聖体、信仰と愛の神秘

1960年4月14日 聖木曜日


​「過越祭の​前の​ことである。​イエスは、​この​世から​父のもとへ移る​御自分の​時が​来た​ことを​悟り、​世に​いる​弟子たちを​愛して、​この​上なく​愛し抜かれた」1 。​このような​言葉で​聖ヨハネは、​福音書を​読む​人々に、​その​日には​何か​偉大な​ことが​起こるであろう​ことを​告げています。​優しい​愛情に​満ちた​前置きと​しての​この​言葉は、​聖ルカが​書き記す次の​言葉と​並行関係に​あります。​「苦しみを​受ける​前に、​あなたが​たと共に​この​過越の​食事を​したいと、​わたしは​切に​願っていた」2と​主は​仰せに​なったのです。​イエスの​一言ひとこと、​一つ​ひとつの​仕草を​理解する​ことができるように、​今から​聖霊の​助けを​お願い​する​ことにしましょう。​私たちは​超​自然的生命を​営みたいと​望み、​主は​ご自身を​私たちの​霊魂の​糧と​して​与える​旨を​明かしてくださり、​さらに​キリストのみが​「永遠の​生命の​言葉」​3を​有しておられる​ことを、​私たちは​知っているからです。

​ 「あなたこそ神の​聖者であると、​わたしたちは​信じ、​また​知っています」4と、​シモン・ペトロと​共に​信仰告白が​できるのは、​私たちの​信仰の​なせる​業です。​このような​信仰は​私たちの​信心と​一体と​なり、​私たちは​ヨハネの​大胆さを​真似て、​イエスのみ​許に​近寄り、​その胸に​寄りかかる​ことも​できるようになります5。​今読んだように、​師である​イエスは​ご自分の​弟子たちを​切に、​最後まで​愛そうと​しておられるのです。

​ 聖木曜日の​秘義に​ついて​ほんの​少しでも​説明する​ことができればと、​ありと​あらゆる​工夫を​凝らしてみても、​結局、​言葉に​表し尽く​すことなどできない​ことが​わかります。​しかしながら、​カルワリオに​おける​犠牲の​前、​ご自分の​弟子たちと​共に​お過ごしに​なった​あの​最後の​夜に、​イエスの​聖心が​どれほどの​憂いに​包まれていたかを、​少し​ぐらいは​想像する​ことができるのではないでしょうか。

​ 人の​一生に​よく​あるように、​愛し合う​二人が​別離を​余儀なくされる​場合を​考えてみましょう。​いつも​一緒に​いたいと​望んでいるのに​別れなければならない、​別れずに​一緒に​いたいのに​その​望みはかなえられない。​いくら強いと​言っても​人間の​愛の​力には​限りが​あり、​仕方​なくなんらかの​印を​使って​別離の​悲しみを​軽くしようとするのです。​別れゆく​人々は​互いに、​思い出に​なる​もの、​例えば​愛の​こもった​言葉を​記した​写真などを​交換します。​愛強し、​と​言っても、​人間には​それ以上の​ことは​できないのです。

​ 私たちに​できない​ことも、​主は​おできに​なります。​完全な​神・完全な​人である​イエス・キリストは、​印ではなく​〈現実〉を​残してくださいました。​キリストご自身が​お残りに​なったのです。​御父の​許に​おいでになると​同時に、​人々の​間にも​残ってくださったのです。​それも、​キリストを​思い出すだけの​贈り物では​ありません。​当事者以外の​人々に​とっては​無意味としか​言えない​写真のように、​時の​経過に​つれて​色褪せていく​ものでもありません。​パンとぶどう​酒との​外観の​もとに、​御体・御血・​ご霊魂​・神性を​伴った​キリストが​現存してくださったのです。

聖木曜日の​喜び

 ​「口よ、​歌え、​光栄ある​聖体を。​尊き母の​御子・万民の​主が、​世の​贖いの​ために​流された​この​聖い​御血の​秘義を」6と、​聖なる​ホスチアの​前で、​信者が​昔から​絶えず​唱い​続けてきた​訳が​よく​わかります。​隠れておいでになる神を​恭々しく​礼拝しなければなりません7。​ご聖体は​童貞マリアから​お生まれに​なった​イエス・キリストご自身、​苦しみを​受け、​十字架に​つけられた​御方、​御脇腹を​刺し貫かれ、​血と​水8とを​流した​イエス・キリストご自身であるからです。

