王であるキリスト

1970年11月22日 王であるキリストの祝日


典礼暦年も​終わりに​近づき、​まもなく​読まれる​序唱1に​あるように、​いけにえである​キリスト・成聖と​恩恵の​王・正義と​愛と​平和の​王を、​祭壇上の​犠牲に​おいて​再び御父に​献げます。​私たちの​主の​聖なる​人性を​考えると、​大きな​喜びを​心に​感じる​ことでしょう。​主は​天地万物の​創造主ですが、​私たちと​同じような​生身の​心を​持った​王なのです。​しかも、​支配を​押しつけようとはなさらずに、​静かに​傷ついた​手を​お見せに​なり、​僅かな​愛を​嘆願しておられるからです。

​ それなのに、​なぜかくも​多くの​人が​知らない​顔を​するのでしょうか。​「我々は​この​人を​王に​いただきたくない」2と​いう​ひどい​抗議が、​なぜ​人々の​口から​出るのでしょうか。​この​世には、​イエス・キリストに​このように​立ち向か​おうと​する​人々、と​いうよりも、​キリストを​知らず、​その顔の​美しさも、​その​教えの​素晴らしさも​知らないのですから、​正確に​言うと、​イエス・キリストの​幻影に​立ち向か​おうと​する​人々が​何百万といます。

​ こういう​悲しい​有様を​みると、​主に​償いを​しなければならないと​感じます。​主に​反抗する​叫びが​止まる​ところを​知らず、​それも​声だけでなく​およそ​高尚とは​言えない​行いを​伴った​ものであるのを​見ると、​大声で​叫ぶ必要を​感じるのです。​「キリストは​(…)、​国を​支配される​ことになっている」3と。

​キリストに​逆らう

​ キリストの​支配を​潔しとしない​人が​大勢います。​人間観や​世界観に​関して、​習慣や​学問、​芸術に​おいて、​あらゆる​方法で​主に​反抗するのです、​教会の​中で​さえも。​聖アウグスチヌスが​言っています。​「キリストを​冒瀆する​極悪人の​ことを​言っているのではない。​事実、​舌で​冒瀆する​人々は​あまりいない。​しかし、​その​行いを​もって​冒瀆する​人々の​なんと​多い​ことか」4。

​ ある​者は​言葉だけに​こだわり、​〈王である​キリスト〉と​いう​表現に​さえ​不愉快な​顔を​します。​キリストのみ​国と​言えば、​政治的な​意味と​混同されるのではないか、​あるいは、​主の​王権を​認めれば​法も​認めなければならないのではないかと​考えるからでしょう。​彼らは​法律嫌いなのです。​神の​愛に​近づく​ことを​望まず、​自己愛を​満足させる​野望だけしか​持っていない​ものですから、​深い愛の​こもった​掟で​さえ​受け入れないのです。

​ 私は​仕えます、と​無言の​うちに​叫ぶように、​もう​随分​前から​主が​私を​急き立てておられます。​社会に​あって、​自然に​地味に​物静かに​依託したい、​主の​呼びかけに​忠実で​ありたいと​望む熱心な​心を​神が​増してくださいますように。​心の​底から​お礼を​申し上げ、​臣下の​祈り、​子の​祈りを​主に​捧げましょう。​そう​すれば、​舌と​口は​乳と​蜜に​満たされ、​主が​獲得してくださった​自由5、​その​自由のみ​国、​神の​国に​思いを​馳せて、​甘美な​味わいを​得る​ことでしょう。

宇宙の​主である​キリスト

 ベトレヘムで​お生まれに​なった​愛すべき幼子キリストが、​宇宙の​主である​ことを​考えてみたいと​思います。​天と​地の​ありと​あらゆる​ものは​すべて​彼に​よって​創られたのです。​キリストは​十字架上で​血を​流すことに​よって、​天と​地の​間に​平和を​確立し、​すべてを​御父との​和解に​導かれました6。​今、​キリストは​御父の​右に​座して​支配しておられます。​白衣を​身に​つけた​二位の​天使が、​主の​昇天後に​茫然と​雲を​眺めている​使徒たちに​言います。​「ガリラヤの​人たち、​なぜ天を​見上げて​立っているのか。​あなたが​たから​離れて天に​上げられた​イエスは、​天に​行かれるのを​あなたが​たが​見たのと​同じ​有様で、​また​おいでになる」7。

