小事は大事

1960年4月11日


も​うずいぶん昔の​こと、​(スペインの)​カスティーリャの​街道を​通った​とき、​遠くに​見えた​野原の​光景に​心を​打たれ、​それ以来、​幾度も​祈りの​材料と​して​役立ててきました。​数人の​男たちが、​一所​懸命に​力を​込めて​大地に​杭を​打ち込んでいる。​それが​すむと、​杭に​金網を​張って​囲いが​できあがる。​すると、​羊飼いた​ちが​やってきて、​連れてきた羊の​群れを​一頭ずつ​名指しで​呼んで​一か​所に​集め、​保護する​ために​囲いの​中に​入れてゆく。

​ 主よ、​今日は​特に、​あの​羊飼いと​囲いの​ことが​思い出されます。​あなたと​語り合う​ため、​ここに​集う​私たちは​皆、​そして​世界中の​大勢の​人々も、​あなたの羊の​群れの​一人である​ことを​知っているからです。​あなたは​仰せに​なりました。​「わたしは​良い​羊飼いである。​わたしは​自分の​羊を​知り、​わたしの​羊も​またわたしを​知っている」1。​あなたは​私たちを​よく​ご存じです。​私たちが​善き牧者の​呼び声に​いつも​注意して​耳を​傾けて​従いたいと​思っている​ことを​よく​知っておられます。​「永遠の​命とは、​唯一の​まことの​神であられる​あなたと、​あなたの​お遣わしに​なった​イエス・キリストを​知る​ことです」2。

​ 四方を​羊に​囲まれている​キリストの​姿には​たい​へん心を​惹かれます。​その​絵を、​私が​毎日​ミサを​たてている​聖堂に​飾りつけてくれる​よう​頼みました。​また、​色々な​ところに、​神の​現存の​<触れ役>と​して、​イエスの​言葉を​刻んで​もらいました。​「わたしは​自分の​羊を​知っており、​羊も​わたしを​知っている」3。​それは​ちょうど、​牧者が​自分の​羊を​相手に​する​ときのように​4、​イエスが​私たちを​危険から​守り、​教え導いてくださる​ことを​常に​思い出すためです。​こういうわけで、​カスティーリャの​思い出が​ここでは​本当に​見事に​当てはまると​思うのです。

神は​聖人を​期待しておられる

​ 皆さんも​私も​キリストの​家族の​一員です。​「天地創造の​前に、​神は​わたしたちを​愛して、​御自分の​前で​聖なる者、​汚れの​ない​者にしようと、​キリストに​おいて​お選びに​なりました。​イエス・キリストに​よって​神の​子にしようと、​御心のままに​前もって​お定めに​なった」​5からです。​主から​受けた​この​無償の​選びは​非常に​明白な​目標を​示しています。​すなわち、​「私たち一人​ひとりの​聖化」です。​聖パウロも​幾度と​なく​繰り返しています。​「実に、​神の​御心は、​あなたが​たが​聖なる​者と​なる​ことです」6。​それゆえ、​この​頂に​達する​ためには​主の​囲いの​中に​いる​ことを​片時も​忘れてはならないのです。

もう​何年も​前の​ある​日、​私は​バレンシアの​司教座聖堂で​祈っていました。​その​ときの​想い​出が​なかなか​記憶から​消え去りません。​そこには​福者リダウラと​いう​人の​墓が​あります。​その前を​通り過ぎようとした​ときに、​こんな​話を​してくれた​人が​いました。​ある​時、​司祭リダウラは​年齢を​尋ねられました。​彼は​もう​かなり​高齢でしたが、​信頼し切った​様子で​答えました。​「ほんの​わずかですよ。​神様に​お仕えしてきた​年月は」。​皆さんの​うちの​多くは、​この​世で、​今の​環境で、​仕事や​職務を​通して、​主に​接し、​主に​仕える​決心を​してから、​まだ​片手で​数えられる​ほどの​年月しか​経ていない​ことでしょう。​このような​細かな​話は​さほど​重要でないかもしれませんが、​次の​ことは​大切です。​イエス・キリストは​すべての​人を​例外なく​聖性に​招かれた​こと、​また、​この​招きに​あずかった​一人​ひとりが​内的生活を​深め、​キリスト教的な​徳に​日々進歩すべきである​こと。​しかも、​どのような​程度でも​良いと​いうのではなく、​素晴らしいと​言えるだけでなく、​英雄的と​言えるまで​努力する​ことが​要求されていると​いう​こと、​これを​確信して​心に​深く​刻み込まなければなりません。

皆さんに​示した​この​目標、と​いう​よりは、​神が​お示しに​なったと​いう​方が​正しいでしょうが、​とにかく​この​目標は​夢でも​幻でもなく、​実現できない​理想でもありません。​私たちと​同じ​市井の​男女が、​無数の​具体的な​模範を​示しています。​彼らは、​どこに​でもある​四つ辻で、​「隠れてお通りに​なる」7イエスに​出会い、​愛を​込めて​日々の​十字架8を​抱きしめ、​主に​従おうと​決心した​人たちです。​あらゆる​面で​崩壊と​妥協と​無気力、​放縦と​無政府状態が​広がっている​今日、​「世界的な​危機は​聖人の​不足である」と​いう、​あの​簡潔だが​深い​信念が​一層現実味を​帯びてきます。​司祭に​なってから​ずっと、​私は​あらゆる​人々に​この​ことを​伝える​ために​努力してきました。

