神との親しさ

1964年4月5日


白衣の​主日

白衣の​主日を​迎えると、​私の​国に​昔から​伝わる​信心深い​習慣を​思い出します。​主日の​典礼は、​霊的な糧、​「混じりない​霊的な​乳を​慕い​求めなさい」1と​招いています。​この​日には、​復活祭の​掟の​遵守を​助ける​ため、​重病人のみならず、​病に​伏している​すべての​人々に​聖体を​運んであげる​習慣が​あったのです。

​ 大きな​町では、​小教区ごとに​聖体行列を​行いました。​私が​大学生の​頃は、​サラゴサ​(スペイン)の​コルソと​いう​広場のような​ところを、​大勢の​男たちが​燃えさかる​蝋燭を​手に、​三つの​行列を​つくって​練り歩いた​ものです。​屈強な​男たちは、​両腕で​抱える​枝型の​重い​蝋燭のような​大きな​信仰心に​燃えて、​聖体に​付き従うのでした。

​ 昨夜は​なんども​目を​覚ましましたが、​そのたびに​射祷と​して、​「新たに​生まれた​みどり児のように」2と​繰り返していました。​神の​子である​ことを​実感している​者に​とって、​この​言葉は​実に​申し分の​ない​招きであると​考えたのです。​自分の​置かれた​環境に​あっては、​周囲に​大きな​影響を​与えるだけの​強さと​勇気を​持たなければならないと​しても、​神のみ​前では​自らを​幼子のように​考えるべきだからです。

​私たちは​神の​子

 ​「新たに​生まれた​みどり児のように、​混じりけの​ない​霊的な​乳を​望みなさい」3。​聖ペトロの​言葉は​見事と​いう​ほかは​ありません。​典礼が​すぐ​あとで、​「われらの​力である​神に​歓呼の​声を​あげ」、​父に​して​主に​まします​「ヤコブの​神に​呼びなさい」4と​加えた​理由も​なる​ほどと​頷けます。​けれども​本日は、​イエスに​対する​最大の​賛辞を​吐露する​ミサは​さて​おき、​真剣な​努力を​傾けて​信仰に​生きようとする​人々​全員の​ために、​私たちの​も​つ​確実性、​つまり神の​子であると​いう​事実に​ついて、​しばらく​黙想したいと​思います。

聖櫃から​私たちを​ごらんに​なっている​イエスは​よく​ご存じなのですが、​今の​話題とは​関係の​ない​ある​事情から、​私は​自分が​神の​子である​ことを​特に​実感できる​一生を​過ごしてきたと​言えます。​意向を​改め、​自らを​浄化し、​主に​仕える​ため、​また神の​愛と​私自身の​屈辱を​もとにして、​すべての​人々を​理解し、​そして​赦すために、​主の​聖心の​うちに​入り込む​喜びを​味わうことができました。

​ それゆえ、​今皆さんに​重ねてお願いします。​いとも​簡単に​私たちを​惑わす、​弱さと​いう​悪夢から​早く​目覚めて、​自らを​改め、​神の​子と​しての​自覚を​強く​持ってください。

​ 東方の​地を​巡り歩く​イエスを​模範に​するなら、​この​真理を​さらに​深く​理解できるでしょう。​ヨハネの​書簡には、​「わたしたちが人の​証しを​受け入れるのであれば、​神の​証しは​更に​まさっています」5と​書き記してあります。​ところで、​神の​証しとは​なんの​ことでしょうか。​「(御父が​どれほどわたしたちを​愛してくださるか、)​考えなさい。​それは、​わたしたちが神の​子と​呼ばれる​ほどで、​事実また、​そのとおりです」6と​聖ヨハネは​答えています。

​ この​喜ばしい​神との​父子関係に、​私は​絶えず​支えを​求めてきました。​どのような​事情が​あっても、​時に​よって​色合いは​異なったけれども、​いつも​神に​申し上げた​ものです。​主よ、​私を​このような​場に​置き、​あれこれと​仕事を​お任せに​なったのは​あなたです。​あなたを​深く​信頼いたします。​あなたが​私の​父である​ことは​よく​承知しております、と。​子供たちが​父親に​全幅の​信頼を​寄せる​様子を​幾度と​なく​目に​してきました。​子供のように​神のみ​手に​すべてを​委ねる​ならば、​心は​活力に​溢れ、​深くて​強い​落ち着きの​ある​信仰心を​獲得し、​その​結果、​常に​正しい​意向で​働く​ことができると​いう​ことを、​司祭と​しての​経験から​確信できました。

