時という宝

1956年6月9日


あなたが​たに​話しかけ、​共に​主なる​神と​語り合う​とき、​私は​自分の​祈りを​声に​出しているに​すぎません。​これを​常に​念頭に​おいて​欲しいと​思います。​祈りとは​主との​愛の​語り合いですから、​今日のように​一見した​ところ​祈りと​関係の​ない​テーマを​取りあげる​場合でも、​心の​中で​祈りに​実りを​与える​努力を​しなければなりません。​<一見した​ところ>と​申しましたが、​実は、​私たちの​身に​起こる​ことや​私たちの​周囲の​出来事は、​いずれも​黙想の​題材に​なります。​またそうでなければなりません。

​ 今日は、​時に​ついて、​この​過ぎゆく​時に​ついて​話すことに​しています。​といっても、​過ぎ去った​歳月は​戻らないと​いうような、​自明の​事柄を​繰り返すつもりは​ありません。​月日が​経つことを​巷では​どう​考えているか​尋ね回るよう提案するわけでもない。​尋ねてみた​ところで​戻ってくる​返事は​およそ​見当が​つきます。​「青春よ、​素晴らしい​宝よ、​お前は​過ぎ去り、​もは​や戻る​ことはない…」。​だからと​言って、​もう​少し​超​自然的な​意味を​含む​言葉を​耳に​する​機会が​ないとは​言うつもりは​ありません。

​ 人生のは​かなさを​強調して​郷愁の​念を​煽ろうと​いう​つもりも​ありません。​この​世の​旅路が​束の間で​あればこそ、​キリスト者は​奮起して​時間を​無駄なく​用いる​よう​努めなければなりません。​主を​恐れるなど​良い​ことであるはずは​なく、​死を​惨めな​破局の​ごとく​考えるに​至っては​もっての​外です。​あれこれ言い回しを​工夫して​詩的に​表現されていますが、​神の​恩寵と​憐れみを​受けて​終える​一年は、​最終的な​祖国である​天国に​一歩近づく​ことに​ほかなりません。

​ このように​考えると、​聖パウロが​コリントの​人たちに​宛てた​書簡の​叫びが​私には​本当に​よく​理解できます。​「時は​短い」1。​この​世での​歩みの​なんと​僅かしか​続か​ぬことか。​筋金入りの​信者の​心には、​寛大な​応えの​不足に​対する​叱責の​声、​忠実を​尽くせと​いう​絶え​間ない​呼びかけと​なって​響きわたる​言葉でしょう。​愛し、​捧げ、​償う​ために、​残された​時間は​実に​短い。​それゆえ、​時間の​浪費は​不正を​働くに​等しく、​時間と​いう​宝を​窓から​捨てるような​無責任は​許されません。​神が​一人​ひとりに​お任せに​なった​人類史の​この​時期を​無駄に​過ごすことなどできないと​申し上げたいのです。

マタイ福音書の​第二十五章を​開いてみましょう。​「天の​国は​次のようにたとえられる。​十人の​おとめが​それぞれともし火を​持って、​花婿を​迎えに​出て​行く。​そのうちの​五人は​愚かで、​五人は​賢かった」2。​賢い​乙女たちは​時間を​よく​活用したと​福音史家は​書いています。​慎重に​前もって​油を​準備していたので、​「『花婿だ。​迎えに​出なさい』と​叫ぶ声が​したら」3、​灯を​大きくし、​大喜びで​花婿を​出迎えます。

​ 最後の​日は​必ずやって​来ます。​しかし、​恐れる​必要は​ありません。​神の​恵みに​信頼しきって​今から​灯を​携えて、​寛大かつ勇敢に​小事を​愛する​心で、​主に​まみえる​日を​待てばよいのです。​天の​国では​盛大な​祝宴が​待っています。​「愛する​兄弟たちよ、​キリストの​婚宴に​あずかるのは​我々である。​すでに​教会を​信じ、​聖書に​養われ、​教会が​神に​一致している​ことを​喜ぶ我々が​招かれているのだ。​それゆえ、​婚宴の​ための​礼服を​身に​着けているか​否か、​注意深く​自らを​省みて​それぞれの​思いを​糾明せよと​勧める」4。​ここであなたが​たに​保証し、​私自身も​再確認したいことが​一つ​あります。​婚宴の​礼服とは​些細で​取るに​足らぬ仕事を​通して​得る​神の​愛、​その​神への​愛で​織った​礼服であると​いう​事実。​小事を​疎かに​せず、​見た​ところ値打ちもなさそうな​事柄に​心を​配るのは​愛する​人の​特徴ではないでしょうか。

