聖性を目指して

1967年11月26日


「実に、​神のみ​心は、​あなたが​たが​聖なる​者と​なる​ことです」1。​聖パウロの​この​叫びに​注意して​耳を​傾けると、​心が​強く​揺さぶられます。​そこで​今一度、​私たちが​聖人に​なる​ことこそ、​神の​お望みである​ことを​考え、​私自身が​聖人たらんと​決心すると​同時に、​皆さん方に、​また​すべての​人々に、​神の​このみ​旨を​思い​起こして​欲しいと​思います。

​ 真の​平和で​心を​満たし、​世を​改め、​現世に​おいて、​現世の​事柄を​通して​主なる​神に​出会うには、​私たちが​各々聖人に​なる​ほか​ありません。​幾多の​国の、​様々な​社会環境の​人々と​話すとき、​次のような​要望を​しばしば​受けました。​結婚している​者たちに​何か​おっしゃってください、​農業に​いそしむ者たちに​何か​一言を、​夫に​先立たれた​者たちに​何か​一言を、​青年たちにも​一言を、など。

​ ​「釜は​一つしかない」。​これが​私の​決まった​返事です。​ついで、​イエス・キリストは​人の​差別を​せず、​どのような​人にも​福音を​教えた​ことを、​詳しく​説明する​ことに​しています。​一つの​釜からとる​同じ​食物。​「わたしの​食べ物とは、​わたしを​お遣わしに​なった方の​御心を​行い、​その業を​成し遂げる​ことである」2。​青年も​老人も、​未婚者も​既婚者も、​健康な​人も​病気の​人も、​教養の​ある​人も​ない​人も、​どんな​仕事を​していても、​どこに​いても、​一人​ひとりが​聖性に​召され、​各々に​愛が​求められています。​神を​いよいよ信頼し、​神との​親密さを​いや増す方​法は、​一つしか​ありません。​そして、​その​唯一の​方​法とは、​祈りに​おいて​主と​交わり、​主と​語り合い、​心と​心の​触れ合いの​うちに、​主への​愛を​示すことなのです。

神と​語らう

​ ​「わたしを​呼び、​来て​わたしに​祈り​求めるなら、​わたしは​聞く」3。​主に​話しかけ、​主と​語り合い、​主に​祈り​求めるのです。​その​ためには、​「絶えず​祈りなさい」4と​勧める、​使徒聖パウロの​忠告を​実行しなければなりません。​たとえ何が​起ころうとも​絶えず​祈るのです。​「心の​底から、​そして、​全心を​込めて」5。

​ 人生が​常に​楽であるとは​限らない。​人生には​不愉快な​こと、​辛い​こと、​悲しい​ことが​つきものだと​考える​ことでしょう。​ところで​そのような​考えにも​聖パウロが​答えてくれています。​「死も、​命も、​天使も、​支配する​ものも、​現在の​ものも、​未来の​ものも、​力ある​ものも、​高い​所に​いる​ものも、​低い​所に​いる​ものも、​他の​どんな​被造物も、​わたしたちの​主キリスト・イエスに​よって​示された​神の​愛から、​わたしたちを​引き離す​ことは​できない」6と。​何事が​おこっても、​神の​愛、​偉大な愛である​御方、​父なる​神との​絶え​ざる​交わりから、​私たちを​引き離す​ことは​あり得ないのです。

​ 神との​絶え間ない​一致を​勧めると​いう​ことは、​大部分の​キリスト者に​とって、​とても​到達できそうもない​ほど​高い​理想を​掲げる​ことにならないだろうか。​確かに、​高い​目標には​違いない。​しかし、​到達できない​ことは​ありません。​聖性に​至る​道は​祈りの​道です。​小さな​種子が​時を​経て​青々と​生い​繁る​大樹に​成長するように、​祈りも​心の​中で​少しずつ根を​おろしていかなければなりません。

大勢の​人々が​子供の​時から​繰り返している​口祷から​始めてみましょう。​口祷は、​神に、​そして、​私たちの​母マリアに​捧げられる​短いながらも​熱烈な愛の​言葉です。​今でも​私は、​毎日、​朝も​夜も、​両親から​教わった​奉献の​祈りを​唱えています。​「御母マリアよ、​あなたに​私の​すべてを​捧げます。​あなたを​愛し、​私の​眼、​耳、​舌、​心の​すべてを​あなたに​捧げます。​…」。​これは​すでに、​ある​意味で、​観想の​始まりであり、​信頼に​満ちた​依託の​明らかな​証拠ではないだろうか。​恋人た​ちが​出会う​とき、​どのような​言葉を​交わすだろう。​どのような​仕草を​するのだろうか。​愛する​人の​ために、​自己の​存在と​所有する​すべてを​捧げるのでは​ありませんか。

