信仰生活

1947年10月12日


昨今ほとんど​奇跡は​起こらないと​いう​声を​耳にします。​信仰の​篤い​人が​あまりいないからではないでしょうか。​「求めよ。​わたしは​国々を​お前の​嗣業とし、​地の​果てまで、​お前の​領土と​する」1と​言われた​神が、​約束に​背くとは​考えられません。​私たちの​神は​真理その​もの、​存在する​もの​すべての​基ですから、​全能の​神が​お望みに​ならない​限り、​何ひとつ​実現しません。

​ ​「始めに​ありしごとく、​今も​いつも​代々に​至るまで」2。​主に​転変は​ありません。​ひとつと​して​欠ける​ものは​ないのですから、​探し求めて​動き回る​必要などないのです。​神は、​動き​その​もの、​美の​美であり、​偉大な​お方、​今も​昔も​全く​同じ方です。​「天が​煙のように​消え、​地が​衣のように​朽ち、​地に​住む者も​また、​ぶよのように​死に​果てても、​わたしの​救いは​とこしえに​続き​(…)」3と​あるとおりです。

​ 神は​人間との​永遠に​続く​新しい​契約を、​キリストに​おいて​結んでくださいました。​ご自分の​全能を​人々の​救いの​ために​役立ててくださったのです。​人々が​信頼を​失い、​信仰不足ゆえに​震えおののく​時、​イザヤが​主の​名に​よって​告げる​言葉が​再び響きわたります。​「わたしが​来ても、​だれもいないのか。​呼んでも​答えないのか。​わたしの​手は​短すぎて​贖う​ことができず、​わたしには​救い出す力が​ないと​いうのか。​見よ、​わたしが​叱咤すれば​海は​干上がり、​大河も​荒れ野に​変わる。​水は​涸れ、​魚は​異臭を​放ち、​渇きの​ために​死ぬ。​わたしは、​天に​喪服を​まとわせ、​粗布で​覆う」4。

信仰とは、​知性に​働きかけて、​啓示された​真理を​承認させる​徳、​三位一体の​神の​救いの​全計画を​告げる​キリストの​招きに​応じさせる​超​自然の​徳です。​「神は、​かつて​預言者たちに​よって、​多くのかたちで、​また​多くのしかたで​先祖に​語られたが、​この​終わりの​時代には、​御子に​よって​わたしたちに​語られました。​神は、​この​御子を​万物の​相続者と​定め、​また、​御子に​よって​世界を​創造されました。​御子は、​神の​栄光の​反映であり、​神の​本質の​完全な​現れであ​(ります)」5。

シロアムの​池で​ 

信仰に​ついて、​また​信仰の​教えに​ついて、​私は​イエスに​話していただこうと​思っています。​そこで、​福音書を​開いて、​主の​生涯の​場面の​いく​つかに​入り込んで​みましょう。​弟子たちが​信頼して​自らを​捧げ、​御父のみ​旨を​果たすことができるよう、​主は​少しずつ​お教えに​なります。​言葉と​行いで​弟子たちに​教示されたのです。

​ 聖ヨハネ福音書の​第九章を​開いてみましょう。​「イエスは​通りすがりに、​生まれつき目の​見えない​人を​見かけられた。​弟子たちがイエスに​尋ねた。​『ラビ、​この​人が​生まれつき目が​見えないのは、​だれが​罪を​犯したからですか。​本人ですか。​それとも、​両親ですか』」6。​キリストに​常に​同行していたにも​かかわらず、​弟子たちは​あの​哀れな​盲人を​悪く​思いました。​一生の​間、​また、​教会に​仕えるべく​努力を​傾けている​ときにも、​主の​弟子で​ありながら​同じような​態度を​示す​人々に​出くわすことが​あるかもしれないが、​そのような​時にも​驚かないように、と​いう​主の​配慮を​示す​場面と​言えましょう。​たとえ​そのような​ことが​起こっても、​この​盲人と​同じように​気に​せず​無視して、​キリストの​手に​何もかも​すっかり​お任せする​ことです。​キリストは​攻撃する​どころか​お赦しに​なります。​罪に​定めずに​赦してくださいます。​病に​気づけば​知ら​ぬふりを​する​ことなく、​神と​しての​力を​発揮して、​癒してくださいます。​主は​「地面に​唾を​し、​唾で​土を​こねて​その​人の​目に​お塗りに​なった。​そして、​『シロアム―​「遣わされた​者」と​いう​意味―の​池に​行って​洗いなさい』と​言われた。​そこで、​彼は​行って​洗い、​目が​見えるようになって、​帰って​来た」7。