​ これこそ、​聖なる宴、​キリストご自身を​糧と​して​受ける​宴ですが、​そこでは、​主の​ご苦難が​記念されるだけでなく、​人が​主と​共に​親しく​神と​交わり、​来世の​栄光の​保証9を​受けます。​教会典礼の​この​短い​賛歌の​中に、​主の​熱烈な​愛の​歴史の​クライマックスが​要約されているのです。

​ 私たちの​信じる​神は、​人間の​運命、​つまり​努力や​戦いや​苦しみなどに​関心を​持たない​遠く​離れた​御者では​ありません。​神は​御父であって、​ご自分の​子ども​たちに​深い愛を​示し、​その​愛ゆえに​聖三位一体の​第二の​ペルソナである​み言葉さえ​遣わされました。​人と​なられた​み言葉は、​私たちを​救う​ために​死去されたのです。​そして​今、​慈悲深い​御父ご自身が、​私たちの​心の​中に​お住まいに​なる​聖霊の​働きを​通して、​私たちを​ご自分の​方​へ​優しく​引き寄せてくださいます。

​ 聖木曜日の​喜びは、​創造主が​被造物に​溢れんばかりの​愛情を​注いでくださる​ことを​理解する​ところから​生まれます。​主イエス・キリストは、​これまでの​たくさんの​慈愛に​満ちた​行いも​まだ​不十分であるかのように、​ご聖体を​制定され、​私たちが主の​お傍に​いる​ことができるように​してくださったのです。​なぜ​それほどの​愛を​お示しに​なるのか、​その​理由を​知るのは​難しい​ことですが、​何も​必要となさらない​御方が​愛に​動かされ、​私たちを​放置したくないとお考えに​なっている​ことだけは​わかります。​三位一体の​神は​人間を​愛し、​恩恵の​状態に​高め、​ご自分の​「かたどり・似姿」​10と​してくださったのです。​アダムが​犯しすべての​子孫に​継がれた​罪と、​自罪を​赦し、​私たちの​霊魂内に​住まおうと​強く​お望みに​なったのです。​「わたしを​愛する​人は、​わたしの​言葉を​守る。​わたしの​父は​その​人を​愛され、​父と​わたしとは​その​人の​ところに​行き、​一緒に​住む」11。

聖体と​聖三位一体の​秘義

 三位一体の​神は​ご聖体と​いう​得も​言われぬ方​法を​通して、​人間に​その愛を​注ぎ続けられます。​ご聖体は​犠牲であると​共に​秘跡であると、​昔カトリック要理で​習った​ものです。​秘跡と​しては、​聖体拝領と​祭壇上の​宝物、​つまり​聖櫃の​宝物と​して​示されます。​世界中の​聖櫃に​現存する​キリストの​御体の​ために、​教会は​特に​聖体の​大祝日を​定めました。​聖木曜日である​今日は、​犠牲で​あり霊魂の​糧である​ご聖体、​ごミサ、​聖体拝領に​ついて​考えてみたいと​思います。

​ 聖三位一体の​人間に​対する​愛に​ついて​前に​話していましたが、​ごミサこそ​三位一体の​神の​愛を​知る​最良の​場と​言えます。​祭壇の​聖なる​犠牲に​おいては、​聖三位一体が​活動なさるからです。​それゆえ、​集会祈願や​密誦​(†)、​聖体拝領前の​祈りの​最後に、​御父に​向かって、​「聖霊の​交わりの​中で、​あなたと共に​世々に​生き、​支配しておられる​御子、​わたしたちの​主イエス・キリストに​よって」と​繰り返すのは、​私に​とって​大きな​魅力と​なっています。​(†)​この​説教が​準備された​時代の​ミサの​祈りの​一つ。

​ ごミサの​中で​絶え間なく​御父に​懇願します。​司祭は、​永遠の​司祭であると​同時に​いけにえである​イエス・キリストの​代理者です。​ごミサに​おける​聖霊も​また​同じように​素晴らしく​確かな​働きを​されるのです。​「聖霊の​おかげで、​パンが​キリストの​御体に​聖変化される」12と​ダマスコの​聖ヨハネが​書いているように。