イエスの​模範

​「新たに​生まれた​みどり児のように…」。​嬉しい​ことに、​ありと​あらゆる​ところで​この​神の​子と​しての​自覚を​人々に​伝える​ことができました。​神の​子と​しての​自覚が​しっかりしているなら、​ミサ聖祭の​典礼に​取り入れられた​次の​言葉を​深く​味わうことができるでしょう。​「神から​生まれた​人は​皆、​世に​打ち​勝つからです」7。​言い​換えれば、​人々と​社会に​平和を​もたら​すための​偉大な​戦いに​おいて、​困難を​克服し、​勝利を​得る​ことができると​いうのです。

​ 私たちの​力と​知恵は、​神のみ​前で、​卑小で​無に​等しい​自らの​状態を​悟る​ところから​生まれます。​ところで、​無力を​自覚すると​同時に、​全幅の​信頼を​込めて​御ひとり子イエス・キリストを​人々に​告げ知らせよ、​と励ますのは​神ご自身です。​たとえ惨めさや​失敗が​目に​ついても、​弱さを​克服する​ために​弛まず​戦いを​続けながら、​キリストを​人々に​知らせるよう​努力しなければなりません。

​ ​「善を​行う​ことを​学べ」​8と​いう​聖書の​勧めを、​私は​何度も​繰り返してきました。​確かに、​善の​実行の​仕方を​学び、​それを​人々に​教える​必要が​あります。​しかし、​それには​まず​自分から​始めねばなりません。​友人​一人​ひとりに、​人々に、​どのような​善を​望めば​よいのか、​いかなる​善を​施すべきであるかを​見つける​努力が​要求されています。​神は​私たちの​父であり、​私たちは​神の​子であると​いう​事実を、​言葉で​表現できなくても、​単純な心で​眺めながら、​人々に​仕える​方​法を​学んで​ゆく​―神の​偉大さを​考える​ために、​これに​勝る​道は​ないのではないでしょうか。

再び師イエスに​注目してみましょう。​トマスが​受けた​叱責の​言葉を​あなたも​耳に​するかもしれません。​「あなたの指を​ここに​当てて、​わたしの​手を​見なさい。​また、​あなたの手を​伸ばし、​わたしの​わき腹に​入れなさい。​信じない​者ではなく、​信じる​者に​なりなさい」9。​すると、​使徒聖トマスのように、​「わたしの​主、​わたしの​神よ」​10、​あなたを​師と​認めます、​あなたの​助けに​支えられて主の​教えを​蓄え、​その​教えに​従う​努力を​いたします、と​叫ぶ真摯な​心に、​痛悔の​念が​湧き​上がってくる​ことでしょう。

​ 福音書を​開くと、​イエスが​退いて​祈り、​祈る​主を​弟子たちが​眺めている​場面が​目に​浮かん​できます。​主が​祈りを​終える​やいなや​弟子の​一人が​近寄ってお願いします。​「『主よ、​ヨハネが​弟子たちに​教えたように、​わたしたちにも​祈りを​教えてください』と​言った。​そこで、​イエスは​言われた。​『祈る​ときには、​こう​言いなさい。​「父よ、​み名が​崇められますように…」』」11。

​ この​お答えを​聞いて​驚かずに​いられるでしょうか。​弟子たちは​イエス・キリストと​一緒に​いる。​そして、​イエスは​弟子たちとの​語らいの​間に​祈り方を​教える。​あなたたちは​神の​子であるから、​子供が​父親と​語り合うように、​信頼して​話し合えば​よいと。​このように​して、​主は​慈しみ深い​心から、​祈りの​<秘訣>を​明かしてくださいました。