​ まず、​射祷を​一つ​唱える​ことから​始めて、​次第に​その数を​増していくが、​燃えるような​射祷とは​いえ、​そのうちに​それだけでは​充分でないと​感じ始める。​言葉で​すべてを​言い​尽く​すことができないから。​そこで、​神との​親密な​交わりへの​道が​開かれ、​倦まず弛まず神を​見つめるようになる。​そうなると、​捕われ人、​虜に​なったように​感じる。​そして、​力に​限りが​あり過ちを​犯しつつも、​最善を​尽くして、​職業上、​身分上の​義務を​果たしている​ならば、​心は​そこから​逃れて神に​向かう​ことを​熱望する。​ちょうど鉄が​磁石に​吸い寄せられるように、​甘美な​驚きの​うちに、​いとも​効果的に​イエスを​愛し始めているのです。

「あなたた​ちが​どこに​いても、​捕われから​解放しよう」7。​祈りに​頼れば​束縛から​解放されます。​愛に​夢中に​なった​心は、​自由に​飛びまわって​愛を​言祝ぎ歌い、​神からは​離れたくないと​切に​望むに​至る。​これは​地上に​おける​新たな​歩み、​神的、​超自然的な​歩みです。​十五世紀の​カスティーリャ地方の​数多い​著述家の​言葉を​思い出せば、​次のような​一節を​しみじみと​味わいたくなる​ことでしょう。​わたしは​生きているが​実は​わたしではなく、​キリストが​わたしの​うちに​生きておられる8。

​ ​何年も​何年も​この​世にとどまって​働かなければなりませんが、​与えられた​寿命を​喜んで​全う​しましょう。​この​地上では​イエスの​友は​多くないからです。​神と​教会に​仕える​ために​生き続ける​義務、​また、​レモンを​搾るように​力を​使い果たすまで​働く​義務を​拒むことの​ないように​したい​ものです。​ただし、​その​ときも、​「キリストが​わたしたちを​解放されて」9得た​自由、​すなわち​「神の​子供たちの​栄光に​輝く​自由」​10を​持って、​十字架上の​死去を​通して​イエス・キリストが​勝ち得てくださった​自由を​持って、​主に​仕えなければなりません。

最初から​埃が​雲と​舞い​上がることもあるでしょう。​それと​同時に、​聖性の​敵が​権力を​濫用し、​見事に​組織された​激しい​心理的テロ行為の​技術を​用いて、​長い間、​正しく​筋の​通った​態度を​堅持していた​人々を、​自分たちの​卑劣な​行為の​仲間に​引き込もうとする​ことがあります。​敵の​声は、​不純な​金属で​鋳造された​鐘が​壊れた​状態で​出す​響きのような​もの、​牧者の​口笛とは​明らかに​異なっている。​ところが​その声は、​人間が​神から​受けた​賜物の​中でも​特に​貴い、​言葉と​いう​賜物を、​下品な​ものに​してしまうのです。​言葉は​実に、​神や​人間との​愛と​友情に​ついて、​気高い​思いを​表現する​ための​非常に​美しい​賜物であるのに。​おかげで、​なぜヤコブが、​言葉は​「不義の​世界」​11であると​いうのか、​そのわけを​否応なしに​納得させられます。​言葉は、​虚偽や​中傷、​名誉毀損や​ごまかし、​侮辱や​陰険な​陰口など、​数知れぬ悪のもとになり得るからです。

キリストの​至聖なる​人性

こういった​不都合を​克服するには​どう​すれば​よいのだろう。​決心したことが​煩わしく​感じ始めたら​どう​すれば​よいのだろうか。​聖母マリアが​示してくださった​模範に​倣いましょう。​聖母マリアの​道は​非常に​広い道であるだけでなく、​必ずイエスのもと​へ​導いてくれます。

​ 神に​近づくには​正しい​道を​通らなければなりません。​その​正しい​道とは、​キリストの​至聖なる​人性です。​私が​主の​受難に​関する​読書を​勧めるのは​その​ためです。​誠実な​信心に​溢れる​このような​書物は、​神の​御子が​私たちと​同じ​人間であると​同時に、​世の​贖いの​ために​人々を​愛し、​生身で​苦しむ真の​神である​ことを​考えさせてくれます。

​ キリスト者の​間で​最も​深く​根を​おろした​信心の​一つ、​ロザリオの​祈りに​注目してみましょう。​教会は​ロザリオの​神秘を​黙想せよと​勧めています。​それは、​聖母の​喜び、​苦しみ、​栄えと​共に、​主の​三十年間の​隠れた​生活、​三年間の​宣教、​恥ずべき受難、​光栄に​輝く​復活など、​感嘆すべき模範を​私たちの​脳裡に​焼きつけるのに​役立つからです。

​ キリストに​付き従う​こと、​これが​秘訣です。​キリストに​付き従い、​十二使徒のように​主と​共に​生きようでは​ありませんか。​キリストと​一体​化する​ほど​キリストの​すぐ傍を​歩むのです。​恩寵の​働きかけに​逆らいさえしなければ、​主イエス・キリストを​着た​12と​断言できる​日も​遠くない​ことでしょう。​私たちの​振舞いは、​主の​姿を​鏡のように​映し出さねばなりませんが、​その​鏡が​本来の​働きを​すれば、​救い​主のいとも​甘美な姿を、​歪める​ことも​誇張する​こともなく、​くっきりと​映し出すはずです。​すると​その​時こそ、​周囲の​人々は、​主を​賛美し、​主に​付き従う​機会を​得る​ことでしょう。

