このように、​聖霊が​ご自分を​伝え、​ご自分の​似姿を​与える​ことに​よって、​神の​美しさに​相応しい​本性を​人間に​回復させ、​再び神の​似姿に​するのである」27。

聖霊との​交わり ― そして​聖霊を​通して​御父と​御子との​交わり ― を​深めて、​慰め主なる​御方と​親しくなる​生活様式を​定めるには、​一般的にでは​ありますが、​次の​三つの​基本的な​事項に​留意しなければなりません。​すなわち、​素直、​祈りの​生活、​および​十字架との​一致であります。

​ 素直である​ことが​第一です。​聖霊は​その​勧めに​よって、​私たちの​思い・望み・​働きに​超自然的な​色合いを​添えてくださる​御方であるからです。​人々に​キリストの​教えを​深く​吸収させ、​従わせるように​導く​御方、​各個人の​使命を​自覚させ、​神の​お望みを​すべて​果た​すための​光を​お与えに​なる​御方は​聖霊です。​聖霊に​素直に​従うなら、​キリストの​似姿が​私たちの​中で​次第に​形づくられ、​日毎に​父である​神に​近づいて​行く​ことでしょう。​「神の​霊に​よって​導かれる​者は​皆、​神の​子なのです」28。

​ この​世での​生活原理である​聖霊の​導きに​任せるなら、​霊的な​生命力は​増し、​子どもが​父親に​頼るのと​同じように、​自然に​信頼しながら、​父である​神の​腕に​自己を​依託できる​ことでしょう。​「心を​入れ替えて​子供のようにならなければ、​決して​天の​国に​入る​ことは​できない」29と​主は​言われました。​霊的幼子の​道とは、​別に​新しい​道では​ありませんが、​いつも​効果的な​道です。​弱々しい​人々の​道でも、​成熟に​欠ける​人々の​道でもありません。​それは、​神の​愛の​素晴らしさを​深く​考えさせ、​自分の​惨めさを​認識させ、​自己の​意志を​全く​神のみ​旨に​一致させる​超​自然的な​円熟への​道なのです。

第二は​祈りの​生活です。​キリスト信者の​温和・従順・奉献などは​愛から​出て​愛に​向かって​進むべきものです。​そして​その​愛に​よって、​交わり・語り合い・友情が​生まれます。​キリスト信者の​生活は、​唯一に​して​三位なる​神との​絶え間ない​対話を​必要とします。​聖霊の​お招きに​なる​親しい​交わりとは​その​対話の​ことであります。​「人の​内に​ある​霊以外に、​いったいだれが、​人の​ことを​知るでしょうか。​同じように、​神の​霊以外に​神の​ことを​知る​者は​いません」​30。​聖霊と​絶えず​交われば、​霊的に​成長し、​キリストとの​兄弟意識を​抱き、​父と​して​呼びかける​ことを​ためらう​ことの​ない​神の​子であると​感じる​ことでしょう​31。

​ 私たちを​聖化してくださる​聖霊と​しばしば​交わる​習慣を​持つようにしましょう。​この​習慣に​よって、​近くに​おいでになる​聖霊に​信頼し、​助けを​求める​ことが​容易に​なるのです。​こうして、​狭い​心も​広くなり、​神を​愛し、​神に​おいて​すべての​人々を​愛する​希望も​燃え​上がってくる​ことでしょう。​そして、​霊と​花嫁、​聖霊と​教会、​さらに​一人​ひとりの​キリスト信者も、​イエス・キリストに​近づき、​来てください、​いつまでも​私たちと​共に​いてくださいと​願う​32黙示録の​終末の​光景が​私たちの​生活に​再現されるのです。