​ ある​人たちは​信心生活、​つまり​主との​付き合いを、​神との​一対一で​個人的な​付き合いではなく、​匿名の​話し合いであると​考えています。​また、​そのような​話し合いを​奨励して、​理屈っぽく​不愉快で​紋切型の​言葉を、​幾度も​繰り返すのです。​それを​聞くと、​私は​いつも​キリストの​次のような​勧めを​思い出します。​「祈る​ときは、​異邦人のようにく​どく​どと​述べてはならない。​異邦人は、​言葉数が​多ければ、​聞き入れられると​思い込んでいる。​彼らの​まねを​してはならない。​あなたが​たの父は、​願う​前から、​あなたが​たに​必要な​ものを​ご存じなのだ」​12。​ある​教父は​この​章句を​次のように​解説しています。​「キリストは​長い​祈りを​避けるよう​指示しておられると​思う。​ところで、​長いと​いうのは​時間を​指すのではない。​終わりのない​言葉の​羅列の​ことである。​(…)​しつこく​懇願を​繰り返して、​やる​気の​ない​悪徳裁判官を​克服した​やもめの​例を、​主ご自身が​示してくださった。​それだけではなく、​真夜中に​訪れて​執拗に​求める​人に、​友人だからと​いう​よりは、​うるさくて​仕方が​ないから、​寝床から​起きて​願いを​聞き入れた​男の​例も​主が​教えてくださった。​(ルカ11,5-8と​18, 1-8参照)​この​二つの​例に​よって、​主は、​際限ない​祈りを​続けるのではなく、​単純率直に​自分の​必要を​願う​祈りを​絶えず続けよ、​と​教えておられるのである」13。

​ 念祷を​始めても​集中して​神と​語り合うことができない、​頭も​涸渇して​何も​考えられず​無感覚を​託つのみである。​このような​状態に​なるなら、​そんな​ときに、​いつも​私が​努めて​実行している​方​法を​お勧めします。​神のみ​前に​いる​ことを​意識し、​少なくとも主に​あなたの心を​示してください。​主よ、​どうして​祈って​よいか​分かりません、​何を​お話しすれば​よいのか分からないのです、​そう申し上げた​瞬間から、​あなたは​確かに​神に​語りかけ、​祈り​始めているのです。

神の​子と​しての​孝愛

私は​神の​子である​―このような​自覚から​生まれる​孝愛は、​心の​底から​出てくる​姿勢とも​言うべき​もので、​あらゆる​思いと​望みと​愛情の​底に​あって、​いずれ​私たちの​存在​その​ものに​影響を​与えます。​子供が​家庭の​中で​無意識の​うちに​両親を​真似、​親の​仕草や​癖や​物腰を​身に​つけ、​多くの​点で​親に​似てゆく​ことは​ご存じの​とおりです。

​ 神の​よい​子にも​同じ​傾向が​見られます。​どのように​してか、​どのような​道を​通ってかは​わからないながらも、​素晴らしい​<神化>が​実現して、​信仰と​いう​超自然の​光ですべてを​浮彫に​して​見るようになる。​そして、​御父が​人々を​愛するように、​私たちも​人々を​愛します。​最も​大切な​ことは、​新たな​勇気に​満たされて主に​近づこうと、​日々の​努力を​たゆみなく​続けると​いう​点です。​重ねて​申しますが、​弱さや​惨めさを​恐れる​必要は​ありません。​父なる​神が、​両腕を​広げて​助け起こそうと、​待ちかまえていてくださいますから。

​ 倒れたのが​子供であるか​大人であるかに​よって、​その​場に​居合わせた​人々の​反応が​ずいぶん​違ってくることに​注意してください。​子供の​場合なら、​倒れても​大して​問題に​なりません。​幾度も​倒れて​当たり前です。​涙が​出ると、​男は​泣かないぞ、と​父親が​諭す。​子供は​親の​期待に​応えようと​精一杯こらえて、​それで​解決。

​ ところで、​大の​男が​平衡を​失ってもろに​倒れた​場合は​どうだろうか。​同情心を​引き起こすか、​さも​なければ​物笑いの​種に​なる。​ひょっとしたら​ひどい​打ち身を​し、​お年寄りなら​取り返しの​つかない​骨折に​苦しむことに​なるかもしれません。​内的生活に​おいては、​新たに​生まれた​みどり児、​ゴムで​できているのかと​思われるような、​幼い​子供のようになれば​よいのです。​子供は​ぶつかり合い、​転んでは​楽しんでいる。​倒れても​すぐ​立ち上がる​ことができ、​必要な​ときには​両親の​慰めが​待っているからです。​子供のようになれば、​たとえ内的生活に​起こる​衝突や​失敗を​すべて​避ける​ことは​できないに​しても、​悲嘆に​くれてしまうような​ことは​ないでしょう。​心に​痛みを​感じても、​落胆する​ことなく​対処する。​愛に​して​偉大、​無限の​知恵で​あり慈しみ深い​御父、​その​御父の​子である​ことを​知る​者の​も​つ​喜びで​微笑みが​こぼれる。​長年の​あいだ神に​仕えてきた​私は、​神のみ​前で​本当に​幼子である​ことができるようになりました。​そこで、​皆さんにも​お勧めしたいのです。​<新たに​生まれた​みどり児>のように、​神の​言葉、​神の​パン、​神の​お与えに​なる糧、​神の​力強さを​求める​信者と​しての​道を​歩んでください。

