神の母、私たちの母

1964年10月11日 神の母マリアの祝日


<​私たちの​貴婦人>の​祝日は​たくさん​ありますが、​いずれも​大祝日と​言えます。​聖マリアを​愛する​心を​行いで​示すために、​教会が​提供する​機会ですから。​ところで、​どうしても​祝日の​うちから​一つを​選ばなければならないと​すれば、​私は​「神の​母」の​祝日を​選びます。

​ 本日の​祝日は、​私たちの​信仰の​中心と​なる​秘義を​思い出させてくれます。​聖三位一体の​三つの​ペルソナの​御働きである​<みことば>の​受肉を​黙想せよと​勧めているのです。​汚れない​胎内に​主を​宿す御父の​娘は、​聖霊の​花嫁、​神の​御子の​母であります。

​ 聖母は、​創造主の​計画に​自ら​二つ返事で​答えましたが、​そのと​たんに、​<みことば>は、​聖マリアの​いとも​清い​胎内で​形成された​肉体と​理性的魂、​つまり​人間性を​おとりに​なり、​その​結果、​神性と​人性が​唯一の​ペルソナのもとに​結ばれました。​真の​神イエス・キリストは​その​ときから​真の​人間に​なり、​御父の​永遠の​独り子は​その​瞬間、​本当に​マリアの​子に​なられたのです。​こうして​私たちの​貴婦人は、​神性と​混同する​ことなく​人間性を​有する​三位一体の​第二の​ペルソナ、​つまり​受肉された​<みことば>の​母となられました。​そこで​私たちは、​尊厳を​表す​言葉、​「神の​母」を​聖母に​対する​最高の​賛辞と​して、​声高らかに​歌うことができるのです。

キリストの​民の​信仰

いつの​時代にも、​これこそ​確実な​信仰でした。​この​信仰を​否定する​者に​対し、​エフェソの​公会議は​次のように​宣言しています。​「なんぴとかが​以下の​ことを​告白しないならば、​その者は​破門される。​すなわち、​エンマヌエルは​真の​神である。​それゆえ​聖マリアは​神の​母である。​なぜなら​受肉された​神の​<みことば>を​人間と​してお生みに​なったから」1。

​ 史実に​よれば、​この​明白で​疑う​余地の​ない​決定を​聞いた​とき、​皆が​信じていた​事柄を​再確認したに​過ぎないにも​かかわらず、​信者は​喜びに​湧きかえりました。​「エフェソの​町全体は​早朝から​夜まで​公会議の​結果を​今か​今かと​待ちわびていた。​冒涜の​張本人が​罷免された​と​知ると、​全市民は​声を​ひとつに​して神を​賛美し、​公会議を​称え始めた。​信仰の​敵が​倒されたからである。​教会を​出る​やいなや、​松明を​かか​げた​群衆が​我々を​取り囲み家まで​送ってくれた。​すでに​夜であったが、​喜びに​溢れた​町全体は​明々と​照らし出されていた」2。​聖キリルスは​こう​書いています。​十六世紀を​隔てた​今も、​あの​人々の​敬虔な​振舞いに​深く​心を​打たれずには​いられません。

​ これと​同じ​信仰が​私たちの​心にも​燃え​上がり、​感謝の​歌が​心から​ほと​ばしり出るのを、​主なる​神は​お望みです。​三位一体の​神は、​私たちと​同じ​人間キリストの​母と​して​マリアを​お選びに​なった​その​ときに、​私たち一人​ひとりを​御母の​マントの​庇護の​下に​置いてくださったからです。

聖母を​かざる​完全性と​特権のもとは​いずれも、​神の​母と​しての​特権です。​この​称号の​ゆえに​マリアは、​無原罪で​生まれ、​恩寵に​満たされ、​常に​処女性を​保ち、​肉体と​霊魂とも​ども​天に​あげられ、​天使と​諸聖人に​まさる​全被​造物の​女王と​して​戴冠されました。​聖母に​勝るは​ただ神のみです。​「神の​母であるが​ために、​聖母は​ある​意味に​おいて​無限の​尊厳と​無限の​善、​つまり神を​所有される」3と​言われますが、​誇張する​危険は​ありません。​このえも​言われぬ秘義を​悟り尽く​すことは​決して​できないでしょうし、​三位一体の​神と、​これほど​親しく​交わる​ことができるように​してくださった​御母に、​充分に​感謝する​ことさえできないでしょう。