喩えの​筋を​追ってみましょう。​愚かな​乙女たちは​どうしたのでしょうか。​最後の​時に​なって​やっと​花婿を​迎える​用意を​始めます。​そして​油を​買いに。​しかし、​後の​祭りでした。​彼女らが​油を​買いに​行っている​間に、​「花婿が​着いた。​用意の​できていた​乙女たちは​花婿と​一緒に​宴席に​つき、​戸は​閉ざされた。​やがて他の​乙女たちが​来て、​『ご主人様、​ご主人様、​どう​ぞお開けください』」5と​叫んだ。​彼女たちが​何もしなかったわけでは​ありません。​少しは​努力したのです。​しかし、​聞こえたのは、​「わたしは​お前たちを​知らない」6と​いう​厳しい​返事でした。​よく​注意して​熱心に​準備すべきことを​知らなかったのか、​あるいは、​準備する​気が​なかったのか。​とにかく、​前もって​油を​買い​入れておくと​いう​当然の​用意を​怠りました。​わずかな​こととは​いえ、​依頼された​事柄を​最後まで​仕上げると​いう​寛大な​心を​持ち合わせていなかったのです。​時間は​充分​あったにも​かかわらず、​活用しなかったのです。

​ 勇気を​出して​自らの​生活を​振り返ってみましょう。​自分に​関係の​ある​仕事、​自らを​聖化する​手段である​仕事を​丹念に​仕上げる​時間が、​とき​どき​見つからないのは​なぜだろうか。​なぜ家庭の​務めを​疎かに​するのだろう。​なぜミサ聖祭に​あずかる​ときや​祈りの​ときに​気が​急くのだろうか。​自らの​義務を​果たすときは​気も​そぞろに​大慌て、​ところが​楽しみの​ためで​あれば​悠々と​時間を​割くのは​なぜだろう。​いずれも​小さな​事柄です。​しかし、​その​小さな​事柄こそ​肝心の​油、​焔と​燃え​上がらせ明る​い灯を​保つために​必要な​私たちの​油なのです。

朝早くから

​ ​「天の​国は、​ぶどう​園の​働き人を​雇う​ために、​朝早くから​出かける​主人の​ようである」7。​これは​すでに​よく​ご存じの​一節でしょう。​主人は​何度か​広場に​出て、​働き人と​契約を​結びます。​ある​人たちは​夜明けに​呼ばれ、​また​ある​人は​日暮れ近くに​招かれました。

​ 全員が​一デナリオンンずつ受け取ります。​「ここで​言う​<デナリオン>とは​約束の​俸給、​つまり神の​似姿の​ことである。​デナリオン貨幣には​王の​像が​刻んであるのだ」8。​これこそ、​私たち一人​ひとりの​事情を​考えてお呼びに​なる​神の​慈しみと​言えるでしょう。​神は​「すべての​人が​救われる​よう」9お望みです。​私たちは​信者の​家庭に​生まれ、​信仰の​うちに​育まれ、​確かに​神の​選びを​受けました。​これも​現実です。​それなら、​たとえ招かれたのが​日暮れ近くであったとしても、​呼びかけに​応える​義務を​知りながら、​時間を​もて余して​日向ぼっこを​する​あの​大勢の​労働者のように、​広場で​暇つぶしを​していて​よい​ものでしょうか。

​ 時間を​持て​余すような​ことが​あっては​なりません。​たとえ一秒たりとも。​別に​誇張するまでもなく​仕事は​山ほど​あります。​世界は​広く、​しかも、​この​広い​世界で​キリストの​教えを​聞いた​ことの​ない​人々が​数限りなく​いるからです。​あなたが​た​一人​ひとりに​話しかけたい。​時間が​余ると​いうのなら​少し​考え直してみようでは​ありませんか。​生温い​状態に​陥っているか、​ひょっと​すれば​超​自然的に​見て、​足が​動かなくなっているのかも​知れない。​あなたは​鎮座を​決めこみ動こうとも​せず、​まるで​実を​なさぬ木のようである。​周囲や​傍に​いる​人々、​職場や​家庭で​共に​毎日を​過ごす​人々に、​幸せを​伝え​広めなければならないのに、​手を​こまねいているのではないだろうか。