本当に​幼い​子供に​なりなさい。​幼ければ​幼い​ほど​望ましいでしょう。​司祭と​しての​私の​経験が​そう​教えます。​長くて​短い​この​三十七年の​間、​具体的ではっきりと​した​神のみ​旨を​果た​すべく​努力を​傾けてきました。​倒れては​立ち上がらなければならない​ことが​何度も​何度も​ありましたが、​そのような​時は​いつも、​幼子の​態度を​保ち、​聖母の​膝を​求め、​主キリストの​聖心に​より​どころを​求める​ことに​よって、​力を​得る​ことができました。

​ 霊魂を​ずたずたに​するような​大失敗、​ときには​取り返しが​つかないと​思われる​ほど害を​与える​失敗は、​決まって​人の​助けなど​要らないと​考える​高慢な​心が​原因です。​このような​状態に​陥ると、​神を​はじめ、​友人や​司祭など​適当な​人に​助けを​求める​ことも​できなくなり、​哀れにも、​不幸な​状態に​孤立して​方角を​見失い、​道を​踏み外してしまいます。

​ 今すぐ​神様に​お願いしましょう。​決して​自己満足に​陥る​ことなく、​常に、​主の​助けと​言葉、​パン、​慰め、​力を​切に​願うことができますように。​聖霊は​「混じりけの​ない​霊的な​乳を​望め」と​教えています。​子供のようになりたいと​いう​望みを​大きくしてください。​高慢を​打ち砕くには、​これが​最良の​方法である​ことを​確信してください。​私たちの​振舞いが​よきもの、​偉大な​もの、​神的な​ものであって​欲しいと​思うなら、​神のみ​前で​幼子に​なる​ほか​道は​ありません。​「はっきり​言っておく。​心を​入れ替えて​子供のようにならなければ、​決して​天の​国に​入る​ことは​できない」14。

若い頃の​思い出が​再び蘇ってきました。​あの​人々の​篤い​信仰には​全く​感心させられます。​いまな​お典礼聖歌は​耳に​響き、​香の​かおりを​吸い​こんでいるような​心地が​します。​大勢の​男たちが、​自分の​弱さを​象徴するかのような​大きな​蝋燭を、​幼子のような​心で​支えている​様子が、​目に​見えるようです。​御父のみ​顔を​仰ぎ見る​勇気が​ないのかもしれません。​「神である​主を​捨てたことが​いかに​悪く、​苦い​ことであるかを​味わい​知るが​よい」15。​この​世の​事柄に​夢中に​なる​あまり、​神から​離れるような​ことには​決してなる​まいと、​固い​決心を​新たに​したい​ものです。​どう​振舞えば​よいか具体的に​決心し、​渇く​人が​水を​求めるように​神を​求めようでは​ありませんか。​自分の​無力を​知るゆえ、​絶えず​御父を​呼び求めるのです。

​ 話を​もとに​戻しましょう。​幼子のようになる、​神の​子らしくなると​言っても、​実際に​どう​すれば​よいかを​学ばなければなりません。​次いで、​それを​人々にも​伝える​義務が​あります。​神の​子と​しての​あり方を​身に​つけると、​たとえ欠点は​なくならないと​しても、​「信仰に​堅く」16、​行うに​豊か、​そして、​歩みは​しっかりと​してきます。​万一、​これ以上​ひどい​過ちは​ないと​言える​ほどの​失敗を​しても、​迷わず立ちあがり、​神との​父子関係と​いう​道に​戻る​ことができる。​両腕を​広げて​待ちかまえている​御父のもとに​駆け戻る​ことができるのです。