​ ​「わたしに​よって​王は​君臨」8する。​しかし、​王たちや​この​世の​権力は​過ぎ去るのに​反して、​キリストの​王国は​「代々​限りなく​統べ治められ」9、​「その​支配は​永遠に​続き、​その国は​代々に​及ぶ」​10のです。

​ キリストのみ​国とは、​単なる​言い​回しでも、​修辞上の​比喩でもありません。​キリストは、​人間と​しても、​託身​(受肉)に​おいて​おとりに​なった​体を​もって​生きておられます。​十字架に​付けられ、​復活された​御方は、​〈み言葉〉である​ペルソナに​おいて​霊魂と​共に、​栄光を​受けて​生きておいでになります。​まことの​神まことの​人である​キリストが、​生き、​支配しておられるのです。​キリストは​宇宙の​主であり、​生きとし生ける​ものの​存在を​支えてくださいます。

​ それなのに​どうして、​今、​栄光に​輝く​姿を​お現しに​ならないのでしょうか。​なんと​なれば、​キリストのみ​国は、​この​世に​あっても、​この​世には​属していない​11からです。​イエスは​ピラトに​お答えに​なりました、​「わたしが​王だとは、​あなたが​言っている​ことです。​わたしは​真理に​ついて​証しを​する​ために​生まれ、​その​ために​この​世に​来た。​真理に​属する​人は​皆、​わたしの​声を​聞く」12。​目に​見える​現世的な​権力を​メシア​(救い​主)に​求めた​人たちは、​期待を​裏切られました。​「神の​国は、​飲み食いではなく、​聖霊に​よって​与えられる​義と​平和と​喜びなのです」13。

​ キリストのみ​国とは、​真理と​正義、​すなわち聖霊に​おける​平和と​喜びであり、​人間を​救い、​歴史が​全う​される​ときに​頂点に​達する​神の​働きです。​み国の​主は​天国の​いと​高き所に​座し、​人間を​最終的に​裁く​ために​おいでになるのです。

​ キリストが​地上で​福音を​宣べ伝え​始められた​とき、​政治的な​活動方​針を​お示しにはならず、​「悔い​改めよ。​天の​国は​近づいた」14と​仰せに​なり、​よき福音を​宣べ伝えるように​弟子たちに​命じ15、​み国が​来ますように​16との​祈りを​もってお願い​するよう​お教えに​なりました。​まず​求めなければならない​もの​17、​実に​ただ​一つ​必要な​こと​18、​それは、​神の​国と​その​正義、​聖なる​生活なのです。

​ 私たちの​主イエス・キリストが​宣べ伝えた​救いとは、​すべての​人々を​対象とした​招きです。​「天の​国は、ある​王が​王子の​ために​婚宴を​催したのに​似ている。​王は​家来たちを​送り、​婚宴に​招いておいた​人々を​呼ばせた」19。​ですから​主は、​「神の​国は​あなたが​たの間に​あるのだ」​20とお教えに​なったのです。

​ キリストの​愛の​要請に​自由に​従えば、​すなわち、​新たに​生まれ21、​子どものように​素直に​なり22、​神から​離れさせる​もの​すべてを​心から​遠ざける​ならば​23、​救われない​人は​いません。​イエスは、​言葉だけでなく、​行いを​望んで​おられます24。​また、​大胆な​努力を​待っておられるのです。​戦う​者だけが​天の​国を​継ぐに​価する​25ものとなる​ことができるからです。

​ み国の​完成、​つまり​救いか​滅びかを​決める​最終的な​裁きは​この​世ではなされません。​み国は​今、​種蒔き26の​時期であり、​成長しつつある​一粒の​芥子種27であって、​その​終わりは、​地引網で​引き上げる​漁に​たとえる​ことができます。​網が​砂浜に​引き上げられ、​正義を​行った​人々と​悪を​働いた​人々は​分けられて​それぞれの​運命に​従います28。​しかし、​私たちが​この​世に​生きている​間の​天の​国とは、​女の​人が​とって​三斗の​粉の​中に​入れると​膨らんだ​パン種29であると​言えるでしょう。

