すべての人が救われるように

1954年4月16日


一人​ひとりに​対する​主の​呼びかけ、​つまリ、​キリスト信者と​しての​召し出しは、​私たちを​主との​一致に​向かわせます。​キリストは​全人類を​救う​ために​この​世に​来られました。​この​ことを​忘れてはなりせん。​神は​「すべての​人々が​救われる​(…)​ことを​望んで​おられます」1。​一人​ひとりの​ために​御血まで​流してくださった​2のですから、​キリストが​関心を​持たない​人は​いません。

​ この​真理に​思いを​巡らせると、​パンを​増やす奇跡が​行われる​前に、​主と​弟子たちとの​間で​交わされた​あの​会話が​心に​浮かんでくるのではないでしようか。​大群衆が​イエスの​あとに​ついて​来た。​主は​目を​上げて​フィリポに​お尋ねに​なる、​「この​人たちに​食べさせるには、​どこで​パンを​買えば​よいだろうか」3。​フィリポは​素早く​計算して​答える。​「めいめいが​少しずつ​食べる​ためにも、​二百デナリオン分の​パンでは​足りないでしょう」4。​持ち合わせは​ほとんどないが、​内輪で​解決しなければならない。​弟子の​一人、​シモン・ペトロの​兄弟アンデレは​イエスに​告げる。​「ここに​大麦の​パン五つと​魚二匹とを​持っている​少年が​います。​けれども、​こんなに​大勢の​人では、​何の​役にも​立たないでしょう」5と。

パン種と​練り粉

​私たちは​主に​付き従って、​その​言葉を​広めたいと​思っています。​しかし​人間的に​考えれば、​こんなに​大勢の​人の​ために​私たちは​一体なんの​役に​立つのかと、​疑問が​生じても​当然です。​地上の​全人​口と​比較すれば、​たとえ​私たちが​何百万人いたとしても、​比べものになりません。​そこで​私たちは、​自分​自身を、​人類全体に​仕える​ために​用意された、​いつなんどきでも​役に​立つ小さな​パン種であると​考えたいと​思います。​使徒の​言葉に​あるように、​「わずかな​パン種が​練り粉全体を​膨らませ」6、​全体を​変える。​群衆を​良き方​向へ​向かわせるには、​私たちが​使徒の​言う​酵母、​パン種に​ならなければならないのです。

​ パン種は​練り粉よりも​勝れているのでしょうか。​そんな​ことは​ないはずです。​しかし、​練り粉が​膨らんで​滋味豊かな​食物に​変わる​ために​パン種は​欠かせません。

​ 質素な​主食である​パンの​作り方の​あらましを、​パン種の​効果的な​働きを​考えながら​思い出してみましょう。​パン焼きは​儀式然と​進められ、​見ただけでも​食欲を​そそられそうな​美味しくて​上等な​パンが​焼きあげられる。

​ 良質の​小麦粉、​できればいちばん上等な​粉を​選ぶ。​それから、​気長で​忍耐の​いる​仕事が​続く。​練り箱の​中で​練り粉を​つくり、​パン種を​混ぜ、​その​後しばらく​寝かせる。​これは​パン種が​練り粉を​膨らませる​ために​必要な​過程です。

​ ​その間に、​かまどに​火を​入れ、​薪を​くべながら、​練り粉を​火の​中で​温めると、​柔らかくて​ふっくらとした​上質の​パンが​焼き​上がる。​たとえ微々たる​量では​あっても​パン種が​入っていなければ、​美味しい​パンは​焼き​上がりません。​パン種は​他の​要素に​溶けこんで、​人目には​つかないけれども​効果的な​働きを​するのです。

先に​あげた​聖パウロの​言葉の​霊的な​意味を​黙想すると、​すべての​人に​仕える​ためには​働くより​ほか​ない​ことが​お分かりに​なるでしょう。​他人の​ために​働かないなら​利己主義と​言われても​仕方​ありません。​謙遜に​自己の​生活を​省みれば、​信仰の​恩寵の​ほかに​様々な​能力や​才能を​主が​お与えくださったこともはっきり​分かります。​文字通り​瓜二つと​いう​人は​いません。​父なる​神は​一人​ひとりの​人間を​別々に​造り、​それぞれに​異なった​長所を​お与えに​なりました。​私たちは​与えられた​才能や能力を​人々の​役に​立つよう用いなければなりません。​神の​賜物を​用いて、​人々の​キリスト発見に​役立てなければなりません。