この​盲人の​確固たる​信仰は、​素晴らしい​模範、​行いに​現れる​生き​生きした​信仰の​模範と​なるのでは​ありませんか。​よく​ある​ことですが、​心配事が​心の​中の​光を​隠してしまった​ために​何も​見えなくなる​とき、​あなたは​この​盲人のように​神の​命令に​従っているでしょうか。​池の​水に​濡らせば​目が​癒されると​言われた​ところで、​池の​水に​どのような​力が​備わっていたと​いうのでしょう。​魔法の​点眼薬を​使うか、​錬金術師が​実験室で​発明した​妙薬を​つける​方が​よく​効いたのではないでしょうか。​しかし、​あの​盲人は​信じました。​神の​命令に​従ったのです。​その​結果、​戻ってくると​視力は​回復していました。

​ 聖アウグスチヌスは​この​場面を​評して​次のように​語っています。​「聖福音史家が​池の​名の​意味を​明か​すために​『遣わされた​者』と​書き残してくれた​ことは​真に​ありが​たい。​おかげで、​この​遣わされた​者が​どなたを​指すかが​分かった。​私たちの​ところ​へ​主が​遣わされなかったと​すれば、​ひとりと​して​罪から​解放される​人は​いなかったであろう」8。​癒すために​わざわざ遣わされた​医者である​私たちの​主を、​固く​信じなければなりません。​患う​病が​重ければ​重い​ほど、​より​固く​信じなければならないのです。

神が​どのような​尺度で​事物を​お測りに​なるかを​知らなければなりません。​超自然の​「照準」から​絶対に​目を​離さないようにしましょう。​また、​イエスは​自らの​光栄を​輝かせる​ために、​私たちの​弱さを​も考慮してくださる​ことを​忘れる​わけに​いきません。​その​ためには、​自愛心や​疲れ、​落胆や​情欲が​心の​中で​動き始める​やいなや、​直ちに​反応して、​主に​耳を​傾け、​聴き入る​必要が​あります。​生きている​限り、​常に​弱さに​付きまと​われる​定めですから、​自己の​ありのままの​姿、​その​悲しむべき​有様を​見ても、​決してがっかりしてはならないのです。

​ これこそ​信者の​歩む道です。​あなたに​全幅の​信頼を​置いていますが、​主よ、​あなたは​私を​信用なさらないでくださいと、​謙遜で​強い​信仰の​心から​弛まず主の​助けを​請い​求めなければならない​ことが​理解できます。​決して​私たちを​見捨てない​キリスト・イエスが、​優しく​見つめ、​理解し、​愛してくださっている​ことを​心に​感じるようになれば、​使徒の​言葉の​深い​意味が​理解できるのではないでしょうか。​「『わたしの​恵みは​あなたに​十分である。​力は​弱さの​中で​こそ​十分に​発揮されるのだ』と​言われました。​だから、​キリストの​力が​わたしの​内に​宿るように、​むしろ​大いに​喜んで​自分の​弱さを​誇りましょう」9。​たとえ芥の​ごとき身では​あっても、と​いう​よりは​惨めな​ところが​たくさん​あるから​こそ、​かえって​主を​信じ、​父なる​神に​対する​忠実を​保つことができるのです。​神の​力が​発揮され、​弱さに​圧倒されんばかりの​私たちを​支えてくださいますから。

バルティマイの​信仰

今度は、​もう​一人の​盲人が​癒される​場面の​出てくる、​聖マルコに​よる​福音書を​開いてみましょう。​「イエスが​弟子たちや​大勢の​群衆と​一緒に、​エリコを​出て​行こうとされた​とき、​ティマイの​子で、​バルティマイと​いう​盲人の​物乞いが​道端に​座っていた」10。​人々の​騒ぎを​耳に​した​盲人は​尋ねます。​「何が​起こったのでしょうか」。​人々が、​「ナザレの​イエスだ」と​答えると、​キリストヘの​信仰に​燃える​バルティマイの​口から​あの​叫びが​ほとばしりでました。​「ダビデの​子イエスよ、​わたしを​憐れんでください」11。