​ キリストが​お教えに​なるみ国の​何たるかを​理解できる​人なら、​すべてを​かけても​その国を​手に​入れようと​するはずです。​天の​国は​畑に​隠されている​宝の​如きもので、​宝を​見出した​人は​全財産を​投げ売っても​それを​手に​入れようとするのです30。​天の​国を​得るのは​困難な​ことです。​確かに​手に​入れると​保証されている​人は​誰もいないのですから​31。​しかし、​痛悔の​心を​もつ​人の​謙遜な​叫びなら、​天国の​扉を​広く​大きく​開く​ことも​できます。​キリストと​共に​十字架に​付けられた​悪人の​一人は、​主に​願いました。​「『イエスよ、​あなたの​御国に​おいでになる​ときには、​わたしを​思い出してください」と​言った。​すると​イエスは、​『は​っきり​言っておくが、​あなたは​今日わたしと​一緒に​楽園に​いる』と​言われた」32。

心の​中のみ​国

 主なる​神、​なんと​偉大な​お方でしょう。​あなたこそ​私たちの​生活に​超自然の​意味と​神的な​効果を​お与えに​なる方です。​自己の​弱さが​耳に​響く​ときにも、​御子の​愛ゆえに​全力を​あげ、​全身​全霊を​込めて、​「かれは​栄えなければならない」と​叫ぶことができるのは​あなたの​おかげです。​私たちが​足ばかりでなく​33、​心も​頭も​泥で​できている​被造物 ― なんと​いう​被造物でしょう​ ― である​ことを​あなたは​ご存じですから。​ただ​あなたに​よって​のみ、​私たちは​超自然の​生活を​続ける​ことができるのです。

​ キリストが​支配なさるのは、​何よりも​まず、​私たちの​心です。​しかし、​どのように​してお前を​支配させる​つもりなのかとお尋ねに​なると​すれば​どう​答えましょうか。​私なら次のように​答えるでしょう。​キリストの​支配を​実現させる​ためには、​豊かな​恩恵が​必要です、と。​恩恵の​助けが​あればこそ、​最後の​鼓動、​臨終の​ときの​一息、​ぼんやりと​した​視線、​ありふれた​言葉、​最も​人間的な​感情に​至るまで、​王である​キリストに​対する​ホザンナに​変える​ことができるのです。

​ キリストの​支配を​望むなら、​心を​主に​捧げる​ことから​始めて、​終始、​首尾一貫した​態度を​とるべきです。​もしそうしないなら、​キリストのみ​国に​ついて​話しても、​キリスト教的な​内容の​何も​ないただの​叫び、​ありも​しない​上辺だけの​信仰、​さらには、​人間的で​いい​加減な​仕事の​ために​神の​名を​偽って​利用する​ことに​なりかねません。

​ イエスが​私の​心や​あなたの心を​支配なさる​ために、​それに​相応しい​場を​整えなければならないと​いうのであれば、​諦めてしまって​当然でしょう。​しかし、​「シオンの​娘よ、​恐れるな。​見よ、​お前の​王が​おいでに​なる、​ろばの​子に​乗って」34 。​おわかりでしょう。​イエスは​わずか​一匹の​動物を​玉座と​する​ことで​満足しておられます。​皆さんは​どう​お思いでしょうか。​主のみ前に​あって​ロバのような​者だと​知っても、​私は​別に​恥ずかしく​ありません。​「わたしは​あなたの前で​ロバ​(獣)のように​ふる​まった。​あなたが​わたしの​右の​手を​取ってくださるので、​常に​わたしは​みもとにとどまる​ことができる」35。​あなたが​手綱を​引いてくださるからです。

​ 最近​ロバは​次第に​減ってきましたが、​その​特徴を​考えて​ご覧なさい。​思いだに​しない​ときに​人を​蹴とばし、​不満の​声を​上げる​年老いた​頑固な​ロバではなくて、​アンテナのように​ピンと​張り​切った​耳を​もち、​粗食に​耐えて​よく​働き、​しっかりと​した​軽やかな​足並みを​みせる​若い​ロバの​ことです。​ロバよりも​ずっと​美しく、​器用で​野性味に​富んだ​動物が​たくさんいます。​しかし、​キリストは、​ご自分を​求める​民に​王と​しての​姿を​見せる​ために、​ロバに​目を​留められたのです。​と​いうのも、​イエスは​計算づくめの​ずるさ、​冷酷な心、​中身の​ない​上辺だけの​美しさなどに​対して​話す術を​お持ちに​なりません。​わが​主は、​若々しい​心の​喜び、​気どりの​ない​歩み、​作り声ではない声、​清らかな目、​愛情の​こもった​言葉に​すぐ​聞き入る​耳を​尊重されます。​これが​主の​支配の​意味です。