キリストと​一体​化する​努力を、​私は​四段階に​分けて​考えます。​主を​探し求める​こと、​主に​出会う​こと、​主と​交わる​こと、​主を​愛する​こと。​皆さんは、​まだ​第一段階の​あたりに​いる​ことに​気づくかもしれません。​必死に​なって​主を​探し求めなさい。​あなた​自身の​うちに​おいでになる​イエスを​全力で​探しなさい。​このような​努力を​続けるなら、​あなたは​すでに​主に​出会い、​主と​交わり、​主を​お愛しして、​天国での​語らい​13を​始めていると、​私は​保証します。

​ ただ​ひとつ​気高く、​ただ​ひとつ価値ある​野心を​心の​中で​培う​決意が​できるように、​主に​お願いしましょう。​この​唯一の​野心とは、​聖母と​聖ヨセフのように、​神に​対する​燃えるが​ごとき心で、​自分を​忘れてイエス・キリストに​付き従う​こと。​しかも、​何事も​疎略に​しないで。​そう​すれば、​仕事上の​義務と​社会人と​しての​義務を​果た​しつつ内的沈黙を​保ち、​神の​朋友と​なる​幸せに​あずかり、​天に​おられる​父なる​神のみ​旨を​果たせと、​優しくもはっきりと​教える​キリストに​対して、​感謝の​念が​湧いてくる​ことでしよう。

ところで、​イエス・キリストと​共に​生きるなら、​必ず主の​十字架に​出会う​ことを​忘れては​なりません。​神の​手に​自己を​委ねると、​主は、​内外からの​苦痛、​孤独、​反対、​中傷、​名誉毀損、​潮笑を​味わうに​任せられる​ことがしばしば​あります。​私たちが主に​似た者と​なるように​お望みだからです。​さらには​気違いと​呼ばれ、​馬鹿者扱いされる​ことさえ​お許しに​なることもあります。

​ ​思いがけない​ときに、​こっそりと、​あるいは​横柄無礼にも​正面から​訪れる​犠牲の​機会を​愛すべき時が​来たのです。​狼に​投げつけるはずの​石が​羊を​傷つける。​キリストに​従う​人が、​愛してくれるはずの​人々の​不信や​疑惑、​果ては​憎しみまで、​もろに​体験します。​彼らは、​神との​個人的な​交わりや​内的生活を​信じる​ことができず、​猜疑心にかられて​そんな​ことは​嘘だと​思い込む。​ところが、​無神論者、​宗教に​無関心な​人、​偏狭な​人、​粗野で​厚顔な​人々に​対しては、​臆面もなく​優しく​理解ある​態度を​示すのです。

​ きっと​主は​ご自分の​弟子が​名指しで​侮辱の​槍玉に​上げられる​ことを​お許しに​なるのでしょう。​こういう​個人攻撃の​手段は、​それを​用いる​人に​とっても​恥ずべき​行為です。​陳腐で​常套的な​攻撃であり、​嘘偽りを​大々的に​宣伝した​結果、​邪悪と​偏見に​みちた​流言飛語です。​すべての​人が​慎みと​良い​嗜みとに​恵まれているとは​限りません。

​ 不確かな​神学と​弛み切った​倫理道徳を​支持する​人々、​ヒッピーまが​いの​規律に​則り、​疑わしい​典礼を​司式する​人々や​無責任な​統治者が、​イエス・キリストの​ことしか​話さない​人々に​対して、​嫉妬や​疑惑や​讒言だけでなく​侮辱と​冷遇と​辱め、​あらゆる​種類の​悪評や​厭がらせを​流布した​とて、​不思議な​ことでは​ありません。

​ イエスは​このような​体験を​させながら​私たちの​霊魂を​彫りあげ完成されます。​しかし​主の​おかげで、​内的平和と​喜びを​失う​ことはない。​悪魔で​さえ、​百の​嘘を​もってしても​一つの​真理の​デッチ上げも​不可能である​ことを、​よく​知っているからです。​また、​平穏な​生活を​望むならば、​かえって​平穏な​生活を​諦める​決心を​しなければなら​ぬことも​充分​承知していますから。

イエスの​至聖なる​人性に​心から​感嘆し、​それを​愛するならば、​主の​御傷を​一つずつ​発見していく​ことでしょう。​辛くて​厳しい​受身の​浄化の​とき、​隠そうと​努める​涙が​甘くも​あり辛くも​ある​とき、​救いの​御血に​清められ、​慰められ、​強められる​ために、​至聖なる​御傷の​一つ​ひとつの​中に​入り込まなければなりません。​嵐の​ときには​岩穴に​隠れると​聖書が​語る​鳩のように​14、​御傷のもとに​駆け寄るのです。​この​隠れ家の​中で、​キリストと​親しい​交わりを​始めます。​主の​話し方は​穏やかで、​尊顔は​麗しい​15ことがわかるでしょう。​なぜなら​「み声は​柔く​快いと​知るのは​福音の​恩寵を​受けた者であって、​その者のみが、​あなたは​永遠の​生命の​言葉を​有しておられると​主に​申し上げる​ことができる」​16からです。