​ 使徒職の​熱意が、​信者と​しての​身分を​飾り立てる​装飾品に​過ぎないかのように​考える​わけには​ゆきません。​発酵しない​パン種は​腐ってしまいます。​練り粉に​生命を​与えて​自らは​姿を​消すことも​できれば、​役立たずの​利己主義と​いう​記念碑を​残して​消え失せる​恐れも​あります。​キリストを​人々に​知らせる​努力を​したから​とて、​キリストに​恩を​着せる​ことなどできません。​「わたしが​福音を​告げ知らせても、​それは​わたしの​誇りには​なりません」、​キリストの​命令に​従って、​「そう​せずには​いられない​ことだからです。​福音を​告げ知らせないなら、​わたしは​不幸なのです」7。

漁の​水揚

​ ​「見よ、​わたしは​大勢の​漁師を​遣わして​―主の​言葉―、​漁師たちが​彼らを​漁る」8。​漁ると​いう​大きな​仕事は​こう​明示されています。​しばしば​世界は​海にたとえられますが、​真に​当を​得た​喩えでしょう。​人生にも、​海のように​凪と​時化、​穏やかな​時期と​荒れ狂った​時期とがあります。​たびたび​人々は、​苦い​荒海を​泳ぎ、​嵐の​さなかを​悲嘆に​くれて悲しい​歩みを​続ける。​楽しそうに​見え、​賑やかな​様子であっても、​それは​愛情や​理解に​欠けた​人生、​失望、​不愉快を​覆い隠すための​高笑いに​すぎません。​人間も​魚のように​<共食い​>するのです。

​ 人々が​自ら​望んで​神の​網に​入り、​互いに​愛し合う​よう努力するのは、​神の​子と​しての​義務です。​キリスト信者なら、​預言者エレミヤの​喩えに​出る​漁夫、​あるいは、​イエス・キリストが​何度も​お使いに​なった​喩えのようになるべきです。​「わたしに​ついて​来なさい。​人間を​とる​漁師にしよう」9と、​主は​ペトロと​アンデレに​向かって​仰せに​なりました。

イエスに​付き従って、​この​神の​漁に​加わりましょう。​イエスは​ゲネサレト湖畔に​お立ちに​なっている。​人々は、​「神の​言葉を​聞こうと​して」10、​主の​周りに​押し寄せました。​今も​同じ​情景が​見られるのではないでしょうか。​外面的には​ごまか​している​ものの​実は​神の​言葉を​聞きたくて​仕方が​ない。​ある​人は​キリストの​教えを​とっくの​昔に​忘れ去り、​また、​ある​人は​本人の​せいではないにしろキリストの​教えを​学んだことがなく​宗教に​偏見を​抱いている。​しかし、​次に​申し上げる​ことだけは​理解しておいていただきたい。​彼らにも、​もう​このままでは​だめだ、​ありきたりの​説明では​物足りない、​偽りの​預言者の​虚偽には​もう​満足できない、と​いう​時が​必ず​来ると​いう​ことを。​その​時には、​本人が​認めたくなくても、​主の​教えに​よって​心の​空しさを​満た​したいと​望んでいるはずです。

​ ルカに​語らせましょう。​「二そうの​舟が​岸に​あるのを​ご覧に​なった。​漁師たちは、​舟から​上がって網を​洗っていた。​そこで​イエスは、​そのうちの​一そうである​シモンの​持ち舟に​乗り、​岸から​少し​漕ぎ出すように​お頼みに​なった。​そして、​腰を​下ろして​舟から​群衆に​教え始められた」11。​話を​終えると、​シモンに​お命じに​なります。​「沖に​漕ぎ出して​網を​降ろし、​漁を​しなさい」12。​船長は​キリスト、​準備するのも​キリストです。​キリストが​この​世に​来られたのは、​兄弟である​我々が、​御父への​愛と​栄光の​道を​見つける​ことのできるよう​準備させる​ためでした。​キリスト教の​使徒職は​人間が​考え出した​ことでは​ありません。​私たちは​むしろ、​信仰不足や​自らの​弱さに​よって、​使徒職を​妨げているのです。