​ ​私たちは​かつて​罪人であり、​神の​敵でありましたが、​キリストの​贖いの​おかげで、​罪から​解放されただけでなく、​主と​和解する​ことも​できました。​私たちは​子に​していただいた​上に、​<みことば>に​人性を​与えた​御方を​母と​する​ことさえ​できたのです。​これ以上の​愛、​溢れんばかりの​愛を​注ぐことができるでしょうか。​人間の​救いを​切に​望む神は、​無限の​知恵であらせられ、​み旨を​実現する​方​法は​いくらでも​持っておられた。​しかし、​そのうちの​一つを​選び、​人間の​救いと​栄光に​ついて​疑う​余地の​ないように​してくださいました。​「最初の​アダムが​男と​女から​生まれず​土から​造られた​ごとく、​アダムの​罪の​傷を​癒すべき第二の​アダムは​処女の​胎内に​おいて​形造られた​肉体を​おとりに​なった。​それは、​体に​関する​限り、​罪を​犯した​者たちと​同じに​なる​ためであった」4。

甘美な愛の​御母

​「わたしは​ぶどうの​木のように​美しく​若枝を​出し、​花は​栄光と​富の​実を​結ぶ」​5と​いう​聖書の​言葉を​聴いたばかりです。​聖母信心の​放つ​甘美な​香りが​キリスト信者すべての​魂を​満たし、​絶えず​見守っていてくださる​御方を、より​一層深く​信頼する​ことができますように。

​ ​「わたしは​美しい​愛と​畏れとの​母、​また​知識と​清らかな​希望の​母である」6。​これが​本日、​聖マリアの​お与えに​なる​教えです。​清い愛と​清浄な​生活、​敏感で​熱烈な​心に​ついての​教えで、​どう​すれば​忠実に​教会に​仕えられるかを​教わる​ことができます。​ただの​愛ではない、​唯一の​愛。​この​愛の​ある​ところ、​裏切りなく、​打算なく、​忘却も​ない。​完全な​美、​無限の​善、​偉大さその​もの、​三重に​聖である​神だけを​始まりと​し目的と​する、​甘美な愛ですから。

​ ところで、​畏れにも​触れています。​私には​神の​愛から​離れ去る​恐れ以外の​恐れは​想像できません。​意気地なしや​小胆、​中途半端な​献身などは、​主なる​神の​お望みではない。​勇敢で​精気に​溢れ、​細やかな​心を​備えた​私たちを​必要と​しておられます。​聖書の​言う​畏れに​ついて​考えると、​聖書の​別の​嘆きを​思い出します。​「夜ごと、​ふしどに​恋い​慕う​人を​求めても、​求めても、​見つかりません」7。

​ 神を​愛するとは​どういう​ことかを​本当に​理解していないと、​こういう​ことが​起こりうる。​そんな​時、​心は​引きずられる​ままに​主から​離れ、​ついには​主を​見失う。​ある​時、​お隠れに​なるのは​主かもしれない。​しかし、​主は、​訳あって​そうなさる。​私たちが​必死に​なって​主を​捜し求め、​主を​見つけた​とき、​歓喜の​叫びを​上げる​ためです。​「恋い​慕う​人が​見つかりました。​つかまえました、​もう​離しません」8と。

ミサの​福音朗読は、​神殿で​教える​ために​エルサレムに​お残りに​なった​イエスの​あの​感動的な​話を​伝えています。​「マリアと​ヨセフは​(…)​一日分の​道のりを​行ってしまい、​それから、​親類や​知人の​間を​捜し回ったが、​見つから​なかったので、​捜しながらエルサレムに​引き返した」9。​自分が​過失を​犯したわけではないのに、​聖母は​御子を​見失った。​必死に​なって​御子を​捜し求め、​見つかると、​この​上ない​喜びを​経験された。​私た​ちが​不注意や​罪の​ために​キリストを​はっきり見分けられない​とき、​歩いた​道を​引き返し、​改めるべき​ところを​改める​ための​力を、​聖母は​お与えに​なるでしょう。​そうして、​再び主を​腕に​抱き、​喜びに​むせびつつ、​もう​二度と​あなたを​見失う​ことは​ありません、​と​申し上げるのです。