観想の​小道を​歩み始めさえ​すれば、​情念は​完全に​黙する、とは​考えないでください。​キリストを​求める​ときの​熱情、​主との​出会いと​交わり、​甘美な主の​愛に​よって、​私たちが罪を​犯し得ない​人間に​変わると​考えるなら、​それは​自己を​偽る​ことになります。​すでに​経験済みで​周知の​ことでしょうが、​重ねて​言わせてください。​神の​敵であり人間の​敵である​悪魔は、​降参も、​休戦もしない。​それどころか、​心が​神の​愛に​燃えている​ときにも​攻撃を​仕掛けてくる​ものだと。​もちろん、​神への​愛に​燃えている​人を、​罪に​陥れるのは​至難の​わざであると、​悪魔は​知っている。​しかし、​たとえわずかでも​神を​侮辱させる​ことに​成功すれば、​その​人を​絶望の​淵へ​誘う​ことができることも​よく​承知しているのです。

​ 私は、​神に​ついての​ほかは​話すつもりのない​司祭ですが、​この​哀れな​司祭の​経験から​何かを​学びとりたいとお望みなら、​次のように​お勧めしたい。​肉が​失われた​権利を​求める​とき、​あるいは、​肉以上に​性質の​悪い​傲慢が​反抗の​鎌首を​もたげる​ときには、​主を​十字架に​釘付けた​釘と​キリストの​わき腹を​刺し開いた​槍に​よる​御傷のもとに​急いで​身を​寄せなさい。​必要に​応じて​近づきなさい。​そして、​人間的愛情も​神の​愛も、​こと​ごとく​主の​御傷に​注ぐのです。​これこそ​一致を​望む心の​あらわれであり、​キリストと​血を​分けた​兄弟、​同じ​御母の​子である​自分を​知る​ことに​ほかなりません。​私たちを​イエスのもと​へ​導いてくださるのは​聖母なのですから。

聖なる​十字架

熱い​礼拝の​心、​静かな​落ち着きと​苦痛を​伴った​償いの​心、​このような​心を​もった​人は、​「自分の​十字架を​担って​わたしに​従わない​者は、​わたしに​ふさわ​しくない」17と​いう​イエスの​言葉の​真意を​よく​理解し、​その​忠告に​文字通り従う​ことでしょう。​主の​要求は​次第に​厳しくなり、​「神に​対して​生きる​ために​(…)​キリストと​共に​十字架に​つけられています」​18と、​燃えるように​熱望する​ほどの​償いを​求めて​こられます。​しかし、​私たちは​<この​宝>を、​脆く​壊れやすい​「土の​器に​納めています。​この​並外れて​偉大な​力が​神の​ものであって、​わたしたちから​出た​ものでない​ことが​明らかに​なる」1​9ためです。

​ ​「わたしたちは、​四方から​苦しめられても​行き詰まらず、​途方に​暮れても​失望せず、​虐げられても​見捨てられず、​打ち倒されても​滅ぼされない。​わたしたちは、​いつも​イエスの​死を​体に​まとっています、​イエスの​命が​この​体に​現れる​ために」20。

​ 主が​私たちに​耳を​傾けてくださらないとか、​自分は​欺かれているとか、​さらには、​聞こえるのは​自分の​声だけだとか​想像してしまう。​地上には​支えが​なく、​天からも​見放されたかのように​感じる。​しかし、​たとえ小罪であっても​罪は​犯したくないと​思う​心は​誠実で、​罪を​避ける​努力も​している。​私たちも​カナンの​女のように​平伏して​主を​拝み、​粘り強く​主に​お願いしてください。​「主よ、​どうか​お助けください」21。​すると、​暗闇は​愛の​光に​打ち負かされ、​消え​去ってしまう​ことでしょう。

今こそ​叫ぶ時です。​私を​希望で​満た​すために​あなたの​約束を​思い出してください。​すると、​惨めな​状態に​いても​私は​慰められ、​生命は​力を​漲らせる​22。​何事に​おいてもすがるよう主は​お望みです。​主に​頼らなければ、​何事もなし得ない​23ことは​火を​見るよりも​明らか、​また、​主に​頼るならば​万事が​可能に​なる​24ことも。​そこで、​常に​神のみ​前を​歩もうと​いう​決意25が​強められるのです。

​ 活動していないかのような​知性も、​神の​光に​照らされると、​敵を​も​含めて​すべての​人々の​ために​すべてを​配慮なさる​主が、​その友である​私たちに​どれほどの​心遣いを​示してくださるかを、はっきりと​理解するようになる。​いかなる​悪や​困難と​いえども、​何らかの​方法で​善の​ために​役に​立つと​確信するのです。​すると、​人間的な​理由に​よっては​根こそぎに​する​ことのできない​ほど​深い​喜びと​平安が、​心に​しっかりと​根を​おろす。​悪や​困難の​<訪れ>は、​必ず​神的な​何かを​残してくれるからです。​そして​私たちは、​感嘆すべきわざを​行われた​26主なる​神を​賛美し、​また​無限の​宝を​所有する​能力27を​備えてくださった​ことを​悟るのです。