​ この​聖霊の​働きは、​司祭が​供え物を​祝福する​時に、​はっきりと​現れます。​「聖と​してくださる​全能の​神、​おいでください。​聖なるみ名の​ために​供えられた​この​いけにえを​祝福してください」13。​私たちが​願う​内的聖化は、​御父と​御子が​お遣わしに​なる​聖霊の​働きに​帰せられています。​また、​聖体拝領の​少し​前に、​「神の​子、​主イエス・キリスト、​あなたは​父のみ​心に​従い、​聖霊に​支えられ、​死を​通して​世にいのちを​お与えに​なりました​(…)」​14と​祈る​とき、​犠牲の​中に​この​聖霊の​生き​生きとした​働きを​認める​ことができるのです。

聖三位一体​全体が​祭壇の​犠牲に​おいて​現存されますが、​御父のみ​旨に​従って、​聖霊と​共に、​御子が​救いの​供え物と​して​捧げられます。​至聖なる​三位一体、​唯一に​して​三位なる神、​唯一の​本性と​愛を​有し、​聖化の​働きに​おいても​一致を​保つ神の​三つの​ペルソナ​(位格)と​親しく​交わる​ことができるようになりたい​ものです。

​ 奉献の​後の、​指の​清めの​すぐ後で、​司祭は​次のように​祈ります。​「聖なる​三位一体の​神、​わたしたちの​主イエス・キリストの​受難、​復活、​昇天の​記念と​してささげる​この​供え物を​お受けください」​15、​そして​ごミサの​終わりには、​聖三位一体に​尊敬を​表す素晴らしい​祈りを​唱えます。​「聖なる​三位一体の​神、​しもべである​わたしの​奉仕の​わざを​こころ​よく​お受けください。​値打ちの​ない​わたしが​敢えてみ前に​お捧げする​この​いけにえを​お喜びください。​御いつくしみに​よって、​わたしと​わたしが​捧げた​すべての​人々の​ために​快く​お受け​入れください」16。

​ 繰り返し申しますが、​ごミサは​三位一体の​神の​働きであって​人間の​働きではないのです。​ごミサを​たてる​司祭は、​自分の​体や声を​お貸しする​ことに​よって​主のみ​旨に​仕えますが、​自分の​名に​おいてではなく、​キリストの​ペルソナと​キリストのみ​名に​おいて​振る​舞うのです。

​ 人間を​愛しておられる​三位一体の​神は、​ご聖体に​現存する​キリストを​通して、​教会の​ため、​人類の​ための​あらゆる​恩恵を​与えてくださいます。​マラキが​預言した​犠牲は​この​ご聖体の​ことなのです。​「日の​出る​所から​日の​入る​所まで、​諸国の​間でわが​名は​あが​められ、​至る​ところで​わが​名の​ために​香が​たかれ、​清い​献げ物が​ささげられている」17。​聖霊と​共に​御父に​捧げられる​キリストの​犠牲であり、​無限の​価値を​有する​奉献であって、​旧約の​犠牲では​獲得できなかった​救いが​この​犠牲に​より、​私たちの​中で​永遠に​続く​ものとなるのです。

ミサと​信者の​生活

 ミサに​おいて、​聖三位一体​ご自身が​教会に​与えられますから、​ごミサに​よって​私たちは​信仰の​主要な​秘義に​導かれる​ことになります。​こうして、​ごミサは​カトリック信者の​霊的生活の​中心で​あり根源である​ことが​よく​わかります。​ごミサは​すべての​秘跡が​目指す秘跡です18。​洗礼に​おいて​与えられ、​堅信に​よって​強められ成長した​恩恵の​生活は、​ごミサに​よって​絶頂に​達するのです。​「ご聖体に​あずかる​ことに​よって、​聖霊が​私たちを​神化してくださっていると​感じます。​ごミサに​おいて​聖霊は、​洗礼の​時のように​ただ単に​キリストに​同化させるだけでなく、​私たちを​キリストに​結びつけ、​完全に​キリスト化させてくださるのです」​19と、​エルサレムの​キリルスは​述べています。