最後に​十字架との​一致を​挙げる​ことができます。​キリストの​ご生涯に​おいて​カルワリオが​ご復活や​聖霊降臨に​先行したように、​同様の​過程が​キリスト信者の​各々の​生活の​中にも​再現される​べきなのです。​聖パウロの​言葉に​よれば、​神の​「子供で​あれば、​相続人でもあります。​神の​相続人、​しかも​キリストと​共同の​相続人です。​キリストと​共に​苦しむなら、​共に​その​栄光を​も受けるからです」33。​聖霊は、​ただ神の​光栄のみを​求める​自己放棄と​いう​十字架の​結果、​神への​完全な​奉献の​結果、​与えられるのです。

​ 恩恵には​忠実に​応え、​自分の​心に​十字架を​立てて神の​愛ゆえに​自己を​否定し、​我儘と​人間の​誤った​確信から​本当に​離脱している​とき、​すなわち真実に​信仰を​実行する​とき、​その​ときこそ人は、​聖霊の​偉大な​焔や​偉大な​光、​偉大な​慰めを​全面的に​受ける​ことができるのです。

​ キリストが​勝ちとられ、​聖霊の​恩恵に​よって​与えられる​光と​平安34が​私たちの​心に​みなぎるのも​その​時です。​霊の​結ぶ​実は​愛であり、​喜び、​平和、​寛容、​親切、​善意、​誠実、​柔和、​節制35であり、​主の​霊の​おられる​ところに​自由36が​あるのです。

​私たちの​中には​まだまだ​何らかの​形で​罪が​宿っているので、​限界だらけの​存在では​ありますが、​それにも​拘わらずキリスト信者は、​新たな​光を​受けて​神の​子と​なる​富を​有する​ことを​知っています。​御父の​ために​働くゆえに​全く​自由であると​自覚し、​何ものも​自己の​希望を​破壊できないゆえ、​喜びは​永続的である​ことを​知っているのです。

​ それと​同時に、​地上の​すべての​美と​素晴らしさに​感嘆し、​すべての​富と​すべての​善を​大切にし、​愛する​ために​創られた​対象を​純枠・完全に​愛する​ことができるはずです。​人間の​弱さを​知り、​罪を​痛悔する​ことに​よって、​キリストの​救霊への​望みに​再び一致し、​すべての​人間との​結束を​強く​感じる​ことができますから、​罪を​悲しむ心が​私たちを​苦々しい​態度や​絶望的あるいは​高慢な​態度に​向かわせる​こともないはずです。​結局、​キリスト信者が​聖霊の​力を​強く​自分の​中に​経験する​とき、​自己の​失敗に​よって​挫折する​ことは​なくなるはずです。​その​挫折とは、​実は​個人的​惨めさにも​拘わらず、​あらゆる​場所で​キリストの​忠実な​証人と​して、​再び立ち直るようにと​いう​招きに​ほかならないからです。​そのような​場合、​個人的な​惨めさと​言っても、​大きな​過失でも、​心を​取り乱させる​ほどの​失敗でも​ないでしょう。​仮に​重大な​過失であったとしても、​痛悔の​心を​もち、​ゆる​しの​秘跡に​あずかれば、​神の​平和は​蘇り、​再び神の​御憐れみを​証す善良な​証人に​なることができるのです。

​ 人が​自己を​聖霊の​導きに​委ねた​ときの、​信仰の​豊かさと​キリスト信者の​生活を、​人間の​貧弱な​言葉で​十分に​言い​尽く​すことは​できませんでしたが、​簡単に​まとめてみたつもりです。​結びと​して、​教会全体の​絶え​ざる​祈りを​こだまする​聖霊降臨の​祝日の​典礼聖歌に​ある​祈願を​私の​最後の​祈りに​したいと​思います。​「創り主の​聖霊、​来てください。​わたしたちの​心を​訪れ、​あなたに​創られた​この​心を、​天の​恵みで​満たしてください。​(…)​わたしたちがあなたに​よって、​御父と​御子を​知り、​父と​子から​発せられる​愛の​息吹を​信じる​恵みを​与えてください」37。

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