​ あなたも​自分の​ために​同じ​叫びを​上げたいとは​思いませんか。​短い​人生と​いう​道の​傍らに​立ち尽くしている​あなた、​聖人に​なる​決意を​固める​ため一層​多くの​恩寵を​必要とする​あなた、​光に​欠ける​あなた​自身に、​叫びたくは​ないでしょうか。​矢も​盾も​たまらず、​「ダビデの​子イエス、​私に​憐れみを」と、​大声を​上げたくはならないでしょうか。​何度も​何度も​繰り返す射祷と​して​美しい​この​言葉を。

​ 奇跡が​起こる​前の​様子を​じっくり黙想しましょう。​イエスの​慈悲深い​聖心に​比べて​私たちの​心が​いかに​哀れであるかを、​しっかりと​心に​刻みつけて​おきたいからです。​そう​すれば、​いつでも​役に​立つことでしょう。​特に、​誘惑や​試みの​とき、​また、​日常の​小事あるいは​英雄的な​大事を​果たす努力を​続ける​とき、​必ず​強い​支えに​なるはずです。

​ ​「多くの​人々が​叱りつけて​黙らせようとした」12。​イエスが​すぐ​傍らを​お通りに​なっているのではないかと​感じる​あなたにも、​人々は​沈黙させようと​して​叫び立てます。​あなたの​鼓動は​激しく​打ち、​遂に​大声を​上げる、​心の​奥底で​逆巻く​不安に​いた​たまれなくなって。​ところが、​友人、​習慣、​気楽な​生き方、​環境など​すべてが​一団と​なってあなたに​忠告します。​「黙れ。​大声を​張り上げるな」、​「なぜイエスを​煩わせるのか。​呼ぶ必要などないではないか」と。

​ 哀れな​バルティマイは​人々の​言うことに​耳を​貸さず、​さらに​力を​ふりし​ぼって​叫びたてます。​「ダビデの​子、​どうかわたしに​ご慈悲を」。​主は​初めから​彼の​声を​聴いておいでになりましたが、​素知ら​ぬふりを​して​盲人が​祈り続ける​ままに​しておかれました。​あなたの​場合も​同じでしょう。​私たちが​最初に​祈りを​始めた​ときから、​イエスは​ちゃんと​ご存じです。​しかし、​お待ちに​なります。​私たちに​主が​必要である​ことを​確信させる​ために。​エリコの​道端で​叫び声を​上げる​あの​盲人のように、​私たちが​執拗に​願い​続ける​ことを​お望みなのです。​「バルティマイを​見倣いましょう。​たとえ神が​願い​ごとを​すぐに​聞き入れてくださらなくても、​たとえ大勢が​祈りを​止めさせようと​妨害しても、​倦まず弛まず​願い​続けねばなりません」​13。

「イエスは​立ち止まって、​『あの​男を​呼んで​来なさい』と​言われた」。​そして、​近くに​いた​何人かの​善良な​人々が​盲人に​伝えます。​「安心しなさい。​立ちなさい。​お呼びだ」​14。​これが​キリスト教の​召し出しではないでしょうか。​ただし、​召し出しとは、​神が​一度だけ​お呼びに​なる​ことでは​ありません。​神は​常に​呼びかけておいでになります。​立ちなさい、​怠惰を​捨てなさい、​つまらない​利己主義や​安楽、​さほど​大切とは​言えぬあなたの​心配ごとなど​忘れてしまいなさい。​不恰好に​地に​這いつくばった、​役立たずな​状態から​早く​抜け出しなさい。​高さと​重さと​量、​それに​超自然の​見方を​取り戻しなさい、と。