内的生活。​それは、​すべての​人々に​訴える​主の​呼びかけ、​主の​強い​要求です。​私の​故郷の​表現を​使うなら、​「頭のてっぺんから​爪先まで」聖人に​ならなければなりません。​正真正銘の​純粋な、​それゆえ​列聖に​値する​キリスト信者に​なるべきなのです。​そうならなければ、​ただ​ひとり主と​仰ぐべきキリストの​弟子と​しては​失格です。​また、​神が​私たちを​慈しみ深い​眼差しで​ごらんに​なり、​この​世で​聖人に​なる​ための​戦いに​勝つよう​恩寵を​お与えくださる​とき、​同時に​使徒職の​義務を​も課せられている​ことに​注目しましょう。​教父の​一人が​言うように、​このような​選びを​受けたからには、​人々の​救いを​望む心が​強くなる​ことは、​ただ​人間的な​面から​見ただけでも​理解できるのではないでしょうか。​「役に​立つものを​発見した​とき、​誰もが​他人にも​それを​知らせようとするだろう。​だから、​主に​至る​道を​人々と​共に​歩むことを​望まなければならない。​広場や​公衆浴場に​行く​途中で、​暇を​持て​余している​人に​出会ったら、​一緒に​来ないかと​誘うだろう。​この​習慣を​霊的な​ことにも​応用しなさい。​神に​近づこうと​する​とき、​一人で​行ってはならない」9。

​ 時間を​無駄に​したくは​ありません。​キリスト教が​生まれて以来ずっと、​環境上の​困難は​あったのですから、​環境を​口実に​する​ことは​できないでしょう。​そこで、​次の​事実を​肝に​銘じておいて​欲しいと​思います。​周りの​人々を​効果的に​神のもとに​連れて​行けるか​否かは、​内的生活の​深さに​比例すると​いう​ことです。​キリストが​こう​お決めに​なったのです。​使徒的活動の​効果を​上げる​ためには​聖人に​なる​必要が​あります。​もっと​正確に​言うなら、​忠実を​保つ努力を​しなければならないと​いう​ことです。​この​地上に​生きている​間に​聖人に​なる​ことは​できないからです。​信じ難い​ことですが、​神と​人類は、​私たちの​忠実を​必要と​しているのです。​そして、​その​忠実とは、​曖昧さの​ない、​確かな​忠実、​付け焼き刃でも​中途半端でもない​忠実、​キリスト者と​しての​召し出しを​責任を​もって​受け入れ、​精魂を​込めて​実行する​忠実でなければなりません。

おそらく​皆さんの​中には、​私が​一部の​選ばれた​人々の​ことを​話しているのだと​考える​人も​いるでしょう。​しかし、​臆病な​心や​楽を​求める​気持ちに​負けて、​そんなに​簡単に​自らを​欺かないでください。​しっかりと、​「もう​一人の​キリスト」、​キリスト自身に​ならなければならないと​呼びかける​神の​要請を​感じ取ってください。​言い​換えれば、​私たちの​行いが​信仰の​規範に​固く​結び​ついていなければならないと​いう、​目下の​急務を​自覚して​欲しいのです。​私たちの​追求する​聖性は​二流の​聖性ではない。​二流の​聖性などと​いう​ものは​存在しないからです。​聖人に​なる​ための​主たる​条件は​人間の​本性に​備わっており、​それは​愛すると​いう​ことです。​「愛は​すべてを​完成させる​きずなです」10。​主ご自身が​お与えに​なった​掟に​明らかなように、​条件を​付けないで、​「心を​尽くし、​精神を​尽くし、​思いを​尽くして、​あなたの神である​主を​愛」11する​愛徳の​ことです。​聖性とは​この​愛徳の​実行に​ほかなりません。

確かに、​これは​高邁で​実現困難な​目標です。​しかし、​生まれつきの​聖人などいない​ことを​忘れないでください。​聖人とは、​神の​恩寵と​それに​対する​応答と​いう​消え​絶える​ことの​ない​火の​中で​鍛え上げられる​ものです。​初代教会の​著作家の​一人が、​神との​一致に​ついて​こう​言っています。​「発育の​はじめは​すべて​小さな​ものである。​それが​徐々に​大きくなるのは、​徐々に​栄養を​得て​確実に​成長するからである」12。​ですから、​真の​キリスト信者と​して​立つことを​望むなら、​もちろん、​苦しいながらしばしば​哀れな​体に​鞭打っても​自らを​辱める​心構えを、​皆さんが​もっておられる​ことを​私は​知っていますが、​とにかく、​いかに​些細な​事柄にも​細心の​注意を​払わなければなりません。​主が​お望みに​なる​聖性は、​仕事や​毎日の​義務を、​神を​愛するが​ゆえに​果たすことに​よって​達成されるからです。​ところで、​毎日の​仕事や​義務は、​たいていの​場合、​小さい​ことの​積み重ねです。

幼児の​生活と​小事

  (フランスの​)物語に​出てくる​タルタリンと​いう​男のように、​自宅の​廊下で​ライオン狩りを​やろうと​いう、​子供のように​馬鹿げた​夢に、​いつまでも​夢中に​なっている​人が​います。​家には、​たとえいたとしても​鼠くらいでしょうに。​このような​人々の​ことを​考えながら、​皆さんに​繰り返し​思い出していただきたいことがあります。​日々の​仕事や​義務を​忠実に​果たすことが、​いかに​神的で​偉大であるか、​神と​あなたしか​知らない​そのような​小さな​戦いが、​どれほど主を​お喜ばせするかと​いう​ことです。