​ 父親の​腕を​忘れた​人は​いないでしょう。​母親の​腕のように、​優しく​細やかではなく、​甘えを​許してくれなかったかもしれませんが、​父親の​あの​逞しくて​強い腕に​抱かれると、​暖かさと​身の​安全を​感じとることができました。​主よ、​このような​頑丈な​腕と​力強い​手に​感謝いたします。​優しくも​厳しい​心に​感謝いたします。​私の​弱さに​ついても​感謝したい​ところでしたが、​弱さは​望みたく​ありません。​しかし、​あなたは​弱さを​理解し、​赦し、​見逃してくださいます。

​ これこそ、​神との​交わりに​おいて​用うるべき知恵であり、​神が​お望みに​なる​知恵。​これこそ​数学の​知識のような​ものです。​つまり、​私たちは、​いくら​並べても​役に​立たない、​数字の​左側にならぶゼロのような​もの、​それにも​かかわらず、​父である​神は​役立たずの​私たち一人​ひとりの​あるが​ままの​姿を​認めてくださる。​哀れな​私で​さえ、​あなたたちの​あるが​ままの​姿を​愛する​ことができるなら、​愛である​神が​皆さん方​一人​ひとりに​いかほどの​愛を​注いでくださるか、​容易に​想像できるのではないでしょうか。​ただし、​良心を​しっかりと​育て、​その​良心に​従って​生活を​律する​努力、​つまり​戦う​必要の​ある​ことを​忘れては​なりません。

生活プラン

現在の​信仰心と、​信仰心の​あるべき姿を​振り返り、​神との​一対一の​関係を​改善する​ための​具体的な​方​法を​糾明すれば、​私の​話を​理解してくださった方なら、​克服できないような​誘惑に​ついて​考える​ことは​ないでしょう。​私たちが各瞬間に​小さな​贈り物を​愛の​しるしと​して​差し上げると、​主は​大いに​喜んでくださいます。

​ 絶えず​一定の​生活プランに​従うよう​努めてください。​数分間の​念祷、​できれば​毎日の​ミサ、​また、​しばしば聖体拝領を​する​こと、​大罪が​なくとも​定期的に​ゆる​しの​秘跡に​あずかる​こと、​聖体訪問、​ロザリオの​祈りと​神秘の​黙想、​その​他すでに​ご存じの、​あるいは​これから​学ぶことのできる、​数多くの​信心の​わざが​あります。

​ 船の​内部に​ある​鉄の​仕切りのような​融通の​利かない​生活プランではなく、​社会の​中で​仕事を​持ち、​社会関係や​義務に​囲まれて​生きる​人の、​それぞれの​条件に​合わせた​日課を​立てる​ことができるでしょう。​これら​日常の​諸活動を​無視する​ことは​できない​相談ですから、​生活プランは​使う​人の​手に​ぴったりと​合う​ゴム手袋のような​条件を​備えていなければならないのです。

​ 信心の​わざは​多ければ​多い​ほど​良いと​いうわけでは​ありません。​やる​気が​あろうと​なかろうと、​一日の​うちに​できる​ものに​<寛大に​限定>するのが​良策でしょう。​信心の​わざを​実行していれば、​気づか​ぬうちに​観想生活に​入る​ことができます。​愛の​行為、​射祷、​感謝と​償い、​霊的聖体拝領などが​自然に​心から​出てくるようになるでしょう。​電話の​受話器を​おく​とき、​ドアを​開け閉めする​とき、​教会の​前を​通る​とき、​仕事の​始めや​終わりに…。​いずれの​場合も​父である​神を​想うことができますから、​結局は​日常の​仕事に​従事しながら​観想生活を​している​ことに​なるのです。

神との​父子関係に​憩いを​求めてください。​神は​限りなき愛と​優しさに​溢れた​御父ですから、​何度も​心の​中で、​<父よ>と​呼びかけたい​ものです。​心の​中で​主に​申し上げましょう。​あなたに​愛を​捧げ、​あなたを​礼拝します、​あなたの子である​ことに​誇りを​感じ、​力を​得る​ことができます、と。​ところで、​このような​態度を​保つには​内的生活の​プログラムが​必要に​なります。​それは​わずかでは​あっても、​神への​しっかりした信心・孝愛と​いう​形に​あらわれ、​やがて神の​よい​子に​ふさわしい​心と​生き方を​会得させてくれるでしょう。