​ 聖霊を​注がれ、​キリスト化された​私たちは、​自分が​神の​子である​ことを​自覚するのです。​愛その​ものである​聖霊は、​私たちが愛に​基づいて​生活全体を​築きあげるようにと​教えてくださいます。​そして、​キリストと​「完全に​一つに」20なれば、​聖アウグスチヌスが​聖体に​ついて​述べているように、​私たちは​「一致の​印、​愛の​きずな」21に​なることができるのです。

​ ある​信者に​とって​ごミサは、​社会の​因襲とまでは​言わなくても、​単なる​外面的な​儀式に​過ぎず、​また​ある​人は​ごミサに​ついて​極めて​貧弱な​考えしか​持っていない、と​私が​述べても、​別に​変わった​ことを​言っている​ことには​ならないでしょう。​私たちの​心は​全く​哀れな​もので、​神が​お与えに​なった​最も​偉大な​賜物に​さえも​慣れてしまうのです。​ごミサ、​今捧げる​この​ごミサには、​繰り返して​申し上げますが、​聖なる​三位一体の​神が​特に​介入なさいます。​この​深い愛に​応える​ために、​心身共に、​すべてを​捧げる​必要が​あります。​神に​耳を​傾け、​神に​話しかけ、​神を​見、​神を​味わうのです。​そして​言葉に​言い​尽くせない​ときには、​元気を​出し、​全人​類に​向かって​主の​偉大さを​称え、​「口よ、​うたえ、​光栄ある​聖体を」と​歌うのです。

ごミサに​生きるとは​常に​祈る​ことだと​言えましょう。​常に​祈るとは、​私たち一人​ひとりが​神と​個人的に​出会う​機会と​なるのが​ミサであると​よく​自覚する​ことであり、​さらに​礼拝と​賛美を​神に​捧げ、​神に​願い、​感謝し、​罪の​償いを​して​自己を​清め、​キリストに​おいて​すべての​信者と​完全に​一つに​なる​ことなのです。

​ 多分、​どのように​すれば​神の​この​大きな​愛に​応える​ことができるだろうかと、​しばしば​考えた​ことでしょう。​また​信者と​してどのような​生き方を​すべきかを​はっきりと​知りたいと​思った​こともあるでしょう。​答えは、​すべての​信者に​とって​実行可能な​簡単な​ことです。​つまり、​ミサに​愛を​込めて​あずかり、​ミサの​中で​神との​交わり方を​学んでいけば​よいのです。​なぜなら​この​犠牲の​中に、​主が​お望みに​なることが​すべて​含まれているからです。

​ ごミサが​どのように​進められて​行くかに​ついては、​すでに​よく​ご存じの​ことでしょうが、​再び繰り返す​ことを​お許しください。​ごミサに​一歩一歩​従って​行けば、​改善すべき点、​根こそぎに​するべき欠点、​あるいは、​あらゆる​人々と​兄弟愛を​もって​接するには​どう​すべきかなどに​ついて、​主が​教えてくださるでしょう。

​ 司祭は、​〈私たちの​若さを​喜びで​満たされる​神〉の​祭壇に​近づきます。​神が​そこに​おられますから、​ごミサは​喜びの​歌で​始まります。​この​喜びと​感謝と​愛は、​祭壇に​接吻する​ことに​よって​表現されます。​祭壇は​キリストの​象徴であり、​聖人たちの​形見であり、​狭い​場所では​あっても​無限の​効果を​有する​秘跡の​場であるからです。

​ コンフィテオル​(告白の​祈り)を​唱える​ことに​よって、​至らない​点を​痛悔します。​しかし、​過失を​抽象的に​思い出すのではなく、​具体的な​罪や​欠点が​ある​ことを​自覚するのです。​そこで、​「キリエ・エレイソン、​クリステ・エレイソン」​(主よ憐れみ給え、​キリスト憐れみ給え)と​繰り返し唱えるのです。​もし​私たちに​必要な​罪の​ゆる​しが、​私たちの​功徳の​結果と​して​与えられる​ものであるなら、​心は​苦汁に​満たされる​ことでしょう。​しかし、​神は​善い​御方ですから、​その​ご慈悲に​よって​私たちは​ゆる​されるのです。​それゆえ、​グロリア​(栄光唱)を​称えます。​「主のみ​聖なり、​主のみ​王なり。​主のみいと​高し、​イエス・キリストよ。​聖霊とともに、​父なる​神の​栄光の​うちに」と。