​ その男は​すぐに、​「上着を​脱ぎ捨て、​踊り​上がってイエスの​ところに​来た」15。​上着を​脱ぎ捨てて!​戦場に​足を​踏み入れた​ことが​あるでしょうか。​もうずいぶん昔の​ことですが、​戦いが​終わったばかりの​戦場に​立った​ことがあります。​そこには​毛布や​水筒、​それに​愛する​人たちの​手紙や​写真の​詰った​背のうが​散乱していました。​それらは​いずれも​敗残兵の​持ち物ではなく、​勝利を​得た​兵士たちの​ものでした。​突撃に​入り、​敵陣を​突破する​とき、​邪魔に​なるので、​キリストに​付き従った​あの​バルティマイのように、​兵士たちは​すべてを​投げ捨てて敵に​立ち向かっていったのです。

​ キリストのもと​へ​行くには​犠牲を​払わねばならない。​この​ことを​忘れないでください。​毛布も​水筒も​背のうも、​邪魔に​なる​ものは​すべて​捨てなければなりません。​神に​光栄を​帰する​ための​戦いに​おいて、​また、​キリストの​王国を​広める​ための​平和と​愛の​戦いに​おいて、​私たちも​同じ​ことを​しなければならないのです。​教会と​教皇と​人々に​仕えるには、​足手まといに​なる​ものを​すべて​放棄する​必要が​あります。​たとえそれが​夜の​寒さを​耐え忍ぶための​毛布や​愛する​家族の​思い出、​元気を​つける​ための​水であっても。​以上が、​信仰の​教えであり、​愛の​教訓であります。

行いを​伴う​信仰

続いて​すぐに、​心を​震わせ燃え​上がらせる​素晴らしい​対話、​神との​語り合いが​始まります。​さあ、​あなたも​私も、​バルティマイに​なった​つもりで、​福音書の​場面に​入り込むことにしましょう。​キリストが​口を​切り、​お尋ねに​なります。​「何を​して​ほしいのか」。​そこで​盲人は​答えます。​「先生、​目が​見えるようになりたいのです」16。​まことに​当然な​願いでは​ありませんか。​いつか、​あなたにも​エリコの​男と​同じことが​起こったのではないでしょうか。​ずっと​昔、​福音書の​この​章を​黙想して、​イエスが​私に​何かを​望んで​おられる​ことに​気づいた​とき、​実は​それが​何であるかは​まだ​知らなかったのですが、​その​とき、​この​言葉を​射祷に​した​ことを​思い出します。​主よ、​何を​お望みですか。​何を​私に​要求しておいでになるのですか。​何か​新しい​ことを​主が​私に​お求めに​なっている​ことを​予感し、​「ラッボー二、​ウット・ヴィデアム」​(先生、​見えるように​してください)と​キリストに​お願いし、​あなたのみ​旨が​実現しますようにと​祈り続けました。

私と​一緒に​主に​祈りましょう。​「御旨を​行う​すべを​教えてください。​あなたは​わたしの​神」17。​行いに​あらわれる​効果的な​望みを​もって、​創造主の​招きに​誠実に​応える​決意の​言葉が​私の​口から​出ますように。​神が​失敗なさる​ことはないと​いう​不抜の​信仰と​確信に​支えられて、​主の​計画実現に​全力を​尽くしたい​ものです。

​ 神のみ​旨を​このような​態度で​愛する​ことができるなら、​真理を​はっきりと​提示すべきである​ことのみならず、​信仰を​守る​決意を​行いに​表すことが​信仰の​本領であると​いう​ことも、​理解できるでしょう。​そして、​この​理解に​基づく​行動に​力を​尽くすはずです。

​ エリコの​場面に​戻りましょう。​今キリストは、​あなたに​向かって​話しかけておいでになる。​「何を​望むのか」とお尋ねに​なっています。​そこであなたは、​見えますように、​主よ、​見えるように​してください、と​答える。​すると、​イエスの​言葉が​返ってきます。​「『行きなさい。​あなたの​信仰が​あなたを​救った』。​盲人は、​すぐ​見えるようになり、​な​お道を​進まれる​イエスに​従った」18。​主に​従って​主の​道を​歩むこと。​あなたは​主の​提案を​知りました。​そして、​同行の​決意を​固めます。​主の​跡に​従い、​「キリストを​着」、​キリストに​なりきる​ために​努力します。​主が​お与えに​なる​光に​対する​信仰、​あなたの​信仰は、​行いと​犠牲に​あらわれなければなりません。​新しい​方​法を​探し求めても​無駄ですから、​つまら​ぬことを​夢に​見ないようにしましょう。​主が​要求なさる​信仰とは、​神の​歩調に​合わせて​数多くの​寛大な​わざを​実行し、​邪魔物を​捨て​去り、​障害物を​乗り越えて、​道を​歩むことなのです。