たぶん、​あなたは​言うかもしれない。​どうして​私が​努力しなければならないのか。​「キリストの​愛が​わたしたちを​駆り立てる」​10からであると、​聖パウロが​答えてくれます。​愛徳の​領域を​広める​ために​一生は​短すぎるからです。​広い心で​実行する​決心を​立てて欲しいので、​倦まず弛まず次のように​繰り返してきました。​「互いに​愛し合うならば、​それに​よってあなたが​たが​わたしの​弟子である​ことを、​皆が​知るようになる」11。​ほか​でもない​この​愛徳を​みて、​人々は​私たちがキリスト者である​ことを​認めるでしょう。​どのような​活動に​従事するにしても、​信者の​活動の​出発点は​愛徳ですから。

​ キリストは​純潔この​上ない方でしたが、​清い​生活こそ​弟子と​認められる​ための​しるしであるとは​仰せに​なりませんでした。​主は​節制に​徹した​お方で、​枕する​ところもなく​12​何日も​祈りと​断食13で​過ごされましたが、​「あなたたちが​大食漢や​大酒飲みでなければ、​人々は​あなたたちを​わたしの​弟子であると​認めるであろう」とも、​仰せに​なりませんでした。

​ いつに​なっても​同じことが​起こります。​過去に​おいても​キリストの​清らかな​生活は、​今も​よく​見られるように、​腐敗した​当時の​社会に​大きな​平手打ちを​食わせました。​宴会に​明け暮れる​人々、​食っては​吐き、​吐いては​食う​輩、​「神は​自分の​腹である」14と​いう、​サウロ​(パウロ)の​言葉を​自ら地で​行くが​ごとき​人々に、​キリストの​節制は​鞭打ちのような​衝撃を​与えました。

私事にかまけて​一生を​過ごす当時の​人々に​とって、​主の​謙遜は​もう​一つの​衝撃と​なりました。​私が​口―マに​住みついてから​何度も​繰り返したので、​もう​お聞きに​なったことが​あるかもしれません。​今日では​廃墟と​なった​あの​凱旋門の​下を、​自惚れと​傲慢と​思い​上がりで​膨れあがった​勝利者や​皇帝や​将軍たちが​行進した​ものです。​壮大な​アーチを​通り抜ける​ときに​威厳に​満ちた額を​ぶつけまいと​少し​頭を​下げて。​ところで​謙遜​その​ものである​キリストは、​「あなたたちが​謙遜で​慎み深いなら、​わたしの​弟子であると​認められるであろう」とも、​おっしゃらなかったのです。

​ 注目して​欲しい​ことがあります。​それは、​二十世紀を​経た​今も、​先生である​主の​掟は​新しい​掟と​しての​力を​維持している​のみならず、​本当に​神の​子である​ことを​示す紹介状の​役割を​果たすと​いう​事実です。​司祭生活を​通して、​私は​実に​何度も​繰り返し説いてきました。​遺憾ながら​この​<新しい​>掟の​実行に​努力を​傾ける​人は​皆無に​等しい。​従って、​この​掟は​相変わらず​<新しい​>掟です。​嘆かわしい​限りですが、​これが​現実です。​救い主の​言葉には、​紛う方​なき明白さが​あります。​「互いに​愛し合うならば、​それに​よってあなたが​たが​わたしの​弟子である​ことを、​皆が​知るようになる」。​だから​こそ、​この​主の​言葉を​絶えず​想い​起こす必要を​感じるのです。​聖パウロは​言葉を​続けています。​「互いに​重荷を​担いなさい。​そのように​してこそ、​キリストの​律法を​全う​する​ことに​なるのです」15。​時間は​余っていると​自分を​偽って​時間を​浪費する​あなた、​けれども、​仕事に​追われて​困り果てる​兄弟や​友人が​大勢いるのではないでしょうか。​礼を​失せぬよう優しく​微笑みながら、​相手が​気づかぬよう、​さり​気なく​手を​貸してあげましょう。​相手が​感謝する​必要を​感じない​ほど、​あなたの​愛徳が​慎み深く、​さり​気なく、​人目を​引か​ぬものであるように。