「シモンは、​『先生、​わたしたちは、​夜通し苦労しましたが、​何もとれませんでした』と​答えた」13。​もっともな​言葉だと​思われます。​普通は​夜中に​漁を​しました。​ところが​その晩に​限って、​骨折り損だったのです。​それなのに、​昼間に​漁を​せよと​おっしゃるのですか。​しかし、​ペトロは​信じます、​「お言葉ですから、​網を​降ろしてみましょう」14。​キリストの​命令通りに​実行しようと​決心します。​主の​お言葉に​信頼して​働く​約束を​しました。​すると、​何が​起こりましたか。​「そのとおりに​すると、​おびただしい​魚が​かかり、​網が​破れそうになった。​そこで、​もう​一そうの​舟に​いる​仲間に​合図して、​来て​手を​貸してくれるように​頼んだ。​彼らは​来て、​二そうの​舟を​魚で​いっぱいに​したので、​舟は​沈みそうになった」15。

​ 弟子たちを​伴って​海に​出た​とき、​イエスは​この​漁だけを​ご覧に​なっていたのでは​ありません。​それゆえ、​ペトロが​足下に​平伏し、​「主よ、​わたしから​離れてください。​わたしは​罪深い者なのです」と​謙遜に​告白すると、​「恐れる​ことはない。​今から​後、​あなたは​人間を​とる​漁師に​なる」16とお答えに​なりました。​新たに​始める​漁に​おいても、​神の​働きの​効果が​損なわれる​ことは​ないでしょう。​そして、​哀れな​存在であるとは​言え、​使徒たちは​神の​偉大な​わざの​道具と​なるのです。

奇跡は​繰り返される

​ 社会での​身分に​応じて​義務を​遂行し、​自らの​聖化を​求めて​日々​戦うならば、​主は​奇跡を​行うに​ふさわしい​道具、​しかも​必要ならば​大きな​奇跡の​道具に​してくださると、​私は​保証します。​盲人に​光を​与える​ことも​できるでしょう。​生まれつきとも​いえる​盲人の​視力が​回復して、​キリストの​目映い​光が​見えるようになった​ケースを​いくつも​挙げる​人も​出てくる​ことでしょう。​ある​人は​神の​子らしく​聞いたり話したりできない​聾唖者でした。​しかし、​感覚が​浄められると、​動物のようにではなく​人間らしく​聞いたり​表現したりできるようになりました。​役立つような​ことは​何も​できなかった​あの​足の​不自由な​人に、​使徒たちは​「イエス・キリストの​名に​よって」17歩く​力を​与えます。​また、​自らの​義務を​知っていながら​果た​そうとしない​怠け者も​いました。​そこで​また、​主のみ​名に​おいて、​「立ち​上がり、​歩きなさい」18と​言います。

​ 死臭を​放っていた​遺骸も​神の​声を​受けました。​ナインの​寡婦の​息子の​奇跡の​ときのように。​「若者よ、​あなたに​言う。​起きなさい」19。​キリストや​使徒たちが​行った​奇跡を​私たちも​行います。​ひょっと​すれば、​あなたや​私に​対してあのような​奇跡が​行われたのかも​知れません。​私たちは​盲人や​聾唖者、​足の​悪い者であり、​また​死臭を​漂わせていたかもしれないのです。​しかし、​主の​言葉の​おかげで​立ち上がる​ことができました。​キリストを​愛して​心から​主に​従うなら、​自分​自身を​求めず主のみを​求めるなら、​無償で​いただいた​ものを​無償で、​キリストの​名に​おいて、​人々に​伝える​ことができるでしょう。

父なる​神が​子供たちに​お委ねに​なった、​救いの​わざに​参加すると​いう​人間的、​超自然的​可能性に​ついて、​いつも​話して​来ました。​同じ​考えが、​教会の​教父たちの​文献にも​見受けられる​ことを、​私は​非常に​喜んでいます。​大聖グレゴリオは​次のようにはっきりと​教えています。​「人の​心から​悪を​取り除いて​善を​勧める​とき、​キリスト信者は​毒蛇を​追い​払う。​善行を​実行しなくなる​人を​見た​とき、​模範を​示しつつ色々な​方法で​助けるなら、​その​とき信者は、​病を​癒す按手を​授ける​ことになる。​このような​奇跡は、​身体にではなく​霊的な​面で、​つまり​霊魂に​生命を​もたらすとき、​一層偉大な​奇跡と​なる。​あなたたちも、​諦めさえしなければ​神の​助けに​よって​偉大な​奇跡を​行うことができるだろう」20。