​ 目も​眩むような​偉業を​行う​機会は、​そう​度々​訪れない​ことを​承知しておいてください。​そのような​機会は​滅多に​現れないのです。​その​反対に、​小さな​こと、​平凡な​ことを​通して、​イエス・キリストヘの​愛を​示す機会には​事欠きません。​聖イエロニモも​言っています。​「ごく​些細な​ことにも​霊魂の​偉大さが​現れる。​創造主に​感謝の​心を​上げるにしても、​天と​地、​太陽と​大海原、​象と​ラクダ、​牛と​馬、​豹と​熊と​ライオンに​おいてだけではなく、​形よりは​名前に​よってしか​区別できないような​蟻や蚊、​蝿やみみず、​その​他の​小動物に​おいて​主を​称える。​大きな​ものに​おいても​小さな​ものに​おいても、​同じように​造り主を​賛美する。​同じように、​神に​心を​捧げる​人は​小さな​ことにも​大きな​ことにも​同じ​熱意を​示すのである」13。

「わたしは​自分​自身を​ささげます。​彼らも、​真理に​よってささげられた​者と​なる​ためです」14。​主の​この​言葉を​黙想すると、​私たちの​唯一の​目的が​聖性である​ことが​分かります。​人々を​聖化する​ためには​自らが​聖人に​ならなければならないのです。​同時に、​誘惑する​者が​来て、​巧妙に​誘うこともあります。​次のような​思いに​襲われる​こともあるかもしれません。​神の​招きに​応えた​私たちは​少数者に​すぎず、​それも​出来の​悪い​道具であると​考えてしまうのです。​人類全体と​比べて、​私たちは​少数に​すぎず、​個人的に​みても​全く​価値の​ない​人間である​ことは​事実です。​しかし、​師イエスの​言葉は​権威ある​御方の​言葉です。​キリスト信者は、​光であり塩、​世の​パン種である。​「わずかな​パン種が​練り粉全体を​膨らませ」​15なければならない。​正に​この​理由から、​私たちは、​百人いれば​百人とも、​すべての​人々に、​いかなる​差別もなく​関心を​持たねばならない、と​いつも​説いてきたのです。​キリストが​すべての​人々を​贖ってくださった​こと、​また、​たとえ少数に​すぎず、​無能を​かこつ身であっても、​その​私たちを​道具と​して、​救いを​全世界に​告げ知らせる​よう、​主が​望んで​おられる​ことを​確信しているからです。

​ キリストの​弟子なら、​決して​人を​ひどく​扱わないはずです。​誤りは​誤りと​してはっきりさせねばなりません。​しかし、​過ちを​犯した​人に​対しては、​愛を​もって​接し、​正してあげます。​万一そうしなかったら、​その​人を​助ける​ことも、​聖化する​ことも​できないでしょう。​仲良く​過ごし、​理解し、​赦して、​兄弟に​なる​必要が​あります。​十字架の​聖ヨハネも​勧めているように、​どのような​時でも、​「愛の​ない​ところに​愛を​注ぎ、​そこから​愛を​引き出さなければなりません」​16。​これは、​職業や​家族関係、​社会的関係と​いった、​目立たない​場に​おいても​実践すべき​勧めです。​それゆえ、​あなたも​私も、​周囲に​ある​平凡な​機会を​利用し尽くし、​贖いの​協力者と​して、​心地よく​味わい​深い​重荷を​日々の​生活に​感じながら、​隣人と​私たち自身、​そして​同じ​理想を​分かち合う​人々を​聖化しなければならないのです。

主のみ​前で​祈りを​続けましょう。​何年も​前に​利用した​覚え​書きに、​今も​な​お新鮮さを​微塵も​失っていない​言葉が​あります。​それは、​アビラの​聖テレジアの​言葉です。​「たとえ仕事を​やり終えても、​神を​お喜ばせできなかったとしたら、​すべては​無、​いや​無以下です」17。​ 自らの​目的から​遠ざかったり、​神が​人間を​お造りに​なったのは​聖性に​招く​ためである​ことを​忘れてしまったりするなら、​平和と​落ち着きを​味わうことができなくなるわけも​お分かりに​なるでしょう。​気晴らしを​する​ときも、​寛ぐ​ときも、​この​超​自然的見方を​決して​失わないよう​努力しなければなりません。​休息や​気晴らしは、​私たちの​生活の​中で、​仕事と​同じく​大切な​ものだからです。

​ なる​ほど​皆さんは、​この​地上での​仕事に​おいて​自在に​イニシャティブを​とって、​専門分野で​頂上を​究める​ことも、​華々しい​成功を​収める​ことも​できるでしょう。​しかし、​私たちの​仕事の​すべてを​統べるべきこの​超​自然的見方を​失うならば、​道を​誤って​取り返しの​つかないことになってしまいます。