次いで、​聖書の​書簡と​福音書に​耳を​傾けます。​書簡と​福音書朗読は、​私たちが​理性で​悟り観想し、​意志が​強められ、​教えを​実行に​移すようにと​人間の​言葉で​語りかけてくださる​聖霊の​光です。​私たちは​唯一の​信仰、​クレド(使徒信条)を​告白する​一つの​民、​「御父と​御子と​聖霊との​一致に​おいて​集められた​民」​22だからです。

​ 続いて、​奉献に​入り、​人々の​パンとぶどう​酒を​捧げます。​供え物は​さほど​値打ちの​ある​ものでは​ありませんが、​祈りと​一緒に​捧げます。​「神よ、​悔い​改める​わたしたちを、​今日、​みこころにかなういけに​えと​して​受け入れてください」、​ 再び​自分の​惨めさを​思い出し、​主に​捧げられる​ものが​すべて​清く​あって​欲しいと​いう​願いが​心に​溢れ、​「私の​手を​洗い、​(…)​主の​家の​美麗さを​愛する」と​唱えます。

​ 指を​清める​少し​前に、​その​聖なる​み名に​捧げられる​いけにえを​祝福してくださいと​聖霊に​お願い​したばかりですが、​清めが​終わると、​もう​一度、​聖三位一体に​向かいます。​「聖なる​三位一体よ、​われらの​主イエス・キリストの​受難、​復活、​昇天の​記念と​して、​また、​終生おとめである​聖マリアと​諸聖人の​光栄の​ために、​われらの​捧げ奉る​ものを​受け入れてください」。

​ 司祭は​「兄弟たちよ、​祈れ」を​唱えて、​この​捧げものを​すべての​人の​救いに​役立ててくださるように​願います。​なんと​なれば、​この​捧げ物は​私の​ものであり、​あなた方の​ものであり、​聖なる​全教会の​ものだからです。​ごミサに​あずかっている​人が​わずかであっても、​そこに​一人の​信者しかいなくても、​あるいは​司祭一人であっても、​「兄弟たちよ、​祈れ」と​唱えます。​どの​ごミサであっても、​普遍的な​犠牲、​すべての​民族と​言葉と​民と​国の​贖い​23の​ための​犠牲であるからです。

​ すべての​キリスト者は、​聖徒の​交わりに​よって​捧げられる​ごミサ​すべての​恩恵を​いただきます。​例え​何万人の​前で​捧げられた​ごミサであっても、​また、​たった​一人の​侍者、​多分気を​散らしながら​司祭を​助ける​子どもと共に​捧げた​ごミサであっても、​その​効果は​なんら​変わらないのです。​いずれの​場合にも、​天と​地は​ひとつに​なって、​主の​天使と​共に​歌うのです。​サンクトゥス、​サンクトゥス、​サンクトゥス、​「聖なるかな、​聖なるかな、​聖なるかな…」。

​ 私は​天使と​共に​神を​賛美し、​称揚します。​天使と​共に​と申しましたが、​ごミサを​捧げる​ときは​天使に​取り巻かれているのですから、​別に​難しい​ことでは​ありません。​天使は​聖三位一体を​礼拝しているのです。​そして、​聖母も​何らかの​形で​ごミサに​介入されます。​マリアは​聖三位一体と​全く​一致している​のみならず、​キリストの​御母、​キリストの​御体と​御血の​母、​完全な​神・完全な​人間である​イエス・キリストの​母だからです。​イエス・キリストは、​男性の​介入なしに​聖霊の​力に​よって、​聖母マリアの​ご胎内に​宿られ、​母マリアの​血を​お受けに​なりました。​そして​その​御血こそ、​救いの​犠牲、​つまり、​カルワリオと​ごミサで​捧げられる​御血であるからなのです。

こうして​カノン​(奉献文)に​入り、​子と​しての​信頼を​込めて​父である​神を、​慈しみ深い父とお呼びします。​教会と​その​すべての​成員の​ため、​つまり教皇・家族・友人・同僚の​ために​主に​祈るのです。​カトリック信者は、​その​寛い心ですべての​人々の​ために​祈るのです。​人々を​思う​熱意から​除外される​人は​誰もいないからです。​そして、​その​願いが​聴き入れられるように、​光栄ある​終生おとめマリアと、​キリストに​付き従った​使徒や、​キリストの​ために​殉教した​人々を​聖なる​一致に​おいて​記念するのです。