仕えつつ支配する

​ キリストの​支配に​心を​任せれば、​私たちは​人々の​支配者にではなく、​奉仕者と​なる​ことでしょう。​奉仕、​これは、​私の​好きな​言葉です。​王である​お方に​仕え、​この​王ゆえに、​その血に​よって​贖われた​すべての​人々に​仕える​こと。​キリスト信者が​奉仕の​精神を​学ぶことができればと​思います。​私たちの、​この​奉仕の​精神を​学ぶ決心を​主に​打ち明けて​助けを​お願いしましょう。​奉仕する​ことに​よって​のみ、​キリストを​知り、​愛し、​また​キリストを​人々に​知らせ、​人々が​もっと​キリストを​愛するようになるからです。

​ しかし、​人々に​キリストを​知らせる​方​法とは​どのような​ものでしょうか。​何を​するにも、​自ら​進んで​キリストに​隷属する​ことに​よって、​主の​証人と​なる、​つまり​模範を​示すのです。​主は、​生活の​あらゆる​面に​おける​主であり、​人間の​存在の​唯一究極の​理由です。​その​後、​つまり​模範を​もって​キリストの​証人と​なって​はじめて、​言葉で​教えを​説く​ことができるのです。​そして、​これが​キリストの​やり方でした。​「イエスが​行い、​また​教え​始めて​(…)」36。​キリストは​まず​行いに​よって​模範を​示し、​その後で、​神の​教えを​述べたのです。

​ キリストゆえに​人々に​仕えるには​徹底的に​人間的に​なる​必要が​あります。​万一​私たちの​生活が​非人間的で​あれば、​神は​何を​建てることもなさらないでしょう。​普通は、​無秩序や​利己主義、​権力などの​上には​何も​建設なさらないからです。​皆を​理解し、​誰とも​平和に​暮らし、​誰の​過失も​追及せず赦さなければなりません。​不正な​ことを​正しいとか、​神への​侮辱を​侮辱ではないとか、​悪を​善であると​言うのでは​ありません。​しかし、​悪に​悪を​返すのではなく、​明確な​教えと​善い​行いを​返す、​つまり善を​もって​悪を​制する​37ことに​したいのです。​このように​すれば、​私たちの​心と​周囲の​人々の​心は​キリストの​支配を​容易に​する​ことでしょう。

​ 自らの​心に​神の​愛を​抱かず、​また神の​愛ゆえに​人に​仕える​ことを​せずに、​この​世に​平和を​築こうとする​人が​います。​しかし、​このような​仕方で​平和を​もたらす​使命を​果たす​ことなどできるでしょうか。​キリストの​平和とは​キリストのみ​国の​平和の​ことです。​しかも、​わが​主のみ​国の​基礎と​なるのは​聖性への​望みと、​恩恵を​受け入れる​ための​謙遜な​心構え、​正義にかなった​行いに​努力を​傾け、​神が​なさるように​惜しみなく​愛を​〈振り撒く​〉生活なのです。

全活動の​頂点に​キリストを

​ これは​夢物語ではなく、​実現可能な​目標です。​ただし、​すべての​人々が​神の​愛を​心に​留める​決心を​しなければなりません。​主キリストは​十字架に​付けられ、​十字架の​高みから​神と​人間との​間に​平和を​確立する​ことに​よって​世を​救われました。​イエス・キリストは​すべての​人々に​教えておられます。​「わたしは​地上から​上げられる​とき、​すべての​人を​自分の​もと​へ​引き寄せよう」38。​ もしあなたたちが​その​時々の​義務を​果たし、​大きな​ことであれ小さな​ことで​あれ、​何事に​おいても​わたしの​証人に​なることに​よって、​この​世の​全活動の​頂点に​私を​据える​ならば、​「すべての​人を​自分の​もと​へ​引き寄せよう」。​こうして、​わたしの​国は​あなたたちの​間に​実現するだろう。

​ 主キリストは、​人間と​全被​造界、​この​善き世界を​救う​ために​努力を​続けておられます。​この​世界は​神の​手に​よって​創られた​善い​世界です。​しかし、​アダムの​罪、​人間の​高慢の​罪に​よって、​神が​被造界に​お与えに​なった​調和が​崩れてしまいました。