​ マリアは​知恵の​母。​聖母の​助けが​あれば​最も​大切な​ことを​学ぶことができる。​主の​お傍に​いないなら、​何を​する​値うちも​ない。​万一、​心に​生き生きとした​愛の​焔が​燃え​上がらず、​真の​祖国での​終わりない​愛の​前金である​聖なる​希望の​徳の​光が​照り輝かないなら、​大きな​野心も、​この​世では​いかに​素晴らしい​ことも、​全く​役に​立たない​ことを​学びとることができるのです。

「わたしの​うちに、​教えと​真理の​恩寵、​生命と​力の​あらゆる​希望を​見出すだろう」10。​教会は​賢明にも​この​言葉を​聖母の​口にのせました。​キリスト者が​この​教えを​決して​忘れないようにと​いう​思いからです。​聖母のもとに​いれば​安全です。​御母は​決してお見捨てにならない​愛、​いつでも​入れる​避難所、​常に​愛撫し慰めてくださる​御方ですから。

​ 初代教父の​一人​11は、​神の​母の​生涯を​順序よく​まとめ、​心と​知恵に​畳み込んで​おくよう​勧めています。​皆さんは​医学や​数学など​授業の​メモを​とり、​何度と​なく​それらに​目を​通した​経験が​あるでしょう。​そのような​メモには、​急ぐ​ときの​解決法や​失敗を​避ける​方​法が​書きこんでありました。

私たちも​聖母に​ついて​耳に​挟んだこと​すべてを、​何度も​念祷で、​心静かに、​じっくりと​黙想したい​ものです。​聖母の​ご生涯の​要約が、​徐々にでは​あっても​心の​中で​澱のように​溜まっていく​はずです。​そうしておけば、​特に​打つ手の​なくなった​ときにも、​まっすぐに​聖母のもとに​馳せ寄る​ときに​役立つことでしょう。​このような​態度は​身勝手ではないだろうか。​確かに。​けれども、​子供たちが​普段は​あまり​注意を​向けないくせに、​本当に​窮した​ときにだけ助けを​求めるからと​いって、​母親たちは​知らぬ顔を​したりするでしょうか。​母親と​いう​ものは、​その​ことを​充分​承知しているので、​決して​苦に​は​しない​ものです。​苦に​しないから​こそ​母親と​言えるのではないでしょうか。​没我的な​愛が​あればこそ、​私たちの​自己中心の​態度の​中にも、​子と​しての​愛、​確かな​信頼の​心を​感じとってくれるのです。

​ ​私自身にも​あなたが​たにも、​聖母信心を​切羽詰まった​時のみに​限れと​いう​つもりは​さらさらない。​しかしながら、​万一そうなってしまったとしても、​決して​恥ずべきことではないと​思うのです。​母親が​子供の​愛情表現を​事細かに​勘定するような​ことは​ありません。​けちけちした​尺度を​ふりまわして、​愛情の​重さや​長さを​測るような​ことは​しない。​ちょっとした​愛の​仕草も​母親に​とっては​蜜のように​甘く、​受けた​ものを​何倍にもして​返してやろうと​する​ものです。​世の​母親で​さえ​こうであるなら、​聖母マリアに​期待しすぎる​ことは​決してないでしょう。

教会の​母

この​世で​主は、​生涯の​大半を​聖母と​共に​過ごされましたが、​聖母が、​幼い主の​世話を​焼き、​口づけし、​あやす様子が​目に​浮かびます。​その​歳月に​思いを​巡らすと、​この​世での​父ヨセフと​聖母の​愛に​満ちた​視線を​受けて​すく​すくと​成長して​行く​少年イエス。​この​上なく​優しく​細やかな​愛の​心で​幼いイエスの​世話を​しながら、​お二人は​沈黙の​うちに​次々と​多くを​学びとった​ことでしょう。​両親の​魂は、​人で​あり神である​御子の​魂と​ひとつに​なっていく。​それゆえ、​聖母、​その​次には​聖ヨセフが​他の​誰にもまして​キリストの​聖心を​ご存じだったに​違いない。​お二人こそ、​救い主のもと​へ​行く​ための​最も​よい​道、​ひいては​唯一の​道と​言っても​差しつかえないと​思うのです。