信仰と​謙遜

今度は​聖マタイが​感動的な​場面を​示してくれます。​「そこへ​十二年間も​患って​出血が​続いている​女が​近寄って​来て、​後ろから​イエスの​服の​房に​触れた」19。​バルティマイのように、​大きな​信仰の​心から、​大声で​自らの​状態を​告白する​病人は​どこにもいます。​ところで、​キリストの​道を​歩む​人々の​間には​二人と​して​同じ​人は​いません。​この​女性の​信仰は​立派です。​彼女は​叫び声を​上げません。​誰にも​気づかれぬうちに​近寄ります。​癒されると​確信していました​20から、​イエスの​衣に​少し​触れさえすれば​よかったのです。​衣に​触れるか​触れぬかの​うちに、​主は​振り返って​ごらんに​なります。​女の​心の​中で​起こった​ことを、すでに​ご存じでした。​そして、​その​信仰を​お知らせに​なります、​「娘よ、​元気に​なりなさい。​あなたの​信仰が​あなたを​救った」​21と。

​ 「上衣の​裾回しに​そっと​触れた。​信仰を​もって​近づき信じた。​そして、​癒された​ことを​知ったのだ。​…​救われたいなら、​我々も​信じて、​キリストの​衣に​触れなければならない」22。​ これで、​あなたの​信仰の​あるべき姿が​明らかに​なったのではないでしょうか。​キリストが​私たちを​招いてくださる​なんて、​いったい​私たちは​何者なのでしょう。​キリストの​こんなにも​近くに​いる​ことができる​私たちは、​そも​そも​何者なのでしょうか。​群衆の​中の​あの​女性に​対するように、​主は​私たちにも​機会を​与えてくださいました。​それも、​衣服や​上衣の​裾回しだけでなく、​ご自分を​所有させてくださったのです。​キリストは、​御体と​御血、​霊魂、​神性とも​ども、​自らを​食物と​して​毎日​お与えに​なる。​その​おかげで​私たちは、​父親に​対するように​安心して、​また愛する​人と​話すように​親しく、​主と​語り合うことができる。​これは​嘘でも​想像の​所産でもありません。

努めて​謙遜の​徳を​育てましょう。​謙遜な​信仰が​あればこそ​超​自然的な​物の​見方が​できます。​これ以外に​方法は​ありません。​この​世での​生き方には​二通りしかない。​超自然的な​生き方を​するか、​動物的な​生き方を​するか。​ところで​私たちには、​超自然的な​生活、​神的な​生活を​送る​以外の​生き方は​ありえません。​「たとえ全世界を​手に​入れても、​自分の​命を​失ったら、​何の​得が​あろうか」​23。​この​地上に​住まう​生き物も、​知性や​意志が​抱く​大きな​望みも、​いったい​何の​役に​立つでしょう。​すべてに​終わりが​あり、​すべては​崩れ去る。​この​世の​富と​いえども​舞台の​書割に​過ぎません。​ところが​後の​世は、​いつまでも​いつまでも、​永遠に​続きます。​この​世の​事物に​どれほどの​価値が​あると​いうのでしょう。

​ イエスの​テレジアは、​<永遠に​>と​いう​言葉の​おかげで、​大聖テレジアに​なりました。​幼い​ときテレジアは、​アダハと​称される​城壁の​門を​通って、​キリストの​ために、​兄の​ロドリゴと​共に​首を​刎ねて​もら​おうと​ムーア人の​土地へと​出かけて​行きます。​疲れた​兄に​向かって、​<永遠に、​永遠に​>と​囁きながら24。

​ 現世の​事柄に​ついて​永遠と​いう​言葉を​使えば、​嘘を​つくことになります。​神に​向か​いつつ永遠と​言って​はじめて、​嘘偽りの​ない​真理を​述べる​ことに​なるからです。​あなたも​このように​信仰の​助けを​借りて、​蜜の​味と​天国の​甘美を​味わいながら、​真の​意味の​永遠を​考える​毎日を​送らなければなりません。