余談ですが、​この​場に​本当に​ふさわしい​話題なので、​少し本筋から​逸れる​ことを​お許しください。​私は​今まで​出会った​ことの​ある​どなたに​対しても、​その​人の​政治的見解に​ついて​尋ねた​ことは​一度も​ありません。​私は​政治問題に​関心が​ないのです。​このような​姿勢を​保つことに​よって、​聖なる​教会に​仕える​ために​神の​恩寵と​慈しみに​助けられ、​私の​すべてを​捧げてきた​オプス・​デイの​精神を​はっきりと​人々に​示してきました。​政治問題は​私の​関心事では​ありません。​キリスト者は、​全く​自由に、​教会の​教導職が​定めた​範囲内で、​政治や​社会、​文化などの​問題に​自ら望む方​法で​関与する​ことができます。​もちろん、​自由の​行使に​伴う​責任を​負うのは​当然です。​万一、​教導職の​範囲を​越えるような​ことが​あれば、​その​時こそ、​私は​その​人の​救いを​思って​心配する​ことでしょう。​その​時には、​告白する​信仰と​行いとが​明らかに​対立する​ことに​なるわけですから、​私は​はっきりと​注意する​つもりです。​しかし、​神法から​離れていない​限り、​意見を​述べる​自由は、​侵すことのできない​権利と​して​尊重されなければなりません。​ただ、​この​ことを​理解できない​人々もいます。​彼らは​十字架上で​キリストが​勝ち得てくださった​自由18が​本当に​何を​意味するかを​知らないのです。​このような​人たちは​互いに​敵対する​党派心に​負けて、​現世に​関する​意見を​必ず​信ずべき教義であるかの​よう​押しつけ、​人間の​尊厳を​卑しめ、​信仰の​価値を​否定し、​その​結果、​信仰に​関するとんでも​ない​誤りを​生じさせる​ことになります。

話を​もとに​戻しましょう。​皆さんが​社会に​おいて、​公の​活動に​おいて、​専門職に​おいて、​最も​人目を​引くような​成功を​勝ち取る​ことが​できたとしても、​内的生活を​顧みないで​主から​離れる​なら、​最後には​間違いなく​挫折する。​そのように​先ほど​述べました。​神のみ​前では、​真の​キリスト信者と​して​立つために​戦う​人が​勝利を​得るのです。​この​点こそ、​決定的に​重要な点です。​中途半端な​中道の​解決策など​ありません。​人間的に​判断するなら​大変幸せであるはずなのに、​落ち着きの​ない​苛々した​生活を​送っている​人々を​大勢ご存じでしょう。​その​人々は​気前よく​喜びを​振りまいているように​見えますが、​その心を​ほんの​わずかでも​傷つけると、​渋い​胆汁よりも​苦い​ものが​出てきます。​誰であっても、​絶えず​真心を​込めて​神のみ​旨を​果たし、​神に​感謝を​捧げ、​神を​称え、​神の​国を​全人類に​広げる​努力を​するなら、​このような​ことは​起こりません。

首尾一貫した​生活

洗礼に​よって​「もう​一人の​キリスト」に​なるよう召された​カトリック信者が、​神の​子で​ありながら、​ただ形だけの​信心で​良心を​満足させている​ことを​見るに​つけ、​心が​痛みます。​その​人々の​宗教心は​憐れむべきものであって、​自分に​都合が​よい​ときだけ、​時々​祈りに​赴き、​腹を​満た​すため決まった​時間に​食事を​摂る​ことには​几帳面な​注意を​払う​一方、​ミサは​定められた​日に​限ってしまう。​しかも、​その​義務さえ常に​果たすわけではない。​また、​エサウのように​「あじ豆スープの​ために」、​つまり​自分の​地位を​守る​ために、​信仰に​おいて​譲歩したり、​信仰の​中身を​変えたりさえする。​そうしてから、​厚かましくも​立身出世の​ために​キリスト信者の​レッテルを​かかげ、​人々の​躓きとなる。​もっての​ほかです。​私たちは​こんな​レッテルだけでは​我慢できません。​どこから​見ても​百パーセントの​キリスト信者でなければならないのです。​そして、​そうなるには、​間に​合わせの​手段ではなく、​霊的に​適切な​糧を​探す必要が​あります。

​ がっかりする​ことがないように、​前もって​私が​繰り返し​述べてきた​ことは、​よく​ご存じの​ことと​思います。​内的生活とは​毎日​何度も​始める​ことに​あると​いう​ことを、​皆さんは​自らの​経験に​照らして​よく​知っておられ、​休みなく​戦わなければならない​ことも​悟っておられる。​良心の​糾明に​おいて、​たびたび小さな​悲しみに​襲われる​こともあるでしょう。​時には、​愛や​献身、​犠牲の​精神や​細やかさが​不足している​ことを​まざまざと​見せつけられ、​それらが​途方もなく​大きな​ものに​思われたと​いう​経験もなさった​ことでしょう。​私にも​同じ​経験が​あります。​私事に​言及するのは​恐縮ですが、​こう​お話ししている​間も、​主と​共に​私の​霊魂の​必要事に​ついて​思いを​巡らしています。​心の​平和を​失う​ことなく、​真実の​痛悔を​もって、​もう​一度​始めようと​いう​決意を​強めようでは​ありませんか。

一九四〇年代の​初め頃、​私は​よく​バレンシア地方を​訪れました。​その頃は、​人間的に​みて、​これと​いった​手立ては​何も​持たず、​今ここに​いる​皆さんと​同じく、​この​哀れな​司祭に​付いてきた​人たちと​共に、​その​時々に​見つかった​場所、​ある​ときには​静かな​浜辺で、​ちょうど​師キリストの​最初の​友人たちのように​祈った​ものです。​覚えていますか。​ルカが​パウロと​共に​ティルスを​去って​エルサレムに​上ろうとした​ときの​ことを。​「彼らは​皆、​妻や​子供を​連れて、​町外れまで​見送りに​来てくれた。​そして、​共に​浜辺に​ひざまずいて​祈り、​互いに​別れの​挨拶を​交わし、​わたしたちは​船に​乗り込み、​彼らは​自分の​家に​戻って​行った」19。