​ 聖アンブロジウスは​こう​書いています。​「あなたたち一人​ひとりには、​マリアの​心で​主を​称えて​もらいたい。​各々が​マリアの​精神で​主に​おいて​楽しむように」。​この​教父は​さらに、​一見した​ところ​大胆な​表現ですが、​実は​キリスト信者の​生活に​とって、​明らかに​霊的意味を​含む​考えを​付け加えています。​「人間的に​言うならば、​キリストの​御母は​お一人​のみ、​信仰に​よれば、​キリストは​我々全員の​実りである」12と。

​ マリアと​心を​ひとつにし、​聖母の​数々の​徳を​真似るなら、​恩寵に​よって、​大勢の​人々の​魂に​キリストを​生まれさせ、​聖霊の​働きのもとに​キリストと​ひとつに​なる​ための​手助けが​できるでしょう。​マリアを​真似るなら、​なんらかの​仕方で​聖母の​霊的な​母性に​あずかる​ことができます。​<我らの​貴婦人>のように、​口数も​少なく​目立たずに、​信者と​しての​首尾一貫した​生き方を​示し、​私たちと​神との​間だけの​合言葉​「なれかし」を、​間断なく​心の​底から​繰り返すのです。

聖母への​熱烈な愛は​あるが、​充分な​神学の​知識の​不足している​善良な​信者さんが​私に​話してくれた​ことを​披露しましょう。​その​純朴な​心を​考えれば、​充分に​教育を​受けていない​人なら​そう​考えて​当然と​思われます。

​ こんな​風に​言っていたのです。​まあ、​愚痴と​思って​聞いてください。​近頃起こった​ことを​二、​三考えるに​つけ感じる​私の​悲しみを​察して​欲しい。​今回の​公会議準備中と​開始後も、​聖母を​<議題>の​一つに​数える​ことが​提案されました。​<議題>ですよ。​子供が​母親に​ついて​こんな​口の​利き方を​するでしょうか。​これが、​信者が​常に​告白してきた​信仰なのでしょうか。​いったい、​いつから​聖母への​愛が​<議題>に​なって、​その​是非を​云々する​ことが​許されるようになったのでしょう。

​ ​その​人の​話は​続きます。​愛と​相容れない​ものが​あると​すれば、​それは​けちな心です。​はっきり​言わせて​もらいます。​でないと、​聖母を​侮辱する​ことに​なると​思うのです。​聖マリアを​教会の​母と​呼ぶことは​適当か​どうかに​ついて​議論されたのですよ。​あまり​細かなことに​触れたくは​ありませんが、​神の​母、​それゆえ​すべての​信者の​母である​御方が、​洗礼を​受けて​マリアの​御子キリストの​うちに​生まれかわった​人々の​集い、​つまり、​教会の​母でないなんて​ことがありますか。

​ 話は​まだ​終わりません。​神の​母と​いう​称号で​聖母を​賛美するのを​渋るような​心が​いったい​どこから​出てくるのか、​私には​分からない。​教会の​信仰からずいぶんと​かけ離れている​ことは​確かでしょう。​聖母を​ <議題>に​するなんて。​自分の​母への​愛を​<議題>と​して​扱うなどもっての​ほかです。​子供は​母を​愛する、​それで​充分じゃないですか。​よい​子供なら​<多く​>愛する。​<議題>や​<案>と​いう​ものは、​無情で​冷やかに​研究する​第三者の​口に​する​言葉です。​以上の​打ち明け話は、​純真素朴で​信仰の​篤い​人の​悪気の​ない​敬虔な​愚痴ですが、​そこまで​言えば、​言いすぎに​なるでしょう。

無言の​祈りの​うちに​「神の​母」​マリアの​秘義を​黙想しましょう。​そして、​「処女である​神の​母よ、​天の​国を​超える​御者が​人と​なる​ために、​あなたの​胎内に​宿り給うた」​13と​心の​奥から​繰り返すのです。

​ 本日の​典礼の​祈りに​耳を​傾けてください。​「永遠の​御父の​御子を​宿した、​処女マリアの​胎は​幸いである」14。​これは、​古く​新しい、​人間的か​つ神的な​叫び、​この​叫びには、ある​地方で​今も​使われている​褒め言葉と​同じ​意味が​あります。​「あなたを​お生みに​なった​御母は​祝せられますように」。