​ けれども​時が​満ちた​とき、​父である​神は​御独り子を​遣わし、​御子は​聖霊の​業に​よって、​終生おとめである​聖マリアの​胎内で​人となられました。​そうな​さったのは、​平和を​もたらし、​人を​罪から​救い、​それに​よって​私たちを​神と​親しく​交わる​ことのできる​「神の​(養)子」​39に​する​ためでした。​こうして、​人と​神との​和解を​もたらした​40キリストに​おいて​すべての​ものを​回復させ、​全宇宙を​無秩序な​状態から​解放する​仕事を​41、​新しい​人・神の​子と​いう​新しい​枝42、​つまり​人間に​お与えに​なったのでした。

​ 私たちキリスト者は​その​ために​召されました。​キリストのみ​国を​実現させて、​これ以上​憎しみも​残酷な​こともないように、​また​この​世に、​穏やかだが​強烈な​愛の​香りを​浸透させる​努力を​する​こと、​これこそ​使徒職であり、​心を​〈食い​尽く​すべき情熱〉です。​今、​私たちの​王に​お願いして、​破壊した​ものを​修復し、​見失われた​ものを​見つけ出して​救い、​人間が​乱した​秩序を​回復し、​迷う​ものを​目的地に​導き、​全被​造物の​間に​一致を​再建すると​いう​神の​計画に、​慎み深く、​しかし​熱心に、​協力させていただきましょう。

​ キリスト教の​信仰を​もつとは、​イエスの​使命を​人々の​間で​続ける​約束を​する​ことに​ほかなりません。​私たち一人​ひとりが、​もう​一人の​キリスト・キリスト自身に​ならなければなりません。​そうして​初めて、​〈救いの​パン種〉を​社会の​あらゆる​分野にも​たらし、​内部から​社会を​聖化すると​いう​果てしなく​広大で​偉大な​事業に​着手する​ことができるのです。

​ 私は​政治を​論ずる​ことは​絶対にしません。​たとえ人間の​諸活動に​キリストの​精神を​鼓舞すると​いう​よい​目的の​ためであっても、​キリスト信者の​この​世に​おける​使命が​政治と​宗教との​結び​つきに​あるとは​思わないからです。​そうならば​狂気の​沙汰と​言えるでしょう。​な​すべきことは、​相手が​誰であっても、​一人​ひとりの​心を​神で​満たす​ことなのです。​キリスト信者一人​ひとりに​話しかけて、​それぞれが​自らの​置かれた​場、​教会や​社会での​地位だけでなく、​歴史的事情に​よっても​いろいろに​変わり得る​各自の​占める​場で、​模範と​言葉を​通して​信仰を​証す人と​なる​ことができるように​努力したい​ものです。

​ キリスト信者は​人間と​しての​権利を​すべて​持って社会に​生きています。​心に​キリストが​お住まいに​なる​ことと​キリストの​支配を​認めれば、​毎日の​仕事すべてに​主の​効果的な​救い、​しかも​非常にはっきりした​効果を​見出すでしょう。​世に​言うように、​仕事が​尊いとか​卑しいとかは​問題では​ありません。​人間に​とって​最高と​見える​ことが神の​目には​最低である​ことが​あり、​通常、​低いとか、​慎ましいと​呼ばれる​ものが、​聖性と​奉仕と​いう​キリスト教的な​徳の​頂点に​位する​ことも​あり得るからです。

自由

 キリスト信者は、​自らの​義務である​仕事に​従事する​とき、​人間的な​ものに​固有の​義務を​避けたり​無視したり​すべきでは​ありません。​人間の​諸活動を​祝福すると​いう​言葉が​諸活動に​固有な​働きを​否定したりごまか​したりする​ことであると​解釈されるような​ことがあると​すれば、​そのような​表現を​使いたく​ありません。​個人的な​考えと​しては、​付け足しの​看板のように、​通常の​活動に​宗教的な​形容詞を​仰々しく​付すことには​賛成できません。​反対意見は​尊重しますが、​そうする​ことに​よって​私たちの​信仰を​みだりに​用いる​危険が​あるからです。​さらに​もう​一つの​理由は、​カトリックと​いう​レッテルを、​必ずしも​信義にかなうとは​言えないような​立場や​運動を​正当化する​ために​使う​人々も​いたからなのです。

​ この​世界と​その中に​ある​罪以外の​すべての​ものが​善いと​すれば、​それは​私たちの​主である​神の​働きに​よる​ものです。​キリスト信者は、​神を​侮辱する​ことの​ないよう常に​戦いつつ、​つまり​愛から​出る​積極的な​戦いを​続けながら、​この​世の​あらゆる​分野で​人々と​肩を​組んで​活躍し、​人格の​尊厳に​由来する​あらゆる​善を​弁護しなければなりません。