​ 神は​すべての​人の​救いを​望んで​おられます。​この​神の​望みは​一人​ひとりが​担うべき責任であり、​責任を​担えと​いう​招きです。​教会とは、​特に​恵まれた​人々の​ための​お城では​ありません。​「この​偉大な​教会は、​地上の​一角しか​占めないのだろうか。​もは​やそうではない。​世界全体が​偉大な​教会である」21。​聖アウグスチヌスは​このように​述べ、​さらに​付け加えています。​「あなたが​どこに​行こうとも、​そこに​キリストが​おいでになる。​あなたは​遺産と​して​地の​果てまでも​有している。​行きなさい、​私と​共に​すべてを​所有しなさい」22と。​網は​どのようになっていたかを​憶えていますか。​溢れる​ほどたくさんの​魚が​入っていました。​神は​ご自身の​家が​いっぱいに​なる​23ことを​切に​願っておられます。​神は​私たちの​父ですから、​子供たち全員に​取り巻かれる​ことを​お望みです。

日常生活の​使徒職

イエス・キリストの​受難と​死去の​後に​あった​もう​一つの​漁に​話を​移しましょう。​ペトロは​三度も​キリストを​否みました。​鶏が​鳴いた​とき、​主の​警告を​思い出して​謙遜な​痛悔の​念にかられて涙を​流し、​心の​底から​赦しを​願いました。​心から​痛悔して​復活の​約束を​待つ間に​仕事で​漁に​出かけます。​「この​漁に​関して、​ペトロと​ゼベダイの​子らは​なぜ主に​召される​前に​就いていた​仕事に​戻ったのかと​よく​問われる。​わたしに​従え、​わたしは​あなたたちを​人を​漁る​ものにしようと​イエスが​仰せに​なった​とき、​実は、​彼らは​漁師だったのだ。​彼らの​行動を​いぶかる​者に​対しては、​使徒たちの​本職は​正当で​真面目な仕事であったから、​禁じられていなかったと​答えよう」24。

​ 使徒職とは​信者の​「内臓を​食い​尽くす」と​言える​ほどの​切なる​願いですから、​日常の​仕事と​切り離して​考える​ことは​できません。​使徒職は​仕事との​見分けが​つかなくなり、​キリストとの​個人的な​出会いの​場ともなります。​同僚や​友人、​親戚の​人たちと​力を​合わせて​仕事を​続ける​ならば、​湖畔で​待つキリストの​ところに​行き着く​よう、​人々に​助けの​手を​差し​伸べる​ことができるでしょう。​弟子たちは​使徒に​なる前は​漁師、​使徒と​なった​後も​漁師でした。​職業を​変える​必要は​なかったのです。

それでは、​何が​変わったのでしょうか。​ペトロの​舟に​キリストが​お乗りに​なったように、​心の​中に​キリストが​お入りに​なり、​そこで​変化が​起こりました。​心の​地平線が​広がり、​仕えたいと​いう​強い​望みが​芽生え、​邪魔さえしなければ​神が​実現なさる​「偉大な​業」25を​人々に​告げ知らせる​熱い​望みが​湧いてきたのです。​ここではっきりと​申し上げたいことがあります。​司祭の​専門職とは、​超自然的であり、​いわば​公の​職務であると​いう​事実、​そして​それは、​必然的に​司祭の​全活動に​及ぶべきである​こと。​従って、​司祭職以外の​仕事に​従事する​余裕が​あると​いう​こと​自体、​たいていの​場合は、​司祭が​司祭の​義務を​完全に​果たしていないと​言えるでしょう。