信仰・希望・愛の​師

​「教会に​信者が​生まれる​よう、​聖母は​愛を​もって​キリストに​協力したが、​教会メンバーの​頭である​キリストは、​肉体的には​マリアを​母と​している」15。​マリアは​母と​して、​静かに​教えてくださる。​聖母が​言葉よりも​行いで​教えてくださる​ことを​理解できない​人は、​優しく​細やかな​心を​もっていないのでしょう。

​ 信仰の​先生である​マリア。​「信じた方は、​なんと​幸い」16。​聖母が​山道を​辿って​訪問した​とき、​従姉の​エリザベトは​こう​叫びました。​実に​聖母マリアの​信仰は​驚嘆すべきもの。​「わたしは​主の​は​しためです。​お言葉どおり、​この​身に​成りますように」17。​御子の​降誕に​際して、​地上に​おける​神の​偉大さを​黙想する。​天使は​合唱し、​地上の​権力者も​羊飼いも​御子を​礼拝に​来る。​聖家族は、​ヘロデの​殺意から​逃れる​ために​エジプトヘ逃げなければならなくなる。​それから​あとは、​沈黙。​そして、​ガリラヤの​寒村での​三十年に​わたる​慎ましく​平凡な​家族生活が​続くのです。

福音書を​見ると、​どう​すれば​聖母マリアの​模範を​理解できるのか、​その方​法を​手短に​学びとることができます。​「マリアは​これらの​出来事を​すべて​心に​納めて、​思い巡らしていた」18。​努めて​聖母を​真似ようでは​ありませんか。​主との​愛に​満ちた​語らいに​おいて、​些細な​ことであっても​私たちに​起こる​ことは​こと​ごとく​お話しするのです。​神のみ​旨を​見つける​ため、​信仰の​目で​日常の​出来事を​眺めて、​評価する​必要の​ある​ことを​忘れては​なりません。

​ 万一、​信仰が​弱まった​ときには、​聖母マリアに​助けを​願いましょう。​聖ヨハネが​語るように、​カナの​婚宴で​キリストが​御母の​願いに​応えて​行われた​奇跡を​見て、​「弟子たちは​イエスを​信じ」​19ました。​御母が​絶えず​仲介の​労を​とってくださるので、​主は​私たちを​助け、​ご自身を​お示しに​なる。​そして、​私たちは、​「あなたは​神の​子です」と​告白できるようになるのです。

希望の​先生マリア。​「今から​後、​いつの​世の​人も、​わたしを​幸いな者と​言うでしょう」20。​マリアは​こう​叫んでいます。​人間的に​みて、​聖母は​いったい​何を​支えに​希望したのか。​当時の​人々に​とって、​マリアは​いったい​何者だったのだろう。​ユディト、​エステル、​デボラなど​旧約の​女傑たちは、​この​世で​誉れを​受け、​人々の​歓喜に​迎えられました。​マリアの​玉座は、​御子と​同じく​十字架。​そののち肉体と​霊魂ともに​天に​あげられるまで、​沈黙の​生活は​な​お続く。​マリアの​この​目立た​ぬ生き方には​驚く​ほかは​ありません。​聖母を​よく​知っていた​聖ルカは、​初代の​弟子たちと​共に​祈る​聖母の​姿を​伝えています。​人々が​永遠に​褒め称える​聖母の​生涯は​祈りの​うちに​閉じられました。

​ 聖母マリアの​希望と​私たちの​気短さとは​何と​対照的な​ことでしょう。​私たちは​しばしば、​自分の​やり遂げた​わずかな​善業に​対し、​すぐに​支払いを​要求する。​困難に​見舞われる​やいなや、​不平が​口を​ついて​出る。​努力を​続け、​希望を​保つことができない​ことも​実に​度々です。​信仰が​足りないからです。​「主が​おっしゃった​ことは​必ず実現すると​信じた方は、​なんと​幸いでしょう」21。​主の​言われた​ことは​必ず実現するのです。