​ ある​夕暮れ時、​真っ赤に​輝く​西日に​照らされて​一艘の​舟が​岸に​近づき、​その​舟から​褐色の​肌を​した​男たちが​跳び下りてきました。​水で​びしょ濡れの​上半身は​裸で、​プロンズ像と​見まが​うばかりに​輝き、​胸は​岩のように​厚い​漁師たち。​その​漁師た​ちが、​銀色に​光る​魚で​溢れんばかりの​網を​引き揚げ始めました。​足を​砂に​深く​埋め、​万力を​込めて​網を​引いています。​すると​そこへ、​これまた​真っ黒に​日焼けした​子供が​一人​現れ、​漁師たちに​近づくと、​ひょろ​ひょろしながら​小さい​手で​網を​引き始めたのです。​それが​何の​役にも​立たない​ことは​誰の​目にも​明らかでした。​ところが、​性情粗野で​決して​上品とは​言えない​漁師たちは、​子供を​みて​優しい​気持ちに​負けたに​違い​ありません。​確かに​足手まといに​なっているにも​拘わらず、​その​子が​手伝うのを​追い​払おうとも​せずに​許したのです。

​ その​時、​私は​皆さん方と​自分​自身の​ことを​考えました。​当時は​まだ​知る​ことの​なかった​皆さんと​私に​ついて、​さらに、​この​網引きに​似たような​私たちの​日々の​行いに​ついて​色々と​考えたのです。​主なる​神のみ​前で​私が​あの​子供のように​振舞う​なら、​また、​自らの​無力を​知りながらも​神の​計画に​手を​貸す心構えを​もっているなら、​今より​一層簡単に​目的を​達する​ことができるだろう、​獲物で​いっぱいの​網を​岸に​引き揚げる​ことができるだろう、と​思ったのです。​人間の​力の​及ばない​所にも、​神の​力が​働くからです。

信実・誠実な​心で​霊的指導を​受ける

​ キリスト信者と​しての​道を​歩む者に、​どのような​義務が​あるかは​充分ご存じでしょう。​その​道を​休みなく​歩んで​行けば、​平穏の​うちに​聖性へと​導かれます。​また、​いく​つかの​困難に​対して​のみならず、​あらゆる​問題に​対し、​用心を​怠らない​心を​お持ちの​ことと​思います。​障害が​ある​ことは、​道の​はじめの​頃からすでに​予想していました。​そこで​今、​私が​力説したいのは、​皆さんが​一人の​霊的指導者に、​すべての​聖なる​野心と​内的生活に​かかわる​日々の​問題、​失敗と​成功に​ついて、​包み隠さずに​打ち明け、​指導者の​助けと​導きに​すべてを​任せると​いう​ことです。

​ 霊的指導を​受ける​時は、​できるだけ信実・誠実な​態度で​臨まねばなりません。​何事であっても​言わずに​すますことの​ないようにしましょう。​恐れや​恥ずかしさを​捨てて、​心を​完全に​開くのです。​もしそうしなければ、​この​平らで​広い​道も​紆余曲折し、​最初なんでも​なかったことも​大難事に​なってしまいます。​「突然襲いかかって​来た​一度だけの​失敗に​よって​信仰の​道を​見失うと​考えてはならない。​信仰を​失った​人々は、​道の​最初に​誤ったか、​長い間、​自分の​霊魂に​気を​配らなかったからである。​その​結果、​徐々に​徳が​衰える​反面、​悪徳が​増し、​最後には​惨めにも​自らを​破滅させるに​至ったのである。​(…)​家屋は​不時の​天災に​よる​一撃で​倒れる​ものではない。​土台に​何らかの​不備が​あったか、​その​住人が​久しく​注意を​払うのを​怠ったかした​結果、​最初は​極めて​わずかであった​欠陥が、​堅固な​骨組を​徐々に​侵して​ゆき、​嵐や​大雨が​やって​来た​とき、​遂に​取り返しの​つかない​状態まで​破壊され、​長年の​怠慢を​さらけだすのである」20。

​ 例の​ジプシーの​告白の​話を​覚えていらっしゃいますか。​これは​単なる​話に​すぎません。​と​いうのも、​私は​ジプシーを​たい​へん尊敬していますし、​また​告白の​内容に​ついては​決して​話してはならないからです。​かわい​そうな​その​人は​心から​痛悔していました。​「神父さま、​私は​端綱を​一本​盗みました」。​「大した​ことではないじゃないか」。​「その​端綱の​後ろに​ロバが​一頭ついてきていました。​そして、​その後に​もう​一本の​端綱が​あって、​…​それに​もう​一頭の​ロバが​つながれてあり、…とうとう​二十頭盗みました」。​皆さん、​これと​全く​同じことが​私たちにも​起こります。​最初は​端綱を​盗み、​その後​すぐに​他の​悪にも​譲歩する。​そうして、​私たちを​卑しくし恥じ入らせる​一連の​悪への​傾きと​惨めさに​妥協してしまう。​社会生活に​おいても​同様の​ことが​起こります。​最初に​他人を​少し​軽く​見ると、​そのうち無関心と​いう​最も​冷淡な​態度の​うちに、​互いに​背を​向けて​暮らすようになってしまうのです。