聖三位一体

​ 子供の​ときに​教わった​単純で​美しい​口祷を​出発点としましたが、​もは​や​これらの​口祷を​捨てる​ことは​ないでしょう。​無邪気な​子供の​心で​始めた​この​祈りの​道は、​今や​広くて​静かな道、​確実な​道に​発展しました。​「わたしは​道である」28と​仰せに​なった​御方との​友情を​保ち続けているからです。​キリストを​このように​愛するなら、​そして、​槍で​貫かれた​主の​わき腹の​傷口に​超自然の​大胆さを​もって​隠れ場所を​求めるならば、​主の​約束は​実現する​ことでしょう。​「わたしを​愛する​人は、​わたしの​言葉を​守る。​わたしの​父は​その​人を​愛され、​父と​わたしとは​その​人の​ところに​行き、​一緒に​住む」​29と​いう​約束が。

​ ​そこで、​心は、​聖三位の​各ペルソナを​区別して、​別々に​礼拝する​必要にかられる。​これは、​ある​意味で、​子供が​目を​見開いて​物事を​発見するように、​超自然の​生活に​おいて​実現する​心の​発見であると​言えます。​聖父と​聖子と​聖霊との​交わりを​楽しみ、​生きる​力を​お与えに​なる​慰め主の​御働きかけに​容易に​従います。​受ける​値打ちの​ない​私たちに、​超自然徳や​賜物を​お与えに​なる​慰め主に​従うのです。

「牝鹿が​小川の​流れを​慕うように」30、​渇きに​喘ぎながら​駆け寄りました。​生きる​水の​泉で​喉を​潤すためです。​永遠の​生命に​湧き出る​31新鮮で​豊富な​清水の​源で、​なんら​変わった​ことも​せずに​一日を​過ごします。​言葉で​表すことは​できないので、​もは​や​言葉は​不要に​なる。​知性は​平静を​取り戻し、​思い巡らすこともなく​見つめるだけ。​そして、​心は​再び新しい​歌を​歌い​始める。​愛の​こもった​神の​視線を、​四六時中、​感じ味わうことができるからです。

​ 特別の​状態に​ついて​話しているのでは​ありません。​ごく​普通に​ある​現象です。​愛に​夢中に​なれば、​突飛な​ことや​目立った​振舞いを​せずに、​苦しむこと、​そして、​生きる​ことを​学びます。​神が​知恵の​賜物を​授けてくださるからです。​この​「命に​通じる​狭い門」​32に​分け入るなら​想像も​できない​ほどの​平安、​得も​言われぬ落ち着きが​訪れる​ことでしょう。

修徳主義だろうか、​それとも​神秘主義だろうか。​いずれでも​構わない。​修徳主義であろうが​神秘主義であろうが、​問題では​ありません。​いずれに​しても​神の​慈しみの​あらわれである​ことに​変わりは​ない。​あなたが​黙想に​努めるなら、​神は​必ず助けを​お与えに​なるでしょう。​大切なのは​信仰と​信仰から​生まれる​わざなのです。​わざであると​いうのは、​あなたも​最初から​経験し、​私も​その​都度​強調したように、​日毎に、​より​多くを​要求なさる​主に​応えねばならないからです。​これが​観想で​あり​交わり、​一致です。​たとえ気づく​人は​少ないと​しても、​これこそ​大部​分の​キリスト者の​あるべき姿なのです。​この​世界で​営々と​生活に​励む信者が、​無限とも​言える​内的生活の​様々な​道から、​自分に​固有な​内的生活の​道を​選び、​歩んで​行かねばなりません。

​ 日々の​仕事を​放棄しなくても​できる​祈りの​生活の​おかげで、​現世的に​正しい​抱負実現に​努力し、​神に​近づく​ことができる。​こういった​日常の​活動すべてを​神に​向けて​高める​とき、​世界を​聖化する​ことができます。​手に​触れる​ものを​すべて​金に​変えたと​いう​ミダス王の​伝説を​幾度も​聞いた​ことが​あるでしょう。​私たちは​過ちを​重ねるばかりでは​ありますが、​触れる​ものを​すべて​超自然的に​功徳の​ある​金に​変える​ことも​できるのです。

父親の​ことも​忘れて放蕩の​限りを​尽くした​あげく、​有り金を​使い​果たしてしまった​息子が​家に​戻った​とき、​父親は​言いました。​「急いで​いちばん良い​服を​持って来て、​この​子に​着せ、​手に​指輪を​はめて​やり、​足に​履物を​履かせなさい。​それから、​肥えた​子牛を​連れて​来て​屠りなさい。​食べて​祝おう」​33。​私たちの​父なる​神は​このような​御方です。​たとえ​私たちが罪を​犯したとしても、​痛悔して​駆けつければ、​惨めさから​富を、​弱さから​力を​引き出してくださる。​神を​無視せず​日毎神に​近づくなら、​行いと​言葉で​神への​愛を​示すなら、​全能と​御憐れみに​信頼して​すべてを​お願い​するならば、​素晴らしい​賜物を​与えてくださいます。​裏切りの​あとで​戻ってきた​息子に​さえ、​大宴会を​準備してくださる​神ですから、​いつも​主の​傍らに​留まろうと​努める​私たちに​対して、​いか​ほどの​ことを​してくださるか​想像できるのではないでしょうか。