愛の​先生マリア。​神殿で​イエスを​奉献する​場面を​思い出してください。​長老シメオンは、​「母親の​マリアに​言った。​『ご覧なさい。​この​子は、​イスラエルの​多くの​人を​倒したり​立ち上がらせたりする​ために​と​定められ、​また、​反対を​受ける​しるしと​して​定められています。​―あなた​自身も​剣で​心を​刺し貫かれます―』」22。​人々に​対する​マリアの​愛は​実に​深く、​「友の​ために​自分の​命を​捨てる​こと、​これ以上に​大きな​愛は​ない」23と​いう​キリストの​教えは、​人々に​深い愛を​注ぐ​マリアに​おいて​実現しました。

​ 歴代の​教皇が、​マリアを​贖いの​協力者と​呼んだのは、​もっともな​ことです。​「苦痛に​引きさかれ、​死に​瀕する​御子の​傍らで、​マリアは​死なんばかりに​苦しんだ。​そして、​母が​子に​関して​持つ​すべての​権利を、​人類の​救いの​ために​放棄し、​神の​正義を​なだめる​ために​自分に​属する​すべての​ものを​差し出した。​それゆえ、​聖母は​キリストと​共に​人類を​贖ったと、​充分な​根拠を​もって​断言できる」24。​このように​考えると、​主の​受難の​あの​瞬間が、​さらに​深く​理解できるのではないでしょうか。​「イエスの​十字架の​傍らには、​その​母​(…)が​立っていた」25。​もちろん、​この​場面を​充分と​言えるまで​黙想するのは​至難の​わざでしょうが…。

​ 息子たちが​栄誉を​勝ち取り​人々の​尊敬を​浴びる​とき、​当然ながら​大急ぎで​子供の​傍に​立つ母親は​大勢います。​逆に、​そのような​機会が​訪れても、​子を​愛する​心は​人一倍とは​言え、​沈黙して​人前に​姿を​現さない​母親も​少しは​います。​聖母が​そうでした。​イエスは​それを​よく​ご存じだったのです。

ところが​今、​十字架の​犠牲の​躓きのさなか、​聖母マリアは​そこに​留まり、​「通りかかった​人々は、​頭を​振りながらイエスを​ののしる」のを​悲しみの​心で​耳に​する。​「神殿を​打ち倒し、​三日で​建てる者、​神の​子なら、​自分を​救ってみろ。​そして​十字架から​降りて​来い」26。​聖母は​御子の​言葉を​聞き、​御子の​苦しみを​自分の​苦しみとする。​「わが​神、​わが​神、​なぜわたしを​お見捨てになったのですか」27。​マリアに​何が​できたと​いうのでしょう。​贖い主である​御子の​愛に​一致して、​汚れの​ない​み心は​鋭い刃で​突き刺される。​マリアは​筆舌に​尽くしが​たい​苦痛を、​御父に​捧げる​ほかは​なかったのです。

​ 愛の​心で​ひっそりと​傍らに​佇むマリアを​見て、​イエスは​再び慰めを​感じる。​マリアは​大声を​上げたり、​気ぜわしく​動き回ったりしない。​御子の​傍らに​「立っておられる」。​イエスは​聖母に​目を​遣り、​ついで​ヨハネに​目を​向ける。​そして、​「見なさい。​あなたの母です」​28と​言われた。​ヨハネを​代表と​して​全人​類を、とりわけ主を​信じるはずであった​弟子たちを、​御母に​委ねたのです。

​ ​「幸いなる罪」​29と​教会は​歌います。​あの​罪の​おかげで、​これほど​偉大な​贖い主を​得る​ことが​できたからです。​私たちも、​幸いなる​罪よ、​と​繰り返しましょう。​マリアを​母と​して​受ける​ことができました。​もう​私た​ちが​不安に​心を​乱される​恐れは​ないのです。​天と​地の​女王と​して​冠を​いただく​聖母は、​神のみ​前で​全能の​嘆願者です。​イエスは​マリアの​願いを​拒みません。​ところで、​私たちは​聖母の​子ですから、​私たちの​願いを​拒むことも​できないのです。

私たちの​母

子供は、​幼ければ​幼い​ほど、​親孝行の​義務を​忘れても、​両親には​何かして​もらうようねだる​ものです。​私たちは​貪欲な​子供です。​しかし、​すでに​お分かりのように、​欲張りの​私たちを​見ても、​母親なら​何とも​思わない。​愛情いっぱいの​母の​心は、​深い愛で​子供を​愛するからです。​見返りを​求めず​無私の​心で​愛を​注ぐのです。