​ そのなかでも​特に​一つ常に​探し求めるべきものが​あります。​それは​個人の​自由と​いう​善の​ことです。​他人の​自由と​それに​伴う​個人的な​責任を​擁護してこそ、​人と​して、​キリスト信者と​して、​恐れる​ことなく​自らの​自由を​弁護する​ことができるでしょう。​これからも、​絶えず次の​ことを​繰り返し申し上げたいのです。​主は​無償で​超自然の​賜物である​恩恵を​お与えに​なりましたが、​さらに​もう​一つ、​個人の​自由と​いう、​人間に​相応しく​素晴らしい​贈り物を​くださいました。​この​自由が​崩壊して​自由放埓に​ならないように​する​ため、​神法にかなった​活動を​する​とき、​実効的な​努力と​十全な​態度が​要求されています。​主の​霊の​おられる​ところに​自由が​ある​43からです。

​ キリストのみ​国は​自由の​国です。​そこには、​神の​愛ゆえに​望んで​自己を​鎖で​縛る​召​使いしかいません。​幸いなるかな、​私たちを​自由に​する​愛ゆえの​隷属は!​ 自由が​なければ​恩恵に​応える​ことは​できません。​自由が​なければ、​〈やる​気が​あるから​やるのだ〉と​いう​最も​超自然的な​動機に​よって、​何ものにも​拘束されずに、​すべてを​主に​捧げる​ことは​できないのです。

​ 今、​私の​言葉を​聞いてくださる​方​々の​中には、​もう​何年も​前から​私を​知ってくださっている​方も​いらっしゃいます。​そのような​方​々は、​私が​生涯を​かけて、​個人の​自由と​それに​伴う​個人の​責任に​ついて​説き続けてきた​ことを​証明してくださるでしょう。​私は​この​世に​自由は​ない​ものかと​一所​懸命探し求めてきました。​今も​探し続けているのです。​そして​日増しに​自由を​愛する、​と申し上げます。​この​世の​何ものにも​増して​自由を​愛しています。​自由こそ決して​十分に​評価し尽く​すことのできない宝であるからです。

​ 個人の​自由に​ついて​話すとき、​司祭と​しての​私の​職務に​関係の​ない​問題には、​たとえ問題自体が​正当であっても​自由を​口実に​口を​挾むつもりは​ありません。​世俗的な、​やがて​過ぎ去る​一時的な​話題を​扱うのは​私の​仕事ではないと​承知しております。​そのような​問題は、​現世的・​社会的分野に​属する​ものであって、​主が​人々の​静かな​話し合いに​お任せに​なった​事柄であるからです。​また、​司祭は、​いずれの​党派にも​属する​ことなく、​神に、​そして​神の​救いに​関係する​霊的な​教えに​人々を​導き、​イエス・キリストの​制定に​なる​秘跡に​人々を​近づけ、​さらに​内的生活に​進歩するよう指導する​ことに​よって、​神の​子である​人間が​互いに​例外なく​兄弟である​ことを​自覚できるよう助ける​時のみ、​口を​開くべきである​ことも​知っている​つもりです。

​ 本日は​王である​キリストの​祝日です。​キリストのみ​国を​政治的な​意味に​解釈する​人々は​信仰の​超自然の​目的を​十分深く​理解していない、​また、​そのような​人々は、​わたしの​軛は​負いやすく、​わたしの​荷は​軽い​44、​と​主が​仰せに​なったのに、​人の​良心に​キリストの​ものではない​重荷を​負わせようと​すると​言っても、​祭司職に​無関係な​ことを​言っている​ことには​なりません。​すべての​人々を​本当に​愛しましょう。​そして​何にもまして​キリストを​愛さなければなりません。​そう​すれば、​平穏で​理に​適った​社会生活に​おいて、​当然、​他人の​正当な​自由を​尊重する​ことに​なると​思うのです。

神の​子に​相応しい​落ち着き

 ​「しかし​こんな​ことに​耳を​貸す人は​いない、ましてや実行する​人と​なれば​な​おさらいない」と​言う​人も​いるでしょう。​確かに​そうだと​思います。​自由と​いう​植物は​強くて​丈夫な​ものですが、​石地や​茨の​間、​あるいは​人々が​遠慮会釈なく​踏みつけて​通る​道45では​うまく​育たない​ものだからです。​これに​ついては​キリストが​この​地上に​おいでになる​前から、​私たちに​告げておられました。