​ 油の​ない​灯を​携えて​行く​あの​かわい​そうな​乙女たちは、​自由な​時間は​なかったと​弁解する​ことでしょう。​広場の​男たちは​ほとんど​一日​中​時間を​持て​余していました。​主は​朝早くから​急きたてるように​して​人を​お探しに​なったのに、​彼らは​手助けの​必要さえ​感じなかったからです。​主の​求めや​要求には​快く​応じたい​ものです。​「一日の​労苦と​暑さ」​16を​愛ゆえに​忍びましょう。​とは​言え、​愛が​あるなら​忍ぶ必要も​ないでしょう。

神に​役立つように

​ 今度は​喩え話に​登場する​人物に​ついて​考えてみましょう。​「ある​人が​旅行に​出かける​とき、​僕たちを​呼んで、​自分の​財産を​預けた」17。​主人は、​留守中、​財産を​管理するように、​僕の​一人​ひとりに​異なる​金額を​託します。​一タラントン預かった​男の​行動に​注目しましょう。​彼は​ずるい態度を​とりました。​あまり​切れない頭で​考えた​末に、​「土を​掘って、​主人の​金を​埋め​(る)」​18ことに​決めました。

​ 仕事の​元手を​放棄してしまった​この​男は​何を​しようと​思ったのでしょうか。​無責任にも、​預かった​ものを​そのまま​返すと​いう​楽な​道を​選びます。​一分​一秒は​言うに​及ばず、​長い​歳月、​果ては​自分の​一生までも​虚しく​費やす​ことでしょう。​他の​僕は、​正直に​運用して​得た​利益を​加えて​預かった以上の​金額を​主人に​渡そうと、​高潔な​態度で​必死に​商売に​励みます。​主人の​言葉は​明々​白々であったからです。​「わたしが​帰って​来るまで、​これで​商売しなさい」​19、​主人が​戻ってくるまでに​責任を​もって​収益を​あげよ。​ところが​一タラントンの​男は​言い​付けを​守らず、​無益な​時を​過ごしてしまいました。

時間潰しが​本業であるかのように​日々を​送ると​すれば、​人生は​何と​勿体ない​ことでしょう。​時間とは​神から​授かる​宝ですから、​このような​態度に​弁解の​余地は​ありません。​「一タラントンしかなくても​功徳を​積むことができるのだ」​20。​多少の​差こそ​あれ、​神が​人々に​お与えに​なった能力を、​人々と​社会に​貢献する​ため、​充分に​発揮しないと​すれば​何と​残念な​ことでしょう。

​ キリスト者で​ありながら​時間を​<潰す>なら、​自らの​殻に​閉じこもり、​責任を​逃避して​無関心に​なるならば、​天国を​<潰す>危険を​冒すことになります。​ところで、​神を​愛する​人は​所有物のみならず、​自分​自身を​も捧げます。​健康や​名前や​経歴に​おいて​自分の​ことしか​考えないと​いう​卑しい​態度は​とらないのです。

​ 大勢の​人々は​いつも、​「私の…、​私の…」と​考えたり、​言ったり、​行ったりしています。​自分の​こと​以外は​何の​関心も​ないかのようです。​何とも​耐え難い​態度では​ありませんか。​聖イエロニモは​書いています。​「『罪の​言いわけを​探すために​…』(詩編140・4)と​いう​聖書の​言葉は、​傲慢の​罪に​加えて​不注意や​怠慢の​罪を​犯す​人々に​おいて、​文字通り実現する」​21と。

「私の、​私の…」と​終始叫ばせるのは​傲慢の​なせる​わざです。​この​悪徳に​とり憑かれると、​人は​役立たずと​なり、​神の​ために​働く​熱意を​そがれて​時間を​浪費してしまいます。​能率の​悪い​生活を​しては​なりません。​わが​ままを​退治しましょう。​自分の​一生だから​どうしようと​勝手だと​言うのですか。​実は、​あなたが​生を​享けたのは​神の​ため、​また​主への​愛ゆえに​人々に​役立つためなのです。​埋めてしまった​タラントンを​掘り出し、​もっと​利潤の​上がる​運用方​法を​採用する​よう、​ぜひ勧めたいと​思います。​勧めに​従ってくださる​なら、​この​超自然の​事業を​営むに​当たって、​人々に​賞賛されるような​立派な​仕事を​残すか​否かは​問題で​ない​ことが​お分かりに​なるでしょう。​大切なのは、​自らの​存在も​所有物も​一切捧げる​こと、​才能を​充分に​生かすよう努力する​こと、​よい​成果を​あげるよう​常日頃から​頑張り通す​ことであるからです。