​ と​いうわけで、​たとえ受けた​侮辱や​辱めが​不当で​無礼で​粗野であったとしても、​それを​記憶に​留めて​おく​ことは、​私たちに​相応しい​態度では​ありません。​侮辱の​数々を​記憶に​留めて​おくなんて、​神の​子に​ある​まじき態度です。​キリストの​模範を​忘れては​なりません。​キリスト教の​信仰は、​弱められたり、​強められたり、​失われたりする​ことは​あっても、​衣服のように​着替える​わけには​いかないのです。

​ 超​自然の​生命が​あれば​信仰は​強められ、​心は​神の​助けを​もたぬ人間の​赤裸々な​惨めさを​思い知って​震え​あがります。​そこで​他人を​赦す心と​感謝の​念が​湧き​上がってくる。​わが​神よ、​私の​惨めな​生活を​想うと、​虚栄心を​もつ​ことなどできません。​まして、​傲慢に​なる​動機など​ひとかけらも​ありません。​ただ、​常に​謙遜と​痛悔の​心を​もって​生きるべきことを​ひしひしと​身に​感じ、​仕える​ことこそ​最も​泰然たる​態度である​ことが​分かります。

生きた​祈り

​「起き出して​町を​めぐり、​通りや​広場を​めぐって、​恋い​慕う​人を​求めよう」34。​心の​平和を​求めて、​町々だけでなく、​諸国を​巡り、​諸民族を​尋ね、​小道、​抜け道に​いたるまで、​世界中くまなく​駆け巡ろう。​そして、​日常の​仕事の​中に、​平和を​見出す。​仕事は​邪魔に​なる​どころか、​かえって​一層愛を​深め、​神との​一致を​緊密に​する​動機で​あり近道です。

​ 失望、​戦い、​争い、​悲嘆、​心の​暗夜など、​誘惑が​再び待ち伏せ、​あるいは​襲いかかってくる​とき、​詩編作者と​共に、​「苦難の​襲う​とき、​彼と​共に​いて​助ける」35と​いう​一節を​口ずさみつつ​考えましょう。​イエスよ、​あなたの​十字架と​比べると、​私の​十字架には​どれだけの​価値が​あると​いうのでしょう。​あなたの​傷口と​比べれば​私のかすり傷などなんでも​ありません。​あなたの​広大無辺で​純粋な​愛が​あれば、​私の​肩に​お乗せに​なった​こんな​些細な​悲しみなどとるに​足りません。​そこで、​私たちも、​「愛ゆえに​死」36を​も辞すまいと​いう​聖なる​望みに​駆られて、​それを​口に​する​のみならず、​それを​行いに​表すのです。

​ 神の​涙の​わけを​悟りたい、​神の​微笑み、​神の​顔を​仰ぎ見たいと​いう​熱い​望みが​生まれる。​この​気持ちは、​聖書の​次の​一節に​見事に​表現されています。​「涸れた​谷に​鹿が​水を​求めるように、​神よ、​わたしの​魂は​あなたを​求める」37。​心は​神の​うちに​潜んで​前進し、​神化される。​そして、​喉の​渇いた​旅人のようになり、​出合う​井戸ごとに​口を​開いて​渇きを​癒します38。

こういう​献身が​できれば、​使徒職への​情熱は​火のように​燃え​上がって​日毎に​強まり、​その​情熱を​人々にも​移さずには​いられなくなる。​善は​広がる​性質を​もっているからです。​哀れな​我々では​あっても、​神の​傍に​いる​ことさえできれば、​焔と​燃え​上がらぬはずは​ありません。​世界中に​喜びと​平和を​<振り撒き>、​キリストの​傷ついた​わき腹39から​湧き出る​救いの​水を​世界中に​注いで、​あらゆる​仕事を​神の​愛ゆえに​始め、​そして、​終える​ために​力を​尽くさぬわけには​いかなくなるのです。

​ 先ほど、​悲しみと​苦痛と​涙に​ついて​話しました。​しかし、​次のように​断言しても​辻褄の​合わぬことを​言うことには​なりません。​愛を​込めて​偉大な​師を​探し求める​弟子に​とって、​悲嘆や​苦痛には​独特の​味わいが​あります。​たとえ神経は​参ってしまい、​苦痛が​耐え難く​思われても、​忠実な​子に​ふさわしく​神のみ​旨を​心から​受け入れ、​神の​計画を​喜んで​果たすやいなや、​苦しみは​直ちに​消えてしまうからです。