​ ​「シモン・ペトロ、​ディディモと​呼ばれる​トマス、​ガリラヤの​カナ出身の​ナタナエル、​ゼベダイの​子たち、​それに、​ほかの​二人の​弟子が​一緒に​いた。​シモン・ペトロが、​『わたしは​漁に​行く』と​言うと、​彼らは、​『わたしたちも​一緒に​行こう』と​言った。​彼らは​出て​行って、​舟に​乗り込んだ。​しかし、​その夜は​何もとれなかった。​既に​夜が​明けたころ、​イエスが​岸に​立っておられた」26。

​ 神に​自らを​捧げた​人々、​つまり​使徒たちの​傍を​イエスが​お通りに​なっても、​彼らは​気づきません。​何度も​キリストは、​私たちの​傍どころか心の​中に​来てくださると​いうのに、​私たちが​あまりにも​人間的な​生き方​しかしていないとは、​なんと​残念な​ことでしょう。

聖ヨハネは​記しています。​「弟子たちは、​それが​イエスだとは​分からなかった。​イエスは、​『子たちよ、​何か​食べる​物が​あるか』と​言われると、​彼らは、​『ありません』と​答えた」27。​キリストとの​親しい​交わりを​示すこの​場面を​見て、​私は​嬉しくて​たまらなくなります。​栄光に​輝く​体を​持つ方、​神である​イエス・キリストが​こう仰せに​なるのです。​「『舟の​右側に​網を​打ちなさい。​そう​すればとれるはずだ』。​そこで、​網を​打ってみると、​魚が​あまり​多くて、​もは​や網を​引き上げる​ことができなかった」28。​弟子たちは​やっと​理解できました。​先生から​何度も​聞いた、​「人を​漁る​者」、​「使徒」と​いう​言葉が​弟子たちの​脳裡に​浮かんで​来ました。​漁を​指揮するのは​主であるから、​どのような​ことでも​可能である​ことが​理解できたのです。

​ ​「イエスの​愛しておられた​あの​弟子が​ペトロに​『主だ』と​言った」29。​遠方から​でも​主を​見分ける​ことが​できたのは​愛の​おかげです。​優しい​心に​最初に​気づくのは​愛の​働きです。​あの​若い​使徒は​「主だ」と​叫びました。​いまだ​汚れを​知らぬ純枠で​優しい​心は、​誰にもまして​深く​主を​愛していたからです。

​ ​「シモン・ペトロは、​『主だ』と​聞くと、​裸同然だったので、​上着を​まとって​湖に​飛び込んだ」​30。​ペトロは​信仰その​ものです。​溢れんばかりの​勇気に​満ちて​湖に​飛び込みました。​ヨハネの​愛と​ペトロの​信仰が​あれば、​私たちに​できない​ことは​ないのではないでしょうか。

人々は​神の​もの

​ ​「ほかの​弟子たちは​魚の​かかった​網を​引いて、​舟で​戻って​来た。​陸から​二百ペキスばかりしか​離れていなかったのである」31。​直ちに​漁った​魚を​主の​足下に​置きます。​主の​魚ですから。​ここに、​私たちの​学ぶべきことが​示されています。​人間は​神の​ものであるから、​この​地上では​自らの​所有に​属するなどと​主張する​ことは​できないのです。​また​救いを​知らせ、​救いを​もたらす教会の​使徒職は、​一部の​人々の​名声に​基づく​ものではなく、​神の​恩寵に​帰すべきなのです。

​ 三度も​主を​否んだペトロに​償う​機会を​与えるかのように、​イエス・キリストは​三度ペトロに​お尋ねに​なります。​ペトロは​賢くなっていました。​自己の​惨めさを​思い知らされ、​自らを​戒めたのです。​自らの​弱さを​知った​今、​あの​ときのように​向こう​見ずな​見栄を​切るべきではないと​心から​納得していました。​そして、​キリストのみ​手に​すべてを​委ねます。​「主よ、​わたしが​あなたを​愛している​ことは、​あなたが​ご存じです」32。​キリストは​どう​お答えに​なるでしょうか。​「わたしの​羊の​世話を​しなさい」33。​「あなたの」でも、​「あなたたちの」でもなく、​「わたしの​羊を」と​仰せに​なりました。​キリストが​人間を​創造し、​贖い、​その​御血の​代価を​もって​一人​ひとりを​買い​取ってくださったからです。