​ 神に​仕える​ために​もう​一年が​与えられるかもしれません。​しかし、​五年先、​いや​二年先の​ことすら​考える​必要は​ありません。​歩み始めた​この​一年に、​まず集中するのです。​土の​中に​埋めないで、とにかく​この​一年を​お捧げしましょう。​これが​私たちの​決意であるべきです。

ぶどう畑で

​ ​「ある​家の​主人が​ぶどう​園を​作り、​垣を​巡らし、​その​中に​搾り場を​掘り、​見張りの​やぐらを​立て、​これを​農夫たちに​貸して​旅に​出た」22。

​ この​喩えを​今わたしたちが関心を​もつ​角度から​黙想してみましょう。​聖伝は​この​教えに、​神の​選ばれた​民の​辿る​運命の​象徴を​読み取り、​主の​愛に​対して​人間は​いかに​不忠実な​応え方を​してきたか、​また、​いかに​感謝に​欠けていたかを​示してきました。

​ 具体的に​「旅に​出た」と​いう​点に​ついて​考えてみましょう。​私たちは​主から​派遣された​働き人ですから、​このぶどう​園を​見捨てるわけには​いかないと​いう​結論が​すぐに​引き出されます。​ぶどう​園の​仕事に​精を​出しましょう。​垣の​中や​酒船で​働き、​一日の​仕事を​終えると​櫓で​休息します。​安逸を​むさぼる​人は​キリストに​向かって​口答えするに​等しいと​言えるでしょう。​「私の​一生は​私の​ものであって、​あなたの​ものではない。​ぶどう​園の​手入れなど​ご免こうむりたい」と。

生命、​感覚、​能力など​数知れぬ恩寵を​主は​与えてくださいました。​ですから、​農園で​働く​大勢の​農夫の​一人と​しての​立場を​忘れる​わけには​ゆきません。​人々に​食物を​運ぶ仕事に​協力させる​ため、​神は​私たちを​雇ってくださったのです。​ここに​私たちの​持ち場が​あります。​それゆえ、​この​農園の​垣の​中で、​日々、​自らを​擦り減らすまで​主の​救いの​わざに​協力23しなければなりません

​ く​どいようですが、​もう​一度​申し上げたい。​あなたの​ための​あなたの​時間などと​言わないで​欲しい。​あなたの​時間は​神の​ためなのです。​神の​慈しみの​おかげであなたは​まだ​ひどい​利己主義には​侵されていない​ことでしょう。​しかし、​こう申し上げるのは、​キリストヘの​信心が​心の​中で​動揺する​ときが、​いつか​あるかもしれないと​思うからです。​万が​一、​このような​状態に​陥った​ときには、​遠方に​逃げ出したいなどと​軽率に​考えたり、​脱走したりせずに、​自らの​義務に​対する​忠実を​保ち、​高慢を​抑え、​想像を​コントロールして​ほしい。​これが​私の​望みであり、​神が​あなたに​お求めに​なる点です。

​ 広場の​労働者たちは​一日​中​時間を​持て​余し、​タラントンを​土の​中に​埋めた男は​時間を​潰してしまいました。​また、​ぶどう​園を​管理するは​ずだった​人も​どこかに​消えてしまう。​全員に​共通して​言える​ことは、​師キリストから​委ねられた​偉大な​仕事に​対する​鈍感な​態度です。​主に​協力して​世を​贖う​ために、​自らが​その​道具であると​自覚し、​道具に​ふさわしい​態度を​示す、​つまり、​人々に​役立つために​喜んで​全生涯を​捧げねばならないにも​かかわらず。

実を​つけない​無花果

ベタニアから​お帰りに​なった​イエスが​空腹であったと記すのも​聖マタイです24。​イエスの​姿を​見ると​いつも​心を​動かされますが、​真の​神で​ありながら真の​人性を​有する方の​人間性が​表に​現れる​とき、​特に​心を​揺り​動かされる​思いが​します。​そのような​時の​イエスは、​私たちの​生まれつきの​弱さや​惨めさに​至るまですべてを、​そっくり​そのまま、​燔祭を​喜んでくださる​神に​捧げなさいと​教えてくださるからです。