​ 聖母マリアも​同じです。​神の​母である​聖母の​祝日ですから、​本日は​平生よりも​一層深い​良心の​糾明に​努めなければなりません。​この​素晴らしい​御母に​心細やかな​愛を​充分に​示していないことに​気づいたら、​痛悔の​心を​起こす必要が​あります。​私も​そうしますから、​皆さんも​答えてみてください。​聖母を​称えているでしょうか。

​ 日常の​経験、​この​世の​母親との​接し方に​戻りましょう。​母親は​お腹を​痛めた子に​何を​期待するでしょうか。​最大の​望みは​子供たちを​手元に​置いておく​ことでしょう。​子供が​成長して​一緒に​暮らせなくなると、​子供が​送る​便りを​一日​千秋の​思いで​待ちこがれ、​軽い​風邪から​重大な​出来事に​至るまで、​子供に​起こる​こと​すべてに​一喜​一憂します。

よく​考えてください。​聖母マリアに​とって​私たちは​いつまで​たっても​幼子です。​子供のようになる​者の​ために​み国30への​道を​開いてくださるのは​聖母です。​<私たちの​貴婦人>から、​一瞬たりとも​離れては​なりません。​ところで、​どのように​して​聖母を​称える​ことができるのだろうか。​聖母と​親しく​接し、​語り合い、​愛を​表すほかは​ない。​心の​中で​聖母の​地上での​生涯を​順に​思い巡らし、​戦いと​成功、​失敗に​ついて​お話しするのです。

​ こうして​私たちは、​教会が​絶えず​祈ってきた​聖母称賛の​祈りの​意味を​発見し、​はじめて​唱えるかのような​気が​して​驚きます。​「アヴェ・マリア」と​「お告げの​祈り」は、​神の​御母に​対する​熱い​賛美の​言葉に​ほかなりません。​そして、​「聖なる​ロザリオ」。​私は​この​素晴らしい​信心を​いつまでも​キリスト信者全員に​勧めたい。​ロザリオの​祈りを​唱えて、​聖マリアの​感嘆すべき​行いの​神秘、​つまり、​信仰の​基本的な​秘義を​思い出して​黙想して​欲しいと​思います。

聖マリアを​賛美する​ために​捧げられた​祝日は、​典礼暦年中に​散りばめられてありますが、​数々の​聖母崇敬の​基礎に​なるのは​なんと​言っても​「神の​母」の​祝日です。​聖母が​神の​母であるから​こそ、​三位一体の​神は​聖母に​溢れんばかりの​賜物と​恩寵を​お与えに​なりました。​万一、​聖母崇敬に​偏る​あまり、​神礼拝が​疎かに​なるのではないかと​心配する​人が​いれば、​その​人は​キリストの​教えを​充分に​弁えていないか、​聖母への​愛が​弱いか、​いずれかである​ことを​露呈しています。​謙遜の​模範である​聖母は​歌っておられる。​「今から​後、​いつの​世の​人も、​わたしを​幸いな者と​言うでしょう、​力ある​方が、​わたしに​偉大な​ことを​なさいましたから。​その​御名は​尊く、​その​憐れみは​代々に​限りなく、​畏れる​者に​及びます」31。

​ <​私たちの​貴婦人>の​祝日に、​愛の​出し惜しみなどしないようにしましょう。​もっと​頻繁に​心を​あげて​必要な​ものを​聖母に​願っては、​母と​しての​絶え間ない​配慮に​感謝し、​愛する​人々の​ために​祈りましょう。​私たちが常に​子と​して​振舞う​なら、​毎日が​聖母への​愛を​示す、​よい​機会と​なるはずです。​本当に​愛し合う​人々に​とって​毎日が​愛する​機会であるように。

ひょっと​すると、​平凡な​毎日、​何の​変哲も​ない​生活を​日々送る​人に​とっては、​私たちの​貴婦人のように​清らかな​人に​心を​留めるのは​大変難しいかもしれません。​もう​少し​考えてみてください。​特に​精神を​集中させる​必要が​ない​ものも​含めて​何かしようと​する​とき、​いったい​私たちは​何を​求めているのだろうか。​神への​愛に​動かされ、​正しい​意向で​働くなら、​良い​もの、​清い​もの、​魂に​平和と​幸せを​もたらすものを​求めている​ことになります。​失敗は​つきものだと​いうのですか。​確かに​そうでしょう。​しかし、​失敗を​認めると​いう​ことは​私たちが​終わりの​ない​幸せ、​深遠で​安らか、​人間的かつ超自然の​幸福を​求めている​証拠では​ありませんか。