日常生活と​観想

再び福音書を​繙いてみましょう。​今度は​聖マタイの​第二十一章です。​「都に​帰る​途中、​イエスは​空腹を​覚えられた。​道端に​いちじくの​木が​あるのを​見て、​近寄られた」25。​空腹を​覚える​あなた、​渇きを​覚えて​シカルの​井戸の​傍らに​立つあなたを​見ると、​喜びが​こみあげてきます26。​完全な​神であると​同時に​骨肉を​備えた​完全な​人間27である​あなたを​眺める​ことができるからです。​また、​理解されている​こと、​愛されている​ことを​私が​決して​疑わないように、​キリストは​「自分を​無に​して、​僕の​身分に​な​(って)」​28くださった​ことが​よく​理解できるからです。

​ <​空腹を​覚えられた​>。​仕事や​勉強や​使徒職に​疲れ、​地平線が​見えなくなって​希望を​失う​とき、​そのような​時には​キリストに​視線を​向けます。​優しい​イエス、​疲れ切った​イエス、​飢えと​渇きを​覚える​キリストに​目を​やるのです。​何と​いう​悟らせ方、​何と​いう​愛させ方でしょう。​あなたは、​罪を​除いて​すべての​点で​私たちと​同じ​人間に​なってくださいました。​あなたと​一緒で​あれば、​悪への​傾きにも、​罪にも、​打ち​勝つことができる​ことを​はっきりとお教えに​なります。​疲れも、​飢え、​渇きも、​涙も、​別に​大した​ことでは​ありません。​キリストも、​疲れを​経験し、​飢えを​覚え、​渇きに​苦しみ、​涙を​流しました。​大切なのは、​天に​おられる​御父のみ​旨29を​果た​すために​戦う​ことです。​戦いと​言っても、​主が​常に​傍らで​付き添ってくださいますから、​甘美な戦いと​言えましょう。

<イエスは​いちじくの​木に​近づかれる>。​人々の​救いに​飢え渇く​イエスは、​あなたに、​そして​私に​近寄って​来られます。​主は​十字架上で、​「渇く」30と​叫ばれました。​私たちと​私たちの​愛に​飢えておられます。​不死と​天の​栄光に​つながる道である​十字架を​通って​神のもと​へ​導いてあげるべき​人々の​霊魂と​私たちの​霊魂に、​飢えと​渇きを​覚えておいでなのです。

​ いちじくの​木の​ところへ​行かれたが、​「葉の​ほかは​何も​なかった」31。​悲しい​場面です。​私たちも​この​いちじくと​同じなのではないでしょうか。​残念ながら、​信仰は​弱く、​躍動する​謙遜も​ない。​信仰は​犠牲や​行いにも​現れない。​なぜでしょう。​見た​目だけの​役立たずの​信者なのではないでしょうか。​恐ろしい​ことですが、​「今から​後いつまでも、​お前には​実が​ならないように」と​イエスが​お命じに​なると、​「いちじくの​木は​たちまち枯れてしまった」32。​この​聖福音書の​言葉を​耳に​すると​悲しさに​襲われます。​しかし​同時に、​信仰を​燃え​上がらせ、​その​信仰と​一致した​生活を​営むことに​よって、​常に​<利益>を​主に​献上しようと​いう​勇気も​湧き​上がってきます。

​ 自らを​歎くような​ことの​ないように​したい​ものです。​主が​頼りになさるのは​大人が​建てる​建物では​ありません。​主の​最大の​お望みは​子供の​遊びです。​心を、そして​愛を、​要求しておられます。​命ある​限り​思い切り働かねばなりません。​ところで、​日常の​仕事は​聖化されるべきものですから、​<よく​>働く​ことが​大切です。​神の​ために​働いている​ことを​決して​忘れては​なりません。​高慢心に​負けて​自らの​ために​のみ​働くなら、​生い​茂るのは​葉だけに​なります。​神も、​そして​人々も、​葉しかつけない​木からは、​わずかの​甘美も​得る​ことができないでしょう。