​ 五世紀に​ドナト派が、​カトリックの​信者を​攻撃して、​ヒッポの​司祭アウグスチヌスは​かつて​大罪人であったから​真理を​告白する​ことは​できないと​主張しました。​そこで​聖アウグスチヌスは、​信仰上の​兄弟たちに​次の​反論を​教えました。​「アウグスチヌスは​カトリック教会の​司教であり、​神に​決算報告を​出す責任を​負っている。​彼が​善良な​人間である​ことを​私は​知っている。​もし彼が​悪人で​あれば、​彼自身も​それを​知っているだろう。​しかし、​たとえ彼が​善良であっても、​私が​希望を​おくのは​彼ではないのだ。​カトリック教会で​私が​最初に​学んだ​ことは、​人間に​希望を​かけない​ことであるから」34と。

​ <​私たちの​>使徒職を​果たすのではない。​それならばどう​言えば​いいのか。​神が​お望みに​なり、​「全世界に​行って、​すべての​造られた​ものに​福音を​宣べ伝えなさい」35とお命じに​なったから、​私たちは​使徒職を​果たすのだと。​それゆえ、​この​使徒職は​キリストの​使徒職であり、​失敗は​私たちの​所為、​そして、​実りは​神の​おかげなのです。

神を​語る​勇気

この​使徒職は​どのように​実行すれば​よいのでしょうか。​第一に​模範を​示す​こと。​イエス・キリストが​その​生涯と​教えを​もってお示しに​なったように、​御父のみ​旨に​従って​生活する​ことです。​真の​信仰は​言行不一致を​許しません。​自らの​行動を​糾明し、​自らの​信仰が​どれほど本物であるかに​ついて​吟味する​必要が​あります。​口で​宣言する​ことを​実際に​行いに​表すよう​努力しないなら、​首尾一貫した​誠実な​信者とは​言えないでしょう。

今は​この​話を​するのに​ちょうど​よい​機会だと​思います。​それは​初代教会の​信者の​熱意溢れる​素晴らしい​使徒職物語です。​イエスが​天に​お昇りに​なってから​四半世紀も​経た​ぬうちに、​すでに​多くの​都市や​村落で​イエスの​名声は​高まっていました。​「アポロと​いう​雄弁家が、​エフェソに​来た。​彼は​主の​道を​受け入れており、​イエスの​ことに​ついて​熱心に​語り、​正確に​教えていたが、​ヨハネの​洗礼しか​知らなかった」36。

​ アポロの​心には​キリストの​光が​射し込み始めていました。​キリストに​ついて​聞き​知っていたのです。​そこで、​人々にも​それを​伝えます。​しかし、​もっと​深く​知り、​完全な​信仰を​得て​真に​主を​愛するには、​いま少し​欠ける​ところが​ありました。​たまたま、​アキラと​プリスキラと​いう​信者夫婦が​アポロの​話しぶりを​耳にしますが、​そのまま、​無関心な​態度で​放って​おきません。​この​人は​かなり​よく​知っているし、​私たちは​彼に​教えるよう頼まれているわけでも​ない、などとは​考えませんでした。​使徒職に​対して​本当に​熱心な​二人でしたから、​アポロに​近づいて、​「彼を​招いて、​もっと​正確に​神の​道を​説明した」​37のです。

聖パウロの​振舞い​も​賞賛に​値します。​キリストの​教えを​広める​努力を​したので​囚われの​身と​なりましたが、​福音を​伝える​ためには​どのような​機会も​無駄にしません。​フェストゥスと​アグリッパの​前で​堂々と​宣言します。​「私は​神からの​助けを​今日まで​いただいて、​固く​立ち、​小さな​者にも​大きな​者にも​証しを​してきましたが、​預言者たちや​モーセが​必ず​起こると​語った​こと​以外には、​何一つ​述べていません。​つまり​私は、​メシアが​苦しみを​受け、​また、​死者の​中から​最初に​復活して、​民にも​異邦人にも​光を​語り告げる​ことに​なると​述べたのです」38。