「狐たちを​つかまえてください、​ぶどう​畑を​荒らす​小狐を。​わたしたちのぶどう畑は​花盛りですから」21。​小さな​ことに​忠実でなければなりません。​しかも、​それは​並の​忠実さではなく極上の​ものでなくてはならないのです。​忠実に​なる​努力を​重ねるなら、​子と​して、​全幅の​信頼を​込めて​聖母の​胸に​馳せ寄るようになるでしょう。​この​祈りの​はじめに、​私たちが神と​親しく​付き合おうと​決心してから、​まだ​あまり時は​経っていないと​申し上げた​ことを​憶えていらっしゃるでしょう。​惨めで​卑小な​私たちが、​偉大な​母、​いとも​清い神の​御母に​近づくのは​真に​理にかなった​態度です。​神の​御母は、​私たちの​母でも​あるからです。

​ もう​一つ、​逸話を​お話ししましょう。​本当に​あった​ことですが、​もう​何十年も​前の​ことですし、​いま話しても​差し障りは​ないでしょう。​その​人の​表現が​露骨であり、​また、​対照の​妙を​備えているので、​考えを​深める​助けと​なると​思います。​当時、​私は​色々な​教区の​司祭を​対象とした​黙想会を​指導していました。​彼らに​関心を​もち、​愛を​示して、​一人​ひとりを​訪れて、​司祭たちが心を​打ち明けて、​良心の​重荷を​下ろすよう仕向けました。​私たち司祭も​また、​他人の​助言と​支えを​必要と​しているからです。​私は​一人と​話を​始めました。​彼は​少々​粗野でしたが、​高邁で​誠実な​性格の​持ち主でした。​心を​傷つけないように​注意しながら、​言うべきことを​はっきりと​述べて、​心を​開いてあげようと​試みてみました。​その​司祭が​心にもつ傷なら​どんな​ものでも​癒してあげたかったからです。​話の​途中で​彼は、​私の​言葉を​遮って、​およそ次のような​ことを​言いました。​「私の​牝ロバの​奴が​羨ましくて​たまらない。​そいつは​私の​小教区七代に​わたって​主任司祭に​仕えてきた。​そいつに​関しては​批判の​余地が​ない。​私も​同じように​しておれば​よかった…」。

たぶん​私たちは​ロバに​対する​この​司祭の​賛辞に​値しないでしょう。​よく​糾明してみましょう。​確かに​十二分に​働きました。​あれこれの​責任ある​地位を​占め、​色々な​世間的な​仕事に​おいて​成功を​収めてきました。​しかし、​神のみ​前に​出て、​自分に​ついて​嘆かずに​いる​ことができるでしょうか。​真心から、​神と、​兄弟である​隣人に​仕える​努力を​したでしょうか。​それとも、​利己主義や​名誉心、​野心や​現世的な​儚い​成功を​求めたのでしょうか。

​ 私が​無遠慮に​話すのは、​一つには​私自身が​まず、​まじめな​痛悔の​心を​もちたいと​思うからですが、​皆さん方​一人​ひとりにも、​神の​赦しを​願うよう​お勧めしたいからです。​自分の​不忠実、​度重なる​過ち、​失敗、​臆病を​反省して、​イエスの​聖心に​向かい、​あの​ペトロの​痛悔の​言葉を​繰り返しましょう。​「主よ、​あなたは​何もかも​ご存じです」。​私の​惨めさにも​かかわらず、​「あなたを​愛している​ことを​あなたは​よく​知っておられます」22。​私は​敢えて​付け加えたい。​主よ、​まさしく​私の​惨めさゆえに​私が​あなたを​お愛ししている​ことを​あなたは​ご存じです。​惨めであるから​こそ、​私の​力であり砦である​あなたに​より​かかるからです。​「神よ、​わたしの​魂は​あなたを​求める」23と。​そして、​再びやり直すのです。

神の​現存を​保つ

内的生活。​日常の​仕事に​おける​聖性。​小事に​おける​聖性。​専門に​している​仕事、​日々の​努力を​通じて​得る​聖性。​人々を​聖化する​ための​聖性。​知り合いとは​いえ、​あまり​よくは​知らない​人の​ことですが、​その人は​ある​日、​飛行機に​乗る​夢を​見ました。​飛行機に、といっても​機内にではなく、​外側、​つまり翼の​上に​乗っていたのです。​かわい​そうに、​どれほど​苦しんだ​ことでしょう。​思うに、​内的生活が​なく、​内的生活に​注意を​払わない​キリストの​弟子たちが神の​高みに​上がっても、​飛行機の​翼にしが​みつく​この​人のような​状態に​いる​ことを、​主が​教えようとなさったのでしょう。​それは、​いつ​落ちるか​分からない、​真に​不安定で​苦しい​状態です。

​ 実際、​活動に​身を​投じながら、​祈りと​犠牲、​さらに​堅固な​信仰生活を​得る​ために​必要な​手段を​放棄している​人々は、​いつなんどき道を​踏み外すかも​知れない​深刻な​危険状態に​いるのです。​必要な​手段とは、​頻繁に​あずかるべき秘跡、​黙想、​念祷、​良心の​糾明、​霊的読書、​聖母と​守護の​天使とのたゆみない​付き合い、​などの​ことです。​それだけでなく、​これらの​手段を​使えば、​キリスト信者の​生活は​まことに​愛すべきものとなります。​あたかも​蜜が​流れ出るように、​この​種の​手段に​備わる​内的な​豊かさから、​神的な​幸せと​甘美さが​溢れ出るのです。