​ ​空腹を​お感じに​なりました。​それも​全宇宙の​創造主、​天地万物の​主である​御方が。​主よ、​神の​霊感を​受けた​福音史家が​あなたの​この​一面を​書き残してくれた​ことを​感謝しています。​今後、​一層あなたを​お愛ししなければならないと​痛感させ、​あなたの​至聖なる​人性、​私たちと​同じ​生身の​人、​「完全な​人であり、​真の​神である方」​25を、​鮮明に​目に​浮かべながら​黙想したいと​いう​強い​望みを​抱かせてくれるからです。

働きずくめの​一日を​終え、​翌朝早く​町へ​帰る​途中、​イエスは​空腹を​覚えられた。​遠くに​見事に​生い​茂る​無花果の​木が​見えたので​飢えを​満た​すために​近づかれます。​聖マルコに​よると​「いちじくの​季節では」26ありませんでした。​実の​ならない​季節である​ことは​ご存じでしたが、​イエスは​近寄って​実を​取ろうとなさったのです。​葉を​沢山生い​茂らせ、​いかにも​実を​つけているかのように​見えた​その​木に、​一つと​して​実の​ない​ことを​ごらんに​なった​主は、​「今から​後いつまでも、​お前から​実を​食べる​者が​ないように」27と​仰せに​なりました。

​ 以後​決してお前から​実を​食べる​者が​ないように!​何とも​厳しい​言葉では​ありませんか。​弟子たちの​驚きは​いかばかりだったでしょう。​英知の​神の​言葉である​ことを​考えれば、​な​おさらの​ことです。​イエスは​木を​呪ったのです。

​ 枝葉だけを​茂らせた​見せかけだけで、​実は​なかったからです。​これで、​効果を​上げえない​自分を​弁解する​余地の​ない​ことが​明らかに​なりました。​「まだ​私は​知識不足ですから…」と​言う​人が​いるかもしれませんが、​理由には​なりません。​「病気ですから…」、​「あまり​才能に​恵まれていない​ものですから」、​「条件が​揃いません」、​「環境が​悪いから」、​いずれも​弁解と​しては​通用しません。​偽りの​使徒職と​いう​枝葉だけで​自分を​飾りたてる​人、​真面目に​成果を​上げようと​せず、​外見のみ​生活を​充実させているように​繕う​人、​いずれも​かわい​そうな​人々では​ありませんか。​やたらと​動き​回って​組織作りに​精を​出して、​万能薬のような​解決法を​考案しようと​計画ばかり立てる​人々、​彼らも​時間を​活用している​振りは​するが、​成果を​上げる​ことができない。​超自然の​樹液が​なければ、​実を​つける​ことは​できないのです。

​ 常に​効果を​上げる​ために、​勇敢な​心構えを​もって​働く​ことができるよう、​主に​お願いしましょう。​近寄ってみると​輝くばかりの​大きな​葉のみの​人、​けばけばしい​飾り以外は​何もない​人が、​この​世には​大勢いるからです。​神への​飢えを​満たして​欲しいと​いう​思いを​込めて、​私たちを​待っている​人々が​います。​たとえ弱い​ところだらけの​私たちでは​あっても、​教えは​よく​知っており、​神の​恩寵が​欠ける​こともありません。​必要な​手段は​すべて​持っている​ことを​忘れる​わけには​ゆか​ないのです。

再び​思い出してください。​「時は​短い」​28、​しかも、​わずかの​時間しか​残っていないのです。​この​世での​生活は​束の​間です。​しかし、​時間の​活用に​必要な​手段は​すべて​揃っていますから、​神が​お与えに​なった​機会を​利用するには​善意さえ​あれば​よいのです。​主が​この​世に​おいでになって​以来、​私たちと​すべての​人々の​「恵みの​日、​救いの​日」​29が​始まりました。​父なる神は​ご自分の​怒りを​エレミヤに​託されました。​「空を​飛ぶこうのとりも​その​季節を​知っている。​山鳩も​つばめも​鶴も、​渡る​ときを​守る。​しかし、​わが​民は​主の​定めを​知ろうとしない」30と。​このような​怒りが​私たちに​向けられる​ことの​ないように、​全力を​挙げて​努力したい​ものです。