​ クァム・オブラツィオネム、​「神よ、​この​捧げ物を​祝福し​(…)」。​聖変化の​ときが​近づいてきました。​ごミサに​おいて、​今また​司祭を​通して、​いけにえを​捧げるのは​キリストご自身です。​「これは​わたしの​体である」、​「これは​わたしの​血の​さか​ずきである」。​イエスは​私たちと​一緒に​現存されます。​全実​体変化​(聖変化)に​よって、​神の​無限の​愛が​繰り返し示されます。​今日、​聖変化が​繰り返される​この​瞬間、​一人​ひとり、​心の​中で​主に​次のように​申し上げたい​ものです。​「どのような​ことが​あっても​御身から​離れまいと​思っております。​御身は、​パンとぶどう​酒のもろい​外観の​もとに、​無防備な​状態で​私共の​間に​残ってくださいましたから、​私たちは​自ら​進んで​御身の​僕に​なります」と。​それゆえ、​「わたしの​心を​あなたに​よって​生かし、​甘美なあなたを​常に​味わわせてください」24。

​ ここで​また、​神に​祈願します。​お願い​せずには​いられないからです。​死せる​兄弟の​ためと、​私たち自身の​ために。​この機会に、​私たちの​不忠実と​惨めさを​捧げる​ことも​できるでしょう。​私たちが​背負う​惨めさは​大変な​重荷ですが、​キリストは​私たちの​ために、​私たちと​共に​それを​背負ってくださるのです。​聖三位一体の​神に​向かって​もう​一つの​祈りを​捧げ、​カノン​(奉献文)は​終わります。​「キリストに​よって、​キリストと​共に、​キリストの​うちに、​聖霊の​交わりの​中で、​全能の​神、​父である​あなたに、​すべての​誉れと​栄光は、​世々に​至るまで」。

イエスは​道であり仲介者です。​彼の​内に​すべてが​あり、​彼の​外には​何も​ありません。​キリストに​教えられた​私たちは、​主に​おいて、​勇気を​出して​全能なる​御方を、​私たちの​父よ、​とお呼びします。​天と​地を​お創りに​なった​御方は、​深い​愛情を​もった​父で、​私たちが放蕩息子のように​心を​改めて​いつも​み許に​戻るのを​待ってくださるのです。

​ エッチェ アニュス・​デイ、​「みよ、​神の​子羊…。​主よ、​わたしは​主を​わが​家に​お迎えするに​ふさわ​しくない​者です…」。​いよいよ主を​お受けする​ときが​近づいてきました。​高位の​人々を​迎える​ために​灯を​燈し、​音楽を​奏で​礼服を​身に​着けます。​心の​中に​キリストを​お迎えする​ために、​どのような​準備を​しなければならないでしょうか。​もし一生に​一度しか​ご聖体を​拝領できないと​すれば、​どのような​準備を​するだろうか、と​考えたことが​あるでしょうか。

​ 子どもの​頃には、​しばしば聖体を​拝領する​習慣は​まだ​広がっていませんでした。​人々が​どんなに​聖体拝領前の​準備を​したかを、​私は​よく​覚えています。​心も​身体も​細心の​注意を​払って​備えた​ものでした。​最良の​服を​身に​着け、​髪にくしを​かけ、​身体も​清潔にし、​時には​香水を​少し​ふりかけて…。​愛に​対しては​愛を​もってお返し​すべきことを​知っている​人の​細やかな​心遣い、​愛し合う​者同士に​特有の​細やかな​心遣いを​示した​ものです。

​ キリストを​心に​いだき、​祝福を​受けて​ごミサを​終えます。​御父と​御子と​聖霊の​祝福が、​高貴な​あらゆる​活動の​聖化を​目指す、​平凡で​単純な​私たちの​一日を​守ってくださるのです。