心の​中でも、​また、​付き合いや​仕事など外に​表れる​行いに​おいても、​神の​現存を​絶えず​保ち、​神との​内的な​語り合いを​続けなければなりません。​あるいは、​次のように​言った​方が​よいかも​知れません。​絶え​ざる​神の​現存とは、​ふつうは​言葉に​表れる​ものではないけれども、​重要な​仕事であれ些細な​仕事であれ、​仕事を​果たす際の​努力と​愛の​こもった​勤勉な​態度に、​さりげなく​表れる​べきであると。​このような​努力を​怠れば、​神の​子と​しての​身分と​甚だしく​矛盾する​生き方を​する​ことに​なるでしょう。​「神の​子に​対する​信仰と​知識に​おいて​一つの​ものとなり、​成熟した​人間に​なり、​キリストの​満ちあ​ふれる​豊かさに​なるまで​成長する」​24ように、​摂理に​よって、​主が​手の​届く​ところに​置いてくださった​手段を​無駄に​してしまうことに​なるからです。

​ 戦時中、​前線に​働く​多数の​青年たちを​司祭と​して​世話する​ため、​しばしば旅に​出ました。​その頃、​ある​町の​近くの​塹壕で​起こった、​今でも​忘れられない​出来事が​あります。​一人の​若い​兵士が、​見た​ところ​柔弱で​臆病そうな​別の​兵士に​ついて​こう​言ったのです。​「あいつは​気骨の​ない​男だ」。​私たちの​うちの​誰かに​ついて、​気骨の​ない​人間であると​躊躇なく​断言されるような​ことが​あれば、​まことに​悲しいとしか​言いようが​ありません。​自分は​真の​キリスト者、​つまり​聖人に​なりたいと​思っていると​自信を​もって​言える​人でも、​自らの​義務を​果たすに​当たって、​絶えず神に​愛と​忠実を​示さないなら、​その​人は​確かに​手段を​軽視しているのです。​万一、​私たちが​この​有様なら、​私も​あなたも、​気骨の​ある​キリスト信者とは​言えません。

た​とえ、​惨めさだらけでは​あっても、​心の​底に​聖人に​なろうと​いう、​燃えるような​熱い​望みを​育てなければなりません。​こう​言っても​驚かないでください。​内的生活に​進歩するに​つれて、​自分の​欠点が​いよいよあからさまに​見えてくる​ものです。​内的生活が​深まるに​つれ、​神の​恩寵が​虫眼鏡のような​働きを​するようになり、​微少な​埃や泥、​あるいは​ほとんど​目に​つかない​くらいの​砂粒で​さえ、​拡大されて​大きく​見え​はじめる。​霊魂が​神的な​繊細さを​身に​つけると、​神の​清さのみを​憧れる​良心は、​ごく​小さな​影にも​焦躁を​感じるようになるのです。​その​時こそ、​心の​底から​申し上げる​ときでしょう。​主よ、​本当に​聖人に​なりたいのです。​すべてを​投げ打ってあなたに​従い、​あなたに​ふさわしい​弟子に​なりたいのです、と。​そして​すぐに、​心を​奮い​起たせる​偉大な​理想に、​日々​新たな心で​立ち向かう​決意を​固めなければなりません。

​ イエスよ、​あなたへの​愛に​よって、​ここに​集う​私た​ちが​最後まで​堅忍できますように。​あなた​ご自身が​心に​蒔いてくださった​この​熱意を​行いに​表すことのできますように。​幾度と​なく​自分に​問い​かけてみてください。​私は​何を​する​ために​この​世に​いるのだろうか。​すると、​毎日の​仕事を、​愛を​込めて​仕上げ、​小さな​ことにも​努めて​気を​配る​ことでしょう。​聖人たちの​模範に​目を​留めましょう。​私たちと​同じく、​弱さと​欠点を​もつ​生身の​人間でしたが、​神を​愛する​心から​弱さや​欠点に​打ち勝ち、​克己できたのです。​聖人たちの​行いを​黙想し、​花から​純度の​高い​蜜を​こし出す蜜蜂のように、​教えを​引き出そうでは​ありませんか。​また、​周りの​人々が​もつ​多くの​自然徳​(人間徳)を​身に​つけたい​ものです。​熱心な​仕事ぶりと​自己放棄の​精神や​喜びに​ついて​教えてくれるでしょう。​そして、​どうしても​兄弟的説諭で​助けてあげる​必要の​ある​場合を​除いて、​人々の​欠点には​必要以上に​こだわらないよう​努力しましょう。

キリストの​舟の​中で

​ 主が​なさったように、​私も​好んで​舟と​網に​ついて​話します。​そうするのは、​この​福音書の​一節から​具体的でしっかりと​した​決心を​引き出すためです。​聖ルカが​語っています。​数人の​漁師が​ゲネサレト湖畔で​網を​洗い​繕っている。​岸辺に​つながれている​舟に​近づき、​そのうちの​一曳、​シモンの​舟に​乗る​イエス。​主は​ごく​自然に​一人​ひとりの​舟に​乗って​こられる。​これは​人々が​しばしば​不平を​鳴らすもととなるのですが、​主は​私たちの​生活を​<複雑>に​する​ために​おいでになる。​主は​人生と​いう​路上で、​皆さんや​私と​往き交い、​私たちの​人生を​<複雑>になさるのです。​ただし、​愛を​込めて、​私たちの​自由を​尊重しつつそうなさいます。