​ 詩編の​第二編を​思い​起こしてください。​「なに​ゆえ、​国々は​騒ぎ立ち、​人々は​むなしく声を​あげるのか。​なに​ゆえ、​地上の​王は​構え、​支配者は​結束して​主に​逆らい、​主の​油注がれた​方に​逆らうのか」46。​今に​なって​始まった​ことではないことが​おわかりに​なるでしょう。​キリストの​降誕以前から、​すでに​キリストに​反抗する​人々が​いました。​キリストの​平和を​告げる​足音が​パレスチナの​道々に​響きわたる​ときにも、​彼に​反対する​人々が​いました。​そして​その​後​現在まで、​キリストの​神秘体の​成員を​攻撃し、​迫害し続けているのです。​なぜ、​こんなに​憎むのでしょうか。​なぜ、​汚れない​清純な​人々を​これほど​苦しめるのでしょうか。​なぜ、​個々の​人の​良心の​自由を​押しつぶそうと​する​態度が​こんなにも​広がっているのでしょうか。

​ 「我らは、​枷を​はずし、​縄を​切って​投げ捨て​よう」47。​快い軛を​壊し、​聖性と​正義、​恩恵・愛・平和と​いう​素晴らしい​荷、​キリストの​荷を​捨て​去るのです。​愛を​みて腹を​立て、​自分を​守る​ために​天使の​軍勢を​お呼びに​なる​48ことも​敢えてなさらず、​全く​逆ら​おうとも​されない​神の​優しさを、​人々は​あざけるのです。​もし、​主が​仲裁を​お認めに​なると​すれば、​あるいは、​何人かの​無実の​罪の​人たちを​犠牲に​して​大部分を​占める​罪人の​償いと​すると​いうのであれば、​主と​話し合いを​試みる​ことも​できるでしょう。​しかし、​このような​やり方は​神の​お考えでは​ありません。​私たちの​父は​本当の​父であって、​たとえ正しい​人が​十人しかいなくても​49、​悪の​働き手が​何千人いようとも​彼らを​赦そうと​心を​決めて​おられます。​憎悪に​狂う​人たちは、​このような​慈しみの​心を​理解できず、​この​世で​罰を​受けないように​見えるのを​よいことに​元気づいて、​ますます悪を​働くのです。

​ 「天を​王座と​する方は笑い、​主は​彼らを​嘲り、​憤って、​恐怖に​落とし、​怒って、​彼らに​宣言される」50。​神の​怒りは​当然の​こと、​その​憤りも​道理に​適った​ことでしょう。​しかし、​神の​慈悲は​なんと​深い​ことでしょう。

​ 「『聖なる​山シオンで、​わたしは​自ら、​王を​即位させた』。​主の​定められた​ところに​従って​わたしは​述べよう。​主は​わたしに​告げられた。​『お前は​わたしの​子、​今日、​わたしは​お前を​生んだ』」51。​父である​神は、​慈しみ深い​心から、​御子を​私たちの​王と​してお与えに​なりました。​人間を​脅かす​ことは​あっても、​すぐに​その心を​和らげ、​怒りを​示すと​同時に​ご自分の​愛を​お恵みに​なります。​お前は​私の​子だ、​と​御父は​御子に​向かって​言われます。​私たちがもう​一人の​キリスト・​同じ​キリストに​なる​決心を​すれば、​あなたにも​私にも​そのように​言ってくださるのです。

​ 神の​優しさを​知って​感動する​心を​言葉で​表すことは​できません。​お前は​私の​子だ、​とおっしゃっています。​見知らぬ人でも、​よい​待遇を​うける​召​使いでもない、​ただの​友人でもありません。​友だと​言ってくださるだけでも​ありが​たい​ことですが、​それだけではなく、​「子よ!」と​言ってくださいます。​神に​対して​望むままに​子と​しての​情愛を​表すことができるのです。​さらに、​決して​願いを​拒むことを​なさらない​神は、​その神の​子の​厚かましい​態度さえ​認めてくださるとまで​言いたいと​思います。