​ 信心の​墓と​言われる​惰性に​陥らないよう​警戒してください。​惰性に​陥ると、​往々に​して​大手柄を​立てんと​する​野心にかられ、​大きな​ことを​狙いは​するが、​日常の​義務は​都合よく​遅らせてしまいます。​そのような​誘惑が​訪れた​ときには、​神のみ​前で​糾明してください。​いつもと​同じ​ところで​戦いを​続けるのが​嫌に​なったのは、​戦うに​当たり、​神を​求めていなかったからではないだろうか。​惜しみない​犠牲の​精神を​失くした​ため、​忠実に​最後まで​仕事を​やり遂げる​力を​失ったのではないだろうか。​このように​自らを​糾明して​欲しい。​そう​すれば​分かるでしょう。​小さい​犠牲、​効果の​上がらぬ使徒職が、​この​上なく​不毛な​努力に​思えてくる。​心は​虚しくなり、​新しい​計画ばかりを​立てては​夢を​託し、​全き​忠誠を​望む天の​父の​声に​耳を​貸さなくなる。​大げさな​ことばかりを​夢に​みて、​聖性に​向かって​一直線に​導いてくれる​道、​最も​確かな​道を​忘れてしまう。​これこそ、​明らかに、​超自然の​見方を​失ってしまった​証拠です。​幼子に​過ぎない​自分を​忘れてしまったが​ために、​謙遜な​心で​やり直しさえ​すれば、​御父が​素晴らしい​わざを​実現してくださる​ことが、​確信できなくなったしるしなのです。

道しるべ

故郷の​小道の​わきに、​背の​高い​赤い​棒が​立っていました。​道や畑、​牧草や森、​岩や​崖が​雪に​被いつくされる​頃、​これらの​棒は​埋まらずに​雪の​上に​突き出て​道を​示してしくれるのだと​教わり、​子供心に​深い​印象を​受けた​ことを​憶えています。

​ 内的生活に​おいても​似たような​ことが​起ります。​春、​夏、​冬が​あり、​日の​射さない​日が​あり、​月の​隠れた​夜も​ある。​しかし、​イエス・キリストとの​交わりが​その​時々の​気分や、​気分の​変化に​よって​左右されては​なりません。​そのような​ことは​利己主義や​安楽を​求める​心に​つながり、​当然ながら愛とは​両立しえないからです。

​ それゆえ、​降雪や​吹雪の​ときには、​それぞれの​事情に​あわせて​定め、​深く​根を​おろしていて​感情に​支配されない、​堅固な​信心の​務めが​すこぶる​大切に​なる。​このような​信心の​わざは、​道路の​わきに​立てられた​あの​赤い棒のように、​絶えず道を​指し示してくれます。​その​結果、​やがて主の​お望みの​ときに​太陽が​照り​輝き、​氷が​融けてくると、​心は​再び元気よく​活動を​開始する​ことができる。​火は​消えてしまっていたのではなく、​試みの​間、​努力や​犠牲が​不足している​間、​灰に​隠れて​埋み火に​なっていたに​過ぎないのです。

悲しみに​沈んで​次のように​言った​人が​いました。​「神父さま、​一体​どうなってしまったのか分からないのですが、​疲れて心は​冷たくなり、​以前には​実行が​容易でしっかりしていた​信心も、​この​頃は​何か​喜劇を​演じているような​気に​なるだけです」。​このような​状態に​いる​人々、​そして​皆さん方にも​お答えしたい。​喜劇だと​言うのですか。​素晴らしい​ことでは​ありませんか。​子供に​対する​父親のように、​神が​私たちと​戯れておいでになるのです。

​ ​「わたしは​地上で​人の​子と​遊んだ」​17と​聖書に​書いてあります。​主は​地上の​あらゆる​ところで​戯れておいでになるのであって、​私たちを​見放された​わけでは​ありません。​聖書には​続いて、​「わたしは​人の​子らと​共に​楽しむ」​18と​記してあります。​神が​私たちの​遊び相手に​なってくださる。​心が​冷え切り、​無気力に​陥って、​まるで​喜劇を​演じているように​思われる​とき、​気も​腐って​やる​気が​なく、​義務の​遂行が​辛くなった​とき、​あるいは​また、​目指す霊的面での​目標が​達成しが​たく​思える​とき、​そのような​ときには、​神が​私たちと​戯れておいでになると​考え、​喜劇を​颯爽と​演じきろうでは​ありませんか。