日常の​生活

特殊な​信仰生活に​ついて​話しているのではない​ことを​重ねて​強調したいと​思います。​一人​ひとりの​ために​神が​なさった​こと、​そして、​私た​ちがいかに​応えたかに​ついて、​それぞれが​糾明しなければなりません。​勇気を​出して​自らを​糾明する​ことができれば、​まだ​足らない​点が​見つかる​ことでしょう。​昨日、​日本の​一求​道者が​キリストを​知らない​人たちに​カトリック要理を​教えていると​聞いて​感激し、​また​自分を​恥ずかしく​思いました。​私たちには​もっと​篤い​信仰が​必要です。​そして、​信仰と​共に、​観想が。

​ ​「わたしは​あなたを​贖う。​あなたは​わたしの​もの。​わたしは​あなたの名を​呼ぶ」​40。​神の​この​警告を​静かに​反復すれば、​胸騒ぎは​感じても、​同時に​甘美な​味わいに​浸る​ことができる。​あなたを​贖った、​あなたを​その名で​呼んだ、​あなたは​私の​ものだ!​生命を​捨てる​ほど​私たちを​愛してくださった神、​み前で​聖なる​者に​する​ため41永遠の​昔から​私たちを​選んでくださった神、​浄化と​献身の​機会を​間断なく​与えてくださる​神から、​神ご自身の​ものを​盗み取っては​なりません。

​ これだけの​説明では​まだ​疑問が​残ると​いうのなら、​神の​口から​もう​一つの​証しを​聴く​ことができる。​「あなたたちがわたしを​選んだのではなく、​わたしが​あなたたちを​選んだ。​遠くに​行って​実を​結び」、​観想の​精神から​生まれる​あなたたちの​仕事の​豊かな​「稔りが​残る​ためである」42と。

​ 信仰、​しかも​超自然の​信仰が​要求されています。​信仰が​緩んでくると、​神とは​自分の​子供など​構わない​ほど​遠い所に​おいでになる​御方であるかのように​考えてしまう。​宗教とは​万策尽きた​あとには​必要であるが、​それ以外の​ときは​付足しに​過ぎないと​考え、​いかなる​根拠が​あるのかは​知らないが、​おおげさで​突飛な​出来事を​期待します。​反対に、​信仰に​燃えている​ときには、​キリスト者の​生活も​人々の​普通の​生活と​何ら​変わる​ところの​ない​ことに​気づく。​神が​お求めに​なる​偉大な​聖性は、​今、​ここで、​日常生活の​小さな​出来事の​中に​潜んでいる​ことが​分かってくるのです。

私たちは​天の​祖国に​向かう​旅人ですから、​私は​好んで​道に​ついて​話します。​あちこちで​大きな​困難に​出合うことも​あれば、​時には​川を​歩いて​渡り、​踏み入り難い森に​分け入るべきときも​あるだろう。​しかし、​たいていの​場合、​何の​変哲も​ない、なだらかな​道を​たどるだけで​よい。​私たちに​とって​最大の​危険とは、​慣れに​陥ってしまう​こと、​すなわち、​各瞬間の​出来事が​あまりにも​単純で​平凡である​ために、​そのような​ところに​神は​おいでにならないと​考えてしまう​ことです。

​ あの​二人の​弟子は​エマオに​向かって​歩いていた。​その​道を​通る​多くの​旅人たちと​同じ​歩調で​普通に​歩いていました。​すると、​そこヘイエスが​何気なく​お現れに​なり、​彼らと​共に​歩み、​語りかけ、​疲れを​癒されたのです。​私には​その​場面が​想像できます。​すでに​夕やみが​迫っている。​そよ風が​吹き、​周りを​囲むのは​稔りに​撓む穂を​たたえた​麦畑。​オリーブの​老木も​繁っている、​鈍い光を​浴びて​枝を​銀色に​輝かせながら。

​ 路上の​イエス。​主よ、​あなたは​常に​偉大な方です。​日常の​雑事に​取り紛れている​私たちを​捜して、​後を​追って​来てくださると​思うと、​胸に​熱い​ものが​こみあげてきます。​主よ、​光栄を​内に​隠しておいでになる​ときも、​あなたである​ことを​悟る​ことができるよう、​鋭い​頭脳と​清らかな瞳、​純な​心を​お与えください。

この​旅路は​村に​着いた​ときに​終わりました。​人と​なった​神の​慈しみ深い​言葉を​耳にし、​我知らず心に​疼きを​覚えた​二人は、​主が​行っておしまいに​なるのではないかと​思い、​悲しくなります。​イエスは​「な​おも​先へ​行こうとされる​様子」​43だったからです。​私たちの​主は​決して​ご自分を​押しつけたりなさいません。​心の​うちに​注いでくださった​清い愛を​垣間見た​私た​ちが、​自由に​主を​お呼びする​ことを​お望みに​なります。​「一緒に​お泊まりください。​そろそろ夕方に​なりますし、​もう​日も​傾いていますから」​44、​もう​すぐ​夜に​なりますからと、​無理にも​主を​お引き​止めすべきです。