不正を​働く​人た​ちが​大勢いると​言うのですか。​その​通りだと​思います。​けれども、​主は​繰り返して​仰せに​なります。​「求めよ。​わたしは​国々を​お前の​嗣業とし、​地の​果てまで、​お前の​領土と​する。​お前は​鉄の杖で​彼らを​打ち、​陶工が​器を​砕くように​砕く」52。​厳しい​約束です。​しかし、​これは​神の​約束ですから、​知らない​顔を​する​ことなどできません。​キリストは​無為に​世の​救い主と​なり、​御父の​右に​座し、​支配しておられるのでは​ありません。​これは、​いずれ一生を​過ごし終えた​とき、​私たちを​待っている​運命に​ついての​恐ろしい​知らせです。​心が​悪と​絶望に​凝り固まっている​すべての​人々に、​歴史が​終わりを​告げる​知らせなのです。

​ 神は​いつでも​勝利を​収める​ことができるのですが、​説得の​道を​選ばれます。​「すべての​王よ、​今や​目覚めよ。​地を​治める​者よ、​諭しを​受けよ。​畏れ敬って、​主に​仕え、​おのの​きつつ、​喜び躍れ。​子に​口づけせよ、​主の​憤りを​招き、​道を​失う​ことの​ないように。​主の​怒りは​またたくまに​燃え​上がる」53。​キリストは​主であり、​王であります。​「わたしたちも、​先祖に​与えられた​約束に​ついて、​あなたが​たに​福音を​告げ知らせています。​つまり、​神は​イエスを​復活させて、​わたしたち子孫の​ために​その​約束を​果たしてくださったのです。​それは​詩編の​第二編にも、​『あなたは​わたしの​子、​わたしは​今日あなたを​産んだ』と​書いてあるとおりです。

​ だから、​兄弟たち、​知っていただきたい。​この方に​よる​罪の​赦しが​告げ知らされ、​また、​あなたが​たが​モーセの​律法では​義とされえなかったのに、​信じる​者は​皆、​この方に​よって​義と​されるのです。​それで、​預言者の​書に​言われている​ことが​起こらないように、​警戒しなさい。​『見よ、​侮る​者よ、​驚け。​滅び去れ。​わたしは、​お前たちの​時代に​一つの​事を​行う。​人が​詳しく​説明しても、​お前たちにはとうてい​信じられない​事を』」54。

​ これこそ、​救いの​業、​心の​中に​おける​キリストの​支配、​神の​憐れみの​顕れです。​「いかに​幸いな​ことか、​主を​避けどころと​する​人は​すべて」55。​私たちキリスト信者は、​キリストの​王権を​称揚する​権利を​持っています。​と​いうのは、​悪の​舞台である​人間の​歴史に​おいて、​たとえ不正義が​栄え、​愛に​よる​支配を​望まない​人が​多数いても、​永遠の​救いの​業は​織り上げられていくからです

神の​天使

 ​「それは​平和の​計画であって、​災いの​計画ではない」56と​主が​言っておられます。​平和の​人、​正義の​人、​善の​働き​手に​なろうでは​ありませんか。​そう​すれば、​主は​私たちの​裁判官ではなく、​友・兄弟・愛なる方と​なってくださるでしょう。

​ この​楽しい​人生の​旅路を​いつも​神の​天使たちが​付き添ってくれますように。​大聖グレゴリオは​次のように​述べています。​「救い​主が​お生まれに​なる​前に、​人間は​天使たちとの​友情を​失っていた。​原罪および​日々の​自罪の​おかげで、​天使たちの​輝くばかりの​清純さから​遠ざけられたのである。​(…)​しかし、​私たちの​王を​認めて​以来、​天使たちも​人間を​同市民と​して​受け入れてくれた。

​ 天の​王が​人間の​体を​おとりに​なったので、​天使たちも、​もは​や​惨めな​私たちから​離れようと​は​しない。​天の​王の​ペルソナに​おいて​自分たち以上に​高められた​人性を​みて、​天使たちは​崇拝し、​もは​や​自分たちよりも​劣った​ものとは​考えない。​彼らは​何の​不都合もなく、​人間を​仲間と​みな​している」57。

​ 私たちの​王の​聖なる母、​私たちの​心の​元后である​マリアは、​自分に​しかできないかのように、​私たちの​世話を​してくださいます。​恩恵の​玉座である​慈しみ深い母、​あなたに​お願いします。​どうか、​私たちと​周囲に​いる​人たちが​一生を​通して、​素朴な​詩を​平和の​大河のように​58一行一行​詠んでいく​ことができますように。​あなたこそ​尽きる​ことの​ない​憐れみの​海ですから。​「川は​みな海に​注ぐが​海は​満ちる​ことがな」59い。

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