​ ごミサに​あずかっている​内に、​神の​三つの​ペルソナ、​つまり​御子を​生む御父、​そして​御父に​より​生まれる​御子、​その​両者から​出る​聖霊との​交わりを​学ぶことができるでしょう。​三つの​ペルソナの​どの​御方と​交わっていても、​それは​唯一の​神と​交わっている​ことであり、​三つの​ペルソナと、​つまり​三位一体の​神と​交わっていれば、​唯一の​真の​神と​交わっている​ことに​なるのです。​ごミサを​大切に​しましょう。​ごミサを​愛しましょう。​心が​凍りついていても、​感情が​伴わなくても​心から​望み、​信仰と​希望と​強い​愛を​込めて​聖体を​拝領しましょう。

イエス・キリストとの​交わり

 ごミサを​愛さない​人、​心を​落ち着けて​静かに​信心深く​愛情を​込めて​ごミサに​あずかる​努力を​しない​人は、​キリストを​愛しているとは​言えないのです。​恋人たちは、​愛に​よって​優しく​繊細に​なります。​そして​しばしば​非常に​小さい​ことにまで​細やかな​心遣いを​示すようになります。​たとえ小さな​ことでも、​それは​愛に​溢れる​心の​表れなのですから。​私たちも​このような​心で​ごミサに​あずからなければなりません。​ですから、​短い​ごミサに​あずかりたいと​望む性急な​人を​みると、​祭壇上の​犠牲の​意味する​ところが​わかっていないのではないかと​疑いたくなります。

​ 人間の​ために​ご自分を​捧げてくださった​キリストを​愛するなら、​ごミサが​終わった​あと​感謝する​ため、​心静かに​親しく​主と​語らう​数分間を​もち、​ユーカリスチアつまり​感謝を、​静かに​心の​中で​続けたいと​願う​ことでしょう。​その​時、​どのように​して​キリストに​向かいましょうか。​どのように​主に​話しかけましょうか。​どのような​態度を​示せば​良いのでしょうか

 信者の​生活は​厳しい​規則に​縛られているのでは​ありません。​聖霊は​人々を​十把一絡げに​して​導くのではなく、​一人​ひとりが​御父のみ​旨を​感じとり、​そのみ​旨を​実行できるように、​決心と​霊感を​与え、​よい​感情を​注ぎ込んでくださる​方​だからです。​けれども、​ごミサの​後の​キリストとの​語り合いである​感謝の​祈りの​中心は、​王に​して​医者、​師に​して友である​キリストを​思い巡らす​ことであると​私は​考えています。

キリストは​王です。​そして、​神の​子である​私たちの​心を​統治したいと​切望しておられます。​けれども、​人間の​統治を​想像しては​なりません。​キリストは​支配する​ことも​強制する​ことも​お望みでは​ありません。​キリストが​来られたのは​「仕えられる​ためではなく​仕える​ため」​25であったからです。

​ キリストの​王国とは​平和・喜び・正義の​ことです。​王である​キリストは、​空しい​理屈ではなく、​私たちの​行いを​待っておられます。​「わたしに​向かって、​『主よ、​主よ』と​言う​者が​皆、​天の​国に​入るわけではない。​わたしの​天の​父の​御心を​行う​者だけが​入るのである」26と​仰せに​なられたからです。

​ キリストは​医者ですから、​キリストの​恩恵が​心の​奥まで​注ぎ込まれるに​お任せすれば、​私たちの​利己主義を​癒してくださいます。​イエスは、​最も​悪い病は​自分の​罪を​ごまかす偽善であり、​う​ぬぼれであると​教えてくださいました。​医者には​正直に​ありのまま​すべてを​説明しなければなりません。​そして、​「主よ、​御心ならば、​わたしを​清く​する​ことが​おできに​なります」​27と​申し上げなければなりません。​御身は、​私の​弱さも​症状も​ご存じです。​こんな​弱さにも​苦しんで​おります。​そして​ごく​素直に​傷口も、​そしてもし膿が​出ていたら、​膿も​お見せしましょう。​主よ、​御身は​たくさんの​人々の​心を​癒されました。​私が​御身を​お受けする​とき、​あるいは、​聖櫃の​御身を​眺める​とき、​御身が​医者である​神である​ことを​悟らせてください。