​ ペトロの​舟から​説教な​さった後、​漁師たちに​仰せに​なります。​「沖に​漕ぎ出して、​網を​降ろし、​漁を​しなさい」25。​キリストの​言葉を​信じた​弟子たちは、​キリストの​言葉に​従い、​あの​大漁を​得ます。​ヤコブや​ヨハネと​同じく​驚きの​さめやらない​ペトロを​見つめて、​主は​言われます。​「『恐れる​ことはない。​今から​後、​あなたは​人間を​とる​漁師に​なる』。​そこで、​彼らは​舟を​陸に​引き上げ、​すべてを​捨ててイエスに​従った」26。

​ あなたの舟、​すなわちあなたの​才能、​理想、​富と​いう​ものは、​イエス・キリストの​意に​委ねなかったり、​主が​自由に​お入りに​なる​ことを​認めなかったり、​あるいは、​それらを​偶像視したりすれば、​何の​値打ちもなくしてしまう。​水先案内を​断り、​一人で​舟を​出すなら、​それは​超自然的に​見て​難船への​道を​一直線に​進むことになります。​主の​助けと​指導を​認め、​また​それを​求めて​はじめて、​人生の​嵐や​逆風を​無事に​切り抜ける​ことができるのです。​神のみ​手に​すべてを​委ねてください。​あなたの​考え、​想像上の​冒険、​気高い​人間的な​理想、​清い​愛が、​キリストの​聖心を​通って​清められますように。​さも​なければ、​遅かれ早かれ、​利己主義に​ぶつかって​沈没してしまう​ことでしょう。

神に​舟の​舵を​お任せする、​つまり主を​船長と​して​迎えるなら​安全この​上なしと​言えます。​たとえ神が​いてくださらないように​思えても、​神が​眠っておられ、​全く​注意を​払ってくださらないように​感じても、​あるいは、​暗闇の​中で​嵐が​起こったとしても、​主が​船長で​あれば、​危険な​ことは​何も​起こりません。​聖マルコは、​使徒たちも​そんな​状態に​なったことがあると​述べています。​「逆風の​ために​弟子たちが​漕ぎ悩んでいるのを​見て、​夜が​明ける​ころ、​湖の​上を​歩いて​弟子たちの​ところに​行き、​そばを​通り過ぎようとされた。​(…)​イエスは​すぐ​彼らと​話し始めて、​『安心しなさい。​わたしだ。​恐れる​ことはない』と​言われた。​イエスが​舟に​乗り込まれると、​風は​静まり、​弟子たちは​心の​中で​非常に​驚いた」27。

​ 皆さん、​この​世では​本当に​色々な​事が​起こります。​沢山の​人の​苦労、​難儀、​虐待、​文字通りの​殉教、​英雄的行為に​ついて​語る​ことも​できます。​私たちには​イエスが​眠っておられるように​映り、​私たちに​耳を​傾けてもくださらないと​思える​ことがしばしば​あります。​ところで、​主は​弟子たちを​どのように​扱われたのでしょう。​聖ルカは​次のように​記しています。​「(湖を​)渡って​行く​うちに、​イエスは​眠ってしまわれた。​突風が​湖に​吹き降ろして​来て、​彼らは​水を​かぶり、​危なくなった。​弟子たちは​近寄って​イエスを​起こし、​『先生、​先生、​おぼれそうです』と​言った。​イエスが​起き​上がって、​風と​荒波とを​お叱りに​なると、​静まって​凪に​なった。​イエスは、​『あなたが​たの​信仰は​どこに​あるのか』と​言われた」28。

​ 神に​自らを​捧げるなら、​主も​ご自身を​お与えに​なる。​主に​全幅の​信頼を​寄せ、​けちけちせずに​主のみ​手に​自分を​投げ出さなければなりません。​舟は​主の​ものである​ことを、​行いに​よって​認める​必要が​あるのです。​持っている​もの​すべてを​主に​使っていただければと​思いますが、​この​望みを​行いで​示さなければなりません。

​ 最後に、​聖母の​執り成しを​お願いしながら、​次のような​決心を​立て、​この​祈りの​ひと​ときを​終りたいと​思います。​信仰に​よって​生きる​こと。​希望を​もって​堅忍する​こと。​イエス・キリストから​離れない​こと。​本当に、​本当に、​本当に​主を​愛する​こと。​神の​ことに​夢中に​なって​この​愛の​冒険を​続ける​こと。​粗末な舟である​私たちに​お乗りに​なり、​霊魂の​主人と​なってくださる​キリストの​邪魔を​しない​こと。​誠実な​態度で​一日中、​昼も​夜も、​主の​現存を​保つ努力を​する​こと。​主が​私たちを​信仰に​お呼びに​なったのです。​「主よ、​お話しください。​僕は​聞いております」29。​主のもとで​のみ、​この​世の​幸せと​永遠に​続く​真の​幸せの​ある​ことを​確信し、​善き牧者の​口笛と​声に​魅せられたので、​私たちは​主の​囲いの​中に​入ったのです。

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