その後、​弟子たちは​枯れた​いちじくを​見て​驚き、​尋ねました。​「なぜ、​たちまち枯れてしまったのですか」33。​キリストが​なさる​奇跡に​何度も​立ち会った​弟子たちは​またしても​驚かされてしまいました。​信仰は​まだ、​<完全に​燃え​上がっては​>いなかったのです。​そこで、​主は​保証を​お与えに​なります。​「はっきり​言っておく。​あなたが​たも​信仰を​持ち、​疑わないならば、​いちじくの​木に​起こったような​ことができるばかりでなく、​この​山に​向かい、​『立ち​上がって、​海に​飛び込め』と​言っても、​そのとおりに​なる」34。​イエスは​一つだけ条件を​おつけに​なります、​信仰に​生きよと。​信仰が​あれば、​山さえ​動かすことができるのです。​揺り​動かしてあげるべき人が​世界中に​大勢いるのでは​ありませんか。​しかし、​まず​自ら心を​揺り​動かさなければなりません。​恩寵の​働きを​妨げる​数多くの​邪魔物が​ありますから、​どうしても​信仰が​必要です。​それも、​行いと​犠牲の​伴う​謙遜な​信仰が​必要なのです。​信仰は​私たちを​全能に​する​力を​もっています。​「信じて​祈る​ならば、​求める​ものは​何でも​得られる」35。

​ 信仰の​人なら、​現世的な​事柄に​ついても​正しい​判断が​下せるはずです。​大聖テレジアの​言葉を​借りるなら、​この​地上の​生活は​「貧しい​宿で​過ごす眠れない夜」​36です。​この​世に​おける​一生は、​働く​ためで​あり戦う​ためである​こと、​また、​神に​対して​罪の​負債を​払い戻すときであり​清めの​ときである​ことを、​改めて​確信しなければなりません。​地上の​富は​あくまで​手段に​過ぎないのですから、​寛大かつ​英雄的に​用いる​べきです。

信仰とは、​人に​説き教える​ものではなく、​実行すべき徳なのです。​きっと、​何度も​何度も​自らの​力不足を​痛感する​ことでしょう。​そのような​ときには、​福音書に​教えを​求めなければなりません。​てんかんの​子を​もつ​あの​父親のように​振舞うのです。​彼は​子供の​救いの​ことで​頭が​いっぱいに​なり必死でした。​キリストが​癒してくださる​ことを​期待していました。​けれども、​あまりにも​都合の​いい話ですから​簡単には​信じられません。​いつも​信仰を​要求される​イエスは、​その​父親の​困惑を​見抜いて​仰せに​なります。​「信じる​者には​何でも​できる」37。​すべてが​可能に​なる、​全能にもなれよう、​ただし、​信仰が​なければならないと。​父親は​己の​信仰が​揺らぐのを​感じとり、​信頼が​不足しているから​子供は​癒して​もらえないのではないかと​恐れます。​そして、​その​目から​涙が。​涙が​出ても​恥じる​ことは​ありません。​涙は、​神への​愛の​あらわれ、​痛悔の​心から​出る、​祈りと​謙遜の​結果です。​「その子の​父親は​すぐに​叫んだ。​『信じます。​信仰の​ない​わたしを​お助けください』」38。​この​祈りの​ひと​ときを​終えるに​当たって、​私たちも​この​父親と​同じ​ことを​主に​申し上げたいと​思います。​「主よ、​信じます」。​信仰を​鍛えて、​あなたに​付き従う​決意を​固めます。​一生の​間、​何度も​何度も、​あなたの​慈悲を​願ってきました。​しかし、​同じくらい​何度も​何度も、​信じ得ぬこともありました。​あなたが、​目を​見張る​ほど​素晴らしい​わざを​私の​中で​数多くなさるにも​かかわらず、​そんな​ことは​できないのではなかろうかと​疑った​ことが​あったのです。​主よ、​信じます。​しかし、​さらに​深く​信じる​ことのできるよう​お助けください。

​ 同じ​ことを、​神の​御母に​して​我らの​母、​「主が​おっしゃった​ことは​必ず実現すると​信じた​幸いなる」39信仰の​師、​聖マリアにも​お願いしましょう。

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