​ この​世で​このような​幸せを​勝ち得た​人が​一人います。​神の​<一大傑作>、​つまり、​私たちの​聖母マリアです。​聖母は、​今も​生き、​私たちを​守っていてくださいます。​肉体と​霊魂ともに、​御父と​御子と​聖霊の​傍らに​おられる。​パレスチナに​生まれ、​幼少の​頃から​主の​ために​すべてを​捧げていたが、​大天使ガブリエルの​お告げを​受け入れて​救い主を​お産みに​なり、​十字架のもとに​立っておられる、​あの​聖母なのです。

​ あらゆる​理想は​聖母に​おいて​実現しました。​しかし、​その​荘厳さと​偉大さに​恐れを​なして、​聖マリアを​近寄りが​たく​遠い​存在であるかのように​考えるべきでは​ありません。​恩寵に​満ちた​聖母には​ありと​あらゆる​完全性が​備わっていますが、​母である​ことに​かわりは​ないのです。​神のみ​前で​力の​ある​聖母は、​私たちの​望むものを​すべて​手に​入れてくださる。​母と​して​何でもかなえてやろうと​思っておられる。​また​母と​して、​私たちの​弱さを​知り尽くしているが​ゆえに、​励ましを​与え、​弁護し、​道を​容易に​する​ことができる。​もうどうにもしようが​ないと​思える​ときで​さえも、​ちゃんと​解決策を​用意してくださるのです。

聖母マリアと​本当に​親しく​交わるようになれば、​超自然の​徳を​増すことができます。​一日​中​何度も、​短い​祈りや​射祷を​繰り返しましょう。​声に​出す必要は​ない。​心の​祈りに​すれば​よい。​このように、​燃えるような​賛辞を​たくさん​集め、​聖なる​ロザリオの​あとの​祈り<聖マリアの​連祷>を​作りあげたのは​キリスト者の​信仰心でした。​誰でも​自由に​その数を​増やし、​聖母に​新しい​賛辞を​捧げる​ことができます。​聖なる​慎みから​敢えて​口に​しない​ことも、​これらの​祈りに​託して​聖母に​打ち明ける​ことができるのです。

​ この​祈りの​ひと​ときを​終えるに​当たって​勧めたいことがあります。​まだ​経験したことがないようなら、​ぜひ試してみてください。​聖母の​愛を​自分で​体験する​ことです。​マリアが​母である​ことを​知り、​その​ことを​口に​するだけでは​充分でないでしょう。​マリアは​あなたの母で、​あなたは​マリアの子。​あたかも​この​世で​唯一の​子であるかのように、​あなたに​愛を​注いでくださる。​マリアの​子に​なりきって​聖母に​近づきなさい。​あなたに​起こる​すべてを​お話しし、​敬いと​愛を​捧げてください。​誰も​あなたの​代わりを​する​ことは​できません。​あなたほど​上手に​それが​できる​人は​いないはずですから。

​ このように​すれば、​すぐに​キリストの​愛が​どのような​ものであるかが​分かるでしょう。​父なる神、​子なる神、​聖霊なる​神の、​言葉に​表すことのできない​ほど​素晴らしい​生命に​あずかる​自分に​気が​つくのです。

​ 神のみ​旨を​こと​ごとく​果た​すための​力を​引き出し、​すべての​人に​仕えたいと​いう​望みに​満たされて、​しばしば夢にまで​見る​理想の​キリスト者に​なることができます。​愛と​正義の​行いに​精を​出し、​常に​明るく​勇気溢れた​人、​隣人には​慈しみ深く、​自らには​厳格な​人に​なることができるのです。

​ これこそ正に​私たちの​信仰の​特長です。​聖マリアのもとに​駆け寄りましょう。​聖母は​しっかりと​した​常に​変わらぬ歩みで​私たちに​付き添ってくださる​ことでしょう。

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