​ 主が、​時と​して​私に、​たくさんの​恩寵を​与えてくださった​ことを​隠すつもりは​ありません。​しかし、​たいていの​場合は、​自分の​傾きに​あらがって​生きなければなりませんでした。​気に入っているから​計画を​実行すると​いうよりも、​果たさなければならないから​神への​愛ゆえに​実行するのです。​「しかし​神父さま、​神のみ​前で​喜劇を​演じるなどと​いう​ことができるのでしょうか」。​「そんな​ことは​偽善ではないのですか」。​心配するには​及びません。​神と​いう​観客の​前で​人間喜劇を​演じる​ときが​訪れたのです。​忍んで​やり遂げなさい。​御父と​御子と​聖霊が​見てくださっています。​たとえ辛くとも、​すべてを​神への​愛の​ため、​ただ神を​お喜ばせする​ために​やり遂げるのです。

​ 神の​旅芸人に​なる、​素晴らしい​ことでは​ありませんか。​神への​愛ゆえ​犠牲を​ものとも​せず、​自己満足を​求める​こともなく、​ただ神を​お喜ばせしたい​一心で、​喜劇を​歌い​語りする​ほど​美しい​話が​あるでしょうか。​主と​向かい​合って​心の​思いを​吐露しなさい。​「やる​気は​全くないのですが、​あなたに​お捧げする​つもりで​果たします」と。​そして、​たとえ喜劇に​過ぎないと​思えても、とにかく​仕事に​没頭してください。​幸いな​喜劇と​言えるのでは​ありませんか。​それが​偽善でない​ことは​私が​保証します。​偽善で​あれば、​必ず​観客を​要求します。​偽善者なら、​観客の​いない​ところで​演技しないでしょう。​ところで、​繰り返しますが、​私たちが​演じる​とき、​観客は、​御父と​御子と​聖霊、​聖母マリアと​聖ヨセフ、​すべての天使と​聖人たちです。​私たちの​内的生活を​見てくださるのは、​「ひそかに​お通りに​なる​キリスト」​19なのです。

「わたしたちの​力の​神に​向かって​喜び歌い、​(…)​神に​向かって​喜びの​叫びを​あげよ」​20。​主を​称えよ、​我らの​唯一の​助け手、​主に​おいて​喜び踊れ。​イエスよ、​この​事実を​知らない​人は​愛に​ついても、​罪に​ついても、​惨めさに​ついても​知らない​人でしょう。​私は​哀れな​人間ですから、​罪に​ついても​愛や​惨めさに​ついても​知っています。​神の​心に​近づくとは​どういう​ことなのか​分かりますか。​人間が​神に​相対して​心を​開き、​不平を​述べたてるとは​どんな​ことか​分かるでしょうか。​たとえば、​この​世でもっと​長生きし、​主に​仕え、​主を​愛する​ことのできるはずの​人を、​主が​ご自分の​もと​へ​お召しに​なった​とき、​私は​不平を​ならします。​なぜ​そのような​ことを​なさるのか、​私には​理解できないからです。​しかし、​これは​あくまで​神を​信頼する​人間の、​心から​出る​悲しい​呻き声のような​ものです。​神のみ​腕から​離れると​すぐ​倒れてしまう​ことを​よく​承知していますから、​すぐに​神のみ​旨を​お受けし、​そして、​言い​添えます。​「神の​いとも​正しく、​いとも​愛すべきみ旨は、​万事を​越えて​行われ、​全う​され、​賛美され、​永遠に​称えられんことを。​アーメン。​アーメン」。

​ これが​聖書の​教える​私たちの​生き方、​使徒職の​効果を​上げる​ための​聖なる​<悪知恵>です。​これこそ、​私たち神の​子の​愛と​平安の​源、​落ち着きと​愛を​人々に​伝える​ための​道なのです。​こうして、​私たちは​仕事を​聖化し、​仕事の​中に​隠された​幸せを​求めつつ、​日々の​生活を​神の​愛の​うちに​終える​ことができる。​子供のような​聖なる​<無恥>を​身に​つけ、​倒れると​恐れを​なして​御父のもと​へ​戻らないような​偽善、​おとなの​<恥>を​捨てて、​道を​歩み続けます。

​ 本日ミサ聖祭でとりあげた​福音書に​出てくる​主の​挨拶を、​この​祈りの​結びとします。​「あなたたちに​平和」21。​私たちを​御父のもとへと​付き添い、​導いてくださる​主を​見て、​「弟子たちは​喜んだ」​22。

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