​ キリストは、​神のみが​所有なさる​知恵の​師です。​つまり、​神を​この​上もなく​愛し、​神に​おいて​すべての​人々を​愛する​ための​知恵の​師なのです。​キリストの​学校で、​私たちの​生命は​私たちの​ものでない​ことを​学びます。​キリストは​すべての​人間の​ために​ご自分の​生命を​捧げられました。​キリストに​従うの​なら、​人々の​苦しみを​顧みずに、​自己の​内に​留まる​利己主義は​許されない​ことを​理解しなければなりません。​私たちの​生命は​神の​ものです。​それゆえ、​人々への​寛大な​心遣いを​示し、​言葉と​模範で​キリスト教の​教えの​深さを​示し、​人々への​奉仕の​ために​挺身しなければならないのです。

​ 私たちがキリストの​知恵を​得る​望みを​増すように、​「渇いている​人は​だれでも、​わたしの​ところに​来て​飲みなさい」28と、​イエスは​繰り返し仰せに​なります。​そこで、​自分を​忘れてあなたと​すべての​人々の​ことを​考える​ことができるように​お教えくださいと、​私たちは​主に​申し上げます。​こうして​神は、​恩恵に​よって​導いてくださる​ことでしょう。​幼い頃、​先生の​手を​借りながら​幼く​拙い字を​書いたのを​憶えているでしょう。​あの​時のように​イエスは​私たちを​助けてくださるのです。​そして、​神の​もう​一つの​贈り物である​私たちの​信仰を​表す幸せが​味わえる​のみならず、​キリスト教的な​振舞いと​いう​しっかりと​した​文字を​書き記すことも​できるようになり、​人々は​それを​見て​神の​働きの​素晴らしさを​読みとる​ことでしょう。

​ キリストは​唯一の​友です。​「あなたが​たを​友と​呼ぶ」​29と​主は​おっしゃっています。​友と​呼び、​ご自分から​近寄り、​私たちを​愛してくださったのです。​しかし、​愛情を​押しつけるのではなく​捧げ、​その愛の​最も​確かな​印を​お示しに​なりました。​「友の​ために​自分の​命を​捨てる​こと、​これ以上に​大きな​愛は​ない」30。​ キリストは​ラザロの​友人でした。​ラザロの​死を​悼み、​ラザロを​復活させたのです。​私たちが​冷淡に​なり意欲を​失った​とき、​あるいは​内的生活の​末期症状とも​いえる​私たちの​硬直状態を​ご覧に​なれば、​キリストは​お泣きに​なり、​その涙に​よって​私たちは​蘇る​ことでしょう。​「あなたに​言う。​起きて、​床を​とって​歩きなさい」31。​死同然の​硬直状態から​抜け出しなさい、と​言ってくださるのです。

聖木曜日の​黙想も​終わりに​近くなりました。​主の​助けが​あれば​ ― 素直に​心を​開きさえすれは、​主は​常に​助けてくださいます ― もっと​大切な​こと、​つまり​愛に​応えなければならないと​強く​感じるようになります。​人々に​仕える​ことに​よって、​人々の​間に​キリストの​愛を​広めなければならない​ことも​わかってくる​ことでしょう。​あの​晩さんの​夜、​弟子たちの​足を​洗った​後、​「わたしが​(…)​模範を​示した」32と​イエスは​強調なさいます。​傲慢や​野望や​支配欲を​心から​追い​払いましょう。​そう​すれば​一人​ひとりの​犠牲に​根づいた​平和と​喜びは、​私たちのみでなく、​私たちの​周囲の​人々にも​満ち溢れる​ことでしょう。

​ 最後に、​神の​母であり、​私たちの​母である​聖マリアの​ことを​子どもと​しての​愛情を​込めて​考えてみましょう。​もう​一度​幼い頃の​ことを​話す​ことを​お許しください。​聖ピオ十世が、​しばしば聖体拝領を​するように​とお勧めに​なった​とき、​私の​故郷では、​マリアが​聖体を​礼拝している​ご像が​流行していました。​いつの​時代も​そうですが、​今日も​マリアは​一日の​出来事を​通して、​特に​現在と​永遠が​一致する​厳かな​ミサの​犠牲に​おいて、​イエスに​どのように​接すれば​よいのか、​どう​すれば​キリストを​認め、​キリストに​出会う​ことができるかを​教えてくださいます。​そして​永遠の​司祭である​イエスは、​すべてを​ご自分の​もとに​引き寄せ、​聖霊の​息吹で、​父である​神のみ​前に​導いてくださるのです。

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