​ 正直でないからか、​それとも​遠慮しているからか、​私たちは​いつも​勇気を​欠いているようです。​しかし、​心の​中では、​主に​申し上げたいのです。​私の​心は​闇に​包まれています。​どうぞ一緒に​お泊まりください。​私たちに​とってあなたのみが​光であり、​焼き尽くすような​私たちの​憂いを​鎮める​ことが​おできに​なるのも​あなただけですから。​それに、​「美しい​こと、​正しい​ことの​中で​いちばん​大切な​ことは、​あなたを​常に​所有する​ことであると​いう​事実を​忘れては」45おりませんと。

​ イエスは​留まってくださいます。​キリストが​パンを​割かれた​ときの​クレオパと​その​仲間と​同じように、​私たちの​眼も​開かれる。​そして、​目の​前から​主の​姿が​消え去って、​あたりは​再び夜の​とばりに​包まれてしまったにも​かかわらず、​もう​一度​旅を​始める​ことができる。​このように​大きな​喜びは、​胸に​秘めて​おく​ことは​できず、​主に​ついて​人々に​伝えたくて​仕方が​なくなるからです。

​ エマオへの​道。​主の​おかげで​<エマオ>への​道は​優しい​響きを​伝える​言葉に​なりました。​<エマオ>とは​全世界の​こと、​主は​神に​至る​地上の​道を​開いてくださいましたから。

天使らと​共に

​ この​世を​旅する間、​私たちが神である​旅人イエスから​決して​離れる​ことの​ないよう、​主に​助けを​お願いしましょう。​その​ために、​聖なる天使たちとの​友情も​深めねばなりません。​この​世でも、​天国でも、​私たちは​大勢の​友が​必要です。​聖なる天使たちへの​信心を​もってください。​私たちの​生活が​神的であると​同時に​人間的であるのと​同じように、​友情とは​人間的であると​同時に​神的な​ものです。​主の​言葉を​憶えているでしょうか。​「もはや、​わたしは​あなたが​たを​僕とは​呼ばない。​(…)​わたしは​あなたが​たを​友と​呼ぶ」​46。​信頼せよと​教えておられるのです。​すでに​天国に​住み、​神の​友と​なった​人々や、​私たちの​周囲に​暮らしている​人たちだけでなく、​主から​離れた​人々にも、​正しい​道に​導いてあげる​ために、​信頼の​心を​寄せましょう。

​ 聖パウロが​コロサイの​人たちに​宛てた​言葉を​繰り返して、​この​祈りの​ひと​ときの​結びに​しましょう。​「絶えずあなたが​たの​ために​祈り、​願っています。​どうか、​“霊”に​よる​あらゆる​知恵と​理解に​よって、​神の​御心を​十分悟るように」47。​ここで​言う​知恵とは、​祈りと​観想、​慰め主を​与える​知恵の​ことです。

​ ​「すべての​点で​主に​喜ばれるように​主に​従って​歩み、​あらゆる​善い業を​行って​実を​結び、​神を​ますます深く​知るように。​そして、​神の​栄光の​力に​従い、​あらゆる​力に​よって​強められ、​どんな​ことも​根気強く​耐え忍ぶように。​喜びを​もって、​光の​中に​ある​聖なる​者たちの​相続分に、​あなたがたが​あずかれるように​してくださった​御父に​感謝するように。​御父は、​わたしたちを​闇の​力から​救い​出して、​その愛する​御子の​支配下に​移してくださいました」48。

神の​母であり​私たちの​母である​聖母マリアの​保護を​受け、​一人​ひとりが、​聖霊の​賜物と​観想生活と​完全無欠な​信仰で​教会に​奉仕できますように。​各々が、​自らの​職務上、​職業上、​身分上の​務めを​果たしながら、​喜んで​主を​称える​ことのできますように。

​ 教会を​心から​愛してください。​神の​愛ゆえに​仕える​決心を​した​人が​味わう​喜びを​もって、​教会に​仕えてください。​エマオに​向かう​あの​二人のように​失意の​うちに​歩む人を​見つけたなら、​自らの​名に​おいてではなく、​キリストの​名に​おいて、​また​信仰を​もって​その​人に​近づき、​イエスの​約束は​必ず​実現される​こと、​キリストは​その​花嫁である​教会を​常に​見守ってくださり、​お見捨てには​ならない​ことを​教えて、​安心させようでは​ありませんか。​暗闇は​すぐに​過ぎ去る​ことでしょう。​私たちは​光の​子であって​49、​永遠の​命に​召されているからです。

​ ​「彼らの​目の​涙を​こと​ごとく​ぬぐい​取ってくださる。​もは​や死は​なく、もは​や悲しみも​嘆きも​労苦も​ない。​最初の​ものは​過ぎ去ったからである。​すると、​玉座に​座っておられる​方が、​『見よ、​わたしは​万物を​新しく​する』と​言い、​また、​『書き記せ。​これらの​言葉は​信頼でき、​また​真実である』と​言われた。​また、​わたしに​言われた。​『事は​成就した。​わたしは​アルファであり、​オメガである。​初めであり、​終わりである。​渇いている​者には、​命の​水の​泉から​価なしに​飲ませよう。​勝利を​得る​者は、​これらの​ものを​受け継ぐ。​わたしは​その者の​神に​なり、​その者は​わたしの​子と​なる』」​50と。

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