​ 使徒は​沈黙せず、​信仰を​隠しません。​迫害者たちの​憎悪を​招いたのは​自らの​宣教であったにも​かかわらず、​な​おも​止めずに​すべての​民の​救いを​告げ知らせます。​そして、​驚く​ほど​大胆に​アグリッパに​対面します。​「アグリッパ王よ、​預言者たちを​信じておられますか。​信じておられる​ことと​思います」39。​「アグリッパは​パウロに​言った。​『短い​時間で​わたしを​説き伏せて、​キリスト信者に​してしまうつもりか』。​パウロは​言った。​『短い​時間であろうと​長い​時間であろうと、​王ばかりでなく、​今日この​話を​聞いてくださる​すべての​方が、​私のようになってくださる​ことを​神に​祈ります。​このように​鎖に​つながれる​ことは​別ですが』」40。

聖パウロは​どこから​このような​力を​得たのでしょうか。​「わたしを​強めてくださる​方の​お陰で、​わたしには​すべてが​可能です」41。​神が​私に​この​信仰、​この​希望、​この​愛を​くださるから、​私には​できない​ことがないのです。​主との​絶え間ない​交わりが、​生活の​中心とも​支えともなっていない​使徒職に、​超自然の​効果が​あるとは​とても​信じられません。​仕事の​最中でも、​家庭でも、​街に​いる​ときも、​日々​生じる​大小様々な​問題を​抱えながらも、​使徒職は​果たすことは​できます。​自分の​いる​場所から​離れてではなく、​そこに​留まったまま、​ただし、​心は​神に​向けて。​そう​すれば、​私たちの​言葉や​行い、​さらに​惨めさまでが​「キリストの​良い​香り」42を​放ちます。​そして​周囲の​人々は、​ここに​キリスト信者が​いると​気づくのです。

そのような​ことに​関わるよう、​誰が​私に​命ずるのかと​尋ねるような​誘惑に​襲われれば、​これこそ​キリストご自身の​命令と​いう​より、​むしろキリストの​あなたに​対する​願いであるとお答えします。​「収穫は​多いが、​働き手が​少ない。​だから、​収穫の​ために​働き手を​送ってくださるように、​収穫の​主に​願いなさい」43。​私は​役に​立たないとか、​もっと​適した​人が​すでに​いるとか、​そういう​仕事は​私の​性に​合わないなどと​身勝手な​ことを​言わないで​欲しい。​できるのは​私だけだと​言わねばなりません。​あなたが​できないと​言えば、​誰もが​同じように、​できないと​言えるでは​ありませんか。​キリストは​すべての​人々に、​キリスト者一人​ひとりに​願っておられます。​年齢や​健康、​仕事などを​理由に​使徒職を​免除されている​人などいません。​言い​逃れの​余地は​ないのです。​使徒職の​成果を​あげるか、​それとも、​信仰を​空しく​不毛に​するか。

そのうえ、​キリストに​ついて​話して​キリストの​教えを​広める​ために、​奇抜で​変わった​ことを​する​必要は​ありません。​普通の​生活、​現在の​仕事を​続け、​身分上の​義務を​果たし、​職務を​全う​する​ことに​よって、​日毎に​自らを​高め、​日々少しずつ​改善していく、​これで​よいのです。​人々には​信義を​尽くし、​理解を​示す。​しかし、​自己に​対しては​厳しく​要求しなさい。​犠牲の​人、​朗らかな​人に​なってください。​これが​あなたの​使徒職です。​弱くて​惨めな​自分の​ところに​人は​近寄らないと​思っていても、​周りの​人々は​近づいてきます。​そして、​仕事の​帰途や​家族の​集い、​乗り物の​中や​散歩の​合間、​その​他どのような​ところで​でも、​いつもの​話し合いが​それと​なく​生まれ、​人々は​心に​秘めた​不安を​打ち明ける​ことでしょう。​時には、​そのような​不安に​気づきたくないと​思う​人も​いるでしょうが、​神との​交わりを​本当に​求めるようになれば​次第に​理解していく​ものです。

​ 使徒の​元后である​聖母に、​御子の​聖心に​鼓動する​「種蒔き」と​「漁」への​望みに​あずかる​決心を​お願いしてください。​最初の​一歩を​踏み出しさえ​すれば、​ガリラヤの​漁師たちと​同じように、​魚で​いっぱいの​舟と​岸辺であなたを​待つキリストに​出会う​ことでしょう。​魚は​キリストの​ものですから

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