​ 時期は​ずれや​厄日は​存在しません。​神に​仕えるには、​毎日が​絶好の​日なのです。​厄日とは、​信仰の​不足や、​神と​共に​神の​ために​働くのを​厭う、​怠惰と​怠慢に​よって​台なしに​してしまう​日々の​ことです。​「どのような​ときも、​わたしは​主を​たたえ​(る)」31。​時間は、​険しい​岩壁を​つたう​水のように​指の​間を​すり抜けて​消える​宝、​訪れては​去りゆく​宝です。​昨日は​過ぎ去り、​今日も​去りつつあります。​明日と​いう​日も​間もなく​昨日に​なってしまう。​人の​一生とは​短い​ものです。​しかし、​神の​愛の​ためで​あれば、​わずかな​時間しか​なくても​沢山の​ことを​成就できるのです

 どれほど​知恵を​しぼって​弁解しようとも​無益な​ことです。​神は​寛大の​限りを​尽くして、​忍耐強く​諭し、​喩え話で​掟を​説明してくださいました。​しかも​休みなく​繰り返してくださいます。​フィリポに​言われた​ことは、​そのまま​私たちに​向ける​ことができるのではないでしょうか。​「こんなに​長い間​一緒に​いるのに、​わたしが​分かっていないのか」32。​一日中、​時間を​浪費しないで​真剣に​働き、​「一日の​労苦と​暑さ」​33を​喜んで​忍ぶ時が​もう​到来しています。

御父の​こと

​ ルカ福音書の​第二章は​今日の​黙想の​締めくくりに​最適と​思われます。​キリストの​少年​時代の​こと、​エルサレムからの​帰途の​出来事です。​親戚や​友人の​間を​捜しても​キリストの​姿は​見当たりません。​聖母と​ヨセフの​心痛は​いかばかりだったでしょう。​そして、​後に​なって、​イスラエルの​学者たちに​教えを​垂れる​イエスを​遠くから​認めた​ときの​二人の​喜び。​ところで、​母マリアの​質問に​対する​イエスの​厳しい​言葉に​注目しなければなりません。​「どうして​わたしを​捜したのですか」34。

​ 御子を​捜し回って​当然ではなかったのでしょうか。​キリストを​見失い、​また、​キリストに​巡り会うとは​どういう​ことかを​知っている​人なら、​この​意味が​分かるはずです。​「どうして​わたしを​捜したのですか。​わたしが​自分の​父の​家に​いるのは​―父の​ことに​従事するのは​―当たり前だと​いう​ことを、​知らなかったのですか」35。​天の​御父の​ために​私の​時間を​余す​ところなく​捧げるべきことを​知らなかったのですか。

ここで​本日の​結びと​して、​次のような​確信を​もちたい​ものです。​この​世に​おける​私たちの​歩みは、​どのような​時期、​どのような​情況のもとに​ある​ときでも、​神の​ためであり、​栄光の​宝、​天国の​前庭である。​また、​それは​神と​人の​前で​責任を​もって​管理すべく​任せられた​素晴らしい宝である。​しかも、​身分を​変える​必要は​なく、​社会に​あって​自らの​職業、​仕事、​家庭生活、​交際を​はじめと​して​現世的としか​見えない​あらゆる​活動を​聖化してゆけばよいと。

​ オプス・​デイを​通して​神に​仕えるべきことが​明確に​理解できた​とき、​私は​二十六歳でしたが、​その​とき​私は​主に、​「八十歳の​威厳を​ください」とお願いしました。​神に​仕える​ため時間を​上手に​使いたい、​たとえ一秒でも​無駄に​せず​充分に​活用せねばならぬと​思い、​子供のように​天真欄漫に、​もっと​年を​とらせてくださいと​願いました。​神は​このような​願いを​聴き入れてくださいます。​私たちも​次のような​言葉を​口に​する​ことができると​思うのです。​「定めを​あなたの​守る​わたしは、​老人に​まさる​知恵を​受ける」36。​白髪を​くしけずる​ことが​賢慮や​賢明を​意味しないように、​若さは​無分別を​示す​言葉では​ありません。

​ キリストの​御母のもと​へ​駆けつけましょう。​イエスの​成長を​見守った​マリアよ、​あなたは​イエスが​この​世に​生活しておられた​とき、​いかに​時間を​活用なさったか​よく​ご存じです。​教会と​人々に​仕える​ために​与えられた​日々を​巧く​活用するには、​どう​すれば​良いのでしょうか。​どうか、​お教えください。​優しい​母よ、​私の​時間は​私の​ものではなく、​天の​御父の​ものである​ことを​忘れないよう、​必要な​ときには​いつも​優しく​咎めてください。